ホームズ:序
ホームズ:序:序
――たまらず、抱きしめる。華奢な名探偵はすっぽりと俺の腕の中に納まっていた。
「――ぇ?」
「ホームズ、俺は――」
続く言葉を飲み込んだ。そんなものは無粋だと決めつけた。
視線が交じり合わさる。戸惑った表情を見下ろして、瞼を閉じて勇気を搾り出す。息を止めて三秒を数え――
柔らかく、熱く、濡れた感触を唇に触れさせた。
「――――」
彼女が、幾つか声にできない言葉を紡いだ。ただそれは刺激として俺を励起させるに留まるばかりだった。形になっていないのだ。彼女の混乱は、羞恥は、明確な喜びは、そして疑問は、そのまま俺の中に注がれた。
胸の内に愛はない。満ちているのは親愛ばかり。未だ情愛はその影も捉えられず、きっと彼女のそれに応える資格を、俺は持っていないだろう。……だのに、俺は今の行為を選び取った。そうしたいと願った。
確かなのは曖昧な予感だけだ。きっと――きっと俺は彼女に、彼女の愛に、
「絶対に、追いつく」
「…………」
唇が離れる。囁くように、息継ぎもしない掠れた声で宣言する。
繋がっている心と心。必要な言葉は大気を震わせることはなくとも、十二分にその役を果たしていた。
「……不意打ち」
頬を赤く染め、ポツリと彼女は呟いた。
不満げに目を伏せている様を見て、苦笑気味に聞き返す。
「ズルかったか?」
「ええ、とってもズルいわね」
「悪い。これくらいしないと、踏ん切りがつきそうになかった」
「……分かってるわよ。だから――」
ぐいと、首の後ろに手を回され、そのまま引き寄せられる。
ちゅ、と先程とは逆に、触れる唇の感触。
文句は言わせないから、と少しだけ言い訳がましい調子で言葉が届く。
彼女の頬が赤いのは、きっと夕日が手伝っているだけではないのだろう。
「――ありがと。ワトソン君」
ホームズは笑った。嬉しそうに、夢見心地の笑顔で笑った。
「待ってるわ。いつまでも待ってる。だから――いつかきっと、わたしのことを好きになってね?」
「ああ」
未だ、情愛の影は遠いまま。
暫く二人で顔を赤くしてみたり色々と戸惑ってみたり、甘酸っぱい雰囲気を散々に楽しんだ後、俺と彼女はやっと平常運転に戻っていた。
「怪しいところ?」
「ええ」
ホームズの報告に俺は少し眉を顰める。
「昼間はそれ程おかしいとも感じなかったのだけれど、やっぱり夜になればなるほど雰囲気が嫌になる場所があるわね」
「……具体的な場所は?」
「廃ビル……と呼ぶべきなのかしら。ぼろぼろの誰もいないビルよ」
そういいながら、ホームズは指をさした。
あまり俺の立ち入ったことのない場所だ。そもそも、足を踏み入れた場所の方が少ないというのもあるだろうが、それでもあそこにはあまり縁がない。どこか、生気がないというのか、活気が足りないというのか、近づきたいと思える雰囲気ではなかった。
「行くの?」
「そうだな」
短く一言交わして、俺と彼女は一歩目を踏み出した。
「探しに行こう」
「ええ」
夕暮れはもう終わる。夕日は既に落ちた。残り日はまっすぐに町を染め上げている。
西の空だけに朱は名残り、東の空には薄い夜が滲んでいた。
切り替わる。切り替わった。
肌を通してぞわりとその感触を味わう。そういう風に感じとれてしまった。……いつの間にか俺は、この町に着々と馴染んできているのかもしれない。そんな事実に、微かに肌を粟立たせる。
狂った時間が始まった。
……
「ここ……か」
「ええ」
街灯がぽつぽつと灯る人気のない道を二人黙々と歩いた先に、そのビルはあった。
「……見るからに禍々しいな」
「流石にこのレベルだと、ワトソン君でもすぐに気が付くわね」
「正直吐きそうなんだが」
屋敷の雰囲気は、初日から慣れているというのも手伝ってそこまできつくない。だが、ここはそうじゃない。
なんというのか、胃の底が煮えくり返っているというのか、脳の奥で嫌な音が小さく響き続けているというのか、視界に光がちらつくというか……不快感が絶え間なく、新鮮なまま続いている。その元凶が、目の前の廃ビルだ。
不安そうな声で、ホームズが聞く。
「……大丈夫? ここで待っていても――」
「――大丈夫だ。一緒に行ける」
御守りに触れて、俺は静かに返す。
「それに、置いていかれるなんて寂しいだろ?」
「……ええ。そうねワトソン君。――行きましょう」
「どこまでもついて行くぜ、名探偵」
じゃり、と足の下で砂埃が鳴った。
ホームズがドアノブをひねると、錆びついた嫌な音と共に扉が開いた。以外にも、埃が出ることもなく澄んだ空気とそれに紛れる微かな塵だけがふわりと漂った。このビルは、中々しゃれた造りの様で、エントランスから真っ直ぐにつながった一回のホールは吹き抜けになっている。ひょっとすれば、ここはホテルか何かだったのかもしれない。
「……長い間、誰もここに立ち入っていないようだけれど、それにしては荒れていないわね。普通はもっと荒れてしまうものだと思ったのだけれど」
がらんどうのビルを観察しながらホームズは呟いた。確かに彼女の言う通り、このビルは小綺麗すぎるような気がした。誰かが立ち入った気配は全くない。
考え込む彼女。しかし、俺は別の異変に体を強張らせる。
「なあ、ホームズ」
「どうしたの、ワトソン君?」
「――歌が聞こえないか?」
「……え?」
―――ぼくは きみにあいにいく
いつか きみにあいにいく
わすれられない あのひ
てのとどかない あのひ
おもいでを みちしるべにして
さよならを みちしるべにして
音程もなにもない、ただ口ずさまれるだけの歌。随分と古い流行歌ということは知っている。
それが聞こえる。誰もいないはずの廃ビルから聞こえてくる。……ある意味予想通りだ。あれだけ不穏なモノを感じ取らせておいて、何もいないだなんて最初から予想していない。
「……これ、歌なの?」
「歌だろ。はっきりと歌詞を聞き取れるぞ?」
「……そうかしら? 確かに声は聞こえるけれど、これ……言葉なの?」
ホームズが首をかしげるが、確かに歌詞が聞こえる。
音の出所は幸い察しが付く。
「ホームズ」
「聞かれなくとも大体分かるわ。ワトソン君」
「そりゃ助かるが、念のために確認させてくれ」
「ええ」
「あれは何に見える?」
「……世間一般的な感性で表現するとすれば、天使かしら?」
「……よかった、今度は同意見だ」
月明りが出てきた。このビルは天井が崩れているようで、吹き抜けの構造になっている以上、必然的に明かりは真っ直ぐ目の前を照らす。そこに、先程までは存在しなかった瓦礫の山に腰掛けて、歌を歌う天使が現れていた。
金属質な光沢を放つ金髪に、ガラス玉のように虚ろな印象を与える金の瞳。血の気のない肌に、純白の翼を背負った少女。頭上に天使の輪こそないが、その外見は天使と呼ぶにふさわしいものだろう。
……どうにも、この町が本調子で狂いだしたようだ。
「どうする? 攻撃の意志はなさそうだが」
目の前に唐突に現れた天使から視線を外さず、ある程度頭の中でシミュレートを重ね、ホームズに判断を仰ぐ。
「……話を聞きましょう。彼女の言葉が聞き取れているワトソン君なら、まだ希望はあると思うわ」
「ちなみに、そっちにはどういう風に聞こえているんだ?」
「意味のない声を出し続けているようにしか聞こえないわ。でも、ワトソン君には意味のある言葉に聞こえているんでしょう?」
「……ああ」
何故、俺にだけ言葉を聞き取れるのか。その理由は分からないが、とにかく今は役に立つ。
意を決し、俺はゆっくりと天使に歩み寄る。掠れそうな喉に唾を落とし、ふっと小さく息を吐いた。
「――――」
口を開いて、告げるべき言葉を選んでいなかったことに気が付く。心中で舌打ちを零して、揺らいだ視線を引き上げる。
「――――」
「――――」
歌が止んでいる。
沈黙は二人分。俺とホームズの分だけ満ちている。耳に痛い静寂に、なにも混ぜ込まないまま、天使は俺の顔をのぞき込んでいた。
いつの間にか瓦礫の山から彼女は降りて、中身のない視線を俺の瞳に注いでいる。
ふいと、直ぐに視線は外された。また先程と同じ歌を口ずさみながら、彼女は瓦礫の上に腰掛ける。
「……ワトソン君」
心配そうにかけられたホームズの声で、ハッと我に返る。そうだ。彼女に話を聞かないと――
「――すまないが遠慮してはくれないか」
唐突に、声が増えた。ばさりと大きな羽音をたてて、真っ黒いモノが降り立った。月明りの中、一羽のカラスが浮かび上がっている。そのカラスが、またくちばしを開いた。
「今宵の彼女は、どうにも気分が良いようだ。このまま好きにさせてくれると嬉しいのだが」
「……お前は」
「初めましてかな、少年。もっともあの時私は言葉を用いてはいなかったが。やはり見分けはつかないだろうか?」
「――変な鳴き声のカラス!」
「覚えてくれていたようでなによりだ」
くるりとカラスは天使を振り返る。
「さて――君たちは何をしにここへ?」
視線を外したまま、彼(声音から察するに多分男性だろう)は俺たちに問いかける。静かな、淡々とした声。しかし、虚偽を許さない確かな強さが乗せられた声だった。
「……俺たちは知りたいことがあるからここに来た」
「ふむ。それは一体?」
「俺の屋敷にいるモノのことや、ホームズの記憶。……あの屋敷は古い屋敷だと聞いた。あんた達みたいなのは、よく事情を知っているんじゃないか?」
「さて、さて……」
くつくつと、喉の奥で噛み潰すような声音で笑う。時折ホームズも似たような笑い方をする。
だが、違う。
このカラスのソレは、何処か得体のしれないモノを感じさせ、不安にも似た不快感を憶えさせる。
「どうしても知りたいのかね?」
「ああ」
「何故?」
「寝床に得体のしれないモノがいるのに、正体も対策も調べないのは馬鹿だ。それに、彼女は記憶を失っている。探さない理由がどこにある」
また不快な笑いを一つして、カラスはこちらを振り返った。
「そうか……君はまだ、気が付いていないのか」
そうして、零すように一言呟き、そのままばさりと飛び立った。
気が付いていない。
何を? そもそも、このカラスは、俺のことを知っているのか? やはりあの屋敷の事も知っているのか? 一気に焦燥が心臓に絡みつく。知るべきだ。知らなければいけない。知らないままでいたら―――――――いたら?
瓦礫
廃墟
死体
発狂
墜落
顕現
影響
幻想
願望
実行
反転
交信
約束
呪縛
永劫
不死
消耗
安寧
因果
転生
瓦礫の中で誰かが倒れている。
宙の上には銀色が昇る。
殺され尽くしている。
救いようがない。
目の前で死んでいく。
何が原因なのか。
それは満ちている。
どこまでも平等に。
どこまでも理不尽に。
どこまでも条理に。
死に絶えている。
狂っている。
誰もいない。
誰もいなくなっている。
伽藍堂だ。
あるべきものがない。
死んでいる。
死体がある。
無残に死んでいる。
事切れている。
終わっている。
なにもかも。
その顔を知っている。
誰が死んでいるのか知っている。
よく知っている。
影が揺らめいている。
動かなくなった誰かを俺は知っている。
見たくない。
目をそらしたい。
そらせない。
俺だ。
俺だった。
俺が死んでいる。
死んでいる。
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
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死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
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死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
― ― ― ア ア 、 ダ レ ガ コ ノ マ チ ヲ コ ロ ス ノ カ
吐き気がした。誰もいない町。何もいない町。
何もかもが死に絶えた町を幻視した。その結末を幻視した。逃れようのない、死の幻影を幻視した。嫌にリアリティを感じさせる、未来予想を幻視した。
嗚呼――そうか、これがそうなのか。この有様が、この有様を迎えることが――
「――ッ」
がくりと力が抜け、膝をついてしまう。
「ワトソン君!?」
声を上げるホームズの声がやけに遠かった。
喉の奥を胃酸が焼く。拍動が激しくなる。ぐらりと視界が揺らいで、冷や汗が全身から滲む。心臓を冷たい手で握られるような感覚だった。感覚がのしかかる不快感に負けて、一瞬だけ眩んでもう一度立ち上がる。それを何度も繰り返している。幸い、まだ崩れ落ちてはいない。
そんな俺を無機質に見下ろして、カラスは吐き捨てた。
「――すまないが、これ以上は無駄な時間を過ごすようだ。失敬させてもらおう」
「待て! 今見えたのは、一体何なんだ……!?」
「明日にもわかる。今告げたところで、君になにか出来るワケでもない」
闇夜に溶けていくように、カラスはそれだけ告げて消える。ふわりと舞い落ちる、数枚の黒い羽だけが、先程の幻視を現実だと告げていた。
「……なんだったんだ、アレは」
「さぁ……。よくわからないわ。あまり、気持ちのいい言い方ではないけれど……」
ホームズが少し寒気を感じるように、肩を抱く。
「……あまり、聞いていたい声ではなかったわ」
「…………」
珍しく本当の嫌悪を滲ませて、彼女はふいと顔を伏せた。苦い味が舌の上で転がっている。あのカラスがなんだったのかは分からない。だが、少なくともいいものではないのだろう。自分も、彼女も、彼にいい印象は抱けなかった。
天使は相変わらず澄んだ声で、虚ろに抑揚のない流行歌を鳴らしている。
「ねぇ、ワトソン君」
ホームズが不安げに、俺に問いかける。
「大丈夫よね?」
呟かれたのはただ一言。それでも彼女の感情を伝えてくるには十分だった。鍵の開かなかった部屋を見つけたあの晩。彼女の告白した焦燥が、今になって俺にも伝染しているようだった。
感情が、ぐしゃりと歪んで焦げおちる。
どうしようもない。どうしようもない……ッ!
――……大丈夫。
何を大丈夫だと頷けばいいのだろうか。俺はいなくならないと、ずっと一緒にいると、そういったのは嘘じゃない。俺はそうすると彼女に約束したし、俺自身あの約束を破りたくないと思っている。
……だったら、そう言えばいい。だのに言えないのは、彼女にそれを告げられないのは、心の奥底で、それが嘘だと、いずれ嘘になると予感しているから――?
