Ed.ソフィア=ドレッセル
今日も領地はお天気がいい。青々と茂る薬草の絨毯の中に夫の姿が見える。
ガラス瓶を片手に葉についている虫を集めている。昨日この区画を担当しているお家から見慣れない虫の報告があって急いで視察と確保に向かった。
土や葉が荒らされている様子がなければ、駆除をする前に虫を捕って専門家に指示を仰ぐ予定だ。
「グリオルさまー! お昼ですのでお弁当はいかがですかー!」
サンドイッチと紅茶を入れたバスケットを揺らさないように気を付けて手を振る。こういう貴族らしくないことが許されるのがこの領地。本来なら草原の中に人を遣って伝言を頼むところでも、不用意に草原に入る事で虫が逃げたり薬草が痛んだりする。
元々貴族らしい生活をしていなかった私には、こうした気取らない空気が嬉しい。一緒に来た、この区画を育てているお家の奥様たちが笑っているのがわかる。サフランイエローのシンプルなