08.条件
伯爵家は返事をせず、その期日にグリオルは再びベルネット家を訪れた。
ソファには例の通りの順番で一家が腰を下ろす。アレクサンドラは満面の笑みでグリオルを見つめた。
お茶が運ばれてすぐ、父は婚約者をアレクサンドラに変更したいと申し出た。
「わかりました。我が家と致しましてはどちらのお嬢様でも構いません。それではそちらを前提に話を進めましょうか」
重要な変更にも関わらずグリオルの応対は常に事務的で変わらない。
「アレクサンドラ嬢はもう成人されていますので、我が家にお越しになるのは領地との兼ね合いで今日から2ヶ月以内、早い分にはいつでも構いません。ソフィア嬢には婚約解消のお詫びでいい家柄の者をご紹介します」
姉はニコニコと頷いている。
「嫁入り後に必要なものはこちらで揃えます。お荷物は馬車1台分と決まっておりますので、大切なものはお忘れなくお持ち下さい」
馬車1台とは少ないが、これに姉はさらに機嫌を良くした。たくさん買ってもらえると思ったのだろう。両親も満面の笑みだ。だがソフィアは違和感を思い出し、グリオルの言葉を探る。
「さて、念の為もう一度お断りしておきますが、今回の変更では大きなリスクが伴いますのでご承知下さい。また、アレクサンドラ嬢がそれを挽回できる機会は非常に少ないですが、努めて下さい」
この言葉に母子が怪訝そうな目を向け、父はわずかに顔を曇らせた。
「2か月後に王都を離れますとご親戚にも滅多に会えなくなりますので、婚約に至った経緯をご説明の上、ご挨拶を済まされた方がよいと思います」
グリオルはすらすらと言葉を続ける。うっすら浮かべた笑みは当然社交辞令だ。この姉に話が通じない事は学習した。性格もわかった。だから手に入れたヒントを活用して婚約を降りてもらうつもりでいる。
「薬草の宝庫と言われる我が領地はとても遠いのです。会いにいらっしゃるのはご負担かと」
「あら、それならこちらから会いに行きますわ」
姉の笑顔の言葉に申し訳なさそうな顔を返す。
「領地は王命に従い、自生する薬草の管理、研究や発見に力を入れております。侯爵家は領地の管理を滞りなく行う使命があります。土壌管理をはじめとする視察や調整が忙しいため、3か月ある冬の社交シーズン内の1か月以外は領地を離れる事は難しいです。王都でも仕事がありますし……ですから、お出かけも。今回の婚約に伴う噂の挽回も長引けば厳しいものになるでしょう」
貴族社会は窮屈だ。腹の探り合いに貶し合いは当然。特に令嬢は噂話が大好き。噂をそのままに領地にこもったら茶会などで拡散されて、次の社交シーズンには村八分にされる恐れもある。下手をすれば挽回には年単位の努力が必要になるだろう。それも今回は一時の事ではなく婚姻。何かにつけて囁かれるのは想像に難くない。
これを聞いた姉は客の前にも関わらず不機嫌そうな顔をした。母の顔の白さがその恐ろしさを物語る。大事な娘が心配なのだろう。なんとかならないかと質問を投げかける。
「1か月とは随分短いのですね。折角こちらの家との繋がりも出来るのですし、のんびりされては?」
「領地管理が一番の仕事のため年間予定は厳守です。視察も帳簿も忙しいので、非常事態でなければ1か月が限度です。今回は婚約の件で時期をずらして長くおりますが例外です。領地の特殊性故に異論は認められません」
グリオルの答えはにべもない。
「例えばこまめに王都に通うことは……」
「移動費が大きな負担になります。急用以外はあまり認められません」
自然豊かで広大なドレッセル家の領地は遠い。いくつかの領地を抜ける間の宿泊費もかかる。姉の為ならなんでもしそうな両親もこれには黙った。
ぽんと手と叩き明るい声の姉が言う。
「簡単な事ですわ! 領地管理は代行者に任せ、帳簿は当主が王都で管理すればいいのです! 書簡のやりとりだけなら費用も嵩みませんでしょう」
先程の説明を理解しない笑顔に冷静な言葉が返る。
「なりません。我々も視察に出ますし、管理は責任問題。何より領民への貴族としての責があります」
姉はまた不機嫌な顔をする。家の経営の事を学んでいるが、自分に都合の悪いグリオルの言い分が理解できないでいる。
すぐに思い出したように顔をほころばせた。
「数年間は文官をなさるのでしょう? その間は……」
「私は城に滞在し、その間妻は領地で薬草の勉強をしていただくことになります」
それではその間は夫婦間の交流がなく、子どもも望めないということだろうか。姉はじきに19になる。他国よりも医療が優れた我が国でも、子もなく数年過ごすには厳しい年齢だ。
王都にいられないことに不満を表す姉の顔もグリオルには関係ない。
「他にも細々した事はありますが、後は家庭内の事で今お伝えすることはほとんど……強いていうなら、領地で挙げる結婚式の際のご家族の旅費はこちらで負担するということでしょうか」
「王都ではないんですか?」
姉が悲しそうな声を上げた。隣の母は顔が真っ青だ。この国では結婚式は領地で質素に行うのが習慣だったが、最近王都では知り合いを招いての盛大な式を挙げる貴族もいる。派手好きの姉はそれを望んでおり、侯爵家なら当然できると信じて期待していた。