「――ッ!」
「………」
何も言えない。
何も、何も――彼女に言える言葉がない。
微かに開いた口は、断ち切れた吐息だけを漏らして、直ぐに悔しさで塞がれる。
そんな俺を見て、彼女は瞳を伏せた。
腹の底が沸騰したようだった。違うと、そんなことになるはずがないと、そう言い切れない自分が腹立たしかった。目の前の彼女に、何処か諦観したような表情をさせた自分が不甲斐なくてたまらなかった。
何故そう強く実感するのか分からない。もう、殆ど確信に近い予感だった。
「――俺は」
不吉な予感だ。嫌な妄想だ。根拠なんて何一つない。ただ、あの晩の告白とカラスの告げた言葉が、忌々しい幻視と生々しい予感が、歪に混ざって呪いのように付き纏う。思考が唐突に粘性の液体に放り込まれたようだ。もがけばもがくほど、暗い、暗い水底へ、不快感と絶望感と共に沈んでいくような感覚。
あの音を聞いた晩のように、あの影を見た夕暮れのように、酷く生々しい手触りを伴う恐怖。
手で触れてしまえそうな程に実感を伴うソレが、俺の脳を苛んでいる。
だから、何も言えない。今何かを彼女に言えば、それはきっと本心ではなくなってしまう。嘘に成り果ててしまう。そんなのは嫌だ。それは、今俺の中で渦巻いている予感をそのまま肯定してしまう事だ。俺の願う本当を、未来を嘘に貶めてしまうことに他ならない。
「……俺は」
だから、
「――――…………」
言葉を手繰れないまま、沈黙だけが積もっていく。
「……帰りましょう。ワトソン君」
ぽつり。
天使の歌を背景に捨て置いて、彼女は酷く寂しげに俺の手を取った。
「…………」
「…………」
二人で何も話さないまま、淡々と帰路を歩む。弱々しくとも、まだ繋がれている手だけが救いだろうか。
頭の中で、後悔と拭い切れない不安感がのしかかっていた。頭の中に鮮明に描き出された映像。あの幻視。あの予感。あの確信。あの最悪の結末。
何故、ああなったのかは理解できない。したくもない。それでも、ああなってしまうことが理解できてしまう。あの結末を迎えてしまうことを理解できてしまう。それが怖い。どうしようもなく、怖くて怖くて仕方がない。
死は平等だ。人間も、動物も、植物も、寿命を迎えれば死が訪れる。それでも誰だって死にたくはないだろう。きっと、それは長い時間をかけて付き合っていくべきものだ。それも、多くの経験の先、静かに訪れるべきモノだ。
断じて、こんなに確かに感じ取ってしまうモノではない。断じて、こんなに凄惨に訪れるモノではない。心がそう叫んでいる。そうでなければならないと悲鳴をあげている。
……でなければ耐えられない。
「…………」
瓦礫の町。誰もいない町。死に絶えた町。……そう遠くない、未来のこの町の姿。俺は……俺はどうすればいい? 何をすればいい? どうしようもないという答えが、何もできないという諦観が、彼女との約束を守れないという絶望が静かに俺を睨めつけている。
それを受け入れ、逃げることが出来ないと怯えている俺がいる。
「……ねぇ」
「ん……?」
「ワトソン君が何を見たのか、わたしは分からないわ」
「…………そうか」
「でもね。きっとそれがとても怖いことだったのはわかる。そういう顔をしていたもの」
きゅ、と繋いだ手に力が入る。
「ねぇ、ワトソン君」
「…………」
「正直に話して。あなたは、もうわたしとの約束を守れないと思っているの?」
「……ホームズ。俺は――」
「……うん」
「――……俺は。俺は………」
言葉を紡げない。
無意味な呼吸が積み重なる。
「………俺は……っ」
「…………もういいわ」
静かに、断ち切るように、ホームズは視線を外した。
ぱっと、ホームズが繋いだ手を放す。ぬくもりがするりと抜け落ちた掌が、胸の奥を冷たく縛り上げる。
「…………………ごめん」
搾り出せたのは、なんの意味もない謝罪だけだった。――不甲斐ない。情けない。これしかできないのか。あんな幻視に惑わされて、怯えて、俺は――
「いいえ……いいのよ、ワトソン君。あなたが約束を守る方法を見つけられないなら――――名探偵であるこのわたしが、探し出して見せるもの」
「――は?」
おい、ちょっと待て。何を言い出すんだこの猫は!?
「お前、そんな無茶苦茶な!?」
「しょうがないじゃない。ワトソン君は、諦めるんでしょ?」
すまし顔で、ホームズはそう俺に問いかけた。
「それは……」
「別に構わないわ。仕方ないもの。怖いものは怖いし、無理だと思ってしまえば大抵のことは無理になってしまう」
くるりと俺に背を向けて、彼女はぽつりと呟いた。
「ただ、それをわたしは諦めないわ。無理だなんて思わないし、思えない。だって――」
ふわり、夜の風が優しく俺の頬を撫でる。
いつかの夜のように、彼女は夜空の月を背景に俺へ手を差し出した。
「――わたしは探偵だもの。謎を解明するために、事件を解決するために、捜査を再開しましょう」
「ホームズ……」
「協力を要請するわ、ワトソン君。まだ、わたし達の冒険は終わってないでしょう?」
彼女は、まだ俺の見た結末を知らない。この予感を知らない。だから、こんな無茶苦茶を言えるのだ。……そう心中で吐き捨てるのは簡単だった。そうしたいという願望もあった。
だけれど、そうしたくないと思った。そうすれば、彼女の隣にいる資格を失てしまう気がした。それだけは嫌だった。
それでも、恐怖は拭い切れない。あれをどうにかするというビジョンを思い描けない。
彼女がどうにかできると、信じることが出来ない。
差し出された手を見つめる。自分の手を見つめる。
俺は……――
「きゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
「――ッ!?」
「――悲鳴!?」
逡巡を断ち切るように、絹を裂くような悲鳴が耳に届く。
「行きましょう!」
躊躇いなくホームズは悲鳴の出所へ駆け出す。俺も、数舜遅れてそれを追いかける。
「どうする!?」
「ついてから考えるわ!」
ぽつりぽつりと心細く灯る街灯の下を全力疾走しつつ、俺は心の奥底で恐怖していた。
もしかしたら、これがあの結末の前兆なのかもしれない。そう考えるだけで、脳は全身の筋肉は強張り、骨格は軋み、精神は凍り付いてしまいそうになる。必死にそんな思考を追いやって、俺は彼女を追いかけることに没頭する。それ以外はシャットダウンしなければ、直ぐにでも俺は立ち止ってしまいそうだった。
「――――畜生」
小さく、悪態が漏れる。それを噛み潰して俺は走るスピードを速めた。
アスファルトを蹴る。アスファルトを蹴る。それだけでいい。それだけでいいんだ。今は、自分の惨めさになんか構っている場合じゃない――!
軽く首を振って雑念を払う。夜の町を、走って走って走り続ける。思い出さないように、没頭するように、全力で、わき目もふらず、たださっきの悲鳴をめがけて走り続ける。
少しだけ道が広くなる。それでも、人通りはほとんどない。街灯もまばらで、酷く寂しい通り。寂れたような印象は、あながち間違った認識ではないだろう。
そこで目にしたのは。
「美緒さんっ!?」
「統也君っ!?」
学校で別れた時と同じ制服姿で、尻餅をついている美緒さんと――
「――――ッ!」
幾つもの、あの黒い影。
ドクン、と心臓が強く飛び跳ねる。
駄目だ。ダメだ。あっという間に、がたがたと、体がいう事を聞かなくなる。そもそも、命令を発信しなくてはいけない脳もまともに動いていないのかもしれない。息がうまく吸えない。眩暈がする。……まだ膝は笑うだけで済んでいる。まだ崩れ落ちはしない。
それでも動くことが出来ない。動くという選択肢を選ぶことを、脳が必死に拒絶している。これ以上は駄目だ。本当に思い出す。思い出してしまう。
先程までで、やっと漠然にぼやけた死のディティールを、思い出してしまう――
影が美緒さんへと迫る。明確な害意を感じ取れる。あれは、やはりよくないモノなのだろう。
ただ、俺は視界に捉えている。捉えているだけだ。
何もできない。
ただ恐怖にがんじがらめにされたまま、諦観に雁字搦めにされたまま、美緒さんが何処か同じ色と悲嘆を瞳に称えるのを見ているだけだった。
息が吸えない。酸素が回らない。ただ、呼吸の音だけが喧しく、喧しくなっていって――
ぐちゃぐちゃになった思考は、視界に捉えた時間を鈍化させ、克明に彼女が影に襲われる様を――
「――はぁっ!」
短く気合の声が上がる。白銀が駆ける。少女が駆ける。ホームズが駆ける。力はもうないだろうに、そんなことは全く意に介さず、彼女は跳んだ。
跳び蹴り。
軽いとはいえ、少女一人分の重量と位置エネルギー、重力加速の総合は、美緒さんに襲い掛からんとしていた黒い影を吹き飛ばすのには十分だった。美緒さんに襲い掛かっていた影は、盛大に地面を転げ、動かなくなった。
「――え?」
美緒さんが驚いた表情で、ホームズを見る。彼女は器用に着地し、キッと倒れた影を睨んでいる。俺はホームズへ迫るソレを見て、喉から声を搾り出した。
「ホームズ!」
「っ!? こ、のぉ!」
着地した彼女の背中へ、別の影は鉤爪のようなものを生やした手を振り降ろそうとし――
「ふっ!」
回し蹴りを、横っ面に叩き込まれた。
しかし、大したダメージにはならなかったようで、影は少し怯んで後退しただけだった。今度は身をかがめ、獣染みた動きで一気に間合いを詰めた。
一瞬だけ、影の背後から彼女の表情がうかがえた。紛れもなく、恐怖を感じている表情。俺と同じく、怯えて、怖がっている表情だ。よくよく見れば、すこし肩や足が震えている。それでも、彼女は美緒さんの前からどけようとしない。
諦めていないのだ。怖くとも逃げ出したくとも、彼女は戦うことを諦めていない。どんなに手段がないと分かっていて、方策を見出せなくとも、立ち向かうことを諦めていない。
――――俺はどうする?
先程まで倒れていた、最初の影が突然に起き上がる。そして、大きく跳躍。先程から棒立ちの俺を、いいカモとでも判断したのか、眼前に着地し、鉤爪をぎらりと覗かせる。
――――俺は、
フラグ「蔵子より」獲得で、ホームズ:序:破へ
未獲得で、ホームズ:序:終へ
ホームズ:序:破
――――俺は。
―――一刀ハ此処ニ在リテ
此処ヨリ他ニ在ラズ
一刀ハ其処ヲ断チテ
其処ヨリ他ヲ断タズ
一刀ハ其レヲ為シテ
其レヨリ他ヲ為サズ
是即一刀ハ唯兇器也
是故一刀仕手ノ呪也
コトバが聞こえる。厳かに、静かに、重々しく。
それが何と言っているのか、正しく聞き取ることはできなかった。
しかし、何を言いたかったのか。意味を受け取ることはできた。
「俺は――ッ」
一閃。
踏み込みは要らない。重心だけを傾け、立っているだけで保持している位置エネルギーを、そのまま勢いへ――!
「――ッ」
呼吸一つ。短刀は逆手に握って、刃を奔らせる。力は要らない。ただ、刃を押し込むだけの勢いと、振りぬくだけの迅さと、刃を引き抜くだけの技巧があれば良い!
