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昔書いて没になった同人ノベルゲーのシナリオです。ある分だけ投稿します。
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「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
息が、荒くなる。
ぎしりと床が軋む。裸足の底に冷たい床が張り付く。窓のない廊下は完全に暗闇に覆われていて、左手に握る御守りの感触と、右手の懐中電灯の光だけが頼りだった。丸く照らし出された廊下には何もない。ただ不気味なだけの無色の雰囲気が自分を中心に沈殿しているのだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
また一歩。重い足を前に出す。恐怖が静かに身体を締め上げている。自分だけがこの空間に居る。そうでなければいけない。そうでなければありえない。誰もこの無駄に広い館に居るはずがないのだ。誰かが居るなんて話を、俺は一切耳にしてはいないのだから。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
大きすぎる拍動と吐息の音が脳髄をじりじりと焼き焦がしていく。頭がぼんやりとする。まともに思考が続かない。何故灯りの一つも見当たらない。何故扉の一つもない。何故、何故、何故何故何故何故……
疑問が浮かんでは泡が弾けるように消えて、また浮いては消える。そうして思考はだんだん堂々巡りになって、現実逃避の用さえ成さなくなってしまう。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
拍動がまたいっそう強くなる。御守りを握る掌にはじっとりと汗が浮かんでいる。かちかちと小さく歯が鳴っている。それでもぎしり、ぎしりと床を軋ませながら、一歩一歩俺は廊下を進んでいる。窓も、灯りも、扉すらない廊下を、頼りない懐中電灯の照らす行き先を目指して、歩き続けている。
――何故だろうか。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
――何故、俺はあの部屋を出たのだろうか。
理由はある。昨日から耳にする物音の正体を探るためだ。しかし、その物音はありえない筈だ。この屋敷には俺しかいない。俺以外のたてる音が、あっていいわけがない。それでは辻褄があわない。俺しかいないという話が成り立たない。ならば、俺以外の誰かがこの屋敷に居るのか。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
頭痛がする。眩暈がする。足を着いて歩く感覚が薄い。
ぐらりと視界が揺れている気がする。
気のせい。
ぐらりと、ぐらりと、視界がゆがみ揺れている気がする。
―――怖い。隠しようがないほどに足が震えている。
怖い。自分のたてる息遣いと、足音以外の静寂に他の音が紛れていそうで。
怖い。照らし出した先に、何か得体の知れないものを見つけてしまいそうで。
怖い。怖い。怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――
気が狂いそうだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ――」
上手く息が吸えない。それでも足を止められない。
進む。進む。どうしてか、立ち止まってはいけない気がする。進まなければいけない気がする。御守りを握ったまま左手を心臓の上に押し当てる。少しだけ、荒い息を落ち着かせることができた。……まだ、大丈夫だ。まだ進める。
ゆっくりと、また一歩踏み出す。そうしていると、段々頭が冷えていく。先程までの焦りが静まり、冷静に思考を巡らせる事ができるようになった。
「――ふぅ」
何の音も今夜はしていない。案外、昨日聞いた物音も空耳だったのかもしれない。
ぎしり。
床板が軋む。
きっとそうに違いない。自室は妙な部屋だったし、こんな立派な、ついでに言ってしまえば不気味な屋敷に住むなんて初めてだから、有りもしない音を聞いたのだろう。
この町にも引っ越してきたばかりだし、あまり気を滅入らせるのは精神衛生上よろしくない。あの部屋に引き篭もり続けるのも考え物だが、びくびくと怯えながらこの屋敷を探索するのも得策ではない。
明日は休日とは言え、夜更かししすぎて調子を崩すのは馬鹿だ。今夜はもう、大人しく部屋に戻るのが正解だろう。どうしてか後ろ髪を引かれる思いだが、そもそもこの探索自体空振りで終わってあたりまえの、無益なものだ。こだわる必要なんて髪の毛一筋だってありはしない。
引き返そう。そう思い立って、立ち止まる。
俺の足音が止まると、荒くなっていた息も治まっているだけに、余計廊下の静けさが耳に痛い。そうして、俺は気付いてしまった。
背後から、微かに音が聞こえている。
俺は、ゆっくり、ゆっくりと、後ろを振り返った――
フラグ判定「邂逅への一歩」所持で書斎0へ
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『ああ? 兄ちゃん、あそこに住むのかい? やめとけやめとけ! あそこはロクな噂がありゃしねえ。近くに誰も住んでないしな。……なあ、本当にあそこに住むのか? だったら気をつけな。あそこは、本当にロクな場所じゃないぜ』
『はい、あのお屋敷ですか? ……はい、確かにあまりいい噂は聞かないです。窓際に白い女の人影が立っていたとか、入り込んだ子供が行方不明になったとか。もっぱら、幽霊屋敷って呼ばれていますよ』
『うーん、辻桐屋敷? ああ、うん。確かにここを真っ直ぐに行った先だけど、何の用があって? え、引っ越すの!? あ、いや、その……なんでもない。まあ、頑張って。うん、頑張って』
「ロクな噂がないな、俺の引越し先……」
げんなりとした表情で、俺――立木統也は大きな洋館の前に立っていた。
周囲は黒々とした木々が生い茂り、話に聞いていたとおり、近所に民家は見当たらない。ひっそりとそこに重厚な雰囲気を纏って佇んでいるのだ。窓ガラスが割れているようなことはないが、ガラス越しに窺える部屋の中は生活感のない薄暗さに満たされている。
はっきり言って不気味だった。
時間は丁度昼時。頭上で太陽は輝いているというのに、何故か屋敷の一帯だけは妙に薄暗いと感じてしまう。黒い蔦に覆われた門には「辻桐」と記された表札があった。なんでも、昔この町で一番古い血筋だったそうだが、いつの頃からかぱったり途絶え、この屋敷はもぬけの殻になってしまったらしい。それ以来、この屋敷には不気味な噂が延々と着いてくるのだとか。
……成る程、幽霊屋敷だ。
小さく溜め息を吐き、門の鍵を開けようとして違和感を覚えた。
「…………?」
鍵が回らない。もしやと思い門を押してみると、小さく軋みながら、あっけなく門は開いた。壊れていたのかだろうか。鍵穴があったのだから、少なくとも鍵をかけられていたことは間違いないだろう。
……だとすると、何故この鍵を渡されたのだろうか。門の鍵と言って渡されたモノなのだから、少なくともこの門に使うものだと俺は解釈していたのだが。
首を傾げつつ門の中に入ると、また軋む音がした。
「――は?」
屋敷の扉が、ひとりでに開いた。――いや、正確にはひとりでに、ではない。家の中にいたものに開けられたのである。
ごくりと生唾を飲み込む。俺の視線は扉をあけたものに釘付けだった。
……何故なら、
「ようこそおいでくださいました、立木統也さま」
扉を開けたのが、メイド服姿の美少女だったからである。
「え、あ、ええと……?」
「お出迎えができず、申し訳ございません」
丁寧なお辞儀と共に、ふわりと短めの茶色い髪が揺れた。
「いや、それは別に良いんだが……あんた、誰?」
「申し遅れました。わたしは統也さまのお世話をさせていただきます、桜田美織と申します」
「お、お世話?」
「なんでも、統也さまは一人暮らしをするために家を出たはいいものの、家事含む自活能力は壊滅的だとか」
「……まあ、そうなんだが」
「そこで統也さまの新生活をサポートするため、桜田家より統也さまと歳が近いわたしが派遣された次第です。……お部屋へご案内いたします」
「ちょっ……」
それだけ告げて、彼女は踵を返して屋敷の中に入っていった。
置いて行かれてはたまったものじゃないので、大急ぎで駆け寄る。
「いや、確かに俺は家事とか絶望的だけど……流石に最低限はできるし」
歩きながら、彼女と言葉を交わす。彼女の言い分にはあんまり納得できなかったのだ。
「最低限では生活に困りますので、わたしが派遣されたのです」
「そもそも、なんで俺なんかのために世話役が来るんだ? 我が家は一般庶民の類だし、桜田はここら辺でも立派な血筋なんだろ?」
「元より、桜田家は辻桐家及び、それに連なる血筋に仕える家でございます。立木家も辻桐家の傍流である以上、お仕えするのは至極当然のことなのです」
「……要するに、昔からそういう風に過ごしているって話なのか?」
「その解釈で問題ありません」
事務的な返答を返して、再び桜田美織――落ち着いた雰囲気なので美織さんと呼ばせてもらおう――は沈黙した。気まずい沈黙から目を背けるように、俺は視線を彷徨わせた。
「……ここが統也さまのお部屋でございます」
ぴたりと一つの扉の前で美織さんは立ち止まった。
「廊下の突き当たり正面の扉が食堂、左手に階段、右手にトイレがございます。昼間はご自由に出歩いていただいてかまいませんが、夜中はトイレ以外の外出はお控えください」
「……?」
夜中に出歩くな? いったい何故?
「怪訝なお顔をなさるのも無理はないかと存知ますが、どうかご容赦ください」
「理由を、教えてくれないか」
「申し訳ありません。それはわたしには出来ません。当主より、一切の事情を説明するなと言い含められておりますので」
「…………」
なんだ、それは。意味がわからない。
溜め息が出る。どうにもこの屋敷は、不穏で不吉な何かを想像させてくる。
「どうしても、なのか?」
「はい」
短い、しかし有無を言わせない迫力を孕んだ返答だった。
「……わかったよ」
俺はその返答に恭順以外の選択肢を見出すことが出来なかった。
また溜め息が出てしまう。
「夜には部屋から出ない。それでいいんだろ?」
「はい。そのようにお願いいたします」
ぺこりともう一度頭を下げる。
「……昼食の準備をいたしますので、どうぞお部屋にておくつろぎください。鍵はこちらです」
エプロンのポケットから凝った造りの鍵を取り出し、手渡された。ひんやりと冷たく小さいそれは、くすんだ銀色をしていて、なんとも言えない凄みのようなものを感じた。
「換えはございませんので、無くさないよう管理してください」
「あ、ああ……わかった」
「それでは、昼食が用意出来次第お呼びいたします」
またお辞儀をして、すたすたと彼女は行ってしまった。
「……鍵付の部屋、か」
我が家の自室にはそんな上等な物はなかったな。
鍵穴に鍵をさして、回す。
かちゃり、と小気味のいい音をたてて、扉が開いた。
新しい俺の部屋がどんなものか期待しながら中を覗き込み、
「――――っ!?」
絶句した。
部屋は一人で住むには少々広かった。それでいて広すぎて落ち着かない、というワケではないのだから、絶妙な広さなのだろう。
家具も一目で上質なものとわかる、品の良い物が既に置いてあった。
しかし、それ以上に目に付いたのは、
「お札……!?」
壁一面どころか、天井にも、床にも、凡そ部屋の形を成す平面全てに貼り付けられた、札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札
札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札札……
「なん、だよ……これ……っ!」
立ったまましばらく俺は呆然とした。
そして我に返り、食堂へと転がり込んだ。
「み、美織さん!」
美織さんは俺がやって来たことに怪訝そうに首をかしげ、料理の手を止めた。
「どうなさいましたか、統也さま。それと、わたくしは美織と呼び捨てで構いませんが……」
「ああああの部屋、部屋っ……壁一面、べたべたべたべた札が……!」
「……ああ、お札の事ですか」
なんでもないように、美織さんは料理を再開した。
「どうぞお気になさらないでください。夜中に出歩かない事と同様、この屋敷の奇妙な習慣程度に受け止めていただければ問題ありません」
そこで一旦言葉を区切り、美織さんはまたこちらに視線を向けた。
「ですが統也さま。夜に出歩くこと同様、面白半分に部屋のお札を剥がすことは推奨いたしません」
「……それも、絶対?」
「はい。命が惜しくないのなら、無視してもらっても構いませんが」
「…………」
沈黙。
命が惜しいって……とんだ物騒な屋敷だな。冗談か? いや、それにしては美織さんの目は真剣だ。無表情な分、そういう目をされると迫力が出る。
「とにかく、余計なことをしなければいいんだよ……な?」
「はい。それが賢明だと」
「わかったよ。夜中には出歩かないし、お札も剥がさない。それでいいだろ?」
「そうですね。流石に死なれたらこちらも困りますし、寝覚めも悪いですから、是非ともそうなさってください」
「ところで、まさか本当に命が危ういってことは……」
「信じるかどうかは統也さま次第ですが、先ほどおっしゃられた事をしっかりとお守りくださることを心からお勧めいたします」
「……あ、はい」
駄目だな。どっちにしろこの顔をしてる美織さんに逆らえる気がしないし、逆らいたくも無い。
「もうそろそろで昼食が出来上がりますので、食卓に着いてお待ちください」
大人しく席に着き、そのままぼんやりと彼女の後姿を見る。
……あんまり表情は出さないけど、普通に――というかかなり可愛いんだよなあ。小柄だし。まあ、言動にちょっと起伏が無いというか、微妙に棘のようなモノを感じたりはするが、それを差し引いたって可愛いことにかわりはないし。
ああ、そういやこの子にこれからいろいろお世話してもらえるんだっけ? すごい好待遇だよな。いや、でもいまいち理由が分からない。
「なぁ、美織さん」
「はい」
「正直、よく分からないんだけどさ。なんで桜田の家はここまでよくしてくれるんだ? 確かに昔からの慣わしって言うのはあるんだろうけどさ、それって俺がこの町に来るまで廃れていたモノだったんだろ? 現に、辻桐家自体はもうなくなっていて、傍流しか残ってなかったんだ。その傍流の俺だってこんなにしてもらったのは、この町に越してくると決まった時からだしさ」
「はい。統也さまのおっしゃるとおりです」
「……じゃあ、なんでなんだ。なんで今更、こんなに世話を焼いてくれるんだ?」
「そういうものだから、では納得して頂けませんか
「…………」
その一言には、相変わらず抑揚はない。それでも、有無を言わせない迫力はしっかりと乗っていた。
無言が再び食堂を縛り付ける。ただ美緒さんが料理をする小気味の良い音と、空腹には辛いいい匂いが漂うばかりだ。
「……出来上がりました。配膳いたしますので、少々お待ちください」
端的に感想を述べよう。美緒さんは料理がとてつもなく上手かった。
「料理も出来ずに桜田の女を名乗るな、と常々教わっておりましたので」
そつなく後片付けもこなしながら彼女はそう言うが、名家と言われるくらいの家ならその手の仕事も使用人とかに任せていそう、というのは勝手なイメージだろうか。……流石に現代にファンタジーを持ち込みすぎかもしれない。
「本日のご予定はもうありませんので、統也様のお好きなように時間をお過ごしくださいませ」
さて、どうしようか?
