01.マルコ=ベルネット
番外編 ベルネット家の事情とそれから 1/2です
ベルネット家の当主マルコは頭を抱えていた。
大事なベルネット伯爵家が、窮地に立たされているのだ。
立たされている、といっても自らその崖に進んで行った結果に他ならない。足を進めたのは家を継ぐ大事な娘、アレクサンドラだ。
ベルネット家には2人の娘がいた。姉のアレクサンドラと妹のソフィア。
2代前に結んだ約束の婚約に差し出すために産んだソフィアに比べ、アレクサンドラのことは可愛くて仕方がなかった。こんな約束などなければ良かったのだが、2代前とても仲が良かった当主達が結んだ約束だ。勝手に反故には出来ない。婚約も下の娘もともすれば煩わしかった。
アレクサンドラには次期当主としての教育もしっかり行った。優秀で見た目の美しい娘は目の中にいれても痛くないほど可愛かった。当然、茶会にも夜会にも全て両親揃って付き添った。彼女に友人ができ、交友関係が広がった時には新しいドレスやリボン、アクセサリーでお祝いした。
その娘が事実を少し脚色した噂を流していたことは、なんとなく把握していたが、どこにも出しておらず、手放す妹の評判はある程度どうでもいいことだと思っていた。薬草の功績で成り上がったあの侯爵家は、領地が焼けない限り潰れたりなどしないだろうからと。
それよりも、アレクサンドラの評判が上がって彼女を大事にしてくれる優秀な夫が手に入る方が重要だった。持ち込まれる縁談は気に入らないようだが、いつか娘に相応しい人が見初めてくれるだろうと信じていた。
甘やかした結果のアレクサンドラは少しわがままだが、両親のひいき目は美しい彼女を自宅の姫と思い、咎めず諫めずに日々は過ぎた。
その尊大な自意識で妹の婚約に横恋慕し、横暴ともいえる振る舞いで惨めな結果を迎えた。
侯爵家の長男に手厳しく断られた時、マルコは胸を撫で下ろす反面、なんという断り方をするのかと怒りもあった。その日1日、夫妻は落ち込んだ様子の愛娘を慰め励まし続けた。
頭を抱える出来事が起こったのはそれからすぐだった。
アレクサンドラがソフィアの持ち物を燃やし、それを周囲の家の使用人たちに見られたのだ。早朝とはいえ、住宅街に煙が上がれば多くの人が注目する。
夫妻が起きた時には既に遅く、炎の前で狂ったように笑う姉と立ち尽くす妹、懸命に火を消そうとする使用人と、物陰からそれを見る他所の使用人たちがいた。
夫妻はすぐに周辺の家の使用人に口止めをした。お金を握らせ、口外しないでくれと当人たちなりに頼み込んだ。
だが人の口は閉じたままにはならない。
夫婦の知らないところで噂は流れ始めた。
使用人間の話を耳にした者、焦げ臭い匂いに気が付いた主からの質問に答えた者、受け取った金品の事情を真面目に主に報告した者から始まり、徐々に貴族間に噂が流れ始める。
火事当日、アレクサンドラは興奮が収まると同時に眠った。翌日もぶつぶつと何事か呟きながらぼんやりして眠ってを繰り返した。
周囲の使用人にも口止めをしてあるから大丈夫だと娘を励まし、もう全て終わったから安心して3人で暮らそう、そう慰めた。
2日ほどでアレクサンドラはいつも通りになった。両親は胸を撫で下ろす。デビュタントまではソフィアに会う心配もなく、侯爵家はデビュタントからすぐに領地に戻ると聞いている。社交はしばらく控えめに、念の為に高位貴族の多い会を避けて出席すれば問題ないだろうと、可愛い娘の髪を梳いた。
一家が現実に直面したのはソフィアが嫁いでから2週間後。アレクサンドラに社交の誘いが来なくなり、もしやと焦り始めた頃だった。
アレクサンドラの友人から1通の見舞いの手紙が届いた。そこには火事のことが書かれていた。真実と嘘がないまぜになった手紙。
手紙を癇癪で破り捨て、詰め寄るアレクサンドラ。マルコは侯爵家が領地に下がるまで社交を休むことを決めた。表向きは世間を騒がせたための謹慎及び当主教育へ専念するためとだけ伝え、その理由も何も曖昧にぼかすだけにした。
表に出ないことが功を奏したのは1か月ほどだけだった。アレクサンドラの友人や、面白く思う者達が侯爵家に不都合な形で脚色した噂を流した。