手応え。
残心。
影が掻き消える。ぎらりと、黒い拵えとは対照的に冴えた白銀色の刃が輝いた。御守りにと手渡された短刀は、驚くほどに手に馴染み、望んだとおりの結果を引き出した。
「…………」
「ワトソン君……」
何処かホームズが呆然とした様子で俺を見た。
「――俺も」
「え?」
「俺も、諦めない」
宣言する。
あのコトバが、俺に教えてくれた。
彼女は諦めなかった。俺は、その選択肢を最初から選ぼうとしなかった。彼女は行動した。俺は、それさえ出来ないまま、見ているだけだった。見捨てるだけだった。自分の知っている人が、目の前で危険に晒されているというのに。
最初から、言い訳だった。どうしようもないだなんて。なにもできないだなんて。
「俺は――諦めたくない!」
人間には可能性がある。この短刀と同じだ。呪にも似て、時に人を破滅にも導きかねない恐ろしいモノ。だが、それをどう扱うのか、それは使い手にゆだねられている。俺にゆだねられている。
怯えたまま、可能性を腐らすのか。……それとも。
殆ど叫ぶような宣言に驚いたのか、ホームズに襲い掛かろうとしていた影がこちらを向いた。
あの結末は恐ろしい。怖くて怖くて仕方ない。だからなんだ。それはそうだ。喪うことが怖くない人間なんていない。それでも、無抵抗にその恐怖に震えるよりも、立ち向かうことが、戦うことを選ぶ方が、余程立派じゃないか。
そんなことも見失って、俺は諦めていた。きっと、それさえ言い訳だった。きっと無駄になる。そうして約束を破ってしまう。それをはっきりと感じて、それをそのまま受け入れようとした。自分の傷跡を、少しでも小さくするために。自分の罪悪感を、少しでもしぼませるために。……最低だった。
駆ける。
諦めない彼女。諦めた俺――諦めようとした俺。……ふざけろ。アイツの無茶に付き合うなどとのたまったのは、一緒に行こうなどとのたまったのは、一体何処のどいつだ。
投げ出すな。諦めるな。立ち止まるな。勝手に一人で絶望するな。
「――――」
呼吸が自然と隠蔽される。世界が静かに緩やかになっていく。よく影の挙動が見える。アイツらが、どう動こうとしているのか、何をしようとしているのか、よく理解できる。隙が見える。そこに、滑り込む。
くるり、振りぬかれたままの手の中で、短刀が回転する。逆手から順手へ。内を向いた刃が、外を向く。
――間合いに入った。
息を吐く。上半身が発条仕掛け染みて運動。袈裟懸けに切り裂く。影は抵抗することも出来ないまま、倒れ、また霧散する。
全身の毛穴から神経が熔けて大気の中へ流れ込んでいくようだった。
数秒、立ち尽くして目を閉じる。意識をストンと背骨を介して体の奥の奥へ落とす。
ゆらりと短刀を握る手を伸ばし、目を見開いて影を睨む。
――意識を、巡る血潮から引き上げる。
開いた瞳孔が、より多くの光を取り込んでいるのが分かる。鼻腔に流れる空気に、影から漂う微かな腐敗臭が混じっている。肌に夜の風の細やかな蠢動さえ感じ取れる。全能感が肺を満たして吐息に化ける。
影が迫る。今度は二体。
……たったの二体。
鈍化する時間の中、真昼と化した夜の中、白刃の軌跡を二つ閃かせる。引きちぎるように横に薙ぎ、崩れ落ちるように叩きつける。
一つは人型の影の首を刈り、もう一つは正確に心臓を貫いた。
……まだだ。まだ、影がいる。
すぅ、と息を吸い、俺は跳躍した。
跳躍による斜め上方向へ加速の後、停滞し、下方へ落下による再加速。
そのまま宙で身を捻り――己の胴を軸として、車輪の如く回転。先ず一体。縦に真っ二つに、その頭を斬った。地面に体を叩きつける前にもう一度回転して、着地。片手を地面につけながら、前のめりに姿勢を安定させた。弓の弦を引き絞るかのように、また腕を後ろに引き戻す。そのまま疾走。
地を這うように、棒立ちの一体へ追いすがり、首筋への刺突。勢いあまってあるかどうかも曖昧な頸椎を破砕する。
血が噴き出すこともなく、倒れて消えた。
引き抜いた勢いで、背後にいるもう一体を、振り向きざまに斬り捨てる。綺麗に首が飛んだ。再び短刀を握り直し、前進。一歩、二歩、三歩。全ての歩幅を狂わし、勢いを狂わし、方向を狂わし、こちらに狙いを定めた影の、感覚を狂わした。
血風一閃。
動きを止めた瞬間を見逃さず疾駆し、すれ違いざまの刃をくれてやる。
鈍い音共に、ごっそりと影の首が抉れた。プラン、と少しだけぶら下がり、直ぐに頭?の重さに耐え切れず、薄く細くなった首が千切れて地面に落ちる。そしてそのまま倒れることさえできずに霧になった。
「ふぅぅぅぅ……ッ!」
大きく吐いて、息を整え、跳ね上げるように視線を彷徨わせる。
――居た。暗闇に紛れるように。逃げ出すつもりだろうか。此方に向かってくる気配はない。
追うか? 連中が戻るところを――出所を知ることが出来れば、何か手掛かりがあるかもしれない。
「追うぞ! ホームズ!」
「――え、ええ!」
戸惑った声。それでも繋がっている感覚から俺の心境の変化を読み取ったのか、彼女は何処か嬉しそうな声音で応え――
「待って!」
走り出そうとした俺とホームズを、美緒さんが静止した。
「……統也君。どうしてここに? その猫は一体――」
「――ごめん。美緒さん。正直俺も色々聞きたいことはあるけど――今は、急ぎたい」
「なら、わたしもついていきます。それでいいでしょう。統也様?」
「……勝手にどうぞ」
いつもの、メイドとしての口調に戻った美緒さんは、走り出した俺たちに着いてきた。強情と言ってしまうとアレだが、相変わらず気が強いというか我が強い人だ。正直、そんな人が(あまりそういった雰囲気ではないが)信用できない立場というのは少し不安だ。あの手の人間は――特に女性は強かな人が多い。油断して懐に入れれば入れる程、敵だった場合に被害の度合いは大きく根深く、取り返しのつかないモノになる。
……とはいえ、今彼女を強引に送り返すのは合理的じゃないのも事実だ。事態は急を要している。少なくとも、俺はそう考えている以上、目の前にある手掛かりをみすみす手放すことはできない。同行して欲しくはないが、これが一番手っ取り早いだろう。
当然、美緒さんがいる以上、どうしてもスピードダウンにはなってしまう。ホームズに関して言えば、能力の低下はあっても俺と同じかそれ以上に足が速いし、俺もそこそこに走れる。追跡するうえでではどうしてもデメリットだが、幸いになことに、影の足は絶望的に早いわけじゃない。なんとか見失うことなく三人で追いかけられている。
それにしても――
《――人気がないな》
《ええ。人の町というものは、こんなものなの?》
《いや――そんなことはないと思うが……》
まだ日は沈んでからそう時間は立っていない筈だ。この時間帯だったら会社帰りのサラリーマンや、部活帰りの学生が居てもよさそうなものだが……この町の人々は皆、もう自宅でゆっくりしているのだろうか。美緒さんに聞こうかとも思ったが、やめた。見た感じでは、大分走るのが辛い様子だ。影が進む速さを緩める速度がないから、休ませてやることも出来ない。そんな状態の彼女に話しかけて余計体力を使わせるのは気が引ける。今の町に一人置き去りにするわけにもいかない。
《……とにかく、今は考えても仕方ない。あれを追いかけるのに集中しよう》
《そうね。……っ!?》
突然、不自然にホームズから動揺が伝わる。
《どうした!?》
《なに、これ……!? 嫌な臭い……? こんなに濃く!?》
《ホームズ、落ち着け。何があった? 何を感じ取ったんだ?》
《……ごめんなさい。取り乱したわ。この先に……異常に濃い、影の臭いが在る》
《なに……!?》
ホームズ曰く、あの影には独特のにおいがあるらしく、現れた影が近くにいるなら察知することも可能らしい。もっとも、俺は一度もかいだことがないのだが。
《まだ臭いだけだけど、きっともうすぐ――》
―――戸和謂流 雲瀬歩 螺祖 龍鬼刀夜
火冥霊契 化縷真 生裏結 覆暮辺恵乃屡
コトバが聞こえる。先程とは違うコトバ。とても異質で、とても悍ましいコトバ。
ぞわり。全身の血が凍り付いて蠢動した。
《――ぁ」
漏れた声を導にして、感覚が浮上する。眩みかけた意識は何とか持ち直した。数舜だけ失われていたバランスは、まだ崩れきっていない。……危ない。転ぶところだった。
今のは……なんだ? 映像でこそないが、あの幻視同様、酷く冷たく不快な手触りの感触だった。
待て……そもそも、コトバ? コトバってなんだ? なんで俺はそんなことを知っている?
「………っ、なんなんだ」
いや。今はそれどころじゃない。とにかく、あの影を追わないと……!
夜の空気が、冴えた冷たい雰囲気がどろりと重く、生温かく変質していくような気がした。
それを掻き分け、掻き分け、進む。吐く息が粘質化した空気に混ざり込んでいく。
あるいは、吐く息自身がこの重い雰囲気に変質しているのか。
《――見えた!》
「……あれは!?」
白刃が舞う。
緩やかに弧を描いて。
白銀が征く。
立ち並ぶ影を撫でるように。
それは一閃だった。
影はそれを受けて、なすすべもなく、ほとんど無抵抗のままに霧散する。
「――」
絶句する。
まるで稚拙だった。まるで幼稚だった。まるで児戯だった。あれはお話にならない。ほとんど得物を薙いだだけだ。それだけの動作だった。工夫もなく、技巧もない。
だのに、なんだ。なんなんだ――この、執拗に付き纏う死の予感は!?
「なんだ、あれ……!?」
ようやく呟くが、それには意味がない。ホームズはもとよりその正体を知らないし、今この場にいるもう一人は、その正体を語ろうとしない。
「…………」
美緒さんには驚くほどに驚愕がない。動揺がない。つまりは、知っているのだろう。彼女が何故ここにいるのか。如何にしてあの影を葬って見せたのか。それでも口を開かない。こちらの疑問に答える気はないようだ。
意を決する。
それを為した少女を――日中、顔見知りで会った少女に向けて、俺は意を決して声をかけた。
「――よう」
「……君たちは」
「夕方ぶりだな、社」
物騒にも日本刀を携えて、社真琴はそこにいた。
「どうしてここに?」
「こっちのセリフだ。俺たちはアンタが今ばっさばっさと斬り捨てていた影を追ってきた。なんで、お前はここに影がいると知っていた? そして、なんでここに影は集まっている?」
「……答える義理はない」
ちん、と刀を鞘に納めて、社は此方を睨むように視線を寄越した。
一瞬、雰囲気が張り詰める。刀の柄に手をかけてこそいないが、彼女の雰囲気は構えている時のソレだった。俺も、静かに手を短刀の方へ持っていき――
甲高い着信音。
「……はい」
社が携帯を取り出し、それに応じた。……一気に緊張が解ける。電話をしているのだから、今すぐ切り掛かってくるという事はないだろう。
「……ねぇ。ワトソン君」
「………?」
「大丈夫? 顔色が優れないようだけれど……」
「……大丈夫。気にするな」
「本当に?」
「…………ああ」
横目で彼女が、俺の瞳をのぞき込む。
ホームズと感覚が繋がっている以上、俺の感情は、凡そとはいえ彼女に伝わってしまうだろう。
「……なら、いいのだけれど。無理だけはしないで」
それでも、彼女はそれ以上の追及をしなかった。信用は……あんまりしてもらえてそうにはないが、任せてはもらえるようだ。
「……すまない。無視できない相手からだった」
「いや、別にいい。電話くらい好きに出てくれ。邪魔する必要性も何もない」
社が通話を終え、こちらに再び視線を戻した。
「君には、これからわたしと同行して、彼女の屋敷に来てもらう」
目線で美緒さんを示しながら、そう告げる。有無を言わせない語調だった。
「なに?」
「すまないが、これは頼みではなく命令だ。なにせ――」
一言だけ彼女が言葉を区切る。一瞬だけ逡巡のような色が瞳によぎる。それを振り払うように一度瞼を閉じ、真っ直ぐに俺を見つめなおした。
「――桜田家当主、桜田蒔苗様のご指示だ。この町に住む以上、そして、君が彼女の庇護下にある以上、彼女の言葉を無視することは許されない」
ホームズ:序:急へ
ホームズ:序:急
「……どういう要件だ」
「話すことがあるそうだ。……案内する。着いてきてくれ」
それだけ言って、彼女は俺たちに背を向け歩き出した。
《――どうするの?》
《……従うしかない。今、その人に逆らってもいいことは何一つないし……どうせ、聞きたいこともあったんだ》
《屋敷の事ね》
《ああ》
脳内でホームズと言葉をかわしつつ、彼女の後についていく。
背筋をぴしりと伸ばした、堂々とした動作。どうにも、社も武道の心得があるようだ。その物腰の端々に丁寧さと力強さがある。おそらくは剣術の類だろう。先程の彼女は刀を振るっていたが、アレには戦闘技術としての鋭さはなかった。しかし、その奥底に確かな技術が在ることは見て取れた。
「……何もしないでくれと、わたしは君に伝えたはずなのにな」
「すまないとは思う。が、そもそもそっちの落ち度だ。行動させるに足りる理由を、お前たちは解消できなかったんだからな」
少しだけ語気を強くして俺は言い放つ。
「今のうちにもう一度聞いておく。お前たちは何を知っているんだ?」
「それにこたえる資格を、わたし達は持っていない」
突き放すように、社は俺を睨む。
「……強引にでも吐き出させると言ったら?」
「両手両足がなくとも、屋敷までは引きずっていけるだろう?」
一触即発の空気が蔓延する。俺と彼女は、静かに互いの間合いを計り――
「――冗談。本気でやりあうなんてゾッとしない」
ふっ、と身体から緊張を抜いた。……最初からそのつもりだった。人間を斬る覚悟なんてないし、そんなことをしたくもない。念の為に確認したようなものだ。あからさまにホッとした様子の社を見る限りでは、一応こちらが本気かもしれないと懸念していたらしい。案外及び腰なのか、先程までの空気を振り払うように、彼女はすぐに前を向いた。
「……冗談でもやめてくれ」
「すまん」
少し拗ねたような口調に、おや? と思っていると、じろりと睨まれた。
「君、随分できるんだろう?」
「…………そうでもない」
「いいや、見ればわかる。わたし自身は大したことはないが、それでも君の身のこなしや雰囲気で、大体の力量は察せる」
「そうなの?」
美緒さんが、不意に口を挟んだ。それに社は頷いて返す。
「……とんでもないな、彼は。今不意打ちを仕掛けても、多分わたしが一方的に負けるだろう。一体、どんな化け物に鍛えられてきたんだ?」
社は半分感心、半分気の毒そうにそう言った。……正解だ。あの人は――師匠は本当に化け物だった。
今の社は俺が何をしたらどうなるか、くらいまでは読めているのだろう。羨ましい観察眼だ。しかし、あの人はもう次元が違う。読めないのだ。何処へどう来るのかさえ想像できない。意識を向けないことが大事だと言っていたが、正直それがどういう意味だか未だに俺は理解できない。とにもかくにも、人間離れした人だった。
「斬鉄」と「路傍の石」。
その二つを以って免許皆伝だと師匠は言ったが、彼女が俺の前から姿を消すまで、終ぞ俺はそれを会得することが出来なかった。
とにもかくにも、変わった人だった。今思い返せば、よくあんなキツイ修行をやったものだと自嘲気味に溜息が出る。
「……社の言う通り、化け物みたいに強い人だったよ」
「そうか。君が言うのだから、本当にそうなんだろう」
「そういう社も、中々に出来るみたいだが?」
「君ほどじゃないさ」
吐き捨てるように、彼女はまた前を向いた。
「……わたしは、君みたいに考えられない」
「…………?」
それはどういうつもりなのかと聞こうと思ったが、寸前で引き留められる。
見れば、美緒さんが俺の腕をつかんでいた。
「…………」
そこはかとなく真剣な目で首を振られた。……聞くなってことか。
そのまま無言で俺たちは夜の町を歩き続けた。
《……ふうん?》
《なんだ?》
《いいえ? 随分とその子のこと気にかけるんだなーって》
《……ヤキモチ、か?》
《ご名答》
《いや、これは普通に彼女の腕に興味があるからなんだが……》
《本当かしら?》
《本当だぞ?》
《……ふふっ、分かっているわ。ある程度でも繋がっているのだもの。あなたの気持ちくらい理解できる。そういう話するの、結構好きなのね》
《そう、だな。自分からじゃあなかったけど、好きだったし。周りにこういう話が出来る人もいなかったからなぁ……》
《あら? 師匠さんとは話さなかったの?》
《あの人としないことはないんだが、どちらかと言えば感覚で覚える人だったからな……。ガチガチの理屈派の俺とはあまり話があわなかった》
《へぇ……。それでよく付いていけたわね》
《必死に練習して食らいついていったからな。自分でもよくやったと思うよ》
しみじみと夜空を見上げる。あの人は今どこで何をやっているのやら……。
「そろそろ着くぞ。……その猫はどうする?」
「……肩に乗せていけば問題ないか?」
「まあ、多分……?」
「……あの人は、ただの猫にそこまで文句はつけないと思います」
……あの人、か。桜田家の当主。一体どういう人なんだろうか。
少し屈み、ホームズをひょいと抱きかかえて、肩に乗せ――
《――ひゃんっ!?》
《うわぁっ!?》
《ご、ごめんなさい。そのお尻の方は、尻尾の付け根はダメなの……》
《そ、そうか、すまん》
そう言えば、確か猫の性感帯は、
《お願い。それ以上はやめて。やめてぇ……》
《……すまん》
大人しく首根っこ掴んで肩の上に乗せた。
「……もういいか?」
「……ああ」
気を取り直して、俺は眼前の門に視線を向けた。
「でかいな……」
「実質、この町を取り仕切っている一族の住まう屋敷だ。必要な体裁だろう」
「そうですね。正直、住んでいる身からすれば、ここまで広いとかえって不便でもありますよ」
成程。それにしたって立派な屋敷だ。
「わたしです。立木統也様をお連れいたしました」
美緒さんが門を叩きながらそういうと、ゆっくり、ゆっくりと門が開いた。
「……参りましょう」
ふわりと、何処か悲し気な表情で美緒さんは笑んで、先導するように歩き始めた。
「ここからはわたしが案内いたします」
からからと音をたてて、母屋の戸が独りでに開いた。広い玄関。慣れた様子で履物を脱いだ社に倣う。
しずしずと、音をたてないで歩く彼女の様子は、普段とはまた違った雰囲気を感じさせる。
ふと、疑問が口をついて出た。
「……なあ。一つ聞かせてくれ」
「はい、なんでしょうか?」
「この屋敷に、人はいないのか?」
「……ええ。多くはありません。母屋に住むことを許されているのは、わたしと当主だけです」
「たった二人? それはまた……」
「随分と少ない、でしょう? わたしもそう思います。ですが、いたしかたありません。桜田の秘術は、仕手を選びます。それなりの熟練者、かつ当主と呪に認められたものにしか、繰ることは許されません。無理に使えば、等しく身を亡ぼす結果を迎えますから」
唐突に出てきた言葉に、俺は眉を顰めた。
秘術。随分とオカルトじみたワードだ。今やそのオカルト絡みであろう出来事に巻き込まれている身としては、笑い飛ばすのは少々難しい。
とはいえ、こちとら聞こえるはずのない物音から始まって、白猫になる美少女に街に出没する黒い影、流行歌を歌っている天使に喋るカラス、とんでもない幻視に刀ぶん回して黒い影を消し去る少女まで、色々と見たり聞いたりしているのだ。それくらで動じてやるものか。
「……つまり、この屋敷にもその秘術とやらがかけられているのか?」
「正確には、この町全てに。この屋敷は、少々その影響力が強いだけです。一番危険なのは、秘蔵された呪ですよ。誤った干渉をしてしまえば、瞬く間に災禍が起こることでしょう」
背中に薄寒いものを感じながら、質問を重ねる。
「なんで、そんなものがこの町にある?」
「それをこれから説明させていただきます。……こちらへ」
するするとふすまが開いた。障子越しに差し込む、柔らかい月明りが、部屋の奥に影を作って、誰かが居ると教えてくれている。静かに蝋燭が灯って、真っ暗な部屋が薄暗い部屋へと変わる。
桜色が浮かび上がる。
「な――」
「お初にお目にかかります。桜田蒔苗と申します」
さらりと、桜色の髪が揺れる。同じ色の瞳が、薄闇の中で確かに俺を捉えている。
俺は絶句していた。
すぐ隣にいるはずの見慣れた顔が、俺の知らない表情と雰囲気でそこにあった。
「美緒さんと同じ顔……!?」
「驚かれましたか?」
「あ、ああ」
にこり、何処か妖艶な雰囲気で、メイドな彼女と同じ顔の女性は微笑んだ。
美緒さんとは違う印象。木の肌のように黒い着物。桜色の髪に瞳。
――桜田家当主、桜田蒔苗。確かに人間じゃないと感じさせる人間は、ホームズに続いて二人目だ。
ぐっ、と腹の奥底に力を込める。覚悟を決めて、俺は彼女に問いかける。
「……教えてくれ、蒔苗さん。なんで俺をこの町に呼んだんだ。なんで俺をあの屋敷に住まわせたんだ。……何か知っているんだろう?」
「…………ふふっ」
小さく、桜田蒔苗が笑う。
「そうですね。教えて差し上げてもいいのでしょうが――時期ではない、と思ってしまいます。だって――予想よりもあなた、参っていないんですもの」
ぞっと背筋が凍り付く。
今、なんて言ったんだ、この女は!?
