空気のような感覚
もうすぐ口が塞がれる水位まで来ている。
「こわい?」
もう余裕などなかった。
正直な気持ちがそのまま声に出てしまう。
「うん、怖い」
「だよね」
この子は何を考えている?
ただ、今はそんな疑問よりも助かりたい気持ちが勝っていた。
「た、助けて」
「やだ」
男の子は即答で返す。
「せいぎのみかた、ってしんじる?」
こんなときに、何の話をしてるのか意味がわからない。
「助けて」
「しんじるの?」
「し、信じる」
「ぼくは、しんじない」
水が口を覆ってしまい、必死で鼻呼吸を続けた。
「しぬね」
「ぅう」
水が邪魔して声にならず、代わりに口から泡がぷくぷく浮いていく。
鼻もふさがれて、あっという間に頭まで水に埋まった。
浮き上がろうと手足を動かすが、水の抵抗はそれ以上に強かった。
必死で息を止めつづける。
(ぼくも、あのとき、しんじた)
意識は消えつつあった。男の子がどこにいるのかさえわからない。
何か声がしたが、聞き取れなかった。
朦朧とした意識のなか、男の子が泳いで顔を近づけてきた。
「くち、あけて」
男の子の両手が伸びてきて、口を上下に引っ張りつづける。
「はやくっ」
険しい口調で男の子が叫んだ。
口を開いたら溺れてしまうだけ。必死で閉じようとしたが、もう限界。
口が開いて水が大量に入ってくる。
すべてが終わったと思った瞬間、なぜか息苦しさが少しずつなくなった。
まるで、水が空気のように体のなかに入ってくる感じだった。
「しんじて」
不満そうに男の子が言った。
「え? どうして?」
普通に声が出たことに驚いた。
男の子はそっけなく言う。
「ぼくのおかげ」
「きみの?」
「つながった」
嘘みたいな出来事。でも、事実だった。
「しんじてない?」
もちろん、それは事実だから信じるべきだろう。
だけど、まるですべてが夢のようで全く現実感がない。
答えないまま、ぼーっとしていると、
「ぼくは、あのとき、しんじた」
「え、あのときって?」
男の子はそれには答えず、
「みずって、こわい?」
今、水のなかは、ゆりかごに揺られて漂っている感覚で、とても心地よかった。
さっきまでの恐怖はすっかりと消えている。
「ううん、怖くない、何だか懐かしい感覚がする」
「じゃあ、おもいだした?」
その口調から、この子に会ったことがあるのだろうが、どうしても思い出せない。
「う、ううん」
そう答えたとたん、男の子は離れていって、また息苦しさが戻ってきた。
それから、男の子は冷たい口調でつぶやいた。
「しねよ」