社交に出ていれば、これを撤回しないのは不敬にあたるが、幸いこちらは家で大人しくしている。知らないふりをすればいい。
結果的に言えばそれは悪手だった。それが最悪の評判を招いた。
国の重鎮が集まる夜会で侯爵家の嫡男、娘の夫になるグリオルが噂を一蹴し、それからすぐのデビュタントで、ソフィア自身がそれを証明したのだ。
デビュタントのソフィアはアレクサンドラの流した噂とはかけ離れていた。
伝統的なドレスに身を包み、アクセサリーも全て控えめ。侯爵家の予算からすれば質素だと笑われても不思議ではない条件で清楚に輝いた。少し拙い様子の挨拶も、褒められて恥ずかしがる人見知りな様子も演技で出来るようなものではない。
何よりグリオルとの仲睦まじい様子は他の令嬢が頬を染める程で、一体どうして「ソフィアは大切な婚約者」だというグリオルの言葉を疑えるだろうかと。
ソフィアの悪い評判も、婚約に関する噂も、全て逆転した。
それを知ったのはアレクサンドラが謹慎生活に飽き、社交に復帰したシーズンの終わり頃だった。扇の下でニタニタ笑いながら“見舞い”の言葉を述べる夫人の前で、カルラは真っ青な顔でアレクサンドラを抱きしめた。
「妹のことは嘘で、決まった婚約に割り込もうとし、嫉妬で放火した」という噂は瞬く間に広まった。情けない事にこれが真実であり、これを嘘で塗りつぶして挽回するのは今以上の醜聞を伴う。それに侯爵家の顔に表立って泥を投げつけることになる。それだけは出来ない。
アレクサンドラは自分の名誉回復のために奔走する羽目になった。だがそれも思うようにはいかない。全て彼女の自業自得だ。癇癪を起こされても泣きつかれても、どうにもできない。ひどくなる一方の癇癪は幼いこどもの駄々と変わらない。
情けないことに、こうした喜ばしくない諸々の事情で社交にかけていた出費が削られ、当年の伯爵家の家計は黒字を収めた。
さらなる悲劇は春先に起こった。ソフィアが王都に戻ってきたのだ。それもデビュタントの時とは違う、令嬢らしい立派な仕草を身に着けて。僅か半年での変化に、周囲は驚き目を見張る。
ここからは夫妻も扇の下で笑われる羽目になった。姉妹両方を知る貴族からは、伯爵家ではどういう教育をしているのかと口の端を上げられ、針の筵だった。これまで当たり障りなく、貴族らしく振る舞っていたベルネット家の豪華な外面は崩れ、笑われる羽目になってしまった。
全てが遅い。取り戻せる機会はあったがそれを流してしまったのは自分でもある。
マルコの後悔は誰にも届かない。
こうなっては一刻も早く娘を結婚させねばならない。年齢に加え、あの醜聞。
夫妻は必死に縁談を探した。伯爵家に届く僅かな縁談は彼女が望む条件とは程遠いものばかり。もう20を過ぎて、同年代の優秀な男性を求めることは難しいのが現実。それでもアレクサンドラ自身は、華やかな頃への執着を捨てられず、少ない釣書を厳しい目で睨んだ。カルラは娘の意思を尊重したがるが、こちらとしては伯爵家を支えてくれる人でないとだめだ。しばらくのうちに、マルコは婿に来てくれる人であれば何でもいいとすら思い始めていた。
想像通り、婚約者探しは難航した。社交界での派手な交友関係は男漁りと笑われている。特に既婚者の男性と親しくしていたのが災いして、真面目で誠実なタイプの男性からは避けられた。
未婚だった数少ない友人達も20を目安に皆結婚した。既婚の友人達は出産を迎え忙しい上、醜聞が付きまとうアレクサンドラと付き合うことで夫が疑われてはと付き合いを控え出した。
アレクサンドラの癇癪は益々ひどくなる。カルラはアレクサンドラを不憫に思い甘やかす。
そんな様子にマルコは頭を抱え、どこで何を間違えたのかと、この20年を振り返る。正解はわからない。だが今これ以上、可愛い娘の要望を聞けないのは事実だ。
婿探しも娘に聞いていては埒が明かない。マルコは心を鬼に足を進めることにした。娘を説得できなくても、大事なのはベルネット家の未来だ。
ある日、マルコは街でソフィアが嫁いですぐに屋敷を辞めた元使用人を見かけた。聞けば今は街の商会で働いているという。その商会に関わっている貴族のことを聞くと、大元はかなり大手だった。望めない。働いている人のことを聞くと、元使用人は口ごもりながら大分年配の方ならいるという。