「わたしとしても、本当は教えてあげるつもりだったんですよ? でも、それは本当に心底疲れ切ったあなたにあげようと思った情報ですから……今のあなたにはいどうぞ、とあげてしまうのは、心底勿体ない気がしてしまいまして」
「何を、言って……!?」
「だって、ほら。高い所から墜ちる人の顔も、どん底でさらに堕ちる顔とは違う趣があるでしょう? どん底で堕ちるのはこの後でも見れますし――」
花が綻ぶように、本当に楽し気に彼女は笑う。
「なにより、あなたのいろんな表情を、たぁくさん見せてほしいじゃないですか」
笑顔の形に弧を描いたその眼に、隠しきれない憎悪と愛情を覗かせて、桜田蒔苗は俺に笑いかけている。
なんなんだ。一体何なんだ、この女は。俺のことを何と思っているのか、どうしたいのか、それが全く読み取れない。ただ単純な害意だけじゃない。もっと複雑な感情を、意思を、願望を、欲望を、俺の自由意思なんてお構いなしに叩きつけている。
――頭痛。吐き気。
あの恐怖とは違う。あれも生々しいが、これはベクトルが違う。違いすぎる。
根本的に狂っているのだ。まったくに異質なのだ。かえって冷静なくらい、正確に脳は、眼前の化け物をそう評価していた。
悍ましい。グロテスクだ。見たくない。見るべきではない。見てはいけない。直視するな。理解するな。たった一つの共感もするな。それをしてしまえば――
それをしてしまえば?
《ワトソン君!》
「ッ」
脳内に直接ぶち込まれた悲鳴のお陰で、驚愕と共に正気が転がり込んでくる。
今、一体俺は何に丸め込まれかけた……!?
「あら残念。怯える顔も素敵なのに。……ええ、本当に。あの人に似てとっても綺麗で素敵で――」
「――そろそろ、悪趣味が過ぎると思われますが。お婆様?」
「ふふっ、怖い顔をするのね。美緒」
「彼は大事なお客人。だから丁重に扱うように。そうおっしゃられたのはお婆様です。それをないがしろにするのは、たとえ本人であっても容認しかねます」
有無を言わさぬ調子で、美緒さんは桜田蒔苗に苦言する。
「彼が自然と弾いていたからいいもの、まともに呪にかかってしまったらどうなさるおつもりだったのですか?」
「無暗矢鱈に呪を振るうほど、見境ないわけじゃないわ。かける相手は、じっくりじっくり選んで、選んで選び抜いて……相手の顔を、全部丸ごと楽しみたいじゃない♪ そ・れ・に……ね?」
いったん言葉を切って、彼女は此方に視線を戻した彼女からは、ごっそりと感情が抜け落ちているようだった。
まるで、女の人の綺麗な表面が一気に崩れて、腐りきった肉が覗いたような気がした。
「そんな、ツマラナイ潰し方、する筈ないでしょう?」
淡い桜の香りがする。儚い花の香りがする。――それが朽ちていく甘い香りがする。妖しい腐臭が、俺の鼻腔に侵入し、脳を麻薬のように冒していく。
「ねぇ、統也さん? あなただって、そんな死に方したくないわよね」
するりと、頬に手を添えられる。死人じみた冷たい手。その感触がぞくぞくと脊髄に染みわたっていく。
まるで口付けでもされるように、顔が近い。桜色の視線が俺の視線に絡みついて、離れようとしてくれない。
全て融かして呑みこんでしまうような、綺麗な、綺麗な瞳。痛ましくも美しい、グロテスクな、腐りかけの花弁色。底なし沼のように、底の見えない鮮やかな色彩。
もう、吐息が吹きかかるほどに、桜色の魔性は目の前に在る。
「――もっと、たくさんの顔を見せてくれるものね?」
魔女が微笑む。誘うように。捕らえるように。仕留めるように。府分けるように。
逃がさない。絶対にどこまでも、どこまでも。そう彼女は言外に告げている。
腐敗した色彩の瞳に、愛情に満ち満ちた所作の中に、ありったけの憎悪と呪詛を込めて、彼女は俺に縋りよる。
ふつり、腹の奥の奥、腹の底の底で、なにかが燃え上がる。
未だに悍ましい色香が俺の脳を犯している。ぐったりと体を重く痺れさせていく。
「……ああ、全くもってごめんだよ。あっさり呪い殺されるのも、あんたに俺の顔をじろじろ眺められるのも!」
その感触を、悪寒を振り払うように、引きちぎるように、俺は声を搾り出した。
その程度だった。
桜田蒔苗の魔性は確かに凄まじいモノだ。恐れるに値する程度だろう。彼女の秘める怨嗟は、俺に対する特大の呪縛なのだろう。
だからどうした。短刀をしまった懐が、奇妙な熱を持っている。それが俺の思考の背中を押した。
大したことない。大したものじゃない。
あの幻視ほど、俺を押さえつけることも出来ない代物だ。こうしてきっかけなしで突っぱねてやることが出来る程度の代物だ。彼女の手助けなしで、クソヘタレの俺が動けてしまう程度の代物だ。
「初対面でこんなことを言いたくはないが、俺は、あんたが――」
すぅ、と冷たく桜色の瞳が細まる。彼女の中で害意が高ぶっていくのが理解できる。……関係ない。とにかく、俺はこの女に――
どん、と俺の体から桜田蒔苗が弾かれる。俺の肩から飛び降りて、ホームズが体当たりをかましたのだ。
《これ以上、彼に近づかないで……!》
《ホームズ!?》
《駄目よ、ワトソン君。これ以上はダメ。この女の人、あのカラスなんて比じゃないほど嫌な気配をしているわ》
ふーっ、と背中の毛を逆立て魔女を威嚇しながら、ホームズは警告を出し続ける。
「あら、はしたない猫ちゃんね。別にご主人様をとったっていいでしょう? 猫なんて薄情な性格らしく、大人しく自分の巣で丸まってなさい」
《助手を見捨てる名探偵はいないでしょうに! それに、アナタがわたしは大嫌いだし、大嫌いなものを大好きな人の傍に置いておく趣味もないのよ!》
言葉が通じないとわかっていても、彼女らしくない語調でホームズは目の前の女に悪態をつく。
《アナタ、さっきからワトソン君に何か良くないことをしているもの……!》
《なに……?》
《一緒に来た二人の声、さっきから聞こえていないでしょう? わたしの声も届いていなかった。無理矢理にあなたの意識を、自分だけに向けて他から切り離していたの》
「……っ!?」
くっ、と嘲るように魔女は片頬を釣り上げた。
「こちらに意識を向けさせることはできたのに、それ以上は許してくれないのだから、呆れるほどの意志の強さですね。しっかりかかれば、あなたのとても安らいだいい顔が見れるはずでしたのに」
「ふざけろ……っ!」
短刀を取り出し、抜刀。ぎらりと煌めく白銀色の切っ先を桜田蒔苗に向け、俺は言葉を重ねる。
「あんたはいったい何がしたい……! 俺にいったい何がしたいんだ!」
「先ほど言ったばかりでしょう? それを今、語るつもりはないと」
「それなら――――悪いが力づくだ!」
踏み込むまでもない。この距離、この間合いなら、重心移動の勢いだけで十分な威力に――
「ハッ!」
――出せる、ハズだった。
同じ白銀色の軌跡が、こちらの刺突を弾いた。
後ずさる。視線を一気に引き上げ、妨害が襲い掛かってきた方向へ注意を向ける。果たして、それを為した人物は、俺の予想通りの人物だった。
「社……!」
「――フッ!」
短い呼気を一つだけ吐いて、再び彼女は踏み込んだ。こちらが構えなおす時間も与えない。実直に致命を狙った剣筋で彼女は迫る。見え見えだが、それに対応しない手段を俺は持ち合わせていない。リーチは向こうの方に利がある。彼女は俺を高く評価しているようだが、得物での差をそう易々と覆せる実力はない。それを、彼女はおそらく冷静に理解し、次回手を分析していることだろう。
「……下がれ。頼む、下がってくれ、立木」
下段の構え。完全に防御に徹しながら、切実な声音で彼女は俺にそう告げた。
「これ以上は、わたしたちと相対するメリットは少ないはずだ」
視線を外さないまま、彼女は追う言葉を重ねた。
「……どうだろうな」
静かに構える。手の中で短刀を回転させ、順手から逆手へ。半身になりつつ、腰を落とす。視線は外さない。そのまま、視界の中の桜田蒔苗へ意識を傾ける。欺瞞かどうかまではわからないが、今のところはこちらに危害を加えようとする気配はない。……情報を提供するつもりも、あるようには見えないが。
美緒さんは無反応。害意もなにも見て取ることはできない。無干渉だ。蒔苗の方に干渉することも、社を止めようとすることもない。歳ほどの発言を鑑みれば、完全に敵対しているわけではないと考えられるが……どこまでもその考えを信用していいものか。
「背中を見せた瞬間、ずばりと来ない可能性がないとも思えない」
「……そんなことは、しない」
「それが、刀を向けながら言うセリフか?」
じり、じりと間合いを図る。――どうする。手札はロクなものがない。どうにも、社の雰囲気には場馴れした者特有の落ち着きが感じられる。静かに彼女は視線を俺へ注いでいる。こちらの動きすべてを見逃すまいと、集中しているのだろう。それは確かに隙を伺うという意味合いも強いだろうが、それは第一の狙いではない。
彼女は最優先で、こちらの攻撃の機を狙っているに違いない。下段は本来、攻撃に向く手段ではない。切り下しならば振り上げの動作で一拍の遅れを招き、切り上げにしても威力を出すにはそれこそ達人並みの重心操作を要求されるだろう。そうでなければ切っ先を持ち上げての刺突だろう。攻めるならばこれが最善手だ。何せほかの選択肢と比べ、圧倒的に攻撃へ移るための時間を要しない。一方、攻撃手段が限られるというのは、そのまま対策を講じられやすいということでもある。特に刺突などは攻め込むタイミングさえ掴めてしまえば対処はたやすい。後ろに下がることで切っ先をかわして伸び切った体を斬る。もっとも安全なのはこの方法だろう。
だが、ここまでは尋常な術策の内だ。
相手に手の内を読まれることを彼女が想定しているのなら、少なくともそんな単純な亀の運用は選択しないだろう。あるいは、そう深読みさせて相手の狙いからこちらの意識を逸らさせることが狙いか。
いずれにせよ。
「――」
「――」
現状は、待ちの一手に限る。こちらから仕掛ける利点はないに等しい。そも、下段は防御に適した構えだ。
視線から外れるように地面を睨む切っ先は、無策に突っ込む相手を確実に貫く鉾にも、術策を以て挑む太刀筋を阻む縦にも成り得る。切り下し、切り上げでは貫かれ、突きではいなされるのが関の山だ。こちらの得物が相手よりも長さで劣る以上、無策の上でなら先手は確実に向こうが奪う。喉か胸か、貫かれて殺されるのが関の山だろう。
だから、待とう。
こちらとて殺し殺されにまで発展させたくはない。少なくとも、現状最も即座に俺たちへ危害を加えられる存在である、社の無力化が目標だ。彼女の言う通り、即時撤退をしたいのはやまやまだが、背中から襲われるリスクは少しでも減らしておきたい。
緊張した雰囲気の中、社が三度目の警告をする。
「――もう一度だけ言う。下がってくれ、立木。殺しあいたくない」
「だったら提案だ。それを捨てな。社」
「…………」
静かに、社がこちらから視線を滑らせる。先にいたのは、桜田蒔苗。魔女は少しも先ほどの底冷えのするような笑顔から表情を変えない。
少しだけ、刀を持っている手が震えている。社の視線が、どこか縋るような色を帯び始めている。それでも、蒔苗に反応はない。……いよいよ、社の表情に余裕がなくなっていっているのがわかる。おそらくは、彼女は場馴れ自体はしている。それでも、人を斬った経験自体はないのだろう。
……当たり前だ。そうそうあっていい経験じゃないし、彼女がそんなものを経験してしまっているなどと、考えたくもない。最後の一線を彼女は超えていない。そして今、逡巡しているということは、桜田蒔苗の指示は、最悪俺が切り捨てられる可能性があるということだろう。
「……刀を、捨てろ」
「……………ッ」
彼女の視線が揺れる。しかし、焦りと迷いでほころびが出始めているが、構え自体を解こうとはしない。
「――頼む、社。捨ててくれ」
最後通告のつもりで、告げる。
反応はない。明らかに動揺が見て取れるが、それでもこちらが攻め込む手段はほぼないに等しい。手の震えもだんだん収まってきている。何より彼女は、先ほどまでの動揺の間、一切呼吸を読み取らせるような失態を犯さなかった。戦意を失ってはいない。……斬りあうしかないのか。
「――………」
「………――」
互いに、再び無言。
その息が詰まるような沈黙を切り裂いたのは美緒さんの一言だった。
「――下がりなさい、真琴」
「っ!?」
先ほどとは比べ物にならない動揺。呼吸が乱れ、意識が完全に俺から外れる。
《今だ!》
《ええ!》
瞬時に背を向け、逃走。一応ここまでくるルートは頭に入れておいた。焦り過ぎずに急げば追いつかれることなく逃げ切れるだろう。
襖がひとりでに締まる。……逃がさないつもりか。構わない。
《どうするの?》
《ぶち破る!》
体を投げ出すような勢いで一閃。襖を切り裂いたとは思えない、耳障りな金属質の音を立てて、襖が真っ二つに切り裂かれた。それを蹴り倒して、走る!
