05.ベルネット家
「よくお越しくださいました! どうぞこちらへ!」
初めての顔合わせから5日。グリオルは三度ベルネット家を訪れた。両親に脇を固められたアレクサンドラはまた豪華なドレスでソフィアは同じワンピース。今朝方、仕事が急に立て込んだのですぐに失礼するという旨は連絡したはずだが、アレクサンドラは強引に応接室を勧める。
「いいえ。恐れ入りますが先触れ通り本日はこちらで失礼を」
淡く笑いながら丁寧に用件を告げる。
「婚約の件は一度解消して結び直すことになりますが、国への手続きさえすれば変更可能です」
この国では戸籍制度があり、婚約も全て国に申請する必要がある。口約束より申請内容が優先だ。婚約歴も結婚歴も別離の場合は理由も全て記録され、申し込みの際には経歴を照会することも可能。同じ傷でも病気や怪我等の事情での解消は致し方ないと誰も構わないが、一方的な理由での解消や破棄は場合により賠償金などを伴い家にとって厳しい醜聞となった。それでなくても人々の間で面白おかしく噂になることもある。
今回はその手続きでソフィアとグリオルに傷がつく。それを説明しようとするグリオルより早く、アレクサンドラが嬉しそうにはしゃいだ。
「まあ! 良かったわ! 私がお嫁に行っても大丈夫ですのね!」
その様子に母は微笑むが父は曖昧に笑うだけ。グリオルは内心呆れる。
「ただ、宜しくない評判が関係者全員とこちらのお家に付くことになるでしょう。解消の理由も含め、家の事を思えば得策ではありません」
あまり気にしない様子の姉の脇で親たちの顔が曇る。
「ソフィア嬢はまだ社交界デビューしていらっしゃらず、アレクサンドラ嬢は社交場で私と接点がありません。事情を面白おかしく噂される可能性もありますので、我が父もあまり良い顔はしませんでした、とだけお伝えします。お詫びの意味を込めてソフィア嬢の婚約者探しはお手伝いしますのでご安心を」
父の言葉に少し手を加えて伝える。常識的に考えれば察して引き下がるはずだ。
「婚約の理由をどうしたとしても、お嬢様方は社交界で厳しい思いをされるかもしれませんので、ご理解の上、ご判断下さい」
婚約解消の理由をどう書いても一番不憫なのはソフィアだ。例え「姉がより相応しい」と美しく書いても、姉による婚約の横取りか夫側の浮気と思われるだろう。そして嫁にも選ばれないような不出来な娘を当主にする伯爵家という扱いにもなる。
また、失礼と思い口に出さないが、このタイミングなのも問題。アレクサンドラが今16になるならまだしも、19近い姉が16になる妹の生まれながらの婚約を寸前で奪う。書類だけ調べても噂を聞いても邪推されて当然の出来事だ。
手をもじもじさせていた母がたまりかねたように質問をする。
「その評判というのはどうにかできませんの?」
「残念ながら。特にアレクサンドラ嬢は少ない機会の中で、ご自身の努力で穴埋めして立場を築くほかありません」
母が小声で「そんな、どうして」とつぶやいているが当然だ。特に非がない婚約者を捨て、姉に乗り換えたとされる男側がどう庇っても横から見れば身勝手な2人にしか見えないだろう。口を出す分、余計評判が悪くなる。選ばれた根拠は自らが証明するしかない。ただでさえ伯爵家の希望で傷を負うグリオルがその美しさに惚れたなどという嘘を被る気も必要もない。その嘘は侯爵家当主のこれ以上ない醜聞となる。
グリオルはこの母を愚かだと思う。一体どこを基準に何を考えているのか。伯爵家の事は勿論、ドレッセル家の事を全く心に留めない様子は失礼にも程がある。父の方は理解しているのか眉をひそめているが何も言いはしない。
「大丈夫ですわ、お母様。お茶会も夜会も、機会はたくさんあるもの」
アレクサンドラは自信満々に笑う。はっきり断らなかったからか、侯爵家が難色を示したことにも気が付いていない気配だ。
「それに社交界の出会いなど唐突で当然でしょう。次回の夜会でドラマチックに演出すればよいのです」
恋愛でなく婚約者ならそれが不自然、おまけにもうすぐ嫁ぐ予定だった元婚約者の姉となれば茶番の極みにあたるわけだが、考えが及ばないらしい。
「申し訳ありませんが仕事の都合上、夜会はほとんど不参加ですので難しいかと……」
グリオルは少し申し訳なさそうに断る。だが姉は譲らず母もその援護に出た。
「あら! 一度で構いませんの。一度でも踊れば見つめ合うその様子に誰もが納得するでしょう。愛し合って婚約、愛の為に身を引いた妹という話になりますわ。私、ダンスは得意ですの」
「町にも是非一緒にお出掛けなさって下さいな。アレクサンドラは美人でよくできた娘です」
「それに私たち、お互いの事を知り合う時間が必要でしょう? 恋人らしくグリオル様の瞳のお色のドレスを着たりすれば、噂なんて」
こういった勢いに慣れていないグリオルは戸惑った。いつも何かの誘いは婚約者がいるの一言で断れたが、相手はその婚約者の縁者。それも婚約変更を申し出て、ものすごい押し。恋人の瞳の色をドレスにするのは仲睦まじさを表すとして最近の流行だが、男側が贈るのが普通だ。強請りにしか思えない。
