02.アレクサンドラ=ベルネット
番外編 ベルネット家の事情とそれから 2/2です
顔合わせの日、アレクサンドラは貴族令嬢らしい華やかな笑顔で相手を拒否した。
「そのお歳までお1人でしたなら、私でなくてもいいのではなくて?」
アレクサンドラは男の年齢も容姿も勿論、何よりも男が出した条件が気に入らなかった。買い物もこの男の関係ある商会を通し、功績次第での財産分けだなどと、どれだけこちらを下に見る気だとプライドが傷ついていた。
場が凍り付く言葉にも男は動じない。
「私が申し込んだ縁談でもない。そうなさりたいなら構いませんよ」
男の冷静な声にマルコが慌てる。
「アレクサンドラ、お前の意思に関係なく、この婚約は決まりだ!」
「嫌です!」
噛み付かんばかりのその剣幕に男も続ける。
「私はどちらでも構いませんよ。あなたには譲れない要望がおありなようですが、その9割はこの家で叶えられる。私も反対はしません。私自身が不満なようなら、私は大人しく下がりましょう。あなたはそれを叶えられる人を自力で探し出すか、叶えられる家に嫁げば宜しい。しかし、できないところで文句ばかり言ってどうなるのです?」
その正論にアレクサンドラは口をパクパクさせる。忌々しい記憶が首をもたげるが、目の前の男への怒りでそれどころではない。
「ただ、これから何年間であなたに求婚する、あなたの条件を満たせる男性がいるとは思えません」
この国は領地を持たない立場の貴族の方が少ない。王都周りは国か高位貴族の領地、貴族の大半は王都から少し離れたところに領地を持ち、そこに根付いた産業で国を盛り返していた。そもそも、アレクサンドラの願いを叶えられる家は少ない。わけなく彼女の願いを叶えられるような高位貴族が彼女を望むわけはなく、人数が少ない彼らは既に既婚であった。高位で血筋を守る家ほど、子どもが一定の年齢に育つまでは出産と育児を繰り返すのが普通な生活だというのに、悠長に構えていられるわけがないのだ。年齢だけで考えても薹が立ったアレクサンドラなどこれからの若者にとっては論外の存在だ。
「この縁談で私が得られるメリットは大きい。応えるために出来る限りのことをすると約束しましょう。だが年齢も見た目も家柄も、無理なものは無理だ。お気に召さないのならばこれで話は終わりです」
男が告げた最大限の優しさはマルコの必死さに絆されたもので、マルコはこれを逃すまいと、この場で無理矢理に縁談をまとめた。離婚はマルコの許可がないと難しいと定めた時、アレクサンドラは癇癪を爆発させた。
結婚式はアレクサンドラの要望通り王都で行ったが、「新郎をお披露目したくない」という新婦の希望で新郎はさっさと奥に引っ込んで、結婚式というには異様な会だった。参列した友人達は皆、彼女を理解しているから仮面の下に呆れた顔を隠して、結婚生活の成功を祈った。
歯ぎしりをしながら迎えた初夜で、アレクサンドラは夫になった男に言われる。
「責務を果たせと言うなら話は別だが、あなたが私を望まないように、私はあなたを望まない。私はこの家の跡継ぎが養子でも構わないからだ」
堂々と白い結婚を宣言する男にアレクサンドラは唇を噛む。男の思い通りになるのは嫌だが、自分が拒否されるのはプライドが許さなかった。
「私だって……!」
言葉の限り男を詰るも、相手は冷たい目でアレクサンドラを見つめただけだった。
「1年、あなたのために時間を設けたつもりだが、あなたは1年経っても何も変わらない。夜会に出る時の外面に何か期待した訳ではないが、伯爵家の当主になるならもう少し大人になるべきだ」
当主教育も受けてこなかった貧乏人が何をいうのかと怒り狂ったアレクサンドラは夫婦のベッドの枕を羽毛が出るまで投げ尽くし、引っ張り、散らかした
相手の姿はもう自室に消えていたのに。
翌日、綺麗に片付いた夫婦のベッドで目を覚ましたアレクサンドラはベッド脇に男が腰かけているのを見て顔をしかめる。そしてすぐに涙をこぼした。
「どうしてうまくいかないの? 私はただ幸せになりたかっただけなのに」
「あなたの幸せがそこにしかないと言うなら、それを逃したのが他ならない自分であることをいい加減反省するべきだ」
慰めも言わない男に残った枕を投げつける。男は黙ってそれをベッドに戻した。
男は口調こそ冷たいが、アレクサンドラのわがままをある程度は叶えた。次期当主である以上、領地に戻らないということは出来ないが、アレクサンドラは男をこき使った。男は行けと言われたところには呆れながらも赴き、しっかりと仕事をこなしてきた。当主教育などは受けていないが、商会で培った知識や能力は大いに役立った。
アレクサンドラはこれも気に入らない。母親に愚痴をこぼし、最近自分に冷たい父親と男に当たり散らした。喚き散らして飲まされたハーブティーがドレッセル家の領地で採れたものだと知った時は半狂乱で泣いた。
結婚から1年。ベルネット家は順調だった。
マルコとアレクサンドラの仕事に夫が横やりを入れ、財政を引き締める形で、伯爵家は見事に持ち直した。自由になる金額が減ったことに母は不満そうであったが、この頃社交が煩わしくなってきていたアレクサンドラは構わなかった。
社交に出ると耳にするドレッセル家の評判を悔しく思う。唯一、結婚してから交流を取り戻した友人主催のお茶会には気楽に参加できるが、この年齢で出産歴がない女性の肩身は狭い。友人達も腫れ物に触るように扱っていく。それら全てが煩わしい。それでも出なければならない。