《結局何がしたいんだ、あの女!?》
《随分あなたにご執心みたいだけれど!?》
《あそこまで熱烈なのは御免だね!》
走る、走る、ひたすらに走る! 夜に浸された空気をかき分けて、前へ、前へ!
幸いに、妨害はもうない。あきらめたのだろうか。油断はできないが、このままなら好都合だ。
俺とホームズは、そのまま屋敷の外へ脱出した。
「どういうつもり?」
静かに、桜田蒔苗――お婆様がわたしに問いかける。
「真琴に任せるには荷が重いと判断したまでです。それに彼女の言うとおりに、彼をこれ以上引き留める必要もありませんから」
「へぇ……」
静かに彼女が歩み寄る。笑顔の下に、底冷えのするような怒りをたたえているのが見える。
「わたしは、あの子のもっといろいろな顔が見たかったのよ? 例えば……女の子を切り殺しっちゃった時の顔とか。きっと、罪悪感でとても素晴らしい表情をしてくれるわよ?」
びくり、真琴の肩が震えた。お婆様は、最初から彼女の命なんて使い捨てる気だったのだ。
そういう判断をする人だ。彼女にとっては、目標の達成こそが唯一価値のあるものだ。それ以外のものなど、暇つぶしにつぶそうと替えの利く玩具程度にしか認識していない。
だから、一欠けらの罪悪感も抱かないままここまで残酷なことを言えるのだ。
「呪をかけることもできるし、一石二鳥じゃないかしら?」
「それを無駄だと判断しました。彼につまらない呪をかけるため、社家との関係性を悪化させるのは、些か費用対効果が見合わないと思いませんか?」
「思わないわ」
「……あなたがそうだから、」
そんな風に狂っているから。
そんな風にもう理屈で動けないから。
「わたしは、いなくてはならないのですよ」
「――ふふっ」
楽し気に――本当に楽し気に、彼女はわたしへ歩み寄り、後ろから抱きしめた。
「ねぇ、美緒ちゃん。あなたは本当に賢くて、大人しくて、慎重で……いつかのわたしにそっくりね」
「…………」
「わたしはあなたが大好きよ? でもね、美緒ちゃん」
ぎり、と爪が首筋に食い込んだ。真琴が焦った表情で駆け寄ろうとするのを目で制す。
「邪魔だけは、許さないわ」
「……ええ。邪魔なんてしませんよ」
「なら、いいの」
するりと手をほどいて、彼女は柔らかにほほ笑んだ。
「もう今日は休んでいいわ。たくさんあの子の顔も見れたし、満足よ」
「それでは。……送っていくわ、真琴」
お婆様を振り返ることなく、わたしは真琴ともに屋敷を出た。
「……ごめんなさい、真琴。怖い思いをさせたわ」
「ううん、大丈夫。ありがとう、美緒。助けてくれて」
「いいわよ。友達でしょ、わたし達」
そう言って笑いかけると、真琴はその顔を俯けてしまった。
「……真琴」
「ごめん、ごめん……美緒」
ぽたり、ぽたりと地面に雫が落ちる。
真琴は泣いていた。
「怖いんだ……。怖くて怖くて、仕方ないんだ……。これで正解なのか、わからない。これで正しいのかわからない……! それでも、あの人に従わなければいけないことが、死ぬかもしれないって思えてしまうことが、怖いんだ……! ごめん。ごめんなさい……きっと美緒のほうが怖いのに……美緒の方が悩んでいるのに……殺されてしまうかもしれないのにわたしを助けてくれたのに…………美緒を、救う勇気が、わたしにはない……! 死にたくないって思ってる! 死なせたくないって思っているのに、自分が死にたくないからって、わたしは……!」
彼女は、血を吐くように告白する。
知っている。彼女が誰よりも可愛らしい女の子であることを。
知っている。彼女が誰よりも臆病な女の子であることを。
知っている。彼女が誰よりも優しい女の子であることを。
いいの。いいのよ、美緒。あなたが頑張ってるのは知っている。あなたが怖くても、わたしや、町のために頑張ってくれているのは知っているわ。だからね、あなたは泣かなくていいの。……そう言っても、優しいあなたはきっと、わたしなんかのために、魔女の人形のために涙を流してしまうのでしょうね。
だから、何も言わない。言えない。言う資格がない。
それでも。
「……ごめんなさい。…………ごめんなさい……」
咽び泣く彼女を抱きしめる。
きっと今、わたしのかける言葉にはどんな意味も、価値もないだろうけれど。それでもこの体の温もりだけは、冷たい夜に晒される彼女を温めることが出来ると信じて。
屋敷に戻った俺たちは、美緒さんの用意してくれた作り置きの料理を食べて、風呂に入っていた。
一番風呂はホームズに譲ろうとしたが、「さすがに猫の毛だらけの湯舟は申し訳ない」と辞退されてしまった。まあ、それは俺も普通に嫌だなとは思ったので今こうして風呂に入っているわけだが。
「ふぅ……」
椅子に腰かけて、ため息を大きく一つ。今日は、色々とありすぎた。とにかく……疲れた。
このまま、じゃぁ……本当に、眠って――
「こら。このまま寝たら風邪ひくわよ」
――遠のきかけた意識が、ぽこんと叩かれた拍子に帰ってくる。
「んぁ……?」
ぼんやりとした顔で後ろ振り返ると、タオルを巻いたホームズが――
「――ホームズ!?」
「おはよう、ワトソン君。お背中流しましょうか?」
「結構だ!」
「まあ強制だけれど」
「おい!? ――っとと!?」
声を上げたとたんに、体勢が崩れてしまう。ふらりと力が抜けた。
「ああ、もう。……頑張りすぎなのよ。あれだけ派手に切ったはったして、疲れないはずないでしょう?」
「……すまん」
ホームズに支えられてしまった。……なんだろう、この悲しみと恥ずかしさ。我ながら女の子に免疫がないとも思うのだが。
「ほら、体洗ったり頭洗ったりはわたしがしてあげるから、無理はしないで。ね?」
耳元で囁くように、彼女はそう言ってシャンプーに手を伸ばした。
「いいのか?」
「いいわよ。今日も助けてくれたし、好きな人の世話をするのなんて、役得みたいなものよ」
「……ありがとう」
「お礼なんていらないわ」
くすくすと笑いながら、わしゃわしゃとホームズが俺の頭を洗い始める。華奢で柔らかな指の感触が心地いい。少々つたないのは、彼女が緊張気味なのと、こういうことをするのが初めてなのが原因だろう。
「気持ちいい?」
「もう少し強めでもいい」
「我儘な助手ね」
「よろしく頼むぜ、名探偵」
「はいはい」
少しだけ頭皮にかかる指の圧が強くなる。先ほどよりもぐりぐりと頭皮がもみほぐされていく感覚を感じて、思わずため息が漏れる。
「ふふっ、ここがいいのかしらー?」
「ああ」
目を閉じる。暖かい湯気と細い指が頭を這う感触が、再び眠気を誘う。心地いい指圧が、彼女がすぐそばにいるという安息が、どうしようもないほど疲れ切った体に染みついて、じわじわと眠りの沼に意識を沈ませていく。
「はい、目を閉じて」
そういわれ、先ほどから閉じたままの目をそのままにする。ばしゃり、頭の上から湯をかけられる。それを二度。丁寧にシャンプーの泡が流された。
「リンスはこれ?」
「それだ」
やりとりは短く、行動は手早く。先ほどからのやりとりで、少し緊張もほぐれたのだろう。より丁寧にリンスを髪に馴染ませていく。
「はい」
「ん」
リンスがざぁと流される。
「それじゃ、次は体ね」
「……いや、こっちは自分でやるから」
「だーめ。ほっといたらすぐに寝ちゃうくらい疲れてるんだから、少しくらい任せなさい」
「それはホームズも一緒だろ?」
笑いながら背中にぴとりと密着するホームズを引っぺがす。
彼女も、今日はあちこち歩きまわったし飛び蹴りかましていたし、疲れていておかしくないと思うのだが……
「ええ。だからゆっくり休んでもらったら、今度はわたしを洗ってね?」
「…………はい?」
「だーかーらー、ワトソン君が、わたしを、洗うのよ」
「はあ!? ナニソレ初耳なんだが!?」
「当り前じゃない。今初めて行ったんだもの」
「待て待て待て! 猫も洗ったことがなければ女の子洗ったこともないぞ俺!」
「わたしだってないもの、おあいこでしょ?」
「やらないって選択肢は!?」
「ないに決まってるでしょう?」
なぜか断言された。
逃げようとするも、疲れが予想以上に効いているらしく、体がまともに言うことを聞かないうえに、がっしりと腰をホールドされてしまっている。
……なぜだろう。やたら柔らかい感触がダイレクトに背中に感じられる。
あまりホームズを見ないように首を巡らせると、風呂の床に、先ほどまで彼女が体に巻いていたタオルが落ちていた。ぎりぎりと錆びついたような挙動でちらりと彼女の体を見ると、どう見てもなにも巻いたり着たりしているようには見えない。
即行で首を前に戻す。
絶叫。
「ないのはさて置いてせめて猫になれ! なってくれ! なってくださいお願いします! つかなんでタオルをもうとった!?」
なるべく後ろを見ないようにしながら、必死にホームズを引きはがそうとするが、のらりくらりと彼女はそれをかわす。どうあっても、俺の体を自分の手で洗いたいようだった。
「猫になるのは却下よ。わたしだって恥ずかしいの我慢しているんだから、ワトソン君にも我慢してもらわないと。脱いでるのはただ単純にサービスよ。喜びなさい」
「喜べるか! 嬉しいけど! 滅茶苦茶に嬉しいけど喜べはしないなあ、それ!」
「嬉しいのなら堪能しなさいな。ほーら、もっといろいろ押し付けてあげましょうか?」
「やーめーろー! 本当に押し倒すぞおい!」
「それじゃあ明日は婚姻届けを出しに行きましょう」
「いや、いざとなったら責任は取るけど、もう少し情緒というかムードというかそういうものを大事にしよう!?」
もうやだこのエロ猫!
「ふふっ」
「……なんだよ。そんなに俺の純情弄んで楽しいか?」
「ええ♪」
「ったく……」
頭が痛い。が、ここで頭を抱えるのは完全に失策だった。
なにせ、ただでさえ密着されて無防備な背中。両腕での取り押さえ中断。当然、彼女が行動しない道理はなく――
「――うぉっ!?」
ひんやりとした物が、背中に垂らされた。
「お前、これ!」
「ボディソープだけれど?」
そして、その上から襲い掛かってくる暖かく柔らかい感触。……ボディソープを垂らされる前に、押し付けられていた感触。
「で、今再びくっついているのは!?」
「洗うためだけれど?」
「タオルでやれよタオルで! それかせめて手とか!」
「真心を込めて、乙女の柔肌を用いているのよ」
「その真心に必要性を感じられないなぁ!」
「注文が多いわね」
「オーケイ、多いっていうなら一つだけにまとめてやろう。今すぐ体を洗うのをやめてくれ、名探偵」
「却下」
「おい!?」
「それは駄目って言ったじゃない」
「言ってたけどなぁ……」
「ふふっ、文句言わないで大人しく洗われなさい♪」
「だからと言って体使う必要はないと思うんだが!? というか、どこで覚えたこういうの!?」
「あなたが持ち込んだパソコンで、昼間のうちに調べたわ。最初は戸惑うけれど、使い慣れれば便利ね、あれ。説明書もあったし」
「そんなところで頑張るな!」
道理で学校に忍び込むのがいつも昼頃なワケだ。それ以外の時間、特にすることもないと言っていたから不思議に思っていたのだが、これで謎が解けた。
コイツ、人が学校で勉強している間、家でエロサイト覗いてやがった。
「やっぱり離れろこのエロ猫! さもないと俺の洗う番になったらねっとりじっくり洗ってやるぞう!」
「できないのバレバレだから、それは脅しにならないわよ」
「ぬ……」
「ほらほら♪」
ぬるぬると背中に彼女の控えめな胸が押し付けられる。ぷにぷにとした感触がボディソープによって滑らかさと共に背中を滑る。そこに引っかかるような、それでいて抵抗の少ない、少しだけ違う感触が等間隔に二つ。それがなんなのかを理解した瞬間に、顔の赤みと温度が急上昇したことを自覚する。
……駄目だ。理性に毒すぎる。
「……んっ、ぁっ」
そして時々(どこがとは言わないが)擦れているからか、彼女の口から漏れる色っぽい声。よりによって、彼女の頭の位置的に、それがダイレクトに耳に伝わってくるのだ。吐息も一緒に。
さらに言ってしまえば、例のテレパシーもどきで彼女の感情がある程度流れ込んでくるのも問題だった。
(……これ、やっぱり恥ずかしいわね。けれど、今になって引くのも、それはそれで悔しいし、恥ずかしいし……ワトソン君に、もっとくっついていたいし…………それにしても、ワトソン君の背中、広いわね。結構筋肉もあるし、案外逞しいし…………初めて見た時も割とドキドキしたけれど、こうして触れていると余計ドキドキするし、ふふっ、嫌がってるけれど、無理にやめさせもしないのよね。……ああ、でもそれに甘え放題というのも考え物かしら。ついつい甘えてしまってばかりだけれど、ワトソン君ももっとゆっくりしたいかもしれないし…………そうだ、今度料理でも振舞ってあげようかしら。材料は買ってもらわないと困るけれど、調理の仕方はネットを使えば調べられるし、メイドの子のやり方もある程度見て覚えたから、練習すれば何とかなるわよね。ワトソン君、喜んでくれるかしら? 屋敷でのんびりしているだけじゃあツマラナイし、折角だから、もっといろいろ勉強しておかないとね)
ギャップで死ぬ。やってることがエロに全振りしてる癖に、考えていることすげえ甲斐甲斐しいとか、ほっこりするとか、本当にヤバイ。駄々洩れになってる心の声、全部気が付いてなさそうなのも、完璧に本心なのも、ヤバイ、ヤバすぎる。あれか。嫁か、嫁なのかこの猫は!
