五年前の豪雨
山の麓を切り開いた、三十世帯ほどが立ち並ぶ場所に家はあった。
夜になると国道を走る車の音がときおり聞こえるぐらいの静かな場所だった。
その日の夜中、今までに聞いたことのない音が響いた。
雨音に混じって叫び声、いや呻き声、それも人間のものとは違う、まるで悪魔の声。
同時に、これは幻聴かとも思った。寝つきの悪い夜が続いていたから。
雨風の音がさらに大きくなって、その音はかき消されてしまった。
ただ、心のこのうずきはずっと収まらなかった。
翌日、目を覚ますと珍しく外がざわついていた。
外に出て歩いていくうち、徐々に状況を把握した。
近所の人たちが集い、道の土砂を運んでいる。
裏山からの土砂が道にあふれて、その上を濁流が流れていた。
電柱が倒れて屋根にもたれかかっている民家が目に入る。
下水用の小さな川には子供の背丈はあるほどの巨石が転がり、川下まで土砂水が流れていた。
寝ている間に、こんなことになっていたなんて。
家に戻ってテレビをつけると、自分の住む町の映像がそこにあった。
国道が崩れてすぐ隣を流れる河川側に傾いている。
その上に一台の車が止まっていて、今にも川に落ちそうだった。
町の真ん中を流れる川は、その横に沿って続く遊歩道を飲みこんで完全に氾濫している。
その日、彼と待ち合わせをしていた。
突然、現れた状況に圧倒されて、つい忘れかけていたが、それは大切な約束だった。
彼に連絡をしてみると、彼の住む場所ではまったく被害がなかったらしい。
五キロほども離れてないのになぜ、と違和感があったが、それは向こうも同じだった。
単調な会話が続き、「なら仕方ないな、頑張れよ」と言い残して電話は切られた。
それからしばらく電車は動かなかった。道路が寸断され、車も走れなかった。
だから大学に行けなくなった。それは、彼としばらく会えないことを意味した。
その事実に辛さ、悲しさでなく、安堵を感じていた。
正直、今は彼に会いたくなかった。
近くの流水は数日すると引いていったが、土砂や巨石は所々に転がったまま。
ボランティアの方々に混ざって土砂を掻き出したり、多量に出たゴミの整理を手伝った。
毎日があっという間に過ぎていった。
彼に連絡をすることもなかった。忘れていたのではない。
むしろ心のどこかでいつもその気持ちは、ずきずきと疼いていた。
早く告げないといけない。
いま、妊娠しているという事実を。
わかっていても言いにくいことは、つい先延ばししてしまう悪い癖。
今回の災害も、ある意味、自分の中での言い訳にすぎなかった。
一か月ほど過ぎたころ、ふいに彼から連絡が入った。
「おれたち、もう別れよう」
その言葉は冷静に耳に入ってきた。
予想された結末だった。自業自得。
妊娠という言葉を聞いて、彼がどんな反応をするのか。考えるたびにおびえていた。
夜もなかなか寝つけなかった。
だから、彼の言葉を聞いたときには、悲しみより解放感が勝った。
これで余計な心配がなくなった。
その夜、親にすべてを話した。この状況では仕方ない。両親にそう言われて、また安心した。
客観的に見ると、ごく自然な流れだった。まだ学生の身分で、ひとりで子供なんて産めないし、育てられない。自分で決めたのでなく周りが導いてくれて、中絶することを決めた。
これは自分のせいじゃない。
集中豪雨が多くのモノを流し去ったように、その記憶を完全に流し去った。