06.貴族の令嬢
翌日、ソフィアが裏庭で洗濯物を干していると生垣の向こう、道から名前を呼ばれる。
「ソフィア嬢」
ひそめられて尚良く通るその声は耳に優しく届く。この家の者と家庭教師以外ソフィアの名を知る者はいない。恐る恐る振り向くと木戸の向こうにグリオルの姿があった。
「グリオル様、いかがなさいました。先触れをいただいておりましたでしょうか」
慌てる口調に美丈夫が薄く笑いかぶりを振った。
「いいや、近くを通ったらあなたが見えたもので」
そう言われて気が付いた。今日の自分は使用人の服であるお仕着せを着ている、髪だって適当にまとめただけ。どこから見ても使用人だ。恥ずかしさと情けなさであかぎれの手をさっとスカートのプリーツに隠す。思い出せて良かった。
「あの、すみません、このような格好で……今日はたまたまなのです」
あのワンピースだって散々だがお仕着せは論外だ。
「たまとはいえ家の手伝いをするのは良い事ですね。忘れましょう」
優しさにほっと胸をなでおろす。ソフィアの言葉をそのまま真に受けたわけでなく『目をつぶる』という意味だ。褒め言葉を混ぜる優しさがありがたい。
「家の手伝いは大変では?」
「え、ええ。あの、簡単な事だけですが」
探るような質問にごまかすようなことしか言えない。真っ白に洗い上げ、しわなくはたいたテーブルクロスが風になびいて、プリーツを押して間のあかぎれを撫でていく。ソフィアは無性に涙が出そうになった。みっともなくて困ってしまう。
「偉いですね。しかしあなたにここで会えて良かった。先日、渡しそびれたものをお渡ししたいのですが、エプロンのポケットは空いていますか?」
3日前のことを思い出す。
「その節はお引き留めしまして申し訳ありませんでした……」
ゆっくりと頭を下げるが彼はにこりと笑った。
「こちらも厚かましくお茶をごちそうになりました。おあいこです」
どこまでも優しいグリオルに少し気持ちが温まる。
グリオルが懐の隠しから薄い紙包みを取り出し、ソフィアに差し出す。
「こちらを」
「受け取れません!」
慌てて断るも、彼の笑顔は変わらない。
「恐縮ですが高価なものではないのでお気になさらず」
「いいえ、姉が婚約者になるのかも知れないのです。なら私が受け取るわけには……」
「だがこれはあの時のあなたの為に買ったもので、お姉様には差し上げられない。受け取って下さい」
そういうと木戸の上に置いてしまう。そうして次に用事があるからと、頭を下げて去っていく。ソフィアはその背中にもう一度礼をしてそれを受け取ることにした。
包みの中身は綺麗なリボンだった。手芸店でよく見るサテン生地のリボン。ただ、いつものお店では見たことがない、織りの凝ったものだ。角度を変えると光沢の位置が変わり、葡萄の蔓の模様が美しく浮かび上がる。
「綺麗……」
思わずつぶやいた。確かに高いものではないがソフィアにとっては憧れの品だ。唯一人前で着ているあのワンピースに合う色を選んで下さったのだろう。結構な長さがある。髪に結べば自分も少しは見られるようになるだろうか。
大事に大事に、ワンピースと一緒にしまった。
その裏庭が見える自室で、ベルネット家の当主マルコは頭を抱えていた。自分の予定通りに決まった娘の婚約が寸前でこんがらがってしまったからだ。
2人の娘の内、長女は生まれた時から可愛くて仕方がなかった。上手くあしらう予定だった忌々しい約束の為にもう1人育てることになったが、采配を握るのが自分であるなら些細なことだと思った。
とにかく長女は可愛い。甘やかした自覚はあり、家計を苦しめるわがままも承知しているが、まだ子どもだ。それに当主になるための教育はしっかりしたし、容姿も美しく所作や振る舞いも立派だ。肖像画を描き、当主になる心持が現実味を帯びたら、婚約が決まったら、帳簿を見せて現実的になってもらおうと考えていた。
それに家計の問題は手放すために産んだ下の娘に金をかけない事で解決している。どうせ嫁ぐのだからあれはいい。
侯爵家には不誠実かもわからないが、相手が不細工でも病気でも履行される契約ならどういう状態でも問題はない。不出来だったことにすればいい。あれを嫁に出せば煩わしい約束も終わる。
その矢先の事に本当に困っている。
まさか長女が嫁に行くと言い出すとは思わなかった。勿論、可愛い長女が嫁ぐのが寂しいと言う気持ちが一番だが、同じくらい大きいのが次女の教育に掛かる金の事と家の評判だ。今からの準備は厳しい。服も講師も予算は限られており、どのみち付け焼刃。それこそ笑いものになり早々にカモにされ、狡猾な婿に家を乗っ取られるか、恥をかいて行き遅れかねない。いくらドレッセル家が婚約を世話してくれても、傷物の当主になど良い婿が来る確約はないだろう。
それに恋女房のカルラに似て美しい長女に比べ、次女は自分に似て地味な顔。加えて感情の起伏が乏しく表情がない。当主として我が家の評判を盛り上げてくれるとは到底思えない。
どこをどうとっても、ソフィアが残る伯爵家につく評判は良くないものになって当然だ。