俺は無言で顔を手で覆った。……全力でにやけているだろう顔を覆い隠すのが理由の一つ目で、風呂が熱いからという言い訳が厳しいほど真っ赤な顔を隠すのが二つ目。
(……ワトソン君、笑っていてくれるかしら)
不意に泣き出しそうになったのを、堪えるのが三つ目だった。
永い、永い時間だった。そう、あの書斎で知識だけを取り込み停滞していた時間を、わたしは認識している。今のわたしには、あの時間は苦痛にしか感じられないだろう。
この変化はきっといいものだとわたしは――名探偵ホームズは考えているのだ。
彼と出会うまで、わたしは退屈だった。孤独だった。なにも持っていなかった。なにも、なにも――
ただ静かに、何も出来ないまま微睡み、消えるのを待つばかりだった。記憶がない、過去峩々ない、何者でもないわたしは、そのまま何者でもないまま消えるはずだった。
彼と出会って、わたしの全てが変わった。ワトソン君に頭を洗われながら、しみじみとそんなことを考える。
丁寧に、丁寧に髪を洗う指の感触が気持ちいい。それがあることにとても安心する。壊れ物を扱うような、優しい手つきがもどかしくも大切にされているような気がして、やっぱりうれしい。……彼の体を洗い終わったときには、すごいジト目で見られたけど、なんだかんだ優しい。
こうして彼に寄り添っているだけで、ぽかぽかと暖かい気持ちがわいてくるあたり、重症だと自分でも思う。けれど、彼のくれた感情はそれだけ鮮烈で、強烈で……かけがえのないもので。……ずっと、大切にしていたいもので。
だから。
ちらりと、ワトソン君の顔を伺う。
真剣な表情。まるでとても繊細な作業に打ち込む職人のような気迫で、少しおかしくも感じてしまう。実直だ。どこまで、彼は真っ直ぐだ。真摯に向き合って行動しようとする。何事にも、逃げ出すという手段を忘れてしまったかのように。
彼は剛く、善い人だ。そして、きっと運がいい人だったのだろう。
本当の恐怖を知らなかった。本物の悪意を知らなかった。だから、今は怯え、傷つき、震えて立ち止まってしまいそうになる。逃げるという選択肢を選ばないから。正しくその結果を直視してしまうから。
そんな彼を美しいと思った。凄いと思った。儚いと思った。危ういと思った。好きだと思った。支えたいと思った。
彼はわたしをあの永い夜から助けてくれた。だから、わたしも彼を助けたい。好きな人を助けたい。その傷を癒すことはできなくとも、彼と共に戦うことはできなくとも、彼に寄り添ってあげたい。彼を励ましてあげたい。それが、力のないわたしを認めてくれた彼への恩返しだ。
わたしの簡単な感情だ。ありきたりで、あたりまえな感情だ。
彼が好きなのだ。好きで好きで、大好きで仕方ないのだ。
いいじゃないか。一目ぼれくらいしたって。仕方ないじゃないか。初めて会った他の人が――男の人が優しい彼だったのだから。
今にも消えてしまいそうだったあの夜、出会えたのはわたしにとって奇跡だった。
だから、ふと不思議に思うこともある。
あの日、あの晩、初めて会った時の事。わたしは彼を一目見て、とても嬉しいような、楽しいような、そんな心地になった。きっと、孤独を満たされるというのは、ああいう感情を指すのだろう。だけれど、それだけじゃなかった。報われたと感じた。そんな風に感じる理由なんて、何処にもなかったはずなのに。
風化するほど遥かに悠くなってしまった約束が、やっと果たされた。約束が守られた。そう感じて、思わず泣き出してしまいそうになるほど嬉しかった。
まあ、変な見栄をはって、必死に涙は堪えたのだけれど。
とにもかくにも、あの時そんなことを感じた。
何故だかわからないけれど、それは確かにわたしの感情で、この愛情と恋情の種火なのだろう。
「目、閉じてろよ」
「ええ」
ざぁ、と泡が流される。
「ねえ、ワトソン君」
「ん?」
少し慣れたのか、手早くリンスを髪に馴染ませる彼に、少しだけ躊躇い気味で問いかける。
自分から言うのは大分小恥ずかしいし、はしたないかもしれないが――彼のためだ。いや、少し興味がないこともないけれど、メインは彼のためなのだ。
今、彼は疲れ切っている。傷ついている。……こういう時、小説の中ならば、
「――シたい?」
濡れ場と相場は決まっているものだ。
「シたい?」
「……なに言いだすんだ、このエロ猫」
ざばー
「きゃっ! いきなり流さないでよ!」
「いきなり色ボケるからだ。いや、風呂に入ってきた時点でか?」
「目に染みるわ」
「アホにゃ丁度いい目薬だろ」
「ひどい言い草ね。名探偵なのよ?」
「なら変な安売りするんじゃない。ったく」
「嫌なのかしら?」
「嫌じゃないけどなぁ……うん。嫌じゃないな。むしりがっつきたい。男子高校生だし」
「……そう、なの?」
「いや、だからと言って見境ないとか、そういうわけじゃないけどさ。今は非常時だし、なにも解決できてない。そういうことはしたいけれど、するなら全部終わって後顧の憂いもたってから。けじめつけとかないと、安心できないだろ?」
「そういうものなの?」
「俺の性分だよ。ほったらかしとか、どうにも気持ちが悪くてできない」
「……あなたらしいわね」
「ははっ。そりゃそうだ。なにせ、生まれてこの方ずーっと付き合ってきた性分だからな」
「それもそう、か。……ねえ、ワトソン君」
「なんだ?」
「……キスは、ノーカウントよね?」
「…………」
「ノーカウント、よね?」
「体洗おうか!」
「逃がさないわ」
「待て。ストップ。そういう軽め……でもないスキンシップを繰り返し続けるうちに不健全な精神状態に陥り――」
「問題ないわワトソン君。若い男と女が二人、一つ屋根の下、当然何も起こらないはずもなく・……ってワケよ」
「待て待て待て!? さっきの俺の話聞いてたか?」
「だからキスで我慢するわ。その分たっぷり……ね?」
「ね? じゃねーよ、おい。 ちょっ、舌なめずりしてにじり寄るな」
「ワトソン君が逃げなければ問題ないわ」
「嫌だよ逃げるよ男子高校生のそっち方面の理性の脆さを理解してくれこちとら思春期だぞおい!?」
「猫に食べられるお刺身に自由意思はないわ」
「なあそれただの比喩表現だよな? 決して(性的な意味で)とか食べるの前につかないよなぁ!?」
「問答無用!」
「うわ、風呂場でとびかかるなよ、お前! ここ広いけれど普通に滑って危ないだろ!」
「ふふっ、捕まえたわワトソン君」
「抱きつくなって! 感触が、いろいろ、下半身に悪いんだって!」
「往生なさいな。ほら。ん――」
「うぉっ!? 首筋!? なんで首筋!?」
「今は軽めだったけれど、抵抗しようとしたら、赤い赤いキスマークを付けてさしあげるわ」
「くっそ、脅迫か汚いな名探偵さすが汚い!」
「兵は詭道なり、よ。搦め手の一つや二つ、用意しておくのが探偵の嗜みよ。覚えておきなさい、ワトソン君」
「捨てちまえそんな兵法! つーか離れろってこのエロ猫!」
「あら? いいのかしら? 首筋に真っ赤な花が咲くことになってしまうけれど……いいのかしら?」
「悪魔かお前は!?」
「失敬ね。あなたのことが、好きで好きでたまらない、名探偵よ」
「悪魔だな、お前!」
キス魔と化したホームズから、なんとか逃げ出して風呂から上がり、俺は布団に横たわった。
今日は疲れた。ひたすらに疲れた。楽しくはなかったが、しかし今体に残っているのは心地いい倦怠感だ。
……ホームズのおかげだ。まったく、彼女には頭が上がらない。もっとゆっくり彼女と過ごすためにも、今の異常な事態をどうにか解決しなければいけないだろう。
「ふふっ」
「……なんだよ、ホームズ」
もぞもぞと布団に潜り込んで、彼女が笑う。
「いえ、なんだかんだ甘えさせてくれるな、って思ってね」
「それくらいサービスされても、罰はあたらないだろ、お前」
「そうかしら」
「ああ」
俺の腕を枕にしながら首をかしげるホームズに、笑いかける。
「ありがとう。ホームズ」
「……いいのよ。頼りない助手を引っ張っていくのも、名探偵の腕の見せ所だもの」
「それでもさ」
ごろん、と首を巡らせて、天井を見上げる。
「俺は、諦めそうになった。……いや、違うな。諦めたんだよ、俺は」
「…………」
「無理だって諦めた。逃げきれないって、どうやっても防げないと思って、手放したんだ。お前と一緒にいるって約束を」
目を閉じる。最低だ。ただ諦めた。何もできないと、やってもいないうちから諦めていた。
確かに今でもあの結末を迎えるかもしれないと考えると、怖い。怖くて怖くて仕方がない。
それでも、手放したくないと思う。彼女が隣にいてくれる未来を、現在を、失いたくなんてないと思っている。
無謀だろう。無茶だろう。だけれども、
「師匠がさ、前に言っていたんだ。『勝てそうにない相手には絶対立ち向かうな。立ち向かうだけ無駄だ』って。で、その後に、『それでも、自分の後ろにどうしても守りたいものがあるなら、戦え。絶対に立ち向かえ』って言ったんだよ」
「どうして、その人はそんなことを言ったの?」
彼女の疑問はもっともだ。これは矛盾している。無理なことは無理なのだ。夢じゃあるまいし、現実っていうものは、そうそう簡単に覆らない。だから、俺も不思議に思った。師匠から習ったのは、生き抜いていくことを前提にした戦い方だった。
理にかなわないと首を傾げて、師匠に聞いた。「何故」、と。
「『人間は正論がないと生きていけないけど、正論だけじゃ生きていけないから』」
人間は完全じゃない。だから、正論という正しさがなければ行動できない。けれど、やはり人間は完全じゃないから、ただ正しいからというだけじゃ動けない。正論だけじゃ動けない。感情が、その正しさに伴って、始まって行動することが出来る。生きていくことが出来る。
師匠は笑ってそう言った。
七面倒くさいし、厄介な生き方だけれども、おかげで人間は飽きないんだ。なんて自分は棚に上げた調子で、彼女は笑っていた。それを別れにして、師匠は俺の前から去っていった。
「へぇ……素敵な言葉ね」
「俺もすっかり忘れてたよ。ホームズ。お前のおかげで思い出せた」
俺は正論で諦めた。どうしようもないから、何も出来ないからやるだけ無駄だから、そんな正論を理由にして諦めようとしていた。正論を言い訳にして逃げ出した。
もう一方の感情を置き去りにしていた。
「ヘタレたのは俺なんだけどさ……もう、逃げない」
「……ふふっ」
「笑うなよ」
「いいえ、おかしくって。あなた、最初から逃げ出してなんていないじゃない」
「…………え?」
「立ち向かおうとしたじゃない。で、怖くって怖くって仕方がなくなったんでしょう?」
「……まあ、そう、なる……か?」
「なるのよ。それ、逃げ出したんじゃなくて、絶望したっていうんじゃないかしら」
「余計酷いだろ、それ」
「いいえ。確かに、絶望してしまうことは悲しいことだけれど、その為に行動したことがなくなってしまうワケじゃないでしょう?」
「まあ、そりゃそうだろうけど……」
「十分よ。あなたがわたしの為に頑張ってくれた。絶望してしまうほど強大なものと向き合ってくれた、それだけで、わたしはとても報われたの」
ぽつりと、彼女はそう言った。
「――絶望するから、全部だめ、なんてことはないのよ。だって、それまで頑張ってくれたあなたをわたしは知っているし、わたしはあなたにたくさん助けて貰ったんだから。あなたは逃げ出してなんていない。戦ってくれた。立ち向かってくれた。……嬉しかったわ。本当にありがとう、ワトソン君」
するり、と俺の頭に手をやって、ホームズが視線を重ねてくる。
「あなたが大好きよ。あなたを大好きになれたのよ。……忘れないで。あなたに会えたことは、わたしにとって奇跡みたいなものなの。……決して、無価値なんかじゃないわ」
