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ゾーヴァの箱舟

作者: pinkmint

挿絵(By みてみん) 




『ああ不幸な私、もう二度とあの太陽を両目で仰ぎ見ることはできないのか』


 ケイトは銀色狼のゾーヴァの嘆きを胸の中でききながら、薄汚れた彼のボロボロの体を抱いて、ナイチンゲール通りを泣きはらした目で歩いていた。


 立派な銀の毛並を持つ彼の嘆きと絶望は、少女の胸を抉るようだった。波打つ毛並みは砂ぼこりに汚れ、目は半分潰れ、見る影もない。周囲は植物園や公園、ホテルが多く、人通りはほとんどない。


『泣いているのか、ケイト。ケイトの目が見えているなら、自分の目などなんてことはない。まだ目は一つ、残っている。前を向いて、歩くんだ』


 誰もがその会話はケイトの胸の中で行われている一人芝居、自問自答だという。そんなはずはない、ゾーヴァの口惜しさと優しさに震える声を聴くものがあれば、誰もそんなことは言わないはずだ。現世に生きる人々はいつも言う、ケイトの目に映るものケイトの耳が聞き取るものを、病んだ魂が回すからくり車のたわごとだと。

 ケイトの右手にしっかり握ったひもには車輪の付いた木箱がふたつ繋がれて、それぞれにきちんと名前の付いた動物たちが乗っていた。うさぎのマミー、猫のモモ、小鹿のグレースに子熊のガルフ、ネズミのチュール。みな埃だらけで悲しそうにケイトの後ろを揺れながらついてくる。投げられ蹴られた自分の大事な家族たちを、泣きながら拾い、ひとりで箱車に乗せたのだ。スクールバスなんて死んでも乗るものかと、諦めて運転手が発車するまで物置小屋に隠れていた。

 

 秋の日差しは、足元にオレンジと黒を混ぜたような長い影を落としてついてくる。背中では、定規とハモニカと教科書の入った通学鞄がカタカタ鳴っている。

 テムズ川沿いの公園にはもう夕方の気配が降りてきていた。マロニエの巨木の枝が垂れ下がるその下にはベンチがあって、四十ぐらいの男性がギターを弾いていた。

 長い髪を後ろで一つにくくり、破れたジーンズをはいている。俯き加減で、足で操作するシンバルとドラムの拍子に合わせながら弦をはじくその曲は、ダンスしたくなるようなテンポの速い曲なのに、メロディーにはどこかもの悲しさがあった。

 ケイトは夕日を受けながら、ベンチからかなり離れた場所で、思わず知らずそのリズムに合わせて体を揺らしていた。たまに人が行きかう程度の川沿いの緑の道は水の音と鴨の鳴き声とギターの音色しか聞こえない。男の前に置いてあるギターケースにお金を入れる人は、ケイトが見ている間はだれもいなかったが、それでも幾枚かの札とコインが見え隠れしていた。

 男は曲を弾き終わると、ケイトを見てじゃらーんと和音を一つ鳴らした。不協和音というか、何か意味ありげな、疑問符のついたような音だった。


「今こんな気持ちかい」

 

 ケイトはちょっと戸惑った後、「うん」と答えた。

「あの、全部聞いちゃったけど、お金がないの。ごめんなさい」

「いいんだよ、今日は金もうけの為じゃない。自分の音を確かめたかったから人通りの少ない場所を選んだんだ。踊ってくれてありがとう」

「なんて曲?」

「ジャンゴ・ラインハルトのマイナー・スウィングさ。ところでお嬢ちゃん、どうした。顔も膝も泥だらけじゃないか」

「突き飛ばされたの」

 ケイトは嘘のつけない性分だったので、大丈夫転んだだけ、みたいな無難な答えはできなかった。

「つき飛ばされた? 誰に」

「おともだち」

「つき飛ばすような子はお友達じゃないだろう」

 夕闇の中で見る無精ひげの男は、よく見ると遠目で見たより若いようだった。

「うん。あの、上級生の、男の子たち」

「こっちおいで。酷いことするなあ。きみ小学生かな。何年生?」

「いじめっこは五、六年生でわたしは三年生」ケイトはガラガラと箱車を引きながら男に近寄った。ベンチにかぶさるように、プラタナスの大木がざわざわと音を立てて揺れた。葉の間からぽつりぽつりと、雨粒が落ちてくる。

