水の本当の姿
気がつくと、シートの上に座っていた。
だけど、男の子はもういなかった。
見渡すと周りの水もなくなっていた。
戸惑いながら待合室のドアに手をやると、普通に開いた。
外に出ると構内放送が流れていた、運転が再開したと。
待合室の横をふらふらと二、三歩ほど進んで立ち止まり、振り返った。
やはり、誰もいなかったが、窓ガラスに雨粒で文字のようなものを見つけた。
ひとつずつ読んでいく。
【 お な か 】
先ほどまで記憶の奥底に沈めていた記憶がはっきりと目を覚ました。
中絶をした、あのときの記憶だった。
災害があったせい、電車も車も動かなかったせい、あと、周りの人たちにも反対されたせい。
だから、仕方なかった。それらは全部、自分勝手な言い訳。
そんな自分が嫌であのときから、無理やりかき消した記憶。
ごめんなさい、きみをあのとき殺してしまった。
恨まれているのも当然だった。
別の窓ガラスにまた文字があった。
【 い る 】
あれから五年が過ぎたいま、今度の彼氏には妊娠していることをはっきりと伝えた。
彼はまだ若いから、しばらくは仕事に専念したいと言った。
だから、子供はまだいらない、と反対した。
正直、悩んだ。悩んで答えが出なかったから今日、会って話し合いをするつもりだった。
でも、また前と同じように逃げようとしていたのかもしれない。
だから、電車が止まって安心した。結局、同じ過ちを繰り返そうとしていた。
きみはそれに気がついてた。
男の子は「おなか いる」と言っている。
さっき、きみは一緒に死ぬはずだった、とも言っていた。
お腹にいるのは五年前の、きみなんだね?
あのときの、きみの辛さを償うことはできない。
そのときの苦しさをこうやって伝えてきた。殺されてもいいはずだった。
でも、きみは助けてくれた。
一緒に生きようとする道を選んでくれた。
きみは、水が言った、と話していたよね。
あの豪雨災害以来、雨が嫌いになった。
いや、水そのものが怖いものと思うようになっていた。
五年前にあの川を泳いでいた鯉たちは今もどこかで泳いでいるのだろうか。
ふと、さっき橋から眺めた景色が頭を過ぎった。
あの鯉たちもきっと今もどこかで水に守られて懸命に生きている。
きみは、どこかでなく、このお腹に中にいる。この場所に戻ってくれた。
この小さな水中をさっきみたいに気持ちよく泳いでる、きみの姿が目に浮かんできた。
いつの間にか雨雲はどこかに行き、うっすらと日が差していた。
光に照らされて、遅れていた電車が線路の遠くに見えてきた。
電車は雨粒に覆われて、きらきらと輝いて見えた。
ホームに入ってきたとき、振動のせいか、お腹の中でなにか動いた気がした。
「ありがとう」
お腹を撫でながら静かにささやいて、開かれたドアの向こうにゆっくりと足を進めた。
一部、体験的な要素を入れております。
最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。