07.感情
06話、途中が繋がっていない原稿を投下しており大変失礼しました。
昨日21時半頃に差し替えました。
夜会から帰った姉は機嫌が良かった。大分夜も遅かったが私は自室から引っ張り出され、ところどころに赤ワインのシミがある豪華なドレスの染み抜きを命じられた。起こされた理由は簡単。自慢話をさりげなく聞かせたいから。
染みを抜いている間、姉は自慢話を高らかに話した。勿論聞き役は両親だ。
「デニス様が仰ったの。私が嫁いでしまうのが寂しいって。私が嫁げる身分にもなれるならあの時口説けばよかったと」
酔っ払っているのだろう。声が大きい。それにしても本決まりではないのにもう誰かに話したのか。
「デニス様の奥様はほら、とても地味で。私の方がお似合いでしょう。でも子爵家。私は侯爵家にお嫁に行くのですもの」
「さすが私の娘ね、社交界でこんなに人気だなんて。侯爵夫人としても立派に振る舞えるわ」
母はニコニコ笑った。社交界の事はわからないが、デニス様とやらが既婚者と思われるような言い方で、私には不穏な会話にしか聞こえない。
「それにファビアン様も今日はダンスの手を離して下さいませんでしたの。良い方なの。でも身長もグリオル様に比べたら高くないし、グリオル様よりもお顔も宜しくないものだから。伯爵家にして分不相応というものね。訳アリの訳が目に見えすぎて独身なのも頷けるわ」
見知らぬ令息がなんとも不憫だ。客観的に見れば姉とて同じようなもの。しかもこちらは性質が悪く、見た目には何の不備もないのに中が悪い。自覚がないのがまた残念。伯爵家の財産までついてくるというのにこれまで3年、姉を選んだ男性はいないのだ。
胸の中で数年ぶりの悪態をつき、ここで私は姉が未婚の理由に初めて気づいた。寝しなに起こされたのもあって、少し気分がささくれている。
姉も母も上機嫌で話を進める。
「グリオル様には会えた?」
「いいえ。エスコートをまた今度って言われたじゃない? あの方きっと参加されなかったのだわ。姉を送りには来たみたいだけど、すぐにお帰りになったらしいから」
その途端、何かを思い出したのか急に不機嫌になった。
「あの方の姉、すごく気が強くて意地が悪いのよ。もうすぐ結婚すると聞いたけれど、嫁いでからも家に関わるらしいの。当主になる予定もなかったのにどういう了見かしら。会いたくないから、グリオル様が後を継がれたら里帰りをお断りしましょう」
元々姉は自分を特別だと思っている節がある。嫁ぎ先の家に対しても自分の意見が通ると思っているのだろう。多分「当主になるべき人間だった自分は特別」なのだ。
この後はずっとダンスを踊った男性の話、ドレスを褒められた話などを酔っ払い宜しく何度も繰り返した。染み抜きを終わらせ心を無にした私がベッドまで連れて行くもまだ話しており、自慢しながらようやく眠りについた。
その翌日、珍しい事に姉は父に叱られた。まだ決まってもいない婚約を勝手に触れ回るなというもっともな理由だったが、姉は父に怒られたと憤慨して廊下を走って行った。叱られ慣れていない姉は母に泣きつき愚痴をこぼし、それが階段の手すりを磨く私の耳に入ってくる。この歳になってもその違いを理解できない姉に、少し気の毒な気持ちが起こった。
万一ドアが開いたりして私に聞かれたと知っては姉がどうなるか想像に難くない。知らんふりで雑巾を洗いに行こうとすると、父に呼び止められた。
「ソフィア、あの縁談がなくなるとお前がこの家の当主になるが、これからではデビュタントの用意が難しい。1年先延ばしでも構わないか?」
意外な質問に思わず目が大きくなる。父に何かを確認されるなんて、いつぶりだろう。いつだってこちらなど関係なく話を進めているのに。この確認だって拒否権などない。ただ言質を取るためのものだ。
父の顔はとても暗く声も小さい。婚約者の問題が決まっていないうちの姉の行動。ついに姉を嫁がせる気になったが、今日の今からでは私の方は金銭的に間に合わない、ということかと察する。これまでの計画自体に問題があるという事に気が付いているのかは知らないが、別にデビュタントに憧れなどないし、自分でもダンスの件は本当にまずいと思う。
「はい。構いません」
父の顔が明るくなる。
「そうか! では1年遅れてのデビューだな! お前はダンスもマナーもできんし丁度良かろう!」
私にはかけた事のない明るい声音で告げると、廊下の向こうの自室へ戻って行った。
私は2つの意味でため息をついて雑巾を洗いに向かった。
午後、裏庭に干したシーツを取り込み脇の勝手口に回ると、テラスでお茶をする母と姉の声が聞こえる。感情的なためか大分声が大きい。
「先程お父様にダンスとマナーのレッスンは今週で終わりでいいと言われたのよ。ひどいわ。私はこの家の当主予定で次期当主の妻として侯爵家に行くのだから必要でなくて?」
「そうね、後でお話してみるわ」
「あと、ドレスもよ! やはり新しいドレスで行かないと、見た事あるドレスでは失礼よね? 私のドレス姿は社交界でも噂でしょうし」
会ったことのない婚約者の姉の茶会や社交界のドレスの噂など気にしていなかったのでは、と思うが姉の中ではそうではない。
「ソフィアにデビュタントのドレスを作ると聞いたけれど、あの子は顔が貧相だから似合うものも少ないでしょうし、凝ったものは費用も嵩むでしょう。あの子が強請ったのかしら」
「さあ、どうかしら。もしあなたがドレスを置いていくならそのドレスを手直しして与えてもいいわね」
「私のを? やだわ、お母様。私のドレスは私の顔に合うでしょう。あの粗末な顔じゃ似合わないわ」
少し不機嫌そうな声の後、姉は楽しそうに笑った。私だって姉のドレスが似合わない事はわかっているし趣味でもない。金がないからこれで我慢しろという話なら受け入れるが望んだりしない。ちょっとむっと……もしなかった。ばかばかしい。
「そうねえ」
「それにグリオル様が婚約者を探して下さるのでしょう。私の夫の手を煩わすなんてねぇ! それなら急いでデビューしなくていいのでは?」
さすがに母が止めた。
「いいえ、それはまずいわ。当主になるのなら社交界を蔑ろには出来ないもの。不細工らしく目立たず佇んでおかないと悪評を避けられないわ」
その答えに姉は不満そうだ。そもそも話の進みが遅く、自分が一番じゃなくなり始めたことに苛々しているのはわかるが、私を思い通りに出来ない事も面白くないらしい。この後父から説明され姉も知るのだろうが、私のデビューが1年遅れる事を知ったら飛び上がって喜びそうだ。
むくれたような声が聞こえる。
「迷惑な子ね。ソフィアのデビュタントのドレス代くらいグリオル様にお願いすればいいのよ。だって初めはそういう予定だったのだから」
この言葉を聞いてすぐに私は勝手口をくぐった。これに対する母の回答を聴きたくなかったから。聴いてしまったら姉にも母にも今と違う感情を抱きそうで怖い。
この家の中で自分が幸せに生きることを諦めて、ここを出ていく前提の内は自分に対して誰が何を話そうとどうでも良いと思える。話が変わりそうな今だって、まだ誰に何を言われても遠くから見ていられる。だが私がこの家で生きていくことが本当になるなら話は別だ。ここに意識を持って生きていく必要がある。父と母の言いなりになれない、なってはならない日がいつかやってくる。
それにこの家の中で自分の事をどうされようと今更だが、家の外や、他人の意志で自分の為に周りが振り回されるのは不愉快にも余りある。
話が決まらず半端な今は何の感情も持ちたくない。久々にとても嫌だという気持ちを実感する。
無心でアイロンをかける。白いシーツの細かいしわが伸びていく。気持ちがいい。家令には悲しい顔をされるが家事は好きだ。主の娘とあって使用人も優しく、聞けば色々な事を教えてくれた。基本的には簡単な家事しかしないが、洗濯は別だ。手が荒れると止められても洗濯が好きで、無理を言ってやらせてもらっていた。心を洗ってまっさらに出来る、仕上げのアイロンも好きだ。
だが今日は蒸気が顔に掛かって顔が温まると胸が苦しくなった。こんな惨めな気持ちになったのは数年ぶりだ。父の日記を読んだ時も十分惨めだったが、自分の扱いに合点がいったから然程惨めではなかった。すっと熱が引くように、家への気持ちが冷めてしまった。
それはきっと脱出の希望があったから。優しくされなくていい、ただここを離れられると。だが姉の意見でそれも曖昧になり、これからの自分の事すら口を挟まれている状況。それに異見を出来ればいいが難しい。父も母も姉の味方だろう。散々諦めて生きていた手前、誰かを信じて自分の気持ちを訴えることなど、出来る気がしなかった。
結局私はただの道具で、立場だけでなく中身までその通りに育ってしまった。
もし婚約の話が戻っても、私は貴族の令嬢らしくない出来そこないだ。
自分自身の事が特別情けなく思え、どうしようもなく嫌になった。
諦めていたはずのソフィアですが気が付くとちょっと辛い。
ここから最終日まで作中一週間以内です。