「ですが、お嬢様のお気に召すかは……」
強引に会わせてもらったその男性は、伯爵家の三男。忙しい商会の会計をほぼ1人で切り盛りする優秀な人物で、アレクサンドラより12も歳が上だった。
婚姻歴がない貴族は肩身が狭いはず。万が一に賭けて事情を少しだけぼかし、娘との縁談を持ちかけると、その人は渋い顔で答えた。
「実家は伯爵家ですが三男です。領地もありません。かつての縁談が財産のなさを理由に流れてから興味を失っております。今は自分ひとり困らない程度の小金はありますがね。お嬢様の件は存じ上げておりますが、そちらのメリットも薄い。何より、婚姻歴が出来る以外での私にとってのメリットは?」
家の後ろ盾がない貴族の次男三男などそんなものだ。自ら稼げる頃には大分年齢が重なっており、今の流行の同年代婚からは大きく外れてしまう。
それにしても男の言い分は尤もだ。当主になるのは娘。この男は仕事を辞めて娘の補佐をしないとならない。いくら婚姻歴が出来るといっても、周りの視線は『醜聞のある娘を押し付けられた』という見方が大半。そして残念だが、マルコには事情を知る男を納得させられる条件が思い浮かばない。
「……何かご希望はおありですか?」
男は澄ました顔でためらわずに口を開いた。
「ええ。1つ、当面の間私は仕事を続けます。すぐに辞めては職場に迷惑が掛かります。そちらもご用意がおありでしょう。婚姻は1年後でどうでしょうか。2つ、これから一切の買い物はこの商会を通していただきます。3つ、万が一離縁しても功績相当の財産を分けていただきますが宜しいですか?」
マルコは机の下でぎゅっと手を握る。この男が強かで賢いことはわかった。男は離縁後の立場も金もキープした。男の言うことを丸ごと呑むのは癪だが、こちらは頭を下げる立場。会計士という職業も何よりの魅力だ。帳簿管理が期待できないカルラよりも、この男の方が家を守ってくれるだろう。
「わかりました。それで構いません」
「それは何よりです。かなり年上でお嬢様は気の毒ですが、離婚歴も養う子もおりませんのでご安心を」
その後も、まるで商談のような話し合いをきびきびと進め、伯爵家の婿が決まった。
帰宅したマルコから話を聞いた娘は絶対に嫌だと癇癪を起こした。
「そんな年上の方、絶対に嫌!」
だがもう年配の物好き貴族の後妻などの縁談しか来ない。家を出ることになる。マルコだってその縁談だけは避けたくて選んだ彼だ。
「お前はいい加減現実を見ろ。ここ数ヶ月、お前の元に来た縁談は後妻ばかり。これ以上遅れて、好転することなどあると思うか? そもそもお前が火事など起こさなければこんなことにはならなかったはずだ!」
あの火事さえなければ、何度も頭の中で繰り返した言葉が口をついて出た。しまったと思うが口から出た言葉は取り消せない。どんなに恨まれようと、家がつぶれるよりもマシだ。
顔を歪めるアレクサンドラに厳しく言い渡す。
「当主ならば家のことを考えろ! これ以上反抗するならお前を嫁に出し、親戚から養子を取る」
アレクサンドラは大泣きして母親に抱きついた。マルコはカルラにも言い放った。
「この方を逃したら次はないと思え。街にも火事の噂は広まっていた」
マルコは屋敷の一室に向かう。部屋にはほこりがつもり、歴代当主の肖像もぼんやりと顔色悪く見える。数年前に完成したアレクサンドラの肖像画は綺麗だ。恐ろしい程美しい笑顔にマルコは震えた。
この笑顔の為に、家は潰れかけている。
ふと、もう1人の娘を思い出す。思い浮かばない下の娘の笑顔。
――そもそも、見たことがあっただろうか。
嫁いで以来、顔を合わせることもない。ベルネットの名で社交界に出たのはデビュタントのみで、それ以来彼女の口から生家の名が出たことはないと聞く。彼女が何も口にしないことが、我が家の醜聞が憶測の域を出ない唯一の救いなのか、縁切りの証明なのか。
捨てた娘に救われているのか見捨てられているのか。
自分はどこで間違えたのか。
大勢の瞳が見つめる中央でマルコは膝をついて静かに涙を流した。