部屋に戻る 部屋1へ
屋敷を出歩く 屋敷1へ
近所を散歩する 近所1へ
屋敷の裏を見る 蔵?1へ
部屋1
気味が悪い部屋だが、これから高校生活を送る以上はここで生活するのだから、慣れておくに越したことはないだろう。
「…………」
三百六十度、どこを見回しても大量の札が目に入る。……何か実害があるわけでもないだろうけれど、やはりいい気分はしない。そもそも、一体何のためにこれ程大量の札が必要なのか。
「いわくつき物件……をわざわざ俺に使わせるはずはない、か」
お世話になっているのだから、桜田の家というのが、そこまで非常識なところではないと思いたい。……既に信用ならないというのがなかなか悲しいが。
とりあえず、部屋の中に何があるのかくらいは一通り確認しておこう。
…………。
「……なんだ、これ?」
古めかしい箪笥の中から、奇妙なものを見つけた。
「御守り……だよな……?」
箪笥の中に入っていたのは、真っ黒い御守りだった。まるで焼き焦げたかのように紐まで黒くなっていたが、ボロボロにはなっておらず、むしろ丈夫にすら感じる。表面に文字が書かれていたのかもしれないが……これでは到底読み取ることはできないだろう。
「汚れてる……って感じでもないか」
ただこんな雰囲気の部屋にあった代物だ。もしかしたら、これがこの部屋のお札の原因なのかもしれない。
どうしようか?
持っていく フラグ「夜の招待状」
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元に戻す フラグ「不穏の香り」
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屋敷1
これだけ広い屋敷で、自分の部屋でじっとしているのもばかばかしい。探索してみよう。
「……しかし、暗いな」
歩いていて気が付いたが、この屋敷には妙に窓がない。お陰で採光がロクなものではなく、それを見越してかランプが設置されている。
「洋館らしいと言えば、らしいか……?」
あまりこういう建物には縁がないので、詳しいことは分からない。
しかし不気味だ。まだ昼だというのに、夜の中にいるような感覚に陥ってしまう。自室の件もあるから、尚更そう感じるのだろうか。どちらにせよ、あまり一か所にとどまりたくはない雰囲気だ。
「どこもこんなか、この屋敷」
そう考えるとげんなりしてきた。あまり扉も見当たらないし、部屋数も多くないのだろうか? 食堂の広さを考えるに、まず間違いなく一室一室がなかなかゆとりをもった造りなのだろうとは思うが……
「ん?」
ふと、奇妙な扉が目についた。
「…………鍵、か?」
ドアノブを雁字搦めにした太い鎖。それらに取り付けられた六つの錠前。その奥には扉本来のものであろう鍵穴も見えている。計七個。それだけの鍵がここを開けるのには必要なようだ。
……なんでこんな厳重に封鎖してあるんだ?
「そんなに物騒なモノが……いや、まさかな」
扉の奥の正体不明の何かを想像しかけて、それにストップをかけた。少なくとも、精神衛生上よろしくはない。
「引き返すか」
あまり扉のことは考えないようにしながら、俺は踵を返した。
フラグ「扉の向こうは?」
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近所1
……こう言ってはなんだが、この屋敷の雰囲気がどうも苦手だ。少し外を散歩しよう。
「お出かけですか」
玄関に行くと、美緒さんがひょっこりと出てきた。
「ああ、うん。腹ごなしの運動でもしようかと思って」
「健康的でよろしいかと思います。ですが統也様、あまり森に近づかない事をおすすめします」
「森? それって、屋敷の裏手に広がっている?」
「はい。あそこはそのまま山に繋がっており、餌も豊富ですので、蛇や野犬、酷いと時には猪や熊も降りてきます。熊鈴くらいは常備したほうがよろしいでしょう」
「……野生動物に襲われる、と?」
この町は田舎の部類だけれど、そこまでなのか……?
「用心にこしたことはありません」
美緒さんは表情一つ変えずにそれだけ言って、また後片付けに戻ってしまった。
……地元の人がそういうなら、森には近づかない方がいいだろう。
外に出ると、強い光が目に飛び込んできた。
「……どれだけ薄暗かったんだ、この屋敷」
軽くちかちかとする目を擦る。この薄暗さに目が慣れてしまったらと考えると、かなりげんなりとする。が、そもそもこれからここに住む以上はどうやっても慣れてしまうと気が付き、更にげんなりとする。
先行きが不安だ。
「…………参ったなぁ」
段々ここで生活するのが嫌になってしまった。
丁度そこにバス停がある。財布と携帯も持っている。
帰ってしまおうか?
帰る 自宅1へ
帰らない 近所2へ
蔵? 1
そういえば、屋敷の裏はどうなっているのか。食事後の散歩に出歩いてもいいかもしれない。
「お出かけですか?」
玄関に行くと、美緒さんがひょっこりと出てきた。
「ああ、うん。屋敷の裏がどうなってるのか、少し気になったので」
「屋敷の裏、ですか? 特に面白いものはなかったと思いますが……」
「ちょっと出歩くだけだから、気にしなくていいって」
「そうですか、ではいってらっしゃいませ」
外に出て、少しだけ目を細める。この屋敷の中が大分暗いので、外との明るさの差で眼が眩む。
毎回毎回眩しいのは嫌だな……
屋敷の後ろには黒々とした森が広がっているのは分かる。が、それがそのまま屋敷の裏に面している、ということはないと思うのだが。
「……ん? なんだあれ?」
ぐるりと後ろに回ると、予想通り庭と思しき空間に出た。その奥に、ひっそりとたたずむ建物。最初は離れかなにかかと思ったが、どうにも窓の類もなく、大きな扉一つきりしかない。
「……蔵か?」
呟きつつ何の気なしに扉に触れると――開いた。
「え?」
虚を突かれたまま、ぼんやりとその奥に揺らめく何かを見て――
……そのまま俺は死んだ。
バッドエンド1「蔵の中には」
教えて! 蔵子さん!1へ
自宅 1
バスが見慣れない町並みを通り過ぎてゆく。
結局、衝動的に乗ってしまった。我ながら後先考えなさすぎると今更ながら反省している。
とりあえずの問題は、親にどう言い訳をするかだ。流石にこんな我儘を通すことは無理だろうから、忘れ物でも取りに来たことにすればいいか? いや、ひょっとすると桜田の家から連絡が入っているかもしれない。既に屋敷を出て三時間、もうどうしたのかと思われる時間だろう。散歩と言い張るには長すぎる。
だとすれば、十中八九美緒さんは桜田家に連絡を入れているだろう。そういうことを怠るようにはどうしたって思えない。
「……大人しく平謝りだな」
溜息。そもそも、なんで俺はこんなガキじみたことをしてしまったのか。
頭を抱えていると、丁度家の近くのバス停だった。ブザーを鳴らして、しばらくぶりの我が家へ向かう。……最近はずっと向こうの宿だったから、この道を歩くのも久しぶりだ。
車は……二つともある。父さんも母さんも居るってことだ。
「……ただいま」
静かにドアを開いて――違和感。嫌な臭いが鼻についた。
異常に静かだ。文字通りなんの音もしない。靴を脱いで家の中へ。ドアがゆっくりと閉まる。
何か不穏なものを感じながらも、俺はリビングに入り――そしてソレを見た。
何の音もしない、というのは間違いだった。最初からきっとそれは耳に入っていた。ただ、それを脳が現実と認めていなかっただけだ。
「…………」
なんだ。これ。
黒い何かが蠢いている。それは何か。何か。
一歩よろめくように踏み出すと、それらはざわりと逃げ出した。
羽音と足音がはっきりと湧き出す。俺はその場にあるものを理解する。
「ヒッ――!」
大量の蝿と、ゴキブリと、蛆と、そして、そして――
腐ってる。腐ってる。腐ってる。腐ってる。ひとがたが二つ腐ってる。黒く変色した血を辺りにぶちまけて誰かと誰かが腐っている。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――ッッッ!」
絶叫。
…………腐ってる。腐ってる。
父と、母が、腐って、変わり果てて、そこに在る。
「ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ⁉」
叫ぶ。訳が分からない。なんで、なんで父さんと母さんが。
なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんで――――死んで――――
キィ、と小さく床が鳴った。妙に視線が低い。腐臭が強い。いつの間にか俺は膝をついていた。
俺は動いていない。動いていないのに音は聞こえる。
……それは、つまり。
ゆっくり、ゆっくり、俺は後ろを振り返った――
バッドエンド2「両親」
教えて! 蔵子さん!2へ
近所2
フラグ判定「彼に託す想い」「彼が託す想い」両方所持で近所3へ
「……止めたほうがいいよな」
というか、流石にそれは我儘が過ぎるというものだ。ここまでしてもらって勝手に家に帰る、というのは不義理だし失礼だし、余りに常識がないだろう。
美緒さんに言った通り、大人しく散歩でもしよう。
今日はよく晴れている。ここらは何もないが、歩くだけでも十分清々しい気分になれる。
そう言えば、森には近づくなと言っていた。猪や熊と出くわすと危険だから、ということだったが……
「……本当に出ても違和感はないな」
鬱蒼とした、という表現が実によく似合う、大きな森だ。屋敷の後ろに広がっていた。
正直、猪や熊どころか魑魅魍魎の類でも潜んでいるような、そんな雰囲気がある。近くには民家は少ないようで、人が出歩いている様子もない。特に柵やそれに準ずるものもなく、少し道から外れれば簡単に森の中に入っていけそうだ。
まあ、流石にいかにもな香りがするところに自分から突っ込んでいくことはしないけれども。
「ゲー」
「うん?」
奇妙な音、というか鳴き声。
怪訝に思って聞こえた方向へ視線を向ければ、
「ゲー」
カラスが一羽。真っ直ぐにこちらを見て、奇妙な鳴き声をもう一度あげた。
「……なんだ、お前」
「…………」
特に意味のない問いかけに、カラスは何か答えるわけもなく、やけに人間じみた視線を寄越した後、何処かに飛び去ってしまった。
「本当になんなんだ……?」
フラグ「奇妙な声」獲得
共通2へ
共通2へ
食堂に戻るころには、とっぷりと日も暮れて、すっかり夜になってしまった。
「おかえりなさいませ、統也様」
相変わらずのメイド姿彼女はぺこりと頭を下げた。
漂ってくるいい匂いから察するに、夕飯を作ってくれたようだ
「ただいま、美緒さん。何か何まで悪いね」
「構いません。貴方様のお世話をするのがわたしの役目ですから」
「いや、それでもだって。俺が何もできないのは本当だし」
と、そこまで言っていいことを思いついた。
「美緒さん」
「はい」
「俺に家事を教えてくれないか?」
「家事、ですか?」
「ほら、俺が家事を覚えて家の事が全部できるようになれば、美緒さんはわざわざ辻桐屋敷に来なくたっていいんだろ?」
「はあ……」
「だったら俺も家事を覚えられて一石二鳥じゃないか。頼むよ」
見た感じ女子高生な彼女だ。流石に家の命令だからと言って、俺みたいなずぼらな男子高校生の面倒を見るのは嫌だろう。俺だったら嫌だ。
「統也様が家事ができるようになったとしても、わたしは貴方の監視にやってきますが」
「え、そうなの?」
「家事の代行というのも目的のうちですが、より優先するべきなのがどちらかと言われれば、監視の方が優先すべきな程度には」
「初耳なんだが」
「言っておりませんので」
ドライだなー。
まあ、それはさて置いて、
「監視?」
「正確には監督ですね。初の一人暮らしに統也様が興奮し、調子に乗った振る舞いをしないか、自堕落奔放になって学業を放棄しないか。ざっくりとそんなところでしょうか」
「信用ないな、俺」
ちょっと悲しくなって来た。
「そろそろ夕飯にいたしましょう。配膳いたしますので、どうぞお席についてください」
「あ、はい」
……
やはり美緒さんの料理は美味かった。
「面倒見てもらわないってのは抜きで、家事を教えてもらうってのはできないか? 俺も料理なんか興味はあるし、手伝えれば負担も減らせるし」
「そうですね。別に統也様が家事を覚えてなにか不都合があるワケでもありません。お暇なときに教授させていただきましょう」
フラグ「メイドとの約束」獲得
共通3へ
共通3
てきぱきと後片付けをした後、美緒さんは帰ってしまった。
「お一人でのご就寝が怖いのなら、呼んでいただいて構いません。もっとも、辻桐屋敷の新しい主は、さっそく桜田の娘を手籠めにしたようだ、などと町中でうわさされても構わないのでしたら、なのですが」
脅し文句なのか、そんな言葉を残されてしまっては、引き留めることなんか当然無理なわけで。
「……無理言って泊まってもらった方がよかった気がするな」
そうなれば、この壁一面どころか床も天井も札に塗れた部屋で俺は寝なければいけないわけだ。
流石に気味が悪い。それこそ、俺一人だけこの屋敷で寝泊まりするのを躊躇う程度には。
だからと言って他に泊まるアテがあるワケでもなし、どうしたってここで寝るワケなのだが。
「……眠れない」
布団に入っても、一向に眠気は来なかった。
疲れてこそいるはずなのだが、驚くほどに眠くない。本当にぐったりと体を布団に投げ出しているだけだ。それに心地よさが追随しないのが、またうそ寒い気分になるだけなのだが。
「…………」
途端に、薄暗い不安が胸の中に湧き始めてくる。
……これから、俺はうまくやっていけるのだろうか。
少なくとも新天地での生活、しかも割と無謀な独り暮らしだ。今になって思えば、よく家事能力も壊滅的な身で言い出せたものだと思う。
なにかしらあるのだろうが、美緒さんは無愛想ながらよく面倒を見てくれているし、子の部屋も少々不気味だということ以外は快適だ。不気味、というのも結局離れの問題だろう。もうしばらくこの部屋で過ごせば、きっと気にならなくなる……はずだ。
だから不安はない。
友達ができるかどうか、とか、そういうのにも特に不安はない。
なにもない。不安は、なにもない。
「……………………」
なのに、どうして――
――ピチャン
「――」
息が詰まるような感覚。
全身の毛穴が一気に開いて、冷や汗が流れ出す。
口を開けない。息ができない。動機だけが、ばくばく、ばくばくと激しくなり続けている。
背中を濡らしていく冷たい汗が気持ち悪い。先程までなんとも思わなかった部屋中の札が、途端に存在感を増してこちらを圧迫しはじめる。
くらくらと視界がゆがみ始める。
駄目だ。駄目だ。これは駄目だ。考えては駄目だ。これが何かを考えては駄目だ。
がばり、布団を被って目を閉じる。耳をふさぐ。
そんな俺の行為を無視して、思考は勝手にめぐっていく。
あれはなんだった。
水音だ。
どこから聞こえた。
どこか遠く。けれど屋敷の中だ。
誰が鳴らした。
俺じゃない。
この屋敷に誰が居る。
俺しかいない。
なら、なら――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――この屋敷は、俺以外に誰か居る。
「…………っ」
心臓を氷水の中に落としてしまったような心地だった。
考えたくない。
だけれど、無慈悲に脳は考え続ける。
誰が居る。
少なくとも美緒さんからそんな話は聞いていない。
では、誰が。
彼女も知らない誰か。あるいは、彼女は知っている誰か――
「――誰、だ」
小さく、俺は呟いていた。脳裏に浮かんだ答えを掻き消すように。
「誰なんだよ……」
フラグ「異変の足音」獲得
共通4へ
共通4
気が付けば朝になっていた。朝、といっても部屋に扉がないので、時計を確認してやっと理解できるのだが。
「……なんなんだよ」
目元を手で覆う。眠気がずっしりと瞼にのしかかっている。
溜息を一つ吐き、のそのそと布団から這い出す。今日は学校だ。一寝入りするわけにもいかない。
洗面所で顔を洗う。……少しだけマシになっただろうか。体感ではそれ程差を感じられない。身だしなみは整えなければいけないし、やるだけマシではあるのだろう。多分。
そうこうしてるうちに、呼び鈴が鳴った。
「おはようございます」
昨日と変わらぬ無表情で、桜田家のメイドはやってきた。
「……そのお顔では、昨夜はあまり眠れなかったようですね」
「…………美緒さん」
特に気にしていない様子で、彼女は淡々とそう告げる。
「そうですね、今晩はわたしも泊まりましょうか。まあ、噂をされることは了承していただかなければいけませんが」
「美緒さん、真剣な話をさせてくれ」
「…………」
昨日とは違う声のトーンに、彼女が気が付いたのだろう。
何も言わずに真っ直ぐに此方を見た。それを肯定と受けとって、俺は問いかける。
「この屋敷に、俺以外に誰かいるのか?」
「…………」
沈黙。
「……答えて、くれないか」
「…………いませんよ。この屋敷には、統也様しか居ません」
彼女は静かにそう言い切った。
だとしたら、今の間はなんだ。
だとしたら、昨晩のあの音はなんだ。
「何か知っているのか?」
「いいえ、なにも」
……いけしゃあしゃあと、彼女はそう言い切った。
「さ、早くお着替えください。今日は学校ですから、あまりゆっくりはできません」
「…………」
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目新しい通学路は、今日に限っては心を躍らせる役には立ちそうにない。
「…………」
黙々と歩きながら思案する。
きっと、あの言いつけと何か関係があるのだろう。夜に出歩いてはいけないという、辻桐屋敷のきまり。
……正体不明の何かが出歩いているとしたら、別段おかしい話でもないのか。
だとして、黙ってあそこに居続けたくはない。いつその「何か」が俺の部屋に踏み込んでくるか、わかったもんじゃない。
どう対策すべきか。そも、あの屋敷にとどまるべきか、否か。
「統也様」
「……美緒さん」
唐突に、今もっとも警戒しなければいけないだろう相手から声をかけられ、俺は戸惑いつつ振り返った。
俺が朝食を食べ終わった後、手早く片づけを終いにして家に帰ったハズだが――
「学校ではどのようにお呼びいたしましょうか」
「…………」
見慣れたメイド服ではなく、俺の着るそれとよく似通ったデザインの制服を身に纏って、桜田美緒という少女はそこにいた。
「…………」
「統也様?」
「あ、ああ、うん。はい。ええと、なんでしたっけ……?」
「何故敬語ですか。ちゃんと話は聞いてください。学校でなんとお呼びすればいいか、という話です」
……ああ、そうだよな。俺とそう年が変わらないように見えるのなら、当然この人も高校生だよなぁ……。なんでこんなに動揺してるんだ、俺。
「あー……、美緒さんはなんて呼びたいんだ?」
「別段ありません。これまで通り「統也様」とお呼びすればいいでしょうか?」
「いや、統也でいいよ。様づけ自体くすぐったいのに、学校でまでなんて流石につらいし」
「そうですか、ではそのように」
「敬語もやめてくれ。というか、中々聞けなかったんだけどさ」
「はい」
「美緒さんって何年生?」
「高校一年生ですが?」
「同学年かよ!」
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自己紹介も終え、俺はぐったりと自分の席でつっぷしていた。
「大丈夫?」
「大丈夫……」
淡々とした調子で聞いてくる美緒さん(まさかのクラスまで一緒だった)に、弱々しい調子で返しつつ、俺は遠い目をせざるを得なかった。
「まさか、クラス中の男子から怨嗟の視線を向けられるとは」
「まあ、これ程の美少女と同棲していれば」
「自分で言うのか、それ……」
というか、バレてるのか。つまりこれからずっとこの調子なのか。
現実逃避気味に窓の外へ視線をやる。
あはは、空が青いや。
……強めの日光が、やたら目に染みた。
「何かやることはあるの?」
「ない」
「それじゃあ帰りましょう」
「ああ……」
今日は入学式しかないので、このまま帰るだけである。
正気に返ってみれば、既に教室には俺と彼女の二人きりだった。
というか、既に軽く昼を回っていた。
「……今日は昼前に終わる日程じゃ?」
「あなたが心地よさそうに寝ていたので、待ってあげたわ」
マジか。
「随分寝不足の様子だったけれど、そこまで緊張していたの?」
「まあ……それで間違っちゃいないか。つか、あんたはそんな事――」
聞かなくたって分かるだろ、という続きを噛み殺して俺は席を立った。
……どうせ、彼女に言ったところで無駄だろう。
「…………」
それを知ってか、彼女も無言のまま。
誰もいない校舎を二人で歩く。出口までの短い時間、気まずさだけがきりきりと胃を締め上げていく。
「……あ」
「――」
小さく、美緒さんが声を上げて立ち止まった。
「あなたも残っていたの?」
「――ああ。後ろにいる彼が?」
「ええ。辻桐屋敷の新しい主よ」
美緒さんとは別のベクトルで静かな声。
彼女の楚々とした美人さではなく、凛と冴えた綺麗さのもう一人。
長い艶やかな黒髪をポニーテールに結い上げた、長身の美少女はちらとこちらに一度だけ視線を寄越して、そしてまた美緒さんに視線を戻した。
「……うちの方に顔を出すのか?」
「出したほうがよろしい?」
「いや、聞いただけだ。別に用がないのなら、無理に来なくていい」
それだけ言って、彼女は踵を返して行ってしまった。
「……彼女は?」
「社真琴。この町の神社の家系――その娘よ」
「面識、あるんだな」
「実質桜田がこの町を取り仕切っているようなものだから」
メイドなんてしてたけど、そういや権力者の娘だったな、この人。
「その後継者同士で面識があっても、おかしくはないでしょう?」
「まあ、そうなんだろうな」
よくわからないなりに分かった。
しかし、彼女のあの目。
一瞬だけ俺を捉えたあの視線。
なぜ、あんなにも悲しそうな眼をしていたのか――
フラグ「彼女の視線」獲得
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「夕飯はなんにいたしましょうか」
「手伝っても失敗しないもので」
「ではカレーにいたしましょう」
夜。
俺は美緒さんと一緒にキッチンへ立っていた。
「最初からレベルが高くないか?」
「カレーごときでレベルが高いなどとぬかす統也様の自活能力の方が、余程問題だと思いますが?」
そうだろうか。
「ほら、野菜を洗うのくらい手間取らないでください」
「むう」
丁寧に、かつ素早く美緒さんは野菜の泥を落としていく。うまいものだ。
一方の俺は……時間をかけているのにもかかわらず、野菜の表面の泥はあまり落ちていなかったりする。
「…………才能の差か」
「経験の差です」
ばっさりだった。
……
出来上がったカレーライスは、中々においしかった。
……おそらく、俺の努力はなんらそのおいしさにプラス出来ていないのだろうが。
「今夜はいかがいたしますか?」
「泊まるかどうか?」
「はい」
「……別にいい。俺一人で大丈夫だ」
「そうですか。では、そのようにいたします。おやすみなさいませ、統也様」
「おやすみ、美緒さん。……夜道には気を付けて」
「はい」
彼女は静かにおじぎをして、帰っていった。
「…………」
いなくなったのは人一人。それでも、ふたりきりだった食堂からは、随分と温かみがうせてしまったように感じる。
……部屋に戻ろう。
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共通7
「…………」
結局、俺はどうするべきなのか。
大人しく部屋で布団にくるまっているべきなのだろうか。それとも――
『――夜は――』
――それとも、いいつけを破ってでも知るべきなのか。この屋敷に、何が潜んでいるのかを。
耳の奥、美緒さんが料理をする時の、小気味いい包丁の音を思い出した。
目の奥、校舎で見た少女の、悲しげな瞳を思い出した。
脳の奥、昨夜刻み込まれた、形のないおぞましさを思い出した。
俺は……どうする?
探索する 屋敷探索1へ
寝る 自室1へ
盗んだバイクで走り出す ネタ1へ
屋敷探索1
ぎしり。床が軋む。
扉を開ければ、目の前には暗闇があった。
顔のない暗闇だけが、空間全てに満ちていた。
フラグ「邂逅への一歩」獲得
フラグ判定「夜への招待状」所持で共通0へ
フラグ「不穏の香り」所持で選択肢へ
所持していないなら暗闇1へ
書斎0
「…………扉?」
はて、そこにそんなモノがあっただろうか。なんて首を傾げつつ、俺はドアノブに手をかけた。
ふと、考えこむ。
待て。待つんだ立木統也。
音は何処から聞こえた? 背後から。
背後には何があった? 扉が。
では音は何処から聞こえる? 扉の奥から。
「…………」
こうして振り返ってみると、よくもまああっさり開けようとしたものだと頭が痛くなる。とりあえずやってしまおう精神というのはよろしくない。実によろしくない。主に危機管理的な観点から。
で、結局のところどうするのかと言うと、
(――開けるんだけどな)
がちゃり
さわ、と頬を風が撫でていく。
その光景を目に入れた刹那――俺は停止した。
四角く切り取られた夜空。その真ん中に浮かぶ満月。風にさらわれて空を舞う桜の花弁。
それら全てを背景にして、彼女はそこに居た。
月光を編んだような、煌びやかな白の長髪。神秘的な雰囲気を湛えた銀の瞳。処女雪の様に美しい白い肌。ついでに猫耳。少女としての初々しさと、大人としての艶やかさと、それら全てをぐちゃぐちゃに引き裂いてしまいそうな、それこそ冒涜的な美しさ。
あり得ないものが、現実感を喪いそうな程に危うく、されど現実に同居している。
白い指がはらりと文庫の頁をめくっていく。長い白髪が揺れる。つい、と視線が手元からこちらに移り――
「――――」
「…………」
――静かに、それでいて嬉しそうに、確かに彼女は微笑んだ。
「はじめまして、ワトソン君。そしてようこそ。この素敵な夜へ」
ざわり、声に撫でられて、肌が泡立つ。
綺麗な声。
宝石の弦をつま弾けば、こんな音が響くのだろうか。
風が強くなる。音が息を吹き返した。どっと、心臓が拍動を取り戻した。肉体が重力を再認識した。視界が急激に明瞭になる。
希薄だった思考が濃度を増す。俺が俺を取り戻す。
……脳の運動自体は在った。目の前の光景を受信し理解するのにリソースを割きすぎて、俺の思考が霧散していた。そう錯覚出来るほど、目の前の彼女は綺麗だった。
あるいは、この認識は錯覚でも何でもなく、事実なのかもしれないが。
「――君は誰だ?」
問う。
暴力に等しい美しさからの覚醒は、俺に俺がこの屋敷を彷徨っている理由を思い出させた。
「シャーロック・ホームズ」
返答。
割と意味不明なその返しは、俺に軽からぬ混乱へ陥れた。
「……すまない、もう一度言ってくれ」
「シャーロック・ホームズ」
「…………マジ?」
「冗談だけど?」
「デスヨネー」
そりゃそうだ。
「……で? あんた結局誰? というかなに?」
猫耳生えている時点で人間じゃあなさそうだ。雰囲気が想像以上にゆるゆるで緊張するのも馬鹿らしくなっていた。
ぱたんと文庫本を閉じて、それを彼女は傍らに置いた。表紙の題名は、「シャーロック・ホームズの冒険」。…………あれか。本の登場人物と自分を重ねやすいタイプなのか。
「さぁ?」
「分からないのかよ!?」
「というか、思い出せないのよ。記憶がないから」
「記憶がない?」
「ええ。気が付いたらここに居て、ただぼーっとしていたり、猫の真似してにゃーにゃー鳴くのもなんだから、月を灯り替わりにして本を読んでいたのだけれど、」
なかなかいいものね。そう言って、彼女はくすくすと笑った。
どこかその笑顔にくすぐったいものを感ながら、質問を重ねる。
「……ずっとここいたのか?」
「ええ」
「じゃあ昨日の夜の物音も?」
「……? 昨日の夜?」
「ああ。なんか、水っぽい音をたてていたのも――」
「――それは心当たりがないのだけれど」
――!?
