消し去られた記憶
さっきまでの呼吸のおかげで今はまだ何とかなる。
でも、数分が限界だ。
「ごめ、ん」
口を開くと、我慢できる時間は短くなっていく、もちろんわかっていた。
でも、忘れているこっちが悪い。
「ほんとに、ごめん、な」
「なんで、しゃべる?」
「さ、ぃ」
そこまでが限界だった。
後悔して死にたくなかったし、謝るのは当然だと思った。
また、男の子が身体に触れてきた。
「はやく、あけて!」
慌てて口を開くと、水が流れ込んでまた少しずつ意識が戻ってきた。
「ばかだなあ」
男の子は先ほどまでと違って、柔らかい声でそう言った。
呼吸が落ち着いたところで、改めて質問した。
「なんで、また助けてくれたの?」
男の子は頭を傾げながら答えた。
「みずが、いったから」
「水が言ったって、どういうこと?」
「みずは、かみさま」
そういえばすっかり忘れていたが、今も二人は水の中にいるんだった。
それくらい、今の状況は普通だった。
集中豪雨のときに感じた、あの恐怖とは対極にある、そんな存在に今は思えた。
男の子が口を開く。
「いっしょに、しぬはずだった」
この子はやっぱり殺すつもりだった。
あの口調には明らかに恨み、悪意があった。
でも?
疑問が沸きあがって声にする。
「一緒にって? きみは溺れないでしょ?」
「あのとき、しんだ」
また、そのセリフ。
どうしても、その「あのとき」が思い出せない。
この子に会ったことはない。
記憶のどこを探してもこの子はいない。
そのことを考えるにつれて、頭の周りの水が締め付けてくるようで、
みしみしと音を立てるように痛くなっていく。
我慢できず、ふと目を閉じる。
その痛みの向こうに何かが見えた。
記憶から消した存在?
自分で勝手に頭の奥底に沈めていた記憶。
それが徐々に見えてきたとき、
「そろそろ、いくね」
男の子が言った。
「え? 行くって、どこ?」
きみは救ってくれた恩人だよ。それだけじゃない、きみは……
なのに「ありがとう」ってまだ言ってない。
あともう一度、ごめんなさいって言わないといけないの。
だから、もう少しだけ、数分だけ待ってほしい。
でも、身体に触れていた手はまた離れた。
再び、苦しさが戻ってきた。
息苦しい、意識がもうろうとしてきた。
そして、そのまま意識をなくしてしまった。