「……ああ、そうだな。お前はそう言ってくれるけどさ、ホームズ」
「ワトソン、君?」
「俺は怖い。嫌だ。そんな物に、意味はないと思ってしまう。お前が隣にいない俺に、意味があるだなんて思いたくない。お前を失って続く俺なんかに、意味があったなんて思いたくない。お前を遺して終わる俺なんかに、意味が与えられるなんて考えたくない。お前を救えない俺なんかに、意味を、持ってほしくない――!」
ほとんど縋るように、俺はそう言葉を吐き出した。ぎゅう、と彼女を抱きしめる腕に力がこもる。離したくない。失いたくない。やっと、やっと――
「俺は、お前と一緒にいたいよ、ホームズ」
「……ワトソン君」
頭が細い腕に抱き寄せられる。柔らかい感触に顔を覆われ、拍動が優しく俺の心を揺り動かす。石鹸の香りが、鼻腔をふわりとくすぐった。
「明日……確か休みだったわよね」
「……ああ」
「それじゃあ、少しだけ捜査を休みましょう。根を詰めすぎても、ただ焦りばかりが募って観察眼を曇らせるだけだわ」
優しく髪を梳くように俺の頭を撫でて、ホームズは言葉を続ける。
「頑張りすぎ、あと気負いすぎよ。ワトソン君。あなたが諦めていないように、わたしだって諦めない。あなたが望んでいるように、わたしだって望んでいる。だから、あまり自分で自分を追い詰めないで」
「…………ホームズ」
「休みなさい、ワトソン君。わたしの優秀な助手なら、常に万全を目指して、休養を取るべき時に休養を取ること。ね?」
「……わかった。そう、する…………」
ふっ、と体から力が抜けていく。ぐらり、ぐらりと思考が揺れているのが、意識が明滅しているのがわかる。
……限界だった。ここしばらく、殆ど緊張が抜けていなかった俺の体は、これ以上ないほど疲れ切っていて――彼女の胸の中にいる今、どうしようもないほど安心していた。
「……おやすみなさい。ワトソン君。また明日、ね?」
優しくささやかれた言葉に返事をすることもできないまま、俺は夢の中へと墜ちていった。
ざ、ざ、と雑音が鳴る。
砂嵐が鳴らしている。
視界に映っているのは、光だった。
四角い、光。
ブラウン管だ。
幾つも重なった、古ぼけたブラウン管テレビ。
それぞれが白と黒を好き放題に雑音と混ぜ合わせて垂れ流している。
意味はない。意味はない。
なかった。
サイケデリックな色彩が、唐突に眼を刺した。
……映像が、流れ始めている。
俺はそれを、ただぼんやりと眺めていた。
忘れることなかれ。
忘れることなかれ。
彼の者、遥か彼方の神故に。
我らの知らぬ祟りが在りや。
冷たく硬質な音が、暗闇に――座敷牢に響き渡る。鎖の音だ。微かに動いた手足に引きずられて、鉄の鎖が鳴った。
誰もいない。誰もいない。自分以外、誰一人としてここにいない。
両手両足は鎖につながり、顔には鉄の仮面をはめ込まれ、視覚も聴覚も全てがさえぎられている。
それが、俺の日常だった。俺の平穏だった。俺の当り前だった。
●●●●。それが俺の銘だ。
ギィ、と鎖とは違う金属のきしむ不快な音。音は聞こえない。されど、そういう音があったと肌で、空気の震えで感じ取ることが出来る。
『――今晩は。●●●●様』
高い声……感じ覚えのある振動。女の声だ。若い――まだ幼いといってもいい、少女の声。
『…………』
俺は声を発することができない。鉄の仮面は、猿轡の役割も果たしている。顎を固定されているだけでなく、喉の奥にまで鉄の棒を入れられては、くぐもった呻きさえ満足に上げることはできない。それを少女も知っている。ただの挨拶のようなものだ。
『昨晩ぶり、ですね』
目の前で腰掛ける気配と、笑っている雰囲気。五感のうち、視覚、聴覚、嗅覚、味覚を完全に封じられていても、触覚さえ生きていればある程度は――この座敷牢の内側の物事くらいは把握できる。それだけの感覚を俺は持っている。
……否。正確には触覚だけが開けているからではない。あと二つ、末那識と阿頼耶識が限定的とはいえ開けているが故に、俺は知覚することが許されている。それだけが、俺に許された世界。俺だけに許された世界だ。
『……………………』
『本当に危ないところでした……。もう少しで、椛にバレてしまっていましたからね。そうなっては、貴方に会うことも、屋敷の中を自由に歩き回ることも許してはもらえなくなってしまいますもの』
少女が溜息を一つ吐く。
『将来当主になるのですから、もう少し詩織のことを信用してくれてもいいと思うのですが……呪術の勉強をサボってしまうのがいけないのでしょうか。でも、言刃を覚えてしまうのは、少々怖いですし……嗚呼、やはり詩織が我儘なのでしょうか……?』
グチグチと、少女――辻桐詩織が俺に話しかける。他愛のない話だ。この手の家にとってはありきたりなしがらみの話。将来この無垢な少女は、きっと残酷な刃の華へと変貌を遂げるのだろう。魅了され触れるモノを斬り裂き、その返り血でより深く鮮やかな紅に染まって、更に多くを魅了する魔性の貴き呪い華に。
それを見て、識り、交わった。以来、俺は此処に在る。此処に居る。此処に棲む。
何度も見てきた結末だ。この家で、この血統で、ごくごく当たり前の結末だ。ツマラナイ。俺は何も出来ないままだ。何も出来ないまま、繰り返し、繰り返し、また繰り返すのだろう。
鬱屈とする。だが、達成感もある。奇妙な感触だ。道は果てしなく遠くとも、願うモノへ通ずる光明は視えている。そして、たどり着くべき結末も、決して覆らないと理解できている。鬱屈とはしても、焦りはしない。着実に、俺は牛歩を重ねている。
そう思考内で反芻する俺――●●●●を、冷静に俯瞰する私――●●●●がいる。
私は私である。俺は俺である。狂っている私、正常な俺。狂っている彼、正常な彼。どちらも本質であり欺瞞であり、空想であり真相であり、心象であり魂魄だ。
虚妄であり願望であり観測であり結末であり過程であり因果であり概念であり生命であり呪法であり悪鬼であり災厄であり救済であり変質であり空虚であり夢幻であり終焉だ。
私は彼を定義する法則を知らず、彼は私を理解する概念を持ち合わせていない。
それが●●●●という存在だ。
俺であり、私という存在だ。
『…………………………………………』
俺はただ繰り返す。私はただ俯瞰する。それだけがタツキトウヤの平穏であり、日常であり、限界だった。それ以上は許されなかった。
『―――――――』
詩織は話を続けている。
だが、もう俺はそれを聞いていない。私も同様だ。俺は静かに意識を沈めている。眠っているようなものだ。ほとんど無意識になっていると言い換えてもいいだろう。私にはそう言った概念はない。あるいはあったとしても知覚できていない。俺が知覚しているかもしれないが、俺と私は互いを知覚はしても、対話することも知識や記憶を共有することもできないので無意味だった。
私は静かに交信を待つ。待ち続ける。俯瞰することしかできない私にとって、唯一の楽しみだった。能動的に干渉できる唯一の事象だった。
そうして、どれだけ待っただろうか。長い、短いといった感覚が私には希薄だった。故に、苦痛は大きくもあり、小さくもある。待つ、ということがないというのは、そのまま在るものは在り、無いものは無いという事実に過ぎない。ただの切り替わりに過ぎないが、永遠でもあり零でもあるということは、苦痛と名付けるには十分なものだった。
されど、彼女と言葉を、意思を、感情を交わせば心が躍った。人はこれを愛と呼ぶのかもしれない。私は孤独であった。故に、同様の境遇である彼女とも共鳴したのかもしれない。……あるいは、同様の願望を――孤独の否定を望んだが故、なのかもしれないが。
……果たして、時は来た。
彼女は遠く。
願いは遠く。
破綻は近く。
惨劇は近く。
―――夜空が白い。
ざっ、ざっ、と砂ぼこりが裸足の下で擦れる。
……何が、起きているのだろうか。今は夜のはずなのに、空は白昼のように明るいままだ。いや、これはむしろ、空自体が輝いているようにさえ見える。
頭がぐらぐらと揺れているように感じる。実際揺れているのか、止まない頭痛と喉を登ってくる吐き気がそう感じさせるのか。それさえも判別がつかない。
ふと、視界が奇妙なことに気が付く。妙に距離感がつかめない。ずきりと鈍く痛む左目に手をやって、納得した。左目がない。抉れてしまっている。これでは、距離など掴めるわけがない。
何もわからないまま、俺は今にも折れてしまいそうなほど細い脚で、一歩一歩、ゆっくり地面を踏みしめるように歩いている。両手もひどい有様で、壊死してしまった指先のお陰でまるで枯れ枝か何かのようだ。
声は出ない。冷たく乾いて引きつった喉は、掠れた吐息でひゅうひゅうとなるばかりだ。ほとんど、歩いている様にというよりも、ボロボロの体を引き摺る様にと言うのが正しいだろうか。
進む。進む。
ただ必死に前へ前へと進み続ける。何がしたいのか。何故進むのか。それさえ自分でも理解できないままに。
――彼女は、一体どうしたのだろうか。
それだけが思考を占めていく。俺自身のこともわからない。何故それをしなければいけないのかもわからない。それでも、そうしなければいけないという感情が強く強く俺を苛み、突き動かす。
裸足に砂利が刺さる。まだ、町までは少し先だ。距離感のない目でも、煙が徐々に大きく迫っているのを認識できる。煙の焦げ臭い臭いが鼻腔に侵入してくる。……それに混じって、嫌な香りも入ってくる。焦げ臭い、だけではない。もっと生々しい、何かの焼ける臭い――
瓦礫の山が眼前に広がっていた。建物は崩れ、人々は倒れ、巻き上がる炎はそれらを分け隔てなく焼き焦がしている。幾人か、生き残っている町人も見受けられるが、その多くは黒く体が腐り落ちて、とても尋常の人間だとは思えない容姿をしていた。苦痛からか、呻き声をあげながら、あるものは這いつくばって、あるものはだらりと両腕を下げた猫背で、亡者のごとく彷徨っている。……地獄絵図だった。
……彼女は無事だろうか?
声も何も聞こえない。安否をどうやって確認すればいいのかもわからない。
今すぐにでも、探しに行かなければ――!
立ち止まってしまった体を引き摺る様に、一歩踏み出した瞬間だった。
ぐるん、と視界が巡る。唐突に体から力が抜けていく。視線が跳ね上がったのではない――体が立っていることが出来ないまま、崩れ落ちたのだ。
白銀色に輝いていた夜空は、いつの間にか元の闇を取り戻していた。
今度は、そこに蒼い星が輝いている。宝石のような、鬼火のような、煌びやかで神秘的な、美しい青い星が、夜空満点に輝いている。
―――否。
それは夜空などでは、断じてない。
ぐるん、と蒼い星が――兇星が蠢いた。プラネタリウムを高速で上映しているように、ぐんぐんと星は廻り、やがて無秩序な動きから、一つの生き物のような統率の取れた螺旋の軌跡を描き出す。
事実、ソレは一つながりだった。
星が蠢く。空が蠢く。夜が蠢く。するすると滑るように天を翔け、天井のように夜空を覆い隠していたそれが、とぐろを解いて首をもたげる。
……蒼い燐光が、静かに俺を睨めつけていた。
ぞくぞくと怖気が全身を走り回る。体中の神経を、冷たい蒼い炎が駆け巡って焼き焦がしていくかのような。全身が凍り付いて沸騰し、全く別の何かへと切り替わっていくかのような。存在そのものを凌辱されているかのような感覚だった。
駄目だ。こいつは駄目だ。直視してはいけない。
理解しては、認識しては駄目だ。コレを理解してしまえば、認識してしまえば――俺は、また、なにも出来なくなってしまう。
嫌だ。嫌だ……! また彼女を裏切るのは、諦めるのは、それだけは嫌だ。あんな惨めさは、悔しさは、悲しさは、ただの一度きりで十分だ。あの行き場のない激情なんて、もう二度と滾らせたくはない。
だから、早く、眼を逸らせ。逸らせ、逸らせ!