「どうして突き飛ばされたのかな」

「わからない。わたしのことが嫌いだから。それと、学校に箱車を持ってくから」

 少女は埃だらけの頬に流れる涙を拭いた。

「蹴っ飛ばされて、放り投げられて、銀色狼のゾーヴァの目が、片目が見えなくなっちゃったの」

「抱っこしてる、その狼のぬいぐるみのことかい」

「ぬいぐぬみじゃなくて、ゾーヴァ」ケイトは勢い込んで答えた。

「またたくさん乗っているねえ。みんなきみの家族かな」

 男がうさぎのマミーに手をかけた途端、ケイトは叫んだ。

「だめ! マミーは、あの、臆病なの。とってもこわがりなの」

「そりゃ悪かった」男は笑ってぬいぐるみから手を引っ込めた。

 笑うと目が糸みたいに細くなって、目じりに皺ができる。ケイトはなんとなく、テレビドラマに出てくるお父さんみたい、と思った。自分の父親はめったに笑わずぎょろりとした目をしているので、目じりの皺は見たことがない。

「学校に自分のぬいぐるみを持っていくのは許されているのかな」

「ぬいぐるみじゃないもん、家族だもん」

「なるほどね」

 

 少女はいつも、周囲から何となく特別扱いされていた。それは幼心にもわかっていた。校庭に出るとひたすらぐるぐる回っているかぴょんぴょん跳ねている。あるいは朝礼台の下でダンゴムシみたいに丸くなっている。出てくると校庭一杯に足で幾何学模様の絵をかき、人が入ってくると激怒する。校庭にある銀杏の木に、ぬいぐるみをおんぶして登った挙句下りられなくなって毎日大泣きする。どうお説教されても、箱車と「家族」を持ってくるのをやめない。

 絵と音楽の成績は良かったので、美術のダリル・ヒルズ先生(どうもかなり有名な画家らしかった)はケイトをいつもかばってくれていた。美術の先生は校長先生の親友でもあるらしく、この子には面白い伸びしろがあるから、押さえつけず好きにさせたほうがいいですよと、ことあるごとに校長先生に言ってくれたのだ。特に、ケイトが棒きれで校庭に描くナスカの地上絵みたいなダイナミックな動物画を気に入ってくれていたようで、よく屋上から写真を撮っていた。

 

 そういったことを言葉を選びながら説明した後、ケイトは付け加えた。

「でも、男の子たちは、特別扱いがいやだったらしいの。それで、わたしのゾーヴァを放り投げて、蹴っ飛ばして遊んだの。ゾーヴァは一番勇敢で、いつもわたしを守ってくれたのに」

「なるほど、ボタンが取れてるな」

「ボタンじゃないもん。目だもん」ケイトは抗議した。

「実はな、おじさん、いいもの持ってるんだ」

 男は布のずだ袋をケイトに見せた。濃い藍色でできていて、内側には古風な蔦の柄のような絹の裏地が丁寧に縫い付けてある。そして袋の外側のすそには、ずらりと一周、いろんな色のボタンが飾りとして縫い付けてあった。

「あ!」

「どの目がいい?」

「ゾーヴァ、どうしようか。ちょっと待っててね」

 ケイトは丹念に布の袋を眺めまわし、青く透き通ったガラスのボタンを選んだ。

「これがいい。同じの二つある?」

「ボタンはうらっかわのポケットにもはいってるんだ。これだ、あった」

 男は小さな裁縫道具入れを取り出し、断ち切り鋏で、目のあった場所にぶら下がっている糸を切り取った。そしてベンチに座ったまま、とても丁寧にボタンを縫い付けてくれた。その手つきは、子どもの目から見ても驚くぐらい手馴れていて素早かった。