「……嘘だろ?」
「嘘なんてつかないわ。大体、この書斎からあなたのいる部屋?まででは、そんな音は簡単に届かないでしょう?」
…………確かに。なら、あの音は一体――
「ねぇ」
「うん?」
ちょいちょい、と肩をつつかれて、俺は意識を引き上げた。
「あなたはその音の正体を探しているの?」
「ああ、そうだ」
「なら、わたしと組まないかしら?」
「お前と?」
怪訝そうに、俺は彼女の顔を見る。
少しだけ面白がるような、それでいて心の底から楽しそうな笑顔を見せて、彼女は言葉を続けた。
「ええ。わたしもわたしの記憶を探しているのよ。さっき言った通り、ここの本は全部読んだのだけれど、手掛かりは一つも手に入らなかったわ。まあ、本は読んでいて楽しかったから、損ではないけれど、」
それでも、自分にあるはずのものがなかったら、気になってしまうでしょう?
うんうんと自分でうなずきながら、彼女は言葉を続ける。
「だから、二人で協力しながら探すのはどう? きっと一人ぼっちで探すよりも、何倍も見つけやすくて、何倍も楽しそうでしょ?」
月光を反射してか、それとも期待感からか、キラキラと輝く瞳から俺は目を離せなかった。
「ねえ、どうかしら。ワトソン君」
「ワトソン?」
「あなたのことよ。名探偵ホームズの助手は、ワトソン博士と決まっているでしょう?」
「……ああ、なるほど」
さっきの最初の名乗りの通り、彼女は自分を小説のキャラクターになぞらえているのか。
彼女は(自己申告の通りならば)記憶がない。彼女にとって、この書斎で読んだ本の内容は、紛れもなく彼女自身なのだろう。
思案する。彼女の提案は悪くない。どころか正直ありがたい。少なくとも一人で得体のしれない何かに立ち向かうという事はなくなったし、二人なら一人の時よりも格段に多くの物に気づくことができるだろう。それに――
「分かった。二人でやっていこう。ホームズ」
「ええ。楽しい冒険になりそうね、ワトソン君」
――確かに、一人より二人の方がきっと楽しいだろうから。
フラグ「怪異少女の冒険」を獲得
共通8へ
選択肢
そういえば、箪笥の中で黒い御守りを見つけた。
持っていこうか?
持っていく 御守り1へ
持って行かない 暗闇1へ
御守り1
フラグ判定「奇妙な声」所持で御守り2へ
箪笥の中から御守りを手に取る。
相変わらず真っ黒だ。
「なんでこんな色してるんだか……」
少々ぼやきながら、懐にしまおうとして、違和感を感じた。
何か……動いているような――
ばつん
「――――」
熱い。
冷たい。
痛い。
なにがなんだかわからない。
「ギ――」
喉が軋む。
視界が眩む。
痛い。痛い。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!」
声にならない絶叫が上がる。
生暖かい何かが外に流れ出していく。
赤い、赤い、赤い。なんだ。なんだこれは
赤い。熱い。俺から流れ出ていくこれは―――――
血だ。たくさんのたくさんの血。
それじゃあ、この血はどこから?
……とっくに俺の脳はそれを理解している。俺の眼球は涙に歪みながらも克明にその現実を映し出している。
ただ、余りの痛みに俺の意志はその現実を認識することができなかった。その喪失を、俺は直視できなかった。
血だまりの中、赤色に染められることなく御守りが蠢動した。
――ない。
御守りを握っていた方の手が、手首の先からごっそりとなくなっている。
ゆらり、と黒い影が血だまりの中に立っていた。
そうして影は、ゆっくりとこちらに手を伸ばして――
「――あ」
暗転。
バッドエンド「すぐそこにある影」
御守り2
何故か箪笥が気になるので、探ってみよう。
「……?」
真っ黒い御守りが出てきた。
……ご利益あるのだろうか、これ。とりあえず持っていこう。
フラグ「夜への招待状」獲得
共通0へ
暗闇1
突然何かに引きずり倒される。強い力に逆らうことができないまま、したたかに体を打ち付け、うめき声をあげる。
――重い。途方もなく、体が重い。
「――」
なんだ、と言おうとして、声を出せないことに気が付いた。
何かにぎりぎりと体を締め上げられているように、息が詰まる。
ひゅうひゅうと喉が鳴る。
真っ暗な暗闇の中、何かが俺の顔を、見下ろすようにのぞき込んでいた――
バッドエンド「暗闇の中に」
共通8
小鳥のさえずりと、スマートフォンのアラームを目覚ましに、布団から起き上がる。
……この部屋には窓がない。日差しのない朝と言うのは、二度迎えたくらいでは慣れることはできそうになかった。
起き上がろうとして、ふと体の上の重みに気が付く。
「…………」
「…………」
白猫が一匹、体の上で丸まっている。
……まさか、
「ホームズ?」
「みゃあ」
目を閉じたまま、ふてぶてしい雰囲気で一声鳴いて、また白猫は寝る大勢に入った。
「すまんが、退いてくれ。今日は学校だからこうして布団の虫になっているわけにも……」
「みゃぁ」
ぺしぺしと前足で腹をたたかれた。
「退く気はないのか……」
仕方ないで無理矢理布団を引っぺがして起き上がる。
猫――ホームズはころころと転がった後、綺麗に立って不満げにこちらを見ている。
「みゃあ」
「いや、そう睨まれてもしょうがないんだが……」
「だからといって、振り落とすのは酷いんじゃないかしら?」
ぽん、とわざとらしい煙と効果音のあと、ホームズはふくれ面で腕を組んだ。
「だから学校だ」
「寝不足なのよ。二度寝に付き合ってくれたっていいじゃない」
「そういうわけにもいかないんだよ。ほら、着替えるから出てけ」
「あ、ちょっと――」
ぐいぐいと彼女を部屋の外に追いやって、ようやっと着替えられる。
「まったく――」
ため息交じりに、昨日の夜を思い出す。
『――それで、お前はどうする?』
『どうするって?』
俺の問いに、ホームズは小首をかしげた。
『いや、今日はこれ以上起きていると明日きついから、もう部屋へ戻ろうと思ってるんだが、そういえばお前はどこで寝るんだろうなと』
『勿論ワトソン君の部屋にお邪魔するけれど』
『は?』
『? 何かおかしいこと言ったかしら?』
『いや……いやいやいや、そもそもなんでそうなった!?』
『仕方ないでしょ? この屋敷、なにか善くないモノがうろついているみたいだし、一人で寝るのは、あなただって心細いでしょう? なら、二人で寝るのが合理的じゃない?』
『…………』
そういう問題じゃねえぞ、おい。
『まあ、断るというなら……』
『……いうなら?』
『わたしの超高度な推理の果てに、断罪の猫パンチが火を噴くわ』
『完全に物理じゃねーか!』
ホームズの名が泣くような発言だった。
……結局、布団の中に入らない、猫型になれるなら猫型で寝る等、幾つかの条件付きで同じ部屋で寝ることを許可したわけだが。
「見た目だけは完璧なんだよなぁ……」
話せば話すほど残念になっていくが。
しかし、今日も学校か。恐らくは休日以外のこの屋敷の探索は夜がメインになるだろうが、俺は学生の身。本文は学業だろうと言われればそこまでだ。当然、夜更かしのし過ぎでそんな小言を言われるような事態になってしまうことは極力避けるべきだ。
中学時代は一応勉強と習い事(部活ではない)の両立は出来た。なら、これからの生活も同じようにこなして行けるとは思うが、如何せん探索にどれだけの時間を割くべきなのか、まだ判断が付かない。
そもそもの優先順位だって――
と、そんな考え事をしつつ着替えをしていると、背中に視線を感じた。
「……ホームズ?」
やれやれ、早速言いつけを守らないのか。
どう説教、もとい説得しようかと思い後ろを振り返る――
「――ヒ」
影が居た。
ぼんやりとした、人型にも見える黒い影。
それが、何もない顔を真っ直ぐにこちらへ向けて居る。
「あ、ぁ……」
喉が引き攣って声が出せない。体がこわばって、逃げ出すことも出来ない。
ただ眼球は、克明にこの異常な光景を網膜に焼き付け続けている。汗腺は大きく広がり、冷たい汗がじっとりと全身から噴き出していく。
ゆっくり、ゆっくりとそれは近づき、こちらに手を伸ばして……幻のように掻き消えた。
呆然としたままそれが立っていた床を見ると――その存在を誇示するように、黒い御守りが落ちていた。
「……なんだったんだ?」
少しだけ躊躇しつつも、御守りを拾う。
昨日、部屋に戻った時に元の箪笥に戻したはずなのだが……
「…………」
温度なんてないはずの御守りが、妙に生暖かく感じた。
共通9へ
共通9
「それで、どうしたんですかこの猫は」
「……えーと、だな」
「はい」
朝食前。俺は美緒さんの前に正座する羽目になっていた。ホームズも律義に隣で正座をしている。……無駄にきりっとした表情ヤメロ。
どうにも、彼女は美緒さんからは、人の姿でも猫の姿でも、一律猫に見えているようだ。
……まあ少女に見えるよりかはマシだろう。今現在で言い逃れが出来ていないのだ。
いきなり一人暮らしが少女を囲いだしたと思われたら……
(まあ、ぞっとはしないだろうな)
とにもかくにも、ごまかさなければ。
「昨日軒下で震えていてだな」
「そんな猫は見かけませんでしたが?」
「……いつの間にか部屋の中に上がり込んでいてだな」
「統也様の部屋に、窓の類はないはずですが?」
「…………書斎に居ました」
「……書斎?」
「はい」
「…………つまり、いいつけを守らなかったと」
「……………………はい。ごめんなさい」
「いいえ、統也様がお謝りになることは御座いません」
そう彼女は言っている。その言葉通り、声音も実に穏やかなものだ。
だが――この首筋にのしかかる、尋常じゃない圧はなんだ……!