なんで……、目を逸らせないんだ!? 硝子玉にでもなったかのように、眼球が思う通りに動かない。動かせない。ぴくりとも動かせないまま、空から俺を見下ろす黒い何かをじっと見上げ続けている。黒い何かも、長い体を夜空に揺らめかせながら、視線を俺に注いでいる。
もう、体も動かない。徐々に手足から熱が失われていくのがわかる。このままでは、心臓まで凍り付いてしまいそうだ。
ギシギシと、目の前で顔と思しき部分が軋みを上げる。蒼い燐光がひび割れる様に広がっていく。……直感的に、奴が口を開けようとしているのだと理解した。俺のことを、ぱくりと丸呑みにでもするつもりだろうか。眼前に迫る何かは、それが出来るくらいの大きさだ。
俺は、未だ目を離せない。
手を伸ばせば届いてしまいそうなほど近くに、ソレは迫っているのに。
蒼い亀裂が一気に広がる。音もなく、大量の蒼く輝く触手が伸びてきた。
やめろ、とも、放せ、とも言えないまま、俺はそれに絡めとられて呑み込まれる。
冷たく感じる程熱い感触。
蒼い奔流は容赦なく俺を塗りつぶそうと襲い掛かってくる。どこからが俺で、どこまでが俺か。自分自身の境界が曖昧になっていく。掻き分ける様に手を前に出しても、それをしているようにも感じるし、それをしていない様にも感じる。手を開いている様にも、開いていない様にも感じる。立ち止まっているようにも、押し流されているようにも、前に進んでいるようにも感じる。もう、眼を開けているのかどうかさえ分からない。
俺というカタチが、意識が、融けて何者でもなくなっていく。
蒼い。
何処までも、何もかもが蒼い。
蒼だけだ。蒼だけしか存在しない。
もう――何もかも―――――――――――――――
寒い
誰もいない
何もない
嫌だ
暖かくない
元居た場所はなくなってしまった
……独りぼっちだ
このまま、消えてしまうのだろうか
それは……嫌だ
怖い
消えたくない
せめて、もう一度だけでいい
もう一度、故郷のような場所を見たい
あの温もりがある世界で息絶えたい
今、理屈は分からないが力が満ちている
これなら、遥か彼方まで飛んで行ける
力尽きる前にたどり着けるかどうかも定かではない
それでも、このまま消えたくはなかった
「大丈夫? 怖い夢でも見たのかしら?」
音が――声が聞こえる。優しい声。寄り添ってくれる声。とても愛しい声。
……眠っていた。悪夢を見ていたのだろうか。
触れる温もりが、柔らかさが、とても安心できるからか、すっかり気が抜けてしまっている。らしくはないと、そうは思うがこれでいいとも思う。
木漏れ日と木陰が、静かに風に揺れている。平穏だ。今、間違いなく俺は安らいでいる。
「あなたって体は大きいのに、とても大人しいのね」
柔らかな指が触れる。夜空のような黒髪が靡く。……酷く、眩しい在りようだった。
「ねぇ――あなたは何処から来たの? 何処へ行くの? 何者なの? 私に教えてくださらない」
問いかけられる。
何処から来たのか――喪われた故郷だ。
何処へ行くのか――この身を横たえられる命の温もりがある場所だ。
何者か――はて、一体なんなのか。自分自身でも測りかねる。
「何も知らないまま、ここまで漂ってきたの?」
ああ――そうだ。宛などない旅だった。放浪だった。この星に降り立つことが出来たのは僥倖だ。
「死地を目指して旅をするなんて、あなたは象か鯨みたいね」
象に、鯨……。詳しくは知らないが、きっと美しいモノだろう。この星の命なのだから、美しくないワケがない。
それにしても、この星にも俺と同じような感傷を抱いて旅をする生き物がいるのか。
「まあ、私も図鑑でしか見たことはないのだけれど……この町から出てゆけるのなら、あなたと見に行ってみたいわね」
……一緒に、か。
今はもう大して体を動かすこともできないし、そもそもここで朽ち果てるために俺は旅をしてきたのだ。先のことなど考えることも無駄かもしれない。それでも……何故だろうか? 彼女とこの先も一緒にいる未来を創造することが、楽しくて仕方がない。
「ねぇ、●●●●。あなたはどうしても逝ってしまうの?」
そうだ。まだ時間はかかるだろうが、必ず死亡する。もうあの虚空を旅することはできないだろう。
もう、これ以上旅を続ける理由もないのだが。
「……ふうん。それって、どれくらいかかるのかしら?」
この星換算の時間で、どの程度かは分からない。そう長い間ではないが、今すぐというほど早くもないだろう。
「へぇ……」
彼女は少々悪戯っぽく、何か企むような笑みをこぼした。
「●●●●。それなら――」
ざわざわと、風が丘に生える草花を撫でていく。
「――嗚呼」
そこに立つ影が一つ。
黒く艶やかな髪は、風に靡いてまるで蛇のようにうねっている。
「――貴女が教えてくれるのですか」
何かを迎え入れる様に、影は手を広げる。
影は女性だった。
透き通るような白い肌。
対照的に極彩色の黒い髪。
鳶色の瞳は、月明りを呑み込んで黄金色に化けていた。
求めるものは遥か彼方に。
望むものは久遠の果てに。
それは無謀であった。
されど捨てることは叶わない。
失うことを許せない
何物に代えてでも手に入れたいものだった。
故に。
彼女は彼女の持ちうる、手に入れうる全てを贄にした。
忘れるな。忘れるな。
我らに流れるは外道の血。
我らの堕ちるは地獄の底。
忘れるな。忘れるな。
我らに許されるのは呪うだけ。
血に塗れ醜悪に這いずる屍鬼なれば。
殺戮を繁栄と嘯き蠢く毒蟲なれば。
唯々それを完のみ。
それだけを目指せ。
それだけを重んじよ。
それだけが我らの有り様である。
未来永劫に連なる、悪鬼共の有り様である。
忘れるな。忘れるな。
我らが報われるならば、それはただ一つ。
遍く総てを喪い荒野に亡骸を晒す事実のみである。
薄暗い部屋の中で、静かに水音が響き渡る。
ぴちゃぴちゃ。ぴちゃぴちゃ。
犬が皿に満たされた水を舐るような。猫が鼠を食むような。蟷螂が芋虫を齧るような。カラスが死骸を啄むような。実にありきたりな咀嚼音。
それが響いている。
音の源は俺だった。俺は咀嚼している。味はしない。臭いも何もない。ただ口の中に物を入れていく感触だけが明瞭だった。
機械的に俺は咀嚼を続ける。視界は暗かったが、そこには赤の色彩が多く見て取れた。それに塗れた薄い紅色や、白い色が見える。
それが何かなど気に掛けることもせず、ひたすらに噛みつき、食い千切り、噛み砕いて呑み込む。繰り返す。繰り返す。繰り返す。
口の中が空になる。目の前に、赤と、薄紅と、白に彩られた空洞が出来上がっていた。
顔を上げれば、ぼんやりとぼやけた視界に黒い鎖が映る。視線を戻せば、開けられた黒い着物と、白い肌が見えた。
虚ろな視線が俺を見上げている。微かに開かれている、小さな唇が吐き出そうとしていたのは呪詛か、疑問か。何れにせよ、それを確認することも、聞き入れてやることもできないが。
力なく横たわる、今や屍と化した少女は、いったい最後に何を思ったのだろうか? 痩せ細った自分の両腕には、彼女が必死に抵抗したために着いた、幾つものひっかき傷が残されていた。
背後に足音。
振り返れば、鉄格子越しに此方を見る者がいる。――蒼い瞳。この世の物とは思えない程、美しい色彩。深く透き通っていて、それでいて鮮やかな宝石のような瞳。
それとは対照的な紅色の髪。人の血の色の髪。鮮血色の髪。
背が高い。少し髪は長いが、体格から察するに男性だろうか。爛々と輝く蒼い目が、表情を読み取れない視線が、真っ直ぐに俺を捉えている。
ふと、違和感を覚えた。
表情が読み取れない。俺ははっきりと相手を視認している。髪の色も、瞳の色も見えている。口元も、耳も、眉も、頬も、見えている。見えているはずなのに、全体像を理解しようとすると靄がかかったかのように曖昧になってしまう。何故だろうか? 考えても答えは浮かばなかった。
男は動かない。じっと、こちらを見つめているだけだ。
鉄格子越しに除く蒼い視線から目を逸らす。
彼女へ視線を戻して、首を傾げた。彼女の体はこれ程筋肉質だっただろうか? 洋服では着物ではなかったか? 腹に空いた洞は同様だが、彼女とは決定的に何かが違う気がする。
屍を見回しているうちに、俺は自分の両腕を見失ってしまっていることに気が付く。
……何処だ? 先ほどまで確かに在った筈だ。何処に行ってしまったのだ? 疑問符を脳名に浮かべながら、きょろきょろと視線を動かす。
そうしている内に彼女の顔を視界に捉えて、一瞬思考が静止した。
違う。
彼女の顔じゃない。違う。違う。違う。
では、これは誰の顔だ? 見たことがある。知っている。では? では? いや、そもそも俺の――私の――自分の腕はあれ程痩せ細っていただろうか? そうだ。いいや、違う。もっと筋肉もついていたはずだ。彼女は誰だ? 誰だ? 彼女は●●●●だ。●●●●とは誰だったか。俺は誰だ? 私は誰だ? 自分は誰だ? 鏡に問う。鏡に問う。
問いかける。
俺・私・自分は誰なのだ。鏡は答えない。答えることが出来ない。とっくに鏡は死んでいた故に。そも、答える言葉など持ち合わせていないが故に。
鏡は沈黙を貫いている。鉄格子の向こう側にまだ蒼は在った。そちらを振り返って声を上げようとした。喉が震える。しかし声は出ない。笛のような、風のような、鳴き声のような、不思議な音が漏れるだけだった。紅と蒼は動かない。ただじっと、じっとこちらを眺めている。
ぐらりと紅と蒼が揺れる。揺れる。増える。分かれる。
紅と蒼が増える。重なる様にして分かれ、こちらをじっと見るモノ。立ち去るもの、今まさに立っている場所に歩み寄るもの、全てが同時に存在し始める。
何も答えない。何も言わない。何もわからない。相変わらず表情は、その貌は靄の奥に閉じ込められていて、理解することが出来ない。
鏡は黙ったままだった。
絶叫する。駄目だ。駄目だ。分からない。分からない。駄目だ。誰だ。誰だ。分からない。何処だ。分からない。分からない。黙っている。不明。明瞭に自分を理解しているはずなのに。分からない。不明瞭。不明、不明、不明、不明。靄の奥、蒼が見ている。紅が揺れる。また増えた。増えた。歩む。去る。去る。視る。鏡は横たわっている。空洞。何処だ。腕。腕腕腕腕腕腕。自分・俺・私・私・俺・俺・自分・私・自分・自分・自分・私・私・俺・自分。ぐるぐるぐるぐるるぐるぐる回る。廻る。周る。何処だ。蒼い星。黒い何か。影、影、影、白。屋敷の中に、狂っている。夕日。刃。言刃。彼女は何処だ? 私は彼女を――空。天。氷空、蒼穹。宙。燃えている。白銀色の夜に燃えている。蒼。月。求めたもの。彼女。猫が一匹。蔵。月。月。月が近い。丘の上。分からない。懐中電灯。何処までも続く廊下。あの猫は。彼女は。彼女は。彼女は。一体。一体。一体。一体――――――――?
――ピチャン
血が一滴、滴った。
理解。
収束。
鏡は誰か。
俺・私・自分は誰か。
認識。
把握。
●●●●。
月が出ている。
彼女が来た。
契約。
代償。
生贄。
変質している。
血が滴った。
最後の一滴。
抜刀。
接続。
鏡は●●●●だ。
●●●●。
慟哭。
呪詛。
虚無。
再生。
復活。
理解。
理解。
眼前の物は?
眼前の物は?
鏡はダレ?
カガミハダァレ?
俺だ。
死んだ俺が眼前の物だ。
ネェ、
ソレジャァ、
ワ タ シ ハ イ ッ タ イ ダ ァ レ ?
「うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」
絶叫。
自分の声で俺は目を覚ました。布団から跳ね起きて、ぜぇぜぇと荒い息を吐く。
頭が、痛い。……一体なんだったんだ。アレは。酷い物を見た……気がする。
駄目だ。思い出そうとすると、頭痛が酷くなる。……頭が、割れそうだ。
「夢、だよな……」
ポツリ。確認するように呟く。
昨晩の幻視は、明確な結末に見えた。けれど、この夢は違う。何かが、決定的に違う物だ。視えたのは――
「――……過去?」
何故だか、そんな気がした。ただの夢、意味のない悪夢だと断ずるには、どうしても気味の悪さが勝ってしまう。……そんな代物を過去だと感じた自分の感性を疑いたいが。
酷く、嫌な気分だ。口の中に、何故だか錆鉄の残り香が漂っているような感覚。吐き出すように、ため息を一つ。
……起きよう。
ああ、そうだ。ホームズも起こさなければ――
「…………?」
ぶるり、と寒さが肌を這う。布団に熱が一つ足りない。
「……ホー、ムズ?」
俺の隣に寝ているはずの彼女がいない。
……何処へ行ったんだ?
「先に起きてる、とか?」
声が微かに震える。心臓の拍動がやたらと耳に着く。しん、と静まり返った空気に、存外小さかった呟きが、はっきりと響いて消える。
無言で立ち上がる。春先の早朝。まだ空気は冷たい。
ひしひしと予感を感じ取っている。それを無視し続ける。そうしなければいけない。そうしなければいけない。それを認めてはいけない。絶対に。
「ホームズ……?」
部屋を出て、呼びかける。……返事はない。沈黙だけが漂っている。また、拍動がひときわ強くなる。
唐突に、耳慣れた着信音が鳴り響く。
振り向けば、枕もとのスマートフォンに電話がかかっていた。一瞬跳ね上がった鼓動を静めながら、通話に出る。
《おはようございます、統也様》
最近やっと耳に馴染んできた声によく似ていて、しかし決定的に違う声が耳朶を打つ。
「――桜田蒔苗……!」
《あら、バレてしまいましたか? 声は美緒ちゃんと一緒なのですけれど》
くすくすと、昨晩と変わらず悪戯めいた、それでいて裏に隠しきれない悪意がひしめく笑声。
「……一体なんの用だ?」
《少しお知らせしなければいけないことがありまして》
「知らせ?」
ぞわりと、背筋に冷たい感覚が奔る。
「…………先に聞いておきたいことがある」
《なんでしょうか?》
「俺と一緒にいた白猫の行方を知っているか?」
《――――…………》
沈黙。あの魔女は何一つ答えない。しばらくの後、く、と小さく喉を鳴らす音が聞こえる。
《――さぁ?》
「…………」
白々しい語調。一気に思考を沸騰させかけて――寸での所で踏みとどまる。落ち着け。恐らくは只の挑発だ。相手の詐術に乗るな。
ふっ、と小さく息を吐いて頭の中を整える。返答を選ぶのに時間は要らなかった。
「……知らないのなら、いい」
《そうですか。では、こちらの本題を》
「…………ああ」
一拍だけ間をおいて、言葉短く彼女は言った。
《ニュースを見なさい》
「何……?」
ニュース……? テレビのニュースだろうか?
《適当にテレビを付けてチャンネルを適当に変えれば大丈夫でしょう》
「待て。どういう意味だ、それは!?」
《言葉通りです。それでは、また》
ぶつり、と電話が切られる。……なんなんだ、あの女。ニュースを見ろ? テレビのニュースで、アレが何か嫌がらせができるとも思えないが――。
考えながら、食堂に向かう。……やはり、彼女の姿はどこにも見当たらない。
「……ホームズ」
何処に行ったんだ、お前は……。
もやもやとした思考を振り払うようにテレビを付ける。
《――県、雨衣市で、死体遺棄事件が――》
……雨衣市? 実家のある場所じゃないか。あんな田舎で死体遺棄とは、物騒な世の中になったもの――
《――被害者は、立木正俊さん、四十二歳と、立木加奈子さん、四十一歳夫婦で、息子の立木統也君、十七歳の行方が分かっておらず、警察は事件に関連性のあるものとして――》
――ドクン。
心臓が一瞬止まって、また動き出したような気がした。
よく朝に聞いていたニュースキャスターの声が、酷く冷たい音に聞こえる。息がうまく吸えない。ふらりと体から力が抜ける。
どさりという音が、自分が尻餅をついた音だと一拍遅れで理解する。
なんで、
急速に世界が色を失っていくのが理解できる。モノクロの光が、淡々と事実を羅列していく。
なんで、
音が水の中に溺れていく。耳へ侵入する音が、ことごとくその輪郭を失ってぐずぐずと曖昧になって、不快な泡の音に化けていく。
なんで、
ぼやけていく感覚の中、それでも鮮明に俺はそれを理解した。
死んだ。
「――……父さんと、母さんが、死んだ」
結論。
吐き出した言葉ははっきりと形になって、改めて俺の心臓の奥の奥に突き立った。
――ホームズ。何処にいるんだ。俺は、お前がいないと――
ホームズ:破:序へ
ホームズ:序:終
――――俺に、なにが出来るだろうか?
「ワトソンく――ッ!」
真っ暗な夜空に、輝くような紅が舞う。
深々と爪が首筋に突き立てられ、抉っていった。どくん、どくん、と頼りなくなっていく拍動と共に、血が流れ出ていく。
救いようがない。
色を認識できなくなっていく中、純白の彼女だけがはっきりと目に見える。
最低だったよ。ホームズ。
それでも、彼女の声は遠くへと濁っていく。雑音の代わりに無音が雑ざり、声を無意味な音へと腐らせている。
お前が信じてくれた俺という人間は、本当に屑だ。
思い切り影を蹴り飛ばして、必死に俺へと縋りつく。……そんな価値などないのに。
好きな女の子のために戦う覚悟さえ持てない、軟弱な人間だ。
体にもう力が入らない。見上げる夜空に輝く星は、色を失っても変わらずに煌びやかだった。
眠い。
視界が、霞んでいく。
忍び寄る影が、死神に見える。実際、それは死神の様な外見で、俺にとっては死神そのものだった。
――けれど、
右手が動く。右手が生きる。右手だけが、今、活きている。力一杯、木刀を振りぬく。方が砕ける。肉が裂ける。知ったことか。今動け。後なんざ、もう続かないのだから。出し惜しむ意味がないだろう。
ブーメランじみた挙動で、右腕と木刀が凶器に成り下がる。
腹の中身全てをぶちまける様に吐き出したのは、一体絶叫か、怒号か、真面目に吐瀉物なのか。
リンゴを思い切りバットでかっ飛ばすような異音とも快音ともつかない音を鳴り響かせ、影の頭が弾け飛んだ。
同時に、心臓が破裂する。思い切り吐いた喉は、大量の空気と胃酸でずたずたに焼き爛れている。
ざまぁみろ。
誰に叩きつけるのか。胸の中でそれだけ呟いて、
暗転。