かしましい母子を前にどう断るかと困惑していると父が口を開いた。
「お話は承知いたしました。お忙しい中、ありがとうございます。後日、改めてご連絡を……」
もう既に自分と決めてしまった姉をちらと見て父は返事を濁した。
いつもの父なら姉の手を取って喜ぼうという状況なのに、とソフィアは侯爵家の馬車の馬が尻尾を揺らす様子を見ながら考えた。
「はい。変更の際は手続きも含め一度我が父に会いにいらしていただくことになりますので、そちらも宜しくお願いします。また、いずれのお嬢様だとしても結婚の条件も日取りも変更できません。出来れば1週間以内にお返事を下さい」
そう言って彼は帰って行った。ソフィアは最中ずっと馬の尻をぼんやり見ていただけで父親の表情が引きつった事に気が付かなかった。そんなソフィアにグリオルが気が付いていることに、家族もソフィアも気が付きはしなかった。
グリオル様が帰ったあと、母と姉は上機嫌でお茶をすると私に準備を申し付けた。父も一緒かと思ったが、父は浮かない顔で部屋にこもった。
テラスでお茶を楽しむ姉は、愉快そうに夜会の計画を立てている。
「もう独身が終わるのだから夜会にはたくさん出なければね。ご挨拶も必要ですもの。グリオル様がおいでにならないのは寂しいけど、いつも通りに楽しんでくるわ」
もうすでに婚約者になったような口調。姉の中でそれは当然で、これまでこの家で姉の望みが叶わない事はなかったから、自分の望みが叶わない人生はない。
姉のわがままはいつもの事だ。両親がとにかく姉に甘いのがその原因だと思う。下の娘の私が言うと僻みのように聞こえるだろうが事実だ。私は常にお下がりとおこぼれ。姉は非常に大事にされ、常に新しいものが用意され自分の意見が通る。だからそれが当たり前だと思っている。今回の婚約も自分の思い通りにしてしまうだろう。
私からしてもいつもの事だ。家の事も他の事も全て。振り回されるのには慣れている。私にとって今一番の問題は、自分がこの家に残る場合のことだ。当主になるための勉強を出来る限り早く始めたい。姉と一緒に教わっていたのは読み書きと算術だけで帳簿や経営の事は一切学んでいない。マナーもダンスもできない。それに実は私は非常に運動神経が悪い。朝から晩まで踊らないと2か月を切ったデビュタントはみっともないものになるだろう。家の名前を背負って恥をかけば見た目の地味さも手伝って結婚は遠離るだろう。私自身、家の中の自分はどうでもいいが世間様に向けた努力はしたい。
だがその教育も父から言われるまでは望むように口を開いてはいけないのはわかっている。
今回唯一おかしいのは父だ。いつも姉の事となると上機嫌で決め、喜びの色を示していた父のあの態度。彼女を手放す事への落胆と、これから私にかけることになってしまったお金以外にも何か理由があるのではないかと不思議に思う。
暫く思考を巡らすも、詮無い事かと深呼吸をして、お仕着せに着替えると使用人たちと買い物に出かけた。
町に出ると顔なじみのお店の人が声をかけてくれる。平民が貴族の娘に気安く声をかける事など有り得ない事だが、そもそも貴族の令嬢がお仕着せをきて外出しているなど誰も考え及ばないだろう。それに数人の使用人に交じって歩くすっぴんの私は貴族の令嬢になど見えない。
あまりの気軽さに初めの頃こそ使用人たちは良い顔をしなかったが、私にとってはありがたかった。家より外の方が気楽だ。それをわかってからの使用人たちは何も言わずに見守ってくれるようになった。家事をするのは嫌いではないがお出かけが一番楽しい。
本来貴族の買い物は家に商人が回ってくるのでこのように出歩いて買い物などしない。だが私の一張羅のただのワンピースなどはその商人が持ってこない類の物。あれは父からお金を預かった使用人といわゆる平民向けの店に自ら買いに行った。それからいつの間にか買い物を言いつけられるようになって今に至る。
言いつけ通りに買い物を済ませて手芸屋へ寄る。ぼろぼろになったお仕着せやワンピースを直す糸がなくなりそうなので買いに来たのだ。補修用には出来れば強い木綿糸が欲しい。服を買ってもらえる事は稀で、成長期に入ってからはボロボロの服を分解し継ぎをあてる事が多くなった。伯爵令嬢として外に出る事はなく、客前にも立つことのない私は幽霊のような存在。それを着飾らせる意味はない。だからまだもうしばらく今ある服を大事に着ないとならない。跡取りになると決まっても私の服が買ってもらえるのは姉が家を出てからだろうから。
求めた糸も手に入り、家に帰ってから気が付く。お出かけのなんと気の楽な事か。やはり私はこの家を出たかったのだなぁと、消えそうな婚約の話を少しだけ惜しく思った。
そしてふとグリオル様の言葉に引っかかるものがあったことを思い出すが、聞き流してしまったそれが記憶から浮上することはなく、私は考えるのを止めた。
04話の誤字報告ありがとうございました!