「さて、できた。やぶれてたところも、繕ったぞ」

「わあ、ありがとう」ケイトは喜びのあまり、ゾーヴァを抱きしめた。「よかったねえ、ゾーヴァ。前みたいに、わたしが見える?」

 透き通った大きな目をしたゾーヴァは、前よりもずっと威厳が増したように見えた。ソーダブルーの目は銀色の毛並によく似合っていた。

「大丈夫、お嬢ちゃんの赤毛も可愛いそばかすもその丸眼鏡もちゃんと見えてる」

「おじさん、なんて名前?」

「名前かあ。そのゾーヴァってのもらっちゃダメかな」

「だめ! これは世界に一つだけ、特別な名前なの。他の人にはあげない」

「学校と家庭、どっちが楽しい?」

「……」

 唐突な問いに、すこし考えてケイトは言った。

「にんげん、は、きらい」

 男はギターをまたポロンと鳴らすと、俯いたまま言った。

「こんなのはどうかな。きみ自身が好きな動物になって、動物の家族と一緒にその箱舟に乗るんだ」

「え?」

「いつか全世界が洪水でおおわれる日の為に、僕がその箱舟を引いて旅をする。こんな静かな小雨の日がいい旅立ちの日和なんだ。人間のいないところへいく、長い旅路のね」

「……」

「そしたら、人とモノの垣根も取れて、きみは動物の家族とじかにお話しできるかもしれない」

「どんな言葉で?」

「きみたちだけにわかる、特別な言葉だよ」

 ケイトは男の隣に座ると、まじめな顔で言った。

「おじさん、魔法使いなの? どうやったらそんなことができるの?」

「ひとばんゆったりと、僕の音楽を聴いていればいいんだよ。おなかがすいたらパンとスープをあげよう。すこし雨宿りしていったらどうだい、家族のみんなもね。ぼくの奏でる静かな音楽を聞いたら、きっと眠くなる。目覚めたころには、きみは素敵な箱舟の上の動物になってる。どんな動物かは、その時のお楽しみだ」

「おじさん、おうちがあるの?」

「ああ、これでもあるんだよ。ギターじゃなくヴァイオリンも笛も、自分で作って奏でてる。ぼくの音楽に興味を持ったもの好きな金持ちが地下室を貸してくれたんだ。見に来るかい」

「うん!」

 男はギターをケースに入れ、足踏み式のドラムをばらして大きなビニール袋にいれて立ち上がった。そうして二人は並んで、テムズ川沿いにガラガラと箱車を鳴らしながら歩いた。

 

 この人の奏でる静かな音楽を聴いて、眠る。眠っているうちに、かなしみはなくなって、動物になる。時が戻せるなら、あんたという子を産む前に帰りたいわまったく、と嘆いてばかりいるママと、出張ばかりで忙しいパパとの喧嘩も愚痴もきくこともなくなるのだ。いいかもしれない。どこか、知らないところへ出かけるのはステキだ。道なりに四季咲きの白い薔薇がふわふわと咲き、通り雨に揺れて香った。


「おじさん。サウンドオブミュージックって、知ってる?」ケイトは思い出したように突然、尋ねた。

「うん? ああ知ってるよ、有名なミュージカル映画だね」

「わたしね、あの中にたくさん好きな歌があるの。今は悲しくてまだ歌えないけど、マイフェイバリットシングスとか、ソー・ロング・フェアウェルとか、クライムエブリマウンテンとかドレミとか。箱車の家族たちに歌ってあげている歌がいくつもあるの。悲しいことがあったあと、歌ってあげるとみんな、嬉しそうに聞いてくれるの。わたしはマリア先生で、みんなはわたしの子どもたち」

「素敵だね」

 男は笑顔を浮かべて、ケイトのあごを掴んだ。

「きみにはもう笑顔がある、大丈夫だよ。じゃあ僕の工房は見ないで帰るかな」

「それは、……見る。見たい」

 

 糸杉の並木が続いた。街灯に照らされて、まるで色紙でできた作り物のように非現実的だった。

 こんな並木がここいらにあったろうか。自分はひょっとしたらもう夢への道を歩いているのではないかとさえ、ケイトは思った。

 テムズの支流を離れて古い小さな家が並ぶ路地に入ると、道は下り坂になり、灯りも少なくなった。そうして、雨も上がりかけていた。

「あ、キツネ!」

 暗闇を斜めに走り抜けるキツネを指差してケイトが言うと、男はケインケインと不思議な声音を出した。狐は立ちどまった。小形の犬ぐらいのサイズだ。男はポケットからビーフジャーキーを出して投げた。狐はくわえて走り去った。

「それすこしちょうだい」

「ああ」

 男がケイトにジャーキーを裂いて渡すと、ケイトは胸の中の、目を入れたばかりのゾーヴァの口元にそれを置いた。

「辛い一日だったね。たべて、ゾーヴァ」

 ケイトは口元にジャーキーを押しやった。

「いい子ね」

 ジャーキーはまるでゾーヴァの口元で消えたように見えた。男は今さらながら銀色狼の青い視線を背中に痛いほど感じていた。

 

 背の低い柊の生垣に囲まれた、蔦だらけのちいさな家が闇の中に現れた。玄関先には、可憐なブルーの花が群咲いている。

 丸窓のあるこげ茶のドアを押すと、申し訳程度の玄関があり、すぐ横は小さなダイニングキッチンと暖炉のある個室、その奥にシャワールームがあった。

 レンガ色の木製のドアを開けると、男は言った。

「この下が地下室だよ。防音仕様になってる」

「ふうん」

 子熊のガルフの頭を撫でながら、箱車を抱えてケイトは男のあとから恐る恐る下りて行った。

 工房の壁は削りかけのギターとヴァイオリン、それに様々な素材の笛でいっぱいだった。

 完成間近の竹の笛もいくつかあった。

「オイルヒーターは故障中なんだ。雨に濡れて寒いだろう、毛布を用意しよう」

「その笛、鳴る?」

「鳴るとも。でも、危険な笛だ」

「どんな風に危険なの?」

「こいつを外で鳴らすと、住む家のない子供やロマの子や、家族の間で迷子になっている子が、ぞろぞろとあとを付いてきたりしてしまうんだよ」男は真面目腐った顔で言った。

 ケイトは目を丸くした。「ハーメルンの笛吹きみたいに?」

「そう、そう。追い返すのに苦労する。音楽は楽しいけれど、食べ物や家族や未来を与えてくれるわけじゃない」

「じゃあ、何を与えてくれるの」

「きみが歌うなら、聞いている動物たち皆にひとときの幸せを。ぼくが笛を吹きギターを鳴らしたら、あすのことはもうどうでもいいと思っている人たちにひとときの安らぎを。そして寂しい子供たちが、あとをついてくるおまけつき」

「ものがたりのハーメルンの笛吹きについていった子供は、結局どこへ行ったのかな」

「誰の手も届かない、誰からも見えない世界だろうね」

 男はケイトの体をつつむオレンジの花柄の毛布と、電気ケトルで入れた温かい紅茶を持ってきてくれた。ケイトは毛布に包まれたまま温かい紅茶をひと口飲んで、「お砂糖ちょうだい」と言った。男は微笑んで、まるでレース編みの雪の結晶のようなものをルビー色の紅茶に浮かべて見せた。あ、とケイトが小さく叫ぶと、結晶は見る見る紅茶に溶け、中央で光っていた赤い球状のゼリーだけが残った。

「きれいだったのに、消えちゃったわ」

「消えないと、紅茶は甘くならない」

 男は丸椅子に座ると縦笛を咥えた。伏せた睫毛が、男性にしては驚くほど長かった。

「じゃ、カチャピ・スリンを竹笛でやってみよう。眠くなったら寝ていいよ」

「カチャピ? 何?」

「もともとはインドネシアの音楽で、カチャピと呼ばれる琴とスリンと呼ばれる竹笛で奏でるんだ。僕は琴も奏でられるけど笛で手が足りないんで、琴の部分は録音に任せることにする。ロマの音楽もやるしクラシックもジャズも手掛ける。僕は器用貧乏なんだよ。ああ、音楽はいい。音はどんなものでも、無限の世界を持ってる」

 ゾーヴァの毛並が心なしかふわりと逆立った。

「きみのケイトは大丈夫だよ、ゾーヴァ。それに目ん玉をつけてあげた恩を忘れないでくれな」

「へんなおじさん。ゾーヴァは何もしないわよ」

「きみを守ることのほかはね」

「おじさん、不思議。ゾーヴァのことがよくわかってるのね」

 

 笛は静かな音節のゆっくりとした連なりから始まった。短調の、ラレ抜き音階だった。途中から、足元のスピーカーから録音した琴のパーツがころんぽろんと流れ始めた。

 磯の波打ち際を走るシギ、夕暮れの中の植物園、あちこちの葉陰から顔を出すチュールやモモ、孤独な崖の上で仲間を待つゾーヴァ、蜜を舐めるガルフ……雨だれ。いろんな風景が、もつれては連なって揺蕩う音色に乗せて次から次と頭の中でひらめいていく。

 そのうち、さざ波のようにケイトの脳髄に得も言われぬしびれが広がっていった。何だろう、たくさん風邪薬を飲んだ時のような、黙ってパパのお酒を飲んだ時のような……

 

 ケイトの脳裏では、やがて夢とも現ともつかぬ光景が果てしなく広がっていた。カチャピ・スリンの音色はまだ続いている。雪が薄く積もったどこまでも平たい地平を、長い髪をくくったおじさんの背中が先導してゆく。かすんだ紫色の山々が見える。

 振り向くと、年齢もばらばらなたくさんの子どもが、色とりどりの服を着て踊りながら一列になってあとを着いてくる。

 自分は? 歩いていない。足が地面についていない。見違えるように成長したゾーヴァの背中に、ケイトはまたがっていた。両肩にネズミのチュールとモモが乗っている。うさぎのマミーは小鹿のグレースの背中に乗っている。

「わたしたち、寒いところへ行くの? この雪はみんな解けて、箱舟に乗ることになるの?」

「そうしてみんな埋められるんだ。埋めた後には白い花が咲くんだ」後ろから男の子が話し掛けた。振り向くと、忘れもしない、ゾーヴァをけ飛ばした悪ガキ、ウィルマ―だった。

「あんたたちみたいないじめっ子軍団なら凍えて埋められても仕方ないわ。そしたらそのあとに、春になったらスノードロップが咲くでしょうね」ケイトは言った。

「沢山咲いて、白い道ができる」ウィルマ―はけろりと言った。彼の父親はアル中で母親は水商売で、今夜は家にいるなとしょっちゅう殴られては外に追い出されていると聞いたことがある。

 突然、ケイトがまたがっているゾーヴァが初めて聞く低いで言った。


『心配ない。あの笛吹き男がケイトに手を出すようなそぶりを見せたら、遠吠えでまわり中の狼を集める。そしてあの男をやっつける』


「埋められるのがウィルマ―やあんたを投げつけたアシュリーなら構わないわ。でも彼は、あのおじさんは、あんたに目を付けてくれたいい人よ」

 突然、先頭の笛吹き男が振り向いた。

「夕食の時間だ。腹が減ったかい。肉を焼かなきゃな」

「何のお肉を焼くの?干し肉や、狩猟の道具は持ってるの?」ケイトは聞いた。

「そんなものはなくても、お嬢ちゃんのお連れがいるさ」

「……冗談、でしょう?」

 子どもたちの目が光った。男は謎めいた声で言った。

「さて、冗談にしようか、どうしようか」

「遠吠えをして、ゾーヴァ!」


『できない。きみの、きみだけの身を守るためにしか、私は働けないんだ』


「そんなこと! 身を守るのは、わたしのためよ!」

「きみも腹が減ったろう、ケイト。サラダやパンばかりじゃ嫌だろう?」

 ケイトはいつの間にか、男のそりから薪割り用のなたを取り出していた。

「やってごらんなさい。食べられるもんですか。みんな家族なのよ、わたしがそうはさせないわ」

 突然、ゾーヴァが遠吠えをした。

 

 ウォーアー、アオー、オオオ―ン。

 

 青い瞳が燃え上がっていた。仲間を集める気だ。青く澄んだ、星まで届きそうな声だった。

 遠くからオウオウ、アオオーンと狼たちの声が戻って来た。

「そうよ。呼ぶのよ、ゾーヴァ!」

「冗談だ。遠吠えをやめてくれ。僕はパンとスープ以外、きみたちに与えるつもりはない。本気にするなよ、僕たちは友人同士じゃないか」

 そう語る男の髪はいつの間にかざんばらに乱れ、酷薄な笑いが口元を引きつらせていた。少なくともケイトには、そう見えた。


「傍に寄らないで!猫のモモ、ガルフ、グレースにチュール、早く散り散りバラバラになって逃げて、にげて!」

 

 霧にかすむ角々の岩山からいろんな狼が顔を出した。黒いもの、白いもの、ハイエナに似たもの、ウルフドッグのように巨大なもの。ゾーヴァの瞳に、見たことのない懐かしさのようなものが宿った。

 ケイトは思わず知らず叫んでいた。

「ああ、ゾーヴァお願い、群れに戻っちゃだめ、わたしも仲間よ、人間なんかじゃない。わたしを乗せて連れて行って!」


 

 正気に返ったのは翌日の昼だった。

 眠っている間に熱を出したケイトを、あの男が毛布にくるんで、行方を捜していた女中のアンナに偶然出会い、託したのだ。ぬいぐるみの家族をのせた木箱ごと、音楽を聴きについてきたと説明しているのがおぼろに聞こえた。まあ事実そんなものなのだが。

 学校で散々な目に遭わされたというぬいぐるみたちは、ぼろぼろのままだった。ただひとつ、きれいになおされたゾーヴァを除いて。

 男はとくに詰問されることもなく開放された。ケイトが人の家に上がり込んでは行方不明になることはそれこそしょっちゅうだったからだ。家族のだれもがあきれ返り、慣れ切っていた。

 だが熱が下がって一週間ほどたった夕方、ケイトの家からそう遠くない地区で、そう、あの男の家のあったあたりで、子どもが次々と行方不明になっているというニュースが流れはじめた。犯人と目される男の似顔絵は、髪はぼさぼさで眼鏡姿で髭は貧相で、そもそも絵が下手くそなので一見してあの男と似たところはなかった。

 だが、妙に長い睫毛と目じりの皺と青い細い瞳が、ケイトにはどうしても彼を連想させた。バラ模様の紅茶を飲ませてくれた、あの男を。


 一か月後、男はついに逮捕された。

 男の家の地下室からは、たくさんの子どもたちの遺体が見つかった。


 名前はカルネ・バイソン。ロマ上がりの漂泊者で、動物の話やお菓子や音楽で子どもたちを釣っては、空地の地下室で命を奪い、遺体を埋めていたという話だった。

 住所や詳しい地域は、早口のアナウンスでケイトにはわからなかった。彼の逮捕写真はやはり荒れ果てた顔つきをしていたが、細面で青い目をしている優男、というところは、やはり彼と似ていた。似てはいるが、同じとは言えない。

 チェリーボンボンを片手にテレビを見ながら母親は言った。

「ほうらね。あなたみたいにふらふらと誰にでもついて行く子は、しまいにあんなことになっちゃうのよ」

 

 ケイトは例の夢を思い出して総身が震える思いがした。

 

 雪の積もった平原を、笛を吹きながら男が行く。子どもの列がその後をついていく。自分はゾーヴァにまたがっている、あるいは動物に化けて箱舟に乗っている。守ると言ってくれたのはゾーヴァだ。でもあれは夢に過ぎない。すぎないのに、自分の中の本能が、この出来事は現実と境なく繋がっている、と言っている。あの平原に、もしかしたら、自分も埋められる運命だったのかもしれない。あるいは埋められなかったかもしれない。

 

 アンナもだれも、あの日自分を送り届けた優し気な中年男とカルネ・バイソンを繋げていない。見た目が違うからだ。つながっているのは自分の頭のなかだけだ。そして日暮れのテムズの支流とマロニエ、四季咲きの薔薇と糸杉、ジャーキーを食べた狐だけが二人の姿を見ている。


 でも、とケイトは思った。


 学校になじめないならそれなりの学園をお探しなさっては、と暗に言い続ける校長との戦いで疲弊しきっている母親をほっとけば、この物語は自分のなかだけのものだ。そこに、得も言われぬ不思議な甘い香りが立ち込めている。これは何だろう。

 あの夜、あの男……もしバイソンであったならばだが……その凶悪な男が地下室で自分を選んで殺さなかったという甘い思いを、笛の音に重ねてケイトは陶然となった。あの男は自分を殺害のリストから除外した。甘い美しい紅茶を飲ませてくれた。自分と自分の家族にだけ、優しかったのだ。他の子はみんな殺したのに。その選択に対する感情は、何か言葉にできない、してはいけない暗い秘め事のようだった。


 とある日、最初男に出逢ったテムズのほとりに、こんどは箱車なしでケイトは出かけてみた。両手の開いた身体は、舵を失った船乗りのように、心もとなかった。

 ベンチのあたりには、こんもりと子どもたちの人垣ができていた。人垣の中から音楽が聞こえた。笛とギターとシンバルに鈴、そして歌声。あの男の声だ、間違いない。ケイトの胸は高鳴った。

 

 やっぱり、違うの? 人さらいは、あの人じゃないの?