領地に戻れば些か気は楽だが、わざわざ着飾ってこの男と並んで外に出るのが億劫だ。アレクサンドラが嫌がれば、指示がなくても代わりに領地の視察に出掛ける。平民である領民とも砕けて話をするからか、誰も彼もが良い婿をもらったと褒めた。男は領民からの評判がとてもいい、そんな様子は自然と屋敷にも伝わってくる。アレクサンドラは益々男を疎ましく思った。
気に入らない男に疑問を抱き始めたのは1年目の終わりだった。
見捨ててもいい家にここまで尽くす必要などない。初めから、男は破談でも構わない姿勢だった。あと十数年の人生を生きられるほどの貯蓄はあると言っていた。私財を持っているのだから、離縁でもらう伯爵家の財産などそこまで問題ではないはずだ。こうしてもらえる財産を育てるのも計画の1つだとしても、そこまでの必要はないのだ。
理解できないからと理由を訊ねるのも癪だ。容赦なく振ってくる小言に腸は煮えくり返るが便利な駒だと思い、枕に当たり散らす程度にした。
結婚して2年、父が身体を壊した。それをきっかけに当主代理を務めた時、ようやくアレクサンドラは気が付いた。男はこの家を利用したのだ。自らの社会的立場を確立するために。そして父が決めなければ見捨てられて傷を負っていたのは自分だ。
「お嬢様も幸せでしょう。あんなに素敵なご主人で」
領民から男に関する褒め言葉を聞いたとき、アレクサンドラは凍った。屋敷にも聞こえていた男への称賛は本物だった。そして領民たちが自分よりも男に心を開いているのを知る。
領民に寄り添い、慕われ、帳簿以外の仕事もこなす。『当主の夫』は完璧だった。
ベルネット家が商会を通して買い物をするので、辞めてなお、商会での彼の評判は悪くない。加えて出かける先々の夜会で商会の商品をどんどん広めているのだ。実家からも見直され、大元の貴族からも高い評価を得ている。もし離縁しても、商会も彼の実家も喜んで彼を迎えるだろうし、それこそ年の近い未亡人で彼を望む人は多いだろう。
元勤め先と元雇用主に恩を返し、義理堅く務める。『敏腕会計士』は見事だった。
男は伯爵家の三男坊。領地も何も持たない、ただの小銭持ちで歳を重ねた未婚のみっともない男のはずだった。
だけど自分はそれ以下なのだ。
自分が男を厭う間も嘆く間も、この男は役割を果たしていた。任された仕事にそれ以上に真摯に向き合っていた。
脳裏にドレッセル家のソフィアの評判が浮かぶ。社交界からやっかみを受けながらも、あの地味な妹は妻を務めているのだ。
勉強は出来た。ダンスも出来た。容姿だっていい。友人だっていた。愛されていたはずだ。全てが思い通りになって当然だと思っていたし、そうなるべきだと思っていた。
ただそれだけだ。
それしかアレクサンドラにはない。あんなに振りかざした当主教育も、与えられた夫の方が余程それらしく形にしている。下手をすれば印を押すだけの生活だ。傍から見れば男が家を乗っ取ったと言われても不思議ではない。だが男は必ずアレクサンドラに確認をとり、嫌味たらしく説明もしてくれる。彼はこの家を乗っ取る気はない。
それは離婚に備えてのことだ。夫はこの家に居ればいるだけ名誉も財産も上げられる。父が言い出さない限り離婚はないが、全て計画のうちだ。父も夫の味方なのだから。
今、アレクサンドラの要望はほとんどが叶えられる。生活に不満はない。それを叶えてくれたのは紛れもなく、アレクサンドラが拒絶し続けるあの夫だ。この夫がいなければ今の生活はない。
自分よりよほど立派にベルネットの家に生きている他人。いつもアレクサンドラに冷たく小言を吐いてくる男。そのどれもが正論で悔しくて気に入らない。
ぎゅっと目をつぶる。瞼の裏に燃え盛る炎がちらついた。
もう自分は20を超えた。自分は一体何に縋って何をしているのだろう。人生は巻き戻らない。華々しい生活を全て灰にし、挽回する機会を全て足蹴にしてこのまま老いて死ぬのだ。
自分はいてもいなくても同じ。その結論はアレクサンドラの心をぎゅっとつかんだ。
「惨めだわ……」
その日アレクサンドラは初めて夫に頭を下げて謝った。気まずそうに謝罪の言葉を続ける妻に、帳簿を前に片眉を上げた夫は手を休めた。
その言葉がどんなに棘にまみれていると感じようと、アレクサンドラを尊重し、叱ってくれた目の前の男の首を鎌で刈り取って、笑って死ぬことだけはアレクサンドラは許せなかった。当主教育を受けていながら貴族にもなれない自分が酷く惨めだった。後悔しても時間は巻き戻らず、目の前の男をこれ以上拒絶する愚かさを選ぶ気にはなれなかった。
やっと反省したのかと思いながらも、夫は妻の謝罪の真意を測りかねる。
「……だから、私も明日から一緒に視察に行くわ。毎日あなただけでは負担でしょうし」
「別に負担でもない。私はただ自分の責務を果たしているだけだ」
夫の告げた残酷な真理にアレクサンドラの目から涙がこぼれる。いつか美丈夫からも聞いた、自分に欠けた言葉が胸を抉る。
「ごめんなさい」
察した夫はそっと妻の手にハンカチを握らせる。彼女は差し出された彼の手を指が白くなる程握り返した。癇癪を起こさず嗚咽を洩らす妻の小さな背中を夫は優しくさすった。
ベルネット家に子どもが生まれたのはそれから1年後。アレクサンドラは子どもを抱きしめて困ったように笑った。