「ただ、そのせいで統也様に万が一――そう、万が一なにかがあった場合、まず統也様の自己管理能力の低さから始まって、続いてわたしの監督不行き届き、更には我が桜田家の教育不足にまで責任が及びますが……実に些細な事ですから」
「本当に申し訳ありませんでした!」
躊躇いなく俺は土下座した。
「分かっていただけるならよろしいでしょう。――それじゃ、朝ごはんにしましょ?」
うんうんと頷き、それから少しだけ彼女は微笑んだ。
学校にいるのと同じ優しい雰囲気。……修羅は去ったか。
「ところで、その猫の食事はどうするの?」
「……美緒さん。魚とかあったら焼いてくれないか」
「そうね。丁度塩鮭があるから、それにしましょうか」
優しく派遣メイドさん(制服ver)に背中を撫でられ、ホームズはゴロゴロと喉を鳴らした。
とても穏やかなその様子を見て、心を和ませつつ俺はそれなりの罪悪感を抱いた。
ごめん美緒さん。俺は今夜も、その言いつけを破るんだ。
……
二人で黙々と歩く通学路。あのにゃん公は飯を食うだけ食って丸くなって寝てしまった。いい御身分なことだ。
本人曰く、「夜への英気を養うため」らしいが、俺はそんなことができるわけもない。居眠りなんてした日には、一体何時間小言を言われるのか。まだ初めて会って三日ばかりの関係ではあるが、彼女の性情の把握には、正直なところ一日もあれば十分だろ言う。そんな彼女が俺が学校をさぼることを許すはずも当然ないわけで、あの居心地の悪い教室に半分強制的にその元凶によって連行されるのである。泣きたい。
この世の身分格差に想いを馳せていると、昨日見たばかりの後ろ姿が視界に映った。
「…………あ」
「おはよう、真琴。今日はゆっくりの登校ね?」
「ああ、おはよう。……そちらの――」
ふと考えるような仕草。そういえば、まだ名前名乗ってなかったな。
「立木統也だ。おはよう、社真琴さん」
「おはよう。…………すまないな。昨日のうちに名前は聞いておくべきだった」
「気にするな」
「ありがとう。そういってくれると気が楽だ」
少しだけ笑み、直ぐにその表情を消して彼女は俺に問いかける。
「……新しい場所での生活は何かと大変だと思うが――何か、不自由はしてないか?」
静かな語調。内容も平々凡々。しかして、そこに隠しきれないよどみがあるように感じるのは錯覚か、俺の心根がそれはもう取り返しがつかない程に捻じれきってしまっているのか――或いは真実そうなのか。
……事実は、されど無力なり。
「……至って快適だよ。優秀なメイドさんもいるしな」
それを口にする必要はない。それを求められてはいない。桜田の家――もしくは彼女個人は、その事実を認めていないのだから。
「――」
しん、と沈黙と緊張が一瞬だけ蔓延し、
「ならいいのだが……あまり遠慮はするなよ?」
「ああ。同級生だし、俺は新参者だ。本当にキツイなら頼らせてもらうさ」
弾けるように平穏が戻る。
やはり知っているか。……当然。彼女は桜田に近しい家柄の出身だ。美緒さんがあの屋敷に関する何かしらを知っているとして、それはまったくおかしい話じゃない。その上で、彼女は俺をどうしたいのか、そこが問題だが……見た感じでは、本気で安心しているようだ。
一応は美緒さんも俺の安全には気を使っているように、彼女も俺に特に何か危険な目にあって欲しい、というわけではないのだろうか。……だったら、あんな得体のしれない屋敷に住まわせないでほしいものだが。
「ところで――」
「うん?」
「君はなんて呼べばいい?」
「……立木でも、統也でもお好きなほうをどうぞ」
共通10へ
共通10
授業中。至ってまじめにノートを取っていた俺が、ふと顔を上げると周囲からなぜか視線が集まっていた。何かしただろうかと怪訝に思っていると、足元に暖かさを感じる。
首をかしげながら机の下をのぞき込んでみると、白い毛並みが見えた。
「…………」
沈黙。正確には停滞。
そのやたらふわふわさらさらした真っ白毛玉はこちらに円らな瞳を向けて、「みゃあ」と一言鳴くのであった。
……思わず首根っこひっつかんで窓から放り投げたくなった俺は悪くない。悪くないのである。
……
先生にあれやこれや言い訳をしつつ、大人しく猫は膝に乗せた。無理矢理追い出そうとしたら盛大にむくれた上に、何度でも忍び込むと宣言しやがったので、仕方なしにである。
《こうして話しかけられるのは幸いかしら?》
《やたら多芸だな、お前》
このにゃん公はテレパシーもどきも使えるようだ。だてに猫耳はついてない。
……もう、驚くのにも疲れたよ、俺。
《で? なんで来た。学校だって言っておいただろう?》
《本は全部読み終わったっていったでしょ? することがなくて退屈なのよ。昼間の屋敷もつまらないし、一人で丸くなっているのも趣味じゃないわ》
《おいおい》
猫なんだから、人じゃなく家に憑けよ家に。
《大体、昼の探索なら一人で行けばいいじゃないか》
《いやよ。大体、昼間にはあそこ、何にもないわ》
……なにもない?
《どういうことだ?》
《夜じゃないと、あの屋敷は狂わないもの》
あんな当たり前の場所に、わたしの記憶があるはずないわ。自信満々に、膝の上の白猫はそう言い切った。
……狂った、というのが何を指しているのかは知らないが、まあ根拠がないというのは理解した。本当に、なんでホームズ名乗ってるんだろ、この猫。
《だとしても、わざわざ俺の邪魔までして暇をつぶしに来るな》
《しょうがないじゃない、暇なものは暇なんだもの。別に話し相手になれとまでは言わないから、こうさせて頂戴》
《……まったく》
これ以上言っても降りる様子はない。なら、無駄に考えて言葉を費やすだけ無駄だろう。
膝の上で微睡むホームズを見て、俺は一つ溜息を吐いた。
「……随分なつかれているのね」
「うん?」
「その猫」
こそこそと、美緒さんが話しかけてくる。
「リラックスしてる」
「……みたいだな」
やれやれと軽く肩をすくめる。
重くはない。邪魔でもない。ただ心地いい暖かさと重みが膝に乗って微睡んでいる。
それが嫌いじゃないという事実が、また苦笑モノなのだが――
「――こら立木君、幸せそうに授業中に猫の背中を撫でない」
綺麗な放物線を描いたチョークは、見事に俺の額を直撃した。
痛かった。
共通11へ
共通11
「今日は少し寄っていく場所があるから、先に帰って大丈夫よ」
それだけ言って、メイドさんはさっさと行ってしまった。
「……帰るか」
「にゃあ」
ホームズは肩に乗っかっている。ちんまいので、重くはないのだが……
《降りろよ。つか、自分の足で歩け》
《都合のいい脚があるなら、そっちを使った方が合理的でしょ? それにしても、案外筋肉あるのね》
《その感想はありがたく受け取ってやるから、前足で肩をぐいぐい押すのをやめなさい》
すっかり日は傾いてしまった。茜色が斜めに差し込んで、黒々とした影を地面に引き伸ばしている。
《……まずいわね》
《ん?》
《昼間言ったじゃない。夜になると、屋敷は狂うって》
《……ああ、あれって結局どういう意味なんだ?》
《言葉通りよ。あり得ないものがあり得るようになるわ。あなたも昨晩体験したでしょう? あなたが彷徨っていたあの廊下、どう考えたって扉も何もなく、あんなに長い扉が続くのはおかしい。でも、そうなる。そういう風に狂って歪んでいるのよ、あの屋敷は。……あの屋敷だけだと思っていたのだけれどね》
《それは――》
どういう意味だ?
そう問いかけることはできなかった。答えはすぐ目の前にあった。
「――」
言葉を喪う。現実感を喪う。
影だ。
部屋の中に居た、あの幻のような影が、まるで出来の悪い悪夢の様に、奥行きを感じさせないまま立っている――
「クソッ!」
小さく悪態をついて、反転。全力で逃げる。逃げる。逃げる!
《どうする!?》
《というか、なんで逃げるの?》
《どう見たって話が通じる手合いには見えないだろうが!》
ホームズの怪訝そうな声にそう返しつつ、俺は走り続ける。
運動不足が祟ったか、息が早くも荒くなる。いきなり走り出したことも原因だろう。ペースもフォームも何も考えていないから、余計な無駄も多いだろう。
それでも、一歩でも遠く逃げ出さないといけない。何故か俺はそう直感していた。
《……へぇ。でも安心なさい、ワトソン君。実にこの問題は明確かつ単純よ》
バランスも崩さずのんびりと後方を見ていたホームズが、ふわりと音もなく二本の足で着地する。
いつの間にか人型になった彼女は、見慣れぬコートと帽子を着けてパイプを片手に不敵に微笑んだ。
「物理で殴れば解決するわ」
彼女は無造作に拳を突き出して――轟、と風が唸った。
瞬間掻き消されるように影は霧散した。部屋で見た者との決定的な差異は、あれが夢か何かかと錯覚すほどに綺麗に消えたのに対し、こちらは引きちぎられた影の断片が未練がましく揺らめき、それから薄く溶けていくこと。
あんぐりと、開いた口が閉まらない。
呆然と、俺は彼女の小さな背中を見つめる。……言葉が出なかった。
「――ふぅ、ざっとこんなもんかしら」
如何にもな「余裕でしたが何か?」という表情で、ホームズは振り返った。ドヤ顔すんな。
「……お前なぁ」
「出来るなら最初からやれ、っていうのはなしよ。わき目もふらずに逃げたのはワトソン君じゃない」
「そうじゃない。いきなりチャレンジャー精神発揮するのはヤメロ。心臓に悪いし、今回は良かったが、失敗したらどうする」
「あら、気が付いてたの?」
「そりゃ、部屋から出てないって話されてるからな。本しか読んでないってのも聞いた。そんでもって、俺以外に会ってないってのもな。それに――」
――あんだけ震えていたら、バレバレだろうが。
告げようと脳裏に浮かべた言葉を、もう一度脳の奥底にひき潰しながら嘆息する。
何故彼女はそうしようとしたのか。……十中八九、俺が原因だろう。行動を起こしたのは、俺のあれに対する反応を見てからだったし。
「…………ありがとうな、ホームズ」
少しだけ、驚いたように目を丸くして、それから心底嬉しそうに表情おほころばせた後、彼女はそれを引っ込めて、得意げに胸を張った。
「パートナーだもの、当然よワトソン君」
「それでもだ」
不甲斐ない。俺はただ怯えて逃げるだけだった。ホームズは、怖くたって立ち向かったのに。
……彼女の持っている強さが、素直に羨ましいと感じた。俺だって、あれに対抗できる力があれば。そんな言い訳じみた思考が酷く忌々しく感じられて、俺は―――――
「ワトソン君」
「ん?」
「大丈夫?」
「……ああ」
彼女の不安そうな顔。表情がこわばっていることに気が付いて、苦笑した。
くだらない――――くだらない。妙な劣等感なんて、今必要なモノじゃないだろうに。
「ごめん」
「? どうしたの?」
「お前に無茶させないんじゃなくて、俺も一緒に無茶するべきだよな。そこを間違っちゃいけなかった」
「なによ、それ」
「こっちの話だよ。相棒」
これから何を見つけるのか、何を知るのか、何も俺は知らない。それでも、この少女と冒険をするのなら――相棒になるのなら、相応に頑張らないと仕方ない。
「やってやるさ」
「?」
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ぶん、と木刀が風を切った。
残心を終え、体を引き戻す。それを見ていた美緒さんは怪訝そうに尋ねて来た。
「剣道をやっていたのですか?」
「いや、剣術だ。無理矢理教え込まれた」
夜の中庭にてLEDランタンを灯りに、俺は木刀を振っていた。
八相に構え、じり、と摺り足で前進――踏み込み。振り降ろし。
「……教え込まれた?」
「通りすがりの自称剣術家が、『将来困りそうだから覚えとけ』ってさ。まあ、いい運動にもなるし、打ち込んでたものもなかったから習ったんだけどな」
「それにしても……」
上段に構え。
彼女は少々怪訝そうに首を傾げた。
「ん?」
「攻撃的な構えばかりですね」
「ちゃんと理由はあるんだけどな」
師匠曰く「大きく隙を見せたうえで何かあるんだぞ、ってはったりをかければ、うかつに攻撃できないうえに、注意が色々と向くからこちらからしかけやすいでしょ?」とのこと。
実際これは有効な戦術だ。本当に隠し玉も用意できれば完璧である。……その隠し玉がないのが一番の問題なのだが。
「まあ、身を護る手段があるというのは良いことでしょう」
「……そう、だな」
先程より強い勢いで、俺は木刀を振り降ろした。
「料理の練習はいかがなさいますか?」
「そうだな。今日は教えてもらうのはいいか。ごめんな、美緒さん。俺から頼んだのに」
「構いません。それでは、夕食の準備ができ次第及びいたします」
「ああ、よろしく」
ぺこりと頭を下げ、美緒さんは屋敷の中に戻っていく。
それを見計らったかのように、白い影が夜の中から浮かび上がってきた。
「随分と物騒なものを習っていたのね」
「ホームズ。見てたのか」
「夜に一人で居たくはないもの。いつもあなたの傍にいるわよ」
「それはぞっとしないな……」
プライバシーもへったくれもないな。いや、猫に求めるモノでもないのだろうけれど。
「それ、殺す術でしょ? あの黒いのに使うのかしら?」
「まあ、手加減してどうにかなる相手には見えないしな……」
また木刀を構える。どう動くかを視線を前から外さないまま思考し、決定。
突き。
「身を護る術くらいは、身につけといて損はないだろ」
「あら、いざとなったら――」
「――守ってもらうばかりっての、俺の性分じゃぁないんだよ」
残心を終え、息を吐く。すり、と足元に暖かい感触を感じて視線を向ければ、猫状態のまま、ホームズが足元にすり寄っていた。
「……どうした?」
「いえ……なんでも」
くすくすと笑いながら、彼女は人の姿になって、いたずらっぽく片目を閉じた。あのうさん臭いコートもセットだ。
「ワトソン君」
「ん?」
今夜は月が眩しい。そんな月に寄り添う影のように、彼女を背景にした夜空は、深く深く映えていた。
さらり。銀髪が揺れる。なんとなく、そんな彼女を見て居られなくて視線を外す。
「愛してるわ」
唐突。にこりと笑んで、彼女はそう告げた。
「…………いきなりなに言いだすんだ、お前」
軽く混乱しつつも、なんとか声を絞り出した俺に彼女は、一層笑みを深くして歩み寄る。
「別に? 思ったことを言っただけよ?」
「本当かぁ?」
「本当。まったく、わたしってとんだ幸せ者ね」
「……?」
駄目だ。このにゃん公がなに言いたいのかさっぱりわからん。
まあ、とにもかくにも、
「ホームズ」
「なぁに?」
「お前、夜には無理するな」
汗を拭きながら彼女に視線をくれる。
「夜には狂うんだろ、いろいろと。だったら、無理はしないでくれよ。冒険始まったばかりで相棒を失うってのは嫌だし――そもそも、冒険の始まりは、下調べって相場が決まってるだろ?」
「……そう、ね。イレギュラーがないなんて、予想する方が難しいわ」
ホームズも分かってくれたようだ。
「そろそろ中に入ろう。夕飯も出来てるころだろう」
「ええ」
……
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
俺は美緒さんと台所で後片付けをしていた。折角教えてくれるといったのに、それを無碍にしてしまったので、これくらいはしておきたい。……むしろ効率を悪くして、足を引っ張っているのではという意見にはノーコメントだ。
ゴロゴロと満足げに喉をならしながら、ホームズはペロペロと前足を毛づくろいしている。
《お前もなんかお礼とか言っとけよ》
《さっきすり寄ってあげたわ》
《それ、お礼なのか?》
《嬉しそうに喉の下を撫でてくれたから、お礼にはなったんじゃない?》
《マジか》
うーん、なんだかんだ美緒さんはホームズに甘いな。猫好きなんだろうか。
ぼんやりと考え事しながら皿を拭いていると、いつの間にか片付いてしまった。
「ありがとうございます」
「いや、これくらいやらせてくれ」
洒落抜きで美緒さんが完璧メイド過ぎて、駄目人間化が加速しかねない。
美緒さんはいつも通り、一人で帰っていった。
「さて……」
「始めましょうか、ワトソン君」
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昨日同様、俺の部屋の外は昼間見た屋敷の中とは様変わりしていた。
「……昨日みたく単純でもないな、こりゃ」
「日替わりで構造が変わるなんて、面倒なことね。わたしの居た書斎は、特に変化していなかったのに」
「多分、廊下とか、部屋の配置だけ変わってるんだろ。中身はそのまま場所だけが移り変わってるとか」
「……いずれにせよ、面倒くさいことには変わらないわよワトソン君」
「そこは頑張れ名探偵」
「物理で殴れないなら、解決しようがないじゃない……」
「拗ねるなよ……」
というか、物理でしか解決できないのかお前は。
「下手に殴り壊すとか、そういう手段も使えないしなあ……」
壊したらどうなるか予想できないし。取り返しのつかない事態とか勘弁願いたい。それ以前に、勝手に人の屋敷の壁に穴をぶち空けるとか、流石に常識がなさすぎるだろう。
……常識の話で、いきなり一般高校生をお化け屋敷(?)に引っ越させた桜田さんのことは忘れよう。真面目に頭とか胃が痛くなってくる。
「それで、どこから探す?」
「昨日と全然構造は違うようだから、アテも何もないわね」
「……地道に歩きますか」
「現場百回?」
「微妙に違うような……っていうか、それ探偵じゃなくて刑事じゃないか?」
くだらない話をしながら、暗闇の中を進む。電灯の照らし出す先には、昨日とは打って変わって曲がりくねった廊下が照らし出されていた。
……なんというのか、奇妙だ。本当にこの屋敷は構造が変わっている。そのくせ、昨日同様一本道なのだから、酷く強い違和感が付き纏う。扉も何も見当たらない、のっぺりとした同じ表情の壁だけが、ぐねぐね、ぐねぐねと捻くれたまま延々と続いている。
「……嫌な造りね」
「ホームズ?」
「昨日の無駄に長い廊下といい、この屋敷の歪みはやたら疲れさせるわ」
「確かに、歩かされどおしだな。かといってロクに障害もありゃしない」
「まったく、迷わないのはありがたいけれど、疲れさせることが目的なら、これ以上ないほど有効ね。曲がりくねってばかりで、変わり映えしないわ」
「……確かに。でも――」
実際気が滅入って仕方がない。それでもまあ、昨日よりも恐怖感や疲労感、それと酩酊感は薄い。昨日の様な一本道じゃない分、ハイウェイヒュプノスだったか、あれになりづらいというのもあるのだろうが――
「――誰か一人でも一緒に居てくれると、一人きりで動くよりは余裕が出来ていい」
「そう? 嬉しいこと言ってくれるじゃない」
本当に嬉しそうに、彼女はくすりと笑い――ぴたりと立ち止まった。
「止まってワトソン君」
「……どうした?」
「…………風があるわ」
風……? 窓なんてほとんどないこの屋敷で?
「……どこか、外に繋がっているのか?」
「多分ね。繋がっている場所がこの道の行き先なのか、それともどこかに隙間があるのか……」
「どっちにしろ、今は進むしかないか」
「そうね」
先程よりも慎重に歩みを進めていく。……廊下は、先程と打って変わって真っ直ぐな一本道になっている。徐々に、俺にもわかるくらいには風が出てきた。さらり、微かに頬を撫でていく空気の感触。
長く長く続く道。その先に、うっすらと明りが見えた。
「……やっぱり、外に繋がってるのか」
「でしょうね。どっちにしろ、脇道もないから真っ直ぐに進むしかないわ」
無言で木刀を取り出す。
何が居るのか分からない以上は、警戒は解かない方が良いだろう。
今夜も月が出ているのだろう。
柔らかく、冷たい光が夜に剥きだされた廊下に降り注いでいる。
自然、息を殺す。この屋敷では、何が飛び出てきても不思議じゃないだろう。
強く風が吹いた。
さらりと風に乗って、散り始めの桜が舞う。真っ直ぐな一本道の廊下は、まるでそこだけがこの屋敷の陰気さから解き放たれたように壁も天井も取り払われていた。
清々しい外気が、巨大な生き物のようにうねっている。
そんな中に、ぽつんと取り残されたように影が浮かんでいる。
「―――――!」
肌が泡立つ。
フラッシュバック。
夕暮れに現れた影。
あの時の焼き回しのように、影がいる。
俺は――
「――怖気付くかよ!」
無理矢理に感情を叫んで捻じ伏せ――駆ける。
月明りが、吹雪く花弁が、冷たく輝く廊下の木目が、融けるように視界を過ぎ去って静止する。
低くなった姿勢。強く曲げた膝。押さえつけられた筋肉。視線を上へ。真っ黒い奥行きがない人型の、顔のない顔を睨みつけ――刺突。
「殺ッた!」
解き放たれた矢のように、切っ先が真っ直ぐに影の喉を射抜いた。距離はない。防御もない。遮るものは何一つとして存在しない。真っ直ぐに、鋭利に、殺人剣が放たれ、望む通りの結果が訪れた。
「――――」
「…………」
音が聞こえなくなったように感じた。耳に痛い沈黙が、心臓と神経をじりじりと蝕んでいく。
影は俺を見下ろしていた。何も言わず、俺に貫かれたまま。顔はなかったが、それでも視線が真っ直ぐにこちらを捉えていると認識できた。何も言わず、何もせず、影は唯々俺を見下ろしていた。
ふっ、と風に溶けるように、影は消え去った。
「――……ふぅ」
同時に、俺は喉の奥で詰まっていた息を吐く。緊迫が徐々に薄まっていくにつれ、心の中で喜びが湧いてくる。
動けた。あの影を倒すことが出来た。……怖がるだけだなんて、そんな情けない男にはならずには済んだようだ。
感心したような口ぶりで、ホームズは呟いた。
「口先だけで格好つけていたワケじゃないのね」
「当たり前だろ!?」
割と全力の返し。というか、口先だけだと思われていたのか。
少しだけだが、喜んでいた自分が悲しくなってしまった。いや、そんなに期待してほしかというワケでもないんだが。
「……ここで止まっていても仕方ないだろ。先に進もう」
「拗ねないで、ワトソン君。冗談よ。そもそも、ワトソン君ならできると確信していたもの」
「…………ああ、そう」
不覚にもちょっとうれしかったあたり自分のチョロさを自覚しつつ、俺はまた暗闇の中に繋がる廊下の先へ視線を向けた。
結局、あの影は消えたものの、それで完全に撃退できたのかと言われれば……認めよう、正直自信がない。
そもそもどう見たって心霊関連のあれやそれっぽいあの連中が、ああも簡単に物理で対処できるはずがない。もちろんあの勢いで突きなんてやったら、洒落抜きで人を殺すことも出来るだろう。しかしそれはあくまでも普通の人間相手の場合の話。同じベクトルであろうホームズの打撃はともかく、とくにそういう因縁とかないであろう俺の木刀で、あんなお化けモドキが倒せるはずはないだろう。
だから、あれはきっと倒せたとかそういうのじゃなくて、怯んで逃げたとかなんだろう。塩を振った覚えも、寺でお清めした覚えも、神社でお参りした覚えもないのだから、それくらいしか考えられない。というか、少なくとも怯ませる程度の威力はあると思わないとやってけない。あれが俺の使える最高クラスの剣術だ。一気に距離を詰めてからの突き。相手が無構えのうちに、虚を突いて致命傷を与えることを目的とした一撃。あれ以上は俺には難しい。あれが通用しないとなると、あんな啖呵を切っておいて何もできないという結果になりかねない。
溜息一つ。ホームズの無茶に付き合うとは言ったが、それにしても危ない橋だった気がする。
「……はぁ」
ため息が漏れる。大分頭が痛い。この先の探索も、自分の無鉄砲さにも。それでも、この剖検を止めようと思えないのだから、随分ホームズに毒されている。
「ねぇ、わたしにもあなたみたいにズバッ! ってかっこよくそれを使えるかしら?」
「それって、木刀の事か? お前の腕力だったら問題ないだろうけど……どうだろう」
「やっぱり練習が必要?」
「振り回すだけなら今のままで十分だろうな」
話しながら、また暗闇の中に入っていく。先程はぼんやりと薄まっていた灯りが、くっきりと存在感を取り戻した。
背後から差してくる月明りが、微かに床板を照らし出している。
また代わり映えのしない壁と天井。曲がりくねった廊下。
昂った精神が、ゆっくりと落ち着いていく。
「……なぁ、ホームズ」
「なに?」
「なんでこの屋敷は――この町は夜でも狂うんだろうな?」
「さぁ……。詳しくは分からないわ。こういうのに詳しい方ではないし――というか、そもそもあの書斎での記憶しかないから、大して何かわかるワケでもないわ」
「……そうか」
「今は感覚で理解できるけれど、それもあくまでわたしの感覚よ。全容を捉えることが出来る程じゃないわ。だから推理しないといけないわ」
「頼りにしてるよ、名探偵。……早速、出番が来たようだ」
「え?」
俺とホームズは立ち止った。
目の前には、闇の中に溶け込むような、暗い鋼色の扉。
……照らし出してみれば、七つの錠前で厳重に封印されている。
「開けられるか?」
「………………」
無言でずずいとホームズが前に出る。
「任せなさい」
自信満々のどや顔はフラグな気がした。
……
「うぐ、ひぐっ……」
がちゃがちゃ
涙目で彼女は錠前を弄っているが、一向に扉は開かない。
いや、正直な話、彼女が知恵でどうにか出来ることはまずないと思っていた。一縷の可能性にかけていたというのもあるが、それ以上に彼女はなんだかんだ探偵を自称しているだけあっていろいろなことを見ている。そんな彼女の観察眼が何かに気が付いてくれることを期待していたのだが、何故か彼女は必死に開錠を目指している。
別にそこまでせずとも、分かる限りのことを教えてくれればいいといったのだが、これくらいできなければ探偵は名乗れないと俄然張り切っていて、無理矢理止めることもアレだったので任せておいたのだが……
「……開かないな」
「うぅ……」
……こうなる前に止めるべきだったかもしれない。
あ、猫耳と尻尾がしょんぼりした。まあ、それはさて置き。
「夕方みたいに物理でどうにかすればよかったんじゃないか?」
「あっ!」
「忘れてたのか……」
「そうね! 物理で殴れば大抵の事件は解決するものね! なぁんだ簡単じゃない! ありがとうワトソン君! ナイスアドバイスね! これで――」
がちゃん!
「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ…………っ!」
「……ホームズ?」
「……なんで!? なんであがないのぉ!?」
がちゃん! がちゃん!
ホームズはどう見ても力いっぱい引っ張っているようだが、錠前がはじけ飛ぶ雰囲気はない。
それを何度か繰り返した後、がっくりと肩を落として彼女はこちらを向いた。
「…………ちからが、出ない」
「……どういうことだ?」
「分からないわ。でも、でもぉ……」
ぐすぐすと鼻をすすりながら、へたり込んでしまった。
「ごめんなざい、わだじだんでいなのに、ごんなごどもでぎないで……」
泣きながらの謝罪。うーん、結構胸にクるものがあるな……。やっぱりもっと早めに辞めさせるべきだった。
開錠は探偵というよりは怪盗のものだろうというツッコミや、そもそもお前探偵名乗っているけどただの女の子(記憶喪失&猫耳猫尻尾付き)だろうがというツッコミがあるが、今行っても仕方ないだろう。
とにもかくにも、
「ホームズ」
「わどぞんぐん……」
「今回は仕方ないさ。錠前を開けるにしても、鍵が要るのは当たり前だし、それに名探偵にだって失敗の一つや二つくらいあるだろ。この町の夜の事だって手掛かりや証拠を探して調べてるんだから、同じようにやっていこう。必要なものが揃ったらリターンマッチに来ようぜ、名探偵」
「うぅ……わどぞんぐぅん……」
ホームズの顔は涙とか鼻水でぐしゃぐしゃになっている。……そんなに悔しかったのか。
がばり、彼女はいきなり俺に抱き着いてきた。
「うわぁっ!? いや、お前俺の服でその顔拭くなよ!?」
「……みずでない?」
「え?」
弱々しく、ホームズは聞いてきた。
……見捨てる?
目を真っ赤にしながら、顔を離してホームズは俺の顔を見上げて来た。
「……わたしのこと、見捨てない?」
「いや、見捨てはしないけれど……」
「探偵らしいことできなくても? 夜には役立たずでも?」
「……ホームズ?」
「記憶がなくても――見捨てないでくれるの?」
彼女には記憶がない。書斎で一人、本を読んでいた記憶しかない。それは、俺の想像出来る範疇の事ではない。どれだけ心細いのか、どれだけ寂しいことなのか、どれだけ悲しいことなのか。一切の共感が出来ないだろう。
……だから、彼女が何故ここまで怯えるのか、完全に理解することはできないだろう。
せいぜい、今こうして彼女がこんな表情を見せる原因にアタリをつけることくらいだ。
「ホームズ……」
「わたし、なんにもないわ。記憶も、あなたを助ける力も、何かを見つけ出すことも出来ない。……あなたにとって、わたしには価値がないじゃない!」
まるで、血でも吐くように彼女は独白した。
きっと、それは事実だろう。彼女は何も持っていない。ゼロから始まって、ずっとあの書斎の中に閉じこもっていた。
彼女にできることは多くない。言葉通り、夜の探索に彼女を連れて行くのは確かに無意味なのかもしれない。
だけれど。
「――うーん。うん。いや、まあ言いたいことは理解できたんだが……解雇理由はそれでいいのか、ホームズ?」
「……え?」
「このままだと哀れにもお前に引っ張ってもらうしかない助手は、路頭に迷うしかないんだがなぁ……」
「そんなっ、ワトソン君なら……ワトソン君なら、一人でもきっと進んでいけるじゃない」
「あのな、ホームズ。一人ぼっちよりも、二人ぼっちの方が楽しいだなんて魅惑的な提案しやがったのは、どこのどいつだったか覚えてるか?」
「……それは、」
「俺は嬉しかったよ。だって新しい町で暮らし始めたと思ったら、なんだかみんなきな臭いしな」
「…………」
「……なぁ、ホームズ。何もできないのは俺も一緒だ。夕方だって、お前の見ていた通り怯えて震えるしかできなかった。俺を助けてくれたのはお前で――ああ、さっきの影に向かっていけたのだってお前に格好悪い所を見せたくなかったからだ」
「ワトソン君……」
「無価値ねぇ……まあ、俺たちはお互い無価値だろうけどさ、最初からそんなモノ目当てで組んだワケじゃないだろう?」
……そう。
最初からそんなモノへの期待なんて、俺は持っていなかった。きっと彼女もそうだろう。
そう、奇妙に確信めいて俺は言葉を紡ぐ。彼女と過ごしたこの数日、強い共感のようなものを感じていた。
「これからも一緒に行こうぜ、ホームズ。ポンコツな探偵と怖がりの助手……夜のお化け屋敷探索には向かなそうだが、俺たちの相性は悪くなさそうだろう?」
「――ええ、そうねワトソン君」
少しだけ俯いた後、ホームズは見慣れた自信満々のあの表情で、俺に笑いかけた。
「今日はいったん戻りましょう。明日から、捜査再開よ」
「了解だ」
俺は彼女に背を向け、来た道を振り返った。
天井のない廊下、降り注ぐ月明り。
真っ暗闇の中、ぽつんと浮かぶその光景は、どことなく先の見えない明日の中に煌めく、一筋の光明に見えた。
……
「……ごめんなさい、ワトソン君」
「気にするな。夕方は助けてもらったし、イーブンだイーブン」
「どうも、少し焦りすぎてたみたい」
「……記憶、やっぱり急いで見つけたいか?」
「……ううん。違うの。きっとそうじゃないわ。でも――」
「……」
「――でも……なんででしょうね。急がなきゃいけない気がしたのよ。理由は、分からないけれど」
「…………なんか、怖いな」
「そう、ね……。確かに怖いわね。ひょっとしたら、何か取り返しのつかないことが始まってるかもしれないなんて――」
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共通14
早朝。
暖かい布団は人を駄目にするが、まあ一般男子高校生たるもの、一度朝に鍛錬をすると決めたからには、しっかり起きて行動を開始することは出来て当然だろう。
昨日の探索は大分遅くまでかかってしまったが、実家暮らしの時にも俺これくらいの夜更かしが在った。それに、一昨日の様にストレス満点というワケでもない。ぐっすりと眠って、しっかりと体力の回復が出来た。
ぼんやりと札塗れの天井を見上げ、そんなことを思考しつつ起き上がろうとして――
無理だった。
「……うん?」
右手と右足。何かに絡めとられて動かすことが出来ず、当然それに引っ張られて体を起こすことも出来なかった。
やたら柔らかいソレの正体に感づきつつ、確認する。
……果たして、予想は外れなかった。非常に残念なことに。
「…………」
「んぅ……」
第一印象は真っ白であった。
白い髪。同色の猫耳猫尻尾。白い肌。何故か使われている俺の白いワイシャツ。
裸ワイシャツなホームズが、俺の腕と足に自分のそれを絡めて寝ていた。おかしいな。寝るときはちゃんと猫の形で俺の上に丸まっていたはずなんだけれどなぁ……。
「ぁ……ん」
……さっきからやたらエロい声を漏らすのはやめなさい。精神衛生上よろしくないから。
とにもかくにも、腕をほどかないと……。
彼女の細い腕に手をかける。
「……んん」
より強く抱きしめられてしまった。うわー、柔らかい。女の子の身体柔らかい。
……いやいや、そうじゃなくて。どうしようかこれ。足もがっちりホールドされてるな。
ちょっと強引にでもほどくしかないのか。
「…………」
「やぁ……」
くそぉ! 可愛いなぁ!
「ホームズ。放せ、頼むから。おーい」
ゆさゆさと理性特攻存在を揺らす。いや、本当に頼むから起きて。マジでシチュエーションとか、感触とか、いろいろとマズすぎる……っ!
「……ぅん?」
俺の必死な思いが通じたのか、ぼんやりとした表情で彼女は瞼を開けた。
そのまま、自分の抱きしめている腕を見て、そこから視線を上げて俺の顔を見上げ、そして満足したような表情でまた目を閉じてしまった。心なしか俺の腕にかかる力も少し強くなった気がする。
運命は残酷であった。溜息一つ。
後に大きく息を吸い――
「早く放せポンコツ―――――!」
全力で叫ぶのであった。
……
「おはよう、ワトソン君。素敵な朝ね」
「おはよう、ホームズ。まあ俺の朝の鍛錬は出来なかったワケだが」
「あら、それは不幸な事件ね。一体誰が犯人なのか、推理してあげましょうか?」
「お前のせいだ、お前の!」
猫に戻ってしらばっくれるホームズの首根っこをつかみつつ、溜息を吐く。
「あのなぁ、流石に猫のままならまだしも、あの格好で布団の中に潜り込むのはヤメロ。つか、お前猫の時だって布団の中には入ってなかったよな?」
「別にいいじゃない」
「よろしくないからこうして苦言をだな……。聞いているか?」
「聞かないわ」
「聞け」
びしっ、と軽いチョップを入れつつもう一度溜息。
「もしも、もしもの話だがな? 俺がお前に不埒な真似をしたらどうする?」
「したいの?」
ニヤニヤ顔で聞き返しやがった。ちょっとイラっとしたので、反撃を試みる。
ここで慌てるのはよろしくない。彼女の思うように動いているだけになってしまう。努めて冷静に、そして真顔でうなずいた。
「ああ。したい」
「…………」
「…………」
「…………ふえっ?」
一瞬の沈黙の後、ぼん! とホームズの顔が真っ赤になった。
「ええと、その……冗談、じゃなくて?」
「ああ」
勿論冗談である。
「大体な、お前は男子高校生の性欲とかを舐めすぎだ。俺だって一般男子なんだから、そりゃ朝の生理現象とか諸々の欲求だってあるんだ」
「そ、そう……なの?」
「そうなんだ。だからお前が俺のことを我慢させすぎると……」
「……我慢、させすぎると…………?」
「襲うぞ」
「……――!」
天地神明に誓って冗談である。……ホントダヨ? 自分の自制心とか理性に自信なかったりしないぞ? 今している説得は、あくまで男女間の倫理的観点から健全な関係性を築くためにしているものだからな? 統也クン嘘つかない。
……とにもかくにも、これだけしっかりと脅しをかければ、もうあんまり布団に入ってくることもないだろう。一安心だ。
「まあ、そういうワケだから、あんまり――」
「――いい、わよ。ワトソン君が……どうしても我慢できないなら。その、えっちぃことしても。別にヤじゃないし……」
「……はい?」
あれ? 雲行きが非常に怪しいんだが……。
「あのー。ホームズさんや?」
「で、でもっ! 手を出すんだったら絶対に責任取るのよ!? 絶対、絶対だからね!?」
「待て。本当に待って。ステイ、ウェイトだ名探偵。話が飛躍しすぎている。いや、その気持ちはありがたいというか正直嬉しいんだけどな!?」
弁明するのに三十分かかった。
……
「……どうしてそんなに朝から消耗しているの?」
「……いろいろあったんだ」
怪訝そうな美緒さんの質問に、げっそりとした表情で答える。
それでも、美緒さんの表情に納得の色はなかった。……まあ、なんにも言ってないようなものだし。
美緒さんは、俺の足に不機嫌そうに猫パンチを繰り返すホームズを見た。
「……猫ちゃんの機嫌が悪そうなのも、関係ある?」
「…………まあ、いろいろあったんだ」
言えない。猫耳美少女の好感度を爆上げしてたことに気が付かず、その気持ちをもてあそぶような対応してましたとか、ちょっと檻のある病院にブチ込まれそうな事実、とても俺には言えない……!
いやー、視線が痛かった。本当に痛かった。
結局、彼女は不貞腐れた表情でずーっと俺の足に猫パンチを浴びせているワケだ。痛くはないあたり、昼間だったら夕方に見せたあの怪力も出せる筈だから、一応加減はしてくれているようだ。ありがたい。流石に入学早々に足骨折は笑えない。
「ずーっと猫パンチされてるわね」
「殴り心地でもいいんじゃないか?」
「ふふっ……機嫌が悪いのだろうけれど、少し可愛いわ」
「……そうだな……?」
まあ、見る分には一心不乱に俺の足に猫パンチを打ち込むホームズの様子は中々ほっこりするものがある……かもしれない。
もっとも、それは脳内で彼女の文句が垂れ流しになっていないのなら、という大前提が必要だろうが。
《別にいいわよ。ええ、わたしだって本気じゃなかったし? けれどああいう事を軽々しく女の子に言うのは感心できないわ》
《……本当に申し訳ない》
《……勇気出したわたしが、馬鹿みたいじゃない》
《…………あー、ホームズ?》
《……なに?》
《その、あれだ。さっきの話なんだが――》
《……うん》
《正直、分からないんだ。ホームズ。俺とお前、共有している時間は短い。まだ三日くらいだ。それでも俺はお前を信頼しているし、失いたくはないと思っている。それでも――》
《――あなたの感情は、きっと親愛なのでしょうね》
《……そういうことだ。お前が……ああいうことを言うのが、あまり腑に落ちない》
《そう、ね……。実際、わたしも唐突だったとは思っているけれど……》
《けれど?》
《――わたしにとっては一番一緒にいる人で、一番楽しいことをした人で、一番わたしを見てくれる人だもの。一番好きな人にしても、なにも問題ないでしょう?》
《……ホームズ、それは》
それは、なんだと言いたかったのか。
間違いだと言いたかったのか。――分からない。そも、俺には彼女の感情をひてする資格なんて持っていない。彼女の感情を俺は知らない。彼女の孤独を俺は知らない。
――彼女の愛情でさえ、俺はまだ理解できていない。
嬉しいとは思う。そういう風に俺を想ってくれる人(といっていいかどうかは分からないがまあ人に準ずる類ではあると思いたい)がいるのは、なんというのかありがたいとも。
それでも。
俺にそれを受け止める資格があるのだろうか?