  

 背伸びをしながらぴょんぴょん人垣の後ろを跳ねていると、サンタクロースのような大柄な、白いひげの老人が腰を曲げて話しかけてきた。

 美術のダリル先生だった。

「レイ・ウィルビーと知り合いかい? 姿が見たいなら、肩車してあげようか」

「して」

 一言で答えたケイトを、ダリル先生はいともかんたんにひょいと肩に担ぎ上げた。

 遠目に見ても、それはあの日の、辻音楽家の男に違いなかった。後ろで一つまとめた長髪、音色もやさしい表情も何もかも。

「あの人、名前、レイ・ウィルビーっていうの?」

 ケイトの両足をしっかりつかみながらダリル先生は言った。

「そうさ。名門音楽大学の出身で才能豊かな作曲家だが、名声を嫌い、子ども相手の音楽教室をしたり楽器を売ったり、こうして路地で演奏したりして暮らしてる。彼の手作りのギターもヴァイオリンも笛も絶品だ。木や竹の笛なんか、得も言われぬα波が出て不眠改善に使われてるぐらいだ。だから僕がほれ込んで、店子が出て行ったばかりの借家を貸してあげたんだよ。来月、ロンドンの国際音楽イベントに出場する予定だ。もっとも、彼に工房を与え宣伝をして名声を広めた僕のお陰もあろうってもんだがね」

「あの、あの、恐ろしいカルネ・バイソンて人はどうなったの?」

「突然その話かい。あの罰当たりな人殺しなら獄中にいるよ、安心するがいい、一生出られまい」

 

 ケイトは、しばらくダリル先生のもしゃくしゃの頭髪につかまったまま、その体の揺れに身を任せて楽しげなロマ風の音楽を聴いていた。レイ・ウィルビーが、肩車されているケイトに気づいて、笑顔で手を振ってきた。ケイトも振り返した。そこに、あの夜聞いたカチャピ・スリンの哀切なメロディーが重なってきた。


 ……ひと違いだった。


 条件はそっくりだったけど、あのやさしいおじさんはただの、立派な音楽家だったのだ。

 その現実が、胸にすとんと落ちた時、ケイトは言った。


「ありがとう、もういい。おろして、先生」

「よかったら、ロンドンの音楽祭のチケットをあげようか?」

「うん、そのうちね」

 

 ケイトはダリル先生の広い背中を滑り降り、一目散にただ、家を目指して走った。そして見慣れた執事が鉄の大きな門を内側からあけて、お帰りなさい嬢ちゃま、と挨拶する横をすり抜けると、そのままテューダー朝の家に飛び込み、自室のふかふかのベッドに身を伏せた。


 薄く目を開けた視界の中で、ベッドに並んだぬいぐるみの家族たちは、レースのカーテン越しの窓から入る夕日の逆光を浴びてみな毛先を美しく輝かせていた。気を利かせて、女中が洗ったのだ。その中心にゾーヴァはいた。彼の青い瞳は、慈愛そのものを映す水晶のように、優しく深く光っていた。


「おいていってごめんね」


 ケイトは動物の家族みんなに丁寧にくちづけて、しまいにゾーヴァを抱き寄せた。その首を胸の中に抱きこむと、体の震えがゾーヴァに伝わるのがわかった。


『一人でお出かけできたんだね。外でまた何かあったのか。前に降りかかった災難を超える、もっと悲しいできことでもあったのかい?』


 ゾーヴァの静かな声が、ケイトの胸に染み渡った。ケイトは首を振って、ゾーヴァの鼻先にキスした。

「何でもないわ。わたしといっしょに眠りましょう、そしてみんなで綺麗な夢を見ましょう。大好きよ、ゾーヴァ。大好きよ、みんな」

 ゾーヴァは濡れた鼻面をケイトの頬に押し付けてその頬を舐めた。睡魔が、音のない噴水のようにやってきた。


 やがて揺らめくような笛の音の記憶とともに、見たこともない光景が広がっていた。……ウユニ塩湖。そんな言葉が頭に浮かぶ。ビーズのような雨粒がキラキラと落ちては、平原を満たす済みきった水の世界を広げていた。あちこちにスノードロップの群れが咲いている。水の中からすっくと立ちあがって。

 箱車は大きくなり、いつの間にか立派な布の屋根がついた箱舟になっていた。

 

 ケイトは愛する家族たちとともに、空と雲を映す夕暮れの水の世界のただなかを、静かに船出していった。







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[一言] 本作の面白いところは、題材と構成がエンターテイメントとして優等生的なお仕事をしていて文章はいつものことながら公正で明瞭であるにもかかわらず、うん?と首をかしげる不透明さではと思います。色鮮や…
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