「はい。領民への紹介も兼ねていますので、領内の教会で挙げそのままお披露目会という流れです」
爽やかなグリオルに対しベルネット家の3人は引きつっていた。ただ1人ソフィアだけが静かに彼を見つめ続けた。
姉と母は縋るように父を見る。
当然父はこれを把握していたが、ソフィアが嫁ぐのなら話す必要がないと思って黙っていた。姉が立候補してから一番の引き止め文句だったが、これを話しても気が変わらなかった時には最後の手段も娘も失うことになる。加えて知らせずに嫁がせようとしていたソフィアの耳に入るのを恐れて言わなかった。これを知ったアレクサンドラはその性格上、自己主張して悲劇のヒロインになるか、ソフィアをあざ笑うだろう。
――父はこれでアレクサンドラ姉様の気持ちが変わればいいとも思っていたから、今日この場まで黙っていたのだ。私の事はどうでもいいけど、知られたら都合が悪いから何も言えずに。
全てを察したソフィアは誰にも気付かれないように小さく息を吐いた。
その様子にグリオルが訊ねる。
「……あの、もしやご存知なかったのでしょうか?」
父の肩がぴくりと震えた。
「婚約の書類にあるのでご存知かと……。つい先日、こちらの文官の件を確認した際にも問題ないとご回答いただいております。ご不明な点は遠慮なくご確認下さい。もしソフィア嬢に考え直されるのでしたら構いません。正式な手続きの為に明後日また参りますのでその際にお返事を下さい」
こうしてグリオルは伯爵家を後にした。もしやも何も、グリオルはアレクサンドラが知らないことを察していた。首尾は上々だ。
見送ることもせずに姉はさめざめと泣いた。去り際に渡された条件書の写しを前にどうして教えてくれなかったのと父を詰りながら、自分の願いを叶えられるように婚約を結んでほしいと訴えている。
「ねえ、お父様、婚約は新しく結び直すんですもの、それくらい可能でしょう? あちらだって文官の数年間の条件を付け足したのだもの。それに伯爵家の当主として育てられた私が行くのよ」
娘を慰める母もこの条件は把握していたはずだが忘れてしまっていた。夫婦の視線は噛みあわず、応接室の空気は悪い。
ソフィアは気が付いていた。婚約は移るだけだ。向こうの家からしてみたら『どちらでも』問題がない、その言葉の意味を姉は理解していない。今現在も姉が嫁ぎたがっているだけで向こうは特別望んでいない。どちらが来ようが妻として機能するならどうだっていいのだ。つまりそんな理由で優遇されるわけがない。おまけに姉は侯爵領の何たるかを察していない。どんなに姉を気に入っても条件の変更はないだろう。
ソフィアへの婚約者の紹介だってソフィアを気に入っているからではない。侯爵家として世間体という務めを果たすための行為だ。多少の厚意が入っていても、そんなものはこの貴族社会での他所からは関係がない。
父は暗い顔で口を開いた。
「アレクサンドラ、条件を変更するのは難しい。だが、お前の移動費をこちらで持つと言えば里帰りは許されるだろう。打診してみよう」
「あちらが許すなら社交シーズンも長めにここに居てもらっても構わないのよ」
母の言葉に姉が泣き止む。
「嬉しいわ、お母様。でも私は侯爵家の女主人として振る舞い、子どもを産む使命があります。ひと月に一度帰ってこられれば充分ですわ」
信じられない発言に父の笑顔が引きつる。さすがにその頻度だとは思っていなかった。諫めようとする父の声を遮りながら母は姉そっくりの明るい顔で笑う。
「そうね。結婚式もこちらで一度挙げて領地でもう一度挙げればいいわ。参列者が違えばドレスは同じものでもわからないでしょう」
「ああ、お母様、本当に素敵!」
さっきまで泣いていた姉はすっかり喜んでいる。その横で父は断らねばならない気持ちと、娘への愛情が入り混じった複雑な顔をしている。派手好きの姉の願いを叶えればどうなるか、父は金勘定を終えていた。そうなれば伯爵家の家計は火の車。親であり女主人である妻が止めないのも苦しい。
浮かない顔の父は母に相談があると言って連れ立って応接室を出て行ってしまった。残された姉は条件書を手に「私は当主になるはずだったのよ。これでは難しいわ」とぶつぶつ不満をこぼした。
ソフィアは茶器を片付けながらこみ上げる気持ちを堪えた。気持ちの名前はわからないが、なんにせよ良い感情ではない。飲み残しの紅茶に映る顔も妙に歪だ。
――嫁いでなお姉に支配される家に残るならきっと幸せは遠い。それなら夫となる人は私が愛せて、その愛を返してくれる人じゃないと辛いかもしれない。
侯爵家にそんな自分本位な人材を望むことの情けなさを考え、改めてこの家を虚しく思った。
年間1日も休みがない特殊なお仕事の方々は本当にすごいと思います。尊敬しております…。
条件の詳細は数話後に登場します。割と普通の条件ですのでソフィアにとっては問題ありません。
政略結婚と言えば妻は血か金銭の役割が多いですが、今回は発端が発端なのでパイプ役不要です。