ひょい、と膝の上に暖かいものが乗っかる感触。
ホームズが飛び乗って、俺の顔を見上げていた。
《難しいことを考えてる?》
《……ああ》
《大丈夫。わたしが勝手にワトソン君が好きなだけだもの。貴方がわたしに愛想つかしても勝手にすり寄るし、わたしが貴方に愛想つかしたら、また新しい恋がやってくるまで書斎で待ち惚けるわ》
くすくすと楽しげに彼女は笑う。
《いや、それはそれでどうなんだ?》
ひどくいい加減なその言葉に、俺は呆れて苦笑した。
《それくらいで丁度いいじゃない。あんまり焦って答えを出すなんて、勿体ないでしょう?》
《……それもそうか》
昨晩とは真逆に諭される。なんだかんだでコイツはこーいう奴なのだろう。不安に駆られなければマイペース。その癖やたら目敏くて――俺の事を、この町じゃ一番わかっている。
《一応、嬉しかったのよ?》
《…………?》
《貴方の気持ち。こんな事が出来るんだから、ちょっとくらい読み取ることが出来るのよ》
《は……?》
つまり、それは――
「――~~~~……はぁ。マジか」
「……どうしたの?」
「なんでもない。……なんでもない」
食事の途中、唐突に俯いた俺を見て、怪訝そうに美緒さんは首を傾げた。
視線の先で、してやったりといった表情のままホームズは毛づくろいをしていた。
溜息を一つ。頭が痛かった。
それでも、彼女が機嫌を直してくれたことに胸をなでおろして……弱みを握られたことに、少しだけ苦笑してしまった。
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学校では、相も変わらず緊張感とは無縁な時間が流れている。幸いまじめに勉強はしていたので授業に追いつかないという事はなかった。
だが、その中にどこか不穏な空気が紛れ込んでいた。
「聞いた? また出たって――」
「――ああ、あの噂? 本当なの?」
「本当らしいよ。黒い影が出るって――」
その言葉を聞いて、俺は息を詰まらせた。
……
窓の外、ベランダに俺は出ていた。視線の先に見える枝には、白猫が一匹……ホームズである。流石に教室に入ってくるのは強引だったと反省したのか、今日は紛れ込むことはなかった。
《それ、本当なの?》
怪訝そうな彼女の声。それに俺は頷いた。
《噂に聞いた限りじゃあ、な》
《噂……ね。確かに、昨日の夕方の事を考えれば、噂になる程度には出てきているのかしら?》
《お前が一発で掻き消したやつか》
《ええ》
……あの時よりかは、足手まといにならずに済むか。
《どうするの?》
《もちろん調べるさ。実際問題、屋敷の中だけじゃ手詰まりでもあるだろ》
《……そうね。外にも湧いて出ているあの影が一体何なのか気になるし、わたしも賛成よ》
ホームズはこちらから視線を外しつつ、立ち上がった。
《帰るのか?》
《ええ》
《気を付けろよ》
ぴょん、と木から飛び降りて直ぐに見えなくなった。
「……またあの猫ちゃん?」
「ああ……遊びに来たみたいだ」
「本当にあなたの事が好きなのね」
「猫らしく家に憑けばいいだろうにな」
「そこは個性なんじゃない?」
「そういうもんかね」
振り返れば、面白がるような表情で、美緒さんがこちらを見ている。
「……どうした?」
「いえ、少し安らいだ表情をしているから、安心したのよ。この町に来て、少なからず緊張していたみたいだったし」
「…………そう、だったな」
喉の奥で苦い味を感じる。彼女がそう言うことを、どこかで不満に思う自分がいた。
それを表出させることはない。そうしたところで、何がどうなるワケでもない。今は、追及する意味もない。
「……今夜はどうするの?」
「食べて帰るから、別に夕飯は準備してくれなくていいさ」
「どこで?」
じっ、と視線が真っ直ぐに突き刺さる。
「知り合いの家。前々から食べていかないかって言われてたんだ」
勿論嘘だ。そんな相手はいない。別に友人がいないというワケでもないが、それでもあまり親しいワケでもない。原因としては、休み時間を全力で睡眠時間に回しているせいだろうが。
「ちゃんと帰るから、今日は屋敷に来なくていい」
「……本当?」
「ああ」
「約束できるの?」
「勿論」
「……そう」
ふう、と息をついて美緒さんは俺の目から視線を外した。
「信じるわ」
「ありがとさん」
「……危ないことはしないように」
「飯を食いに行くだけなんだが」
……相も変わらず、心配はしてくれているのか。やっぱり、よくわからないな。
「次の時間、なんだったっけ?」
「体育よ」
「……どうりで女子の視線が痛いワケで」
「居眠りしていたと思ったらベランダにいるんだもの、声をかけるタイミングがなかったわ。……着替えるから、早く出ていきなさい」
「はい」
……
体育も終わり、掃除当番も済ませた帰り路。
《お疲れ様。さ、探索開始ね》
《お前には俺を休ませるという選択肢はないのか》
《もう狂い始めているわ。どんどん手掛かりを探しましょう?》
のんびりと塀の上で丸まって、ホームズは待っていた。
ひょい、と肩に飛び乗り、楽し気に目を細めている。
殆ど重さを感じさせない方の感覚。猫らしくバランス感覚に優れるのか、落ちる様子も危なっかしい雰囲気もない。相変わらず器用なものだと彼女を眺めつつ、俺は首を振った。
《……とりあえず、一回部屋に戻るぞ》
《? どうして?》
《学校に木刀は持って行ってないからな。夕方ももう近いし、自衛の手段は多くしたい》
《そうね。このまま日が暮れてわたしが力を出せなくなると、そのまま身を護る手立てがなくなる。いったん戻らないと危険になるわね》
《だろ? だから――》
《……ワトソン君?》
唐突に言葉を途切れさせた俺に、怪訝そうにホームズが問いかける。
「……君は」
「…………よう。お前も、この時間に帰ってるのか。社」
視線の先に、最近見知ったばかりの少女。社真琴。
恐らくは俺の知らないナニカを知る、もう一人。そんな彼女と俺は鉢合わせた。
「……部活には入っていないからな。大概はまっすぐ帰っているんだ」
さりげなく目線を外しながら、社はそう呟く。小さな声だ。俺に聞かせるというよりも、自分に言い訳をしているような声だった。
影になって顔は見えず、当然表情は窺えない。
それでも、彼女が笑顔でないことは容易に想像できた、
「へぇ……」
気のない返事を返すと、ちらりと社は視線をこちらに向ける。
「君も……部活には入っていないようだな」
「……まあ、うん、あまりそういうことに身を入れる柄でもないというか、正直馴染めなかったというか…………」
そもそも、そういう余裕がないというべきか。
「そうか。…………なんか、すまない」
少し申し訳なさそうに、社が目を伏せる。……べ、別に悲しかったりしないし。
「……気にすんな」
「そうさせて貰う。……君も、屋敷に帰るのか?」
「いいや? ちっと寄るところがあるからな。まだ帰れない」
「……最近、この町には不審者が出るらしい。あまり寄り道をするのはお勧めできない」
「ご忠告痛み入るよ。気を付ける。あんまり不幸な目に会いたくはない」
二、三言交わしつつ、彼女の横を通り過ぎようとして――耳打ち。
「――頼む。君はなにもするな」
縋るような、願いを乞うような、切実な響きが耳朶を打った。
意味を量りかねた。
「なに……?」
不穏な言葉に戸惑い、聞き返したが、社はそれ以上何も言わないまま、振り返ることもせずに行ってしまった。
「……社、真琴」
神社の娘。この町を管理している血統の一人。
……お前は一体、何を知っているんだ?
共通16へ
共通16
屋敷に戻って、上着にトレンチコートを羽織り、木刀を取って門を出る。もうホームズは町に出ている。
彼女いわく、「影がつけ狙っているのはどうにもワトソン君みたいだから、様子見するくらいならわたし一人でも安全でしょう」とのこと。
まあ、実際に彼女を狙って動いた影なんて見たことない――というか、そもそも能動的に襲い掛かってくる影というものに、出くわしたことがない気がする。
とにもかくにも、今は単独行動中だ。
……そう言えば、こうして完全に単独行動をしているというのも、随分と久しぶりな気がする。あの晩――ホームズと出会ってからは大概一緒に行動しているし、それ以外の学校とかでも、大抵は美緒さんが一緒だった。
この屋敷で一人……ねぇ?
(いい予感はしないな……)
やれやれと首を振りながら門に手をかけ――はたと、その手を止めた。
「…………?」
妙に裏庭が気になる。気になるというか……気配がする? ……なにかいるのか? 幸い、今手元には木刀がある。自衛の手段はあるが……
裏庭へ向かう 蔵?2へ
ホームズと合流する 共通17へ
蔵?2
「…………」
そろり、そろりと静かに進む。この屋敷には、何が潜んでいるのか分からない、油断はしない方が賢明だ。
西日が眩しい。紅葉色の光が、斜めから視界を眩ませている。
予想よりも広い裏庭。森に囲まれぽつんと佇む蔵と思しき建物の横、同様に佇む影が、もう一つあった。
「……誰だ」
「おや……」
影が振り返る。部屋や町で見た影とは違う、れっきとした人。ただ日の光が遮られて出来るだけの影。肩越しに目が合った。
黒い着物の女性。結い上げた鴉の濡れ羽色の髪と、対照的に白い肌の首筋が、ぞっとするような色香を匂わせている。
「暮れる空があんまりに綺麗に染まるものだから、ゆっくり眺めようと出てきてみれば……これはまた、随分と奇妙な縁だこと」
ゆらりと笑んで、彼女はその瞳を弓なりに細めた。……懐かしむような、慈しむような、それでいて何処か哀しむような――憐れむような、そんな儚げな色彩が、黒い瞳の中で揺れている。
「ねぇ――名を聞かせてはくれませんか?」
丁寧で静かな、絡めとるような毒の声。既に俺の直感は、この女が人間ではないと全力で警鐘を鳴らしていた。それでも、唇が言葉を紡ごうことするのは、どうしようもないほど、彼女の言葉に、雰囲気に、安心してしまっている自分が居るからだ。
「……立木統也。あんたは?」
「そうですね……蔵子、とでもお呼びください。名乗るような名前は、随分と昔に失くしていますので」
「……蔵子さん」
「はい」
少し語調を強くして、俺は彼女に問いかけた。
「あんたは一体何者だ?」
「そうですね……。居候のようなものです。母屋に入ることは許されていませんが、そこの蔵に住まうことは許してもらえまして」
考えるような仕草の後、ほんわりとした調子で彼女はそう説明した。……あれは、やはり蔵で正解の様だ。彼女の住処でもあるようだが。
「あなたに害を為す、なんてつもりは毛頭ございませんので、そこまで気を強くしなくとも大丈夫ですよ」
そう続けて、彼女は視線を真っ直ぐに合わせた。目が合った、そう俺は思い込んでいたが、どうにも彼女は俺の顔をのぞいていただけだったのだと、奇妙な納得を憶える。
どこか、体の奥底で力を込めていたところが、眠るように力を抜いた。
……彼女の言葉に、どうにも俺の身体はかなわないようだ。それが不快でも不気味でもないというのが、なんとも不思議な心持にさせる。
「これから何処かへ出かけるのですか?」
「……ええ。俺は、彼女と探し物をしなきゃいけない」
「なら、これを持ってお行きなさい。由緒の有る物ですから、きっとお役に立つでしょう」
いったいどこから取り出したのやら。彼女が差し出した代物を見て、俺は面食らった。
黒い。真っ黒い拵えの短刀であった。否、正確には、細い白金の色彩で奇妙な紋様が鞘や柄にあしらわれている。鍔も精緻な彫刻のなされており、深みのある銀の金属でできている。確かに黒が多い。が、それだけでもない。派手すぎない装飾はそれでも豪奢だし、その紋様の何とも言えない神秘的な雰囲気には目を見張る。芸術品と言われても信じるだろう。だのに、やたらに黒いという印象がその短刀につき纏っている。黒といっても、夜の闇色や、炭の焦げ色でもない。
血の黒さである。禍々しさや生々しさを感じさせる、嫌な黒の色味である。純粋に黒であるはずなのに、その奥底に昏い赤があるような気がしてならない。立派な短刀であるのに、その用途とは無関係で、不吉な印象をぬぐえない。
「…………これは?」
「御守りです」
「………………」
流石にその言葉は白々しく聞こえた。幾ら彼女が俺を安心させるとはいえ、流石にどう見ても呪われていそうな雰囲気の短刀を持ち出されれば、そう言えばこの人は化け物だったと、警戒しなおすのも仕方はないだろう。
「嘘だとお思いになっていますね?」
「……はい」
「確かにこれは危険な物です。扱い方を間違えば、たちまちに仕手を喰い殺してしまうでしょう」
「うわぁ……」
「ですが、その分これは多くの者を怯えさせます。よくないモノもまた、例外ではありませんから」
とても物騒な代物だった。その代わりというべきか、非常に効果がありそうでもあるが。
「これの代わりと言ってはなんですが、あなたの持っているソレを、こちらにお譲りしていただけませんか?」
「え?」
彼女に指さされた胸ポケットを探ると、見覚えはあるが入れた覚えはない黒い御守りがあった。……何故入ってるんだ。
「ずっと探していたんですよ。あなたの所に居たのですね」
「……持ち歩いた覚えはないんだが」
「勝手についていったのでしょう」
どういうことだ、それ。
「持っていきますか?」
言外に手に持ったままの呪いの装備品を差しながら、彼女は笑んでいる。
「……持っていく」
「はい、どうぞ」
触れた瞬間、拍子抜けするほどただ冷たいだけの感覚が伝わってくる。幸いにも、卒倒することはないようだ。
「頑張って」
彼女に背を向けた瞬間、哀し気にそんな言葉が遺された。
もう、背後に視線を向けたところで誰もいないことを予想しながら、俺は無言で門へ向かった。……彼女を、随分と待たせてしまっている。
フラグ「蔵子より」獲得
共通17へ
共通17
夕暮れ。
蒼と紅は境界の役には立たない曖昧な紫色を間に敷いて、鮮やかな色彩を空に映し出している。遠くの雲は黄金色、近くの雲は、紫色のグラデーション。
背の高い建物があまりないこの町は、その分、空が随分と広かった。その分、色彩は無際限だった。
ガードレールに腰をかけながら、彼女はぼんやりとそんな空を眺めていた。
「……遅かったわね」
「すまん」
こちらを見ないまま、彼女はそう呟くように言った。
近くに行きながら、俺は素直に謝る。
「別にいいわ」
こちらを振り返って、彼女はガードレールから飛び降りた。
そのままこちらに歩み寄って、俺の顔を見上げる。
「ねぇ、ワトソン君」
「うん?」
視線を下げると、それから逃げるようにホームズは瞳を一度伏せ、俺の目を見上げた。
「今、キスをして、なんて言ったら――……あなたは、そうしてくれるのかしら?」
不意に、見つめた瞳が潤んだような気がした。彼女が近い。体温が感じられるほど。吐息が頬を撫でるほど。確かに、今そうしようと思えばそうできるだろう。
だとして俺は――
フラグ判定「彼女が託す想い」「彼女に託す想い」所持でホームズ:序へ
未所持で共通18へ
共通18
――どうすれば、いいのだろうか。
「……なんだよ、それ?」
「さて、なんでしょうね?」
はぐらかすように、ホームズはくるりと背を向け肩越しに笑う。
その笑みから、他の感情を読み取ることはできなかった。……からかったのだろうか。今朝、彼女の想いを知ってしまった身としては中々に心臓に悪いのだが。
ふと、思い出したような調子で彼女は俺を振り返る。
「これからどうする?」
「二手に分かれるか、それとも一緒に行動するかってことか?」
「ええ。わたしはどちらでも構わないから、ワトソン君にお任せするわ」
少しだけ思案して、提案する。
「二手に分かれよう。猫の姿でホームズが狙われないのなら、目は多い方が良い」
「それじゃあそうしましょう。……何かあったら、頭の中で呼んで頂戴」
それだけ告げて、彼女は白い影のように、軽やかな足取りで夕暮れの薄暗さに紛れて消えた。
それを見届けてから、俺は静かに溜息を吐いた。何故か酷く鼓動が早る。
心臓の上に掌を置く。また、息を一度吐く。目に染みるような朱の色彩を見上げる。
――さて、どこへ行こうか?
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