ドレッセル家の嫡男が何を於いてもアレクサンドラを愛しているなら構わないことだが、そうではない。そうでないならこの結婚がアレクサンドラの幸せにつながるとは思えない理由もある。長女を説得する難しさはよくわかっているが、どうにか嫁入りを諦めてもらえないかと頭を悩ませていた。
侯爵家のグリオルの元に、明日の夜会でのアレクサンドラのエスコートを頼む手紙が届いた。差出人は本人。
婚約者の変更の回答もなく、エスコートの要求のみ。軽率さに思わずグリオルはため息を洩らした。
別に一度くらいのエスコートならからかい交じりの軽い噂が流れる程度だ。普通の令嬢であれば深刻な問題は生じないが、自分とあの家に関しては話が違う。姉と婚約するならまだしも、もし妹と婚約すれば状況は一変する。『姉をエスコートしその妹と婚約した男』。貴族間の噂話の種にはもってこいだ。愛か金か。家の評判を落とすには十分な効果があるだろう。
呆れながら婚約者以外はエスコートしない旨を強く伝えた。ついでに先手を打ってダンスも断る。当日は避ける事に決めた。出席する数少ない夜会だが、憂鬱な気持ちが心を占めた。
夜会当日、アレクサンドラは煌びやかに着飾り、大勢の人と愉快そうに談笑し、男友達とのダンスを楽しんでいる。中には頬に唇を寄せるような仲睦まじい様子もあり、決して縁談に困るようには見えない。確かに「派手」で、婿養子などすぐ見つかりそうだ。
アレクサンドラは家を継ぐことを義務付けられ、跡継ぎの勉強に勤しむ勤勉な令嬢だという。社交界デビューを控えた妹の贅沢が家計をひっ迫しており、それを可愛い妹のため、と健気に支える。何とかやりくりして次期伯爵家当主として夜会では相応に振る舞っている、という設定らしい。
遠回しに調べた限りでは友人からの評判は上々。だがそれは上辺の話だ。妹がいないから成立するような恐ろしい嘘をつくアレクサンドラをさもしく思った。
調査に協力し、この報告を持ち戻った姉フランシスカはグリオルの隣で満面の笑みだ。
「よくできた話ね。妹が嫁いでうちの予算のドレスを着たら噂が事実になるってことだもの。惚れた腫れたがあっても私は反対よ」
グリオルも同意だ。それにこの姉と気が合うとは思えない。
念の為に渡した例の姿絵をこれ以上ない程くしゃくしゃに丸め、いらないラブレターだから捨ててくれとウェイターに渡している。
社交会デビュー前に婚約者が決まっていた弟とは違い、姉は社交界に勇み挑み、たくさんの友人を作り、お互いを愛し敬い合える素晴らしい婚約者を見つけていた。そこから見れば彼女は落第点で当然だ。
その婚約者にフランシスカを預けてから、自分の友人に急ぎ足で挨拶をすると見つかる前に素早く会場を後にする。
馬車に乗り込み胸をなでおろす。
ふと荒れた手の少女を思い出した。もし今日の噂の通りでも、あの荒れた手はすぐに作り出せるものではない。冬でもないのに割けていた。まだ薄い皮が真っ赤になっていた。もう数年、数十年続ければ男の手のように皮が分厚く硬くなるだろう。
先日、裏庭で別れてからずっと考えていた。家の手伝いをする伯爵令嬢というのも珍しいが、お仕着せを着ているとはどういうことか。社交界にいない以上、彼女の事は周辺に出向いて調べるしかないのだが、それでも情報は何一つ手に入らなかった。伝手で手に入れた情報も同年代の令嬢の間のお茶会にはアレクサンドラだけが顔を出すと言うもの。
そして昨日、道で目撃したのはお仕着せ姿で使用人たちと買い物の荷物を持つ彼女だった。町の人に聞けば、伯爵家の使用人でよく買い物にくるという。彼女に令嬢としての噂などあるわけがなかったのだ。
瞳に浮かんだ諦めの色を思い出した途端、馬車が家に着いた。
すぐに父の部屋を訪れる。
「父上、戻りました」
「早いな。フランシスカはどうした」
「姉上はバルトルト殿とご一緒です。迎えの馬車を向こうへ戻しております」
不機嫌そうな父の片眉が上がる。
「それで?」
何の質問かわからないほどは愚図ではない。
「……妹の方を婚約者に求めたいと思います。想像通り、姉は貴族の令嬢らしい強かさがありますが、我が家の嫁としては相応しくありません」
「そうか。では妹の方は相応しいのか?」
わかっていた質問だが答え方がわからない。
「……いいか、どちらでも構わない。その意味を間違えるな」
甘かった。そうだ。我が家の方が身分が上なのだから「初めの約束通りで」とまとめれば済む話だとどこかで軽く考えていた。だがこうなった以上、アレクサンドラのプライドも伯爵家のプライドも傷つかないようにソフィアを求めないといけない。意志の薄そうな妹があの姉に遠慮するという予想も現実味が強い。下手をしてあの姉に更に妙な噂を流される未来は想像に難くない。出来る事なら向こうが自然に諦めてくれればいいのだが。
はっと思い出し、父に書類を借りる。手にした古びた紙は国の正式な書類と先々代の約束書。婚約の条件は間違いなくこれで成立している。あの伯爵家との会話でひとつ、気になる事があった。
途中繋がってない原稿を上げていました。大変申し訳ありません。
12/16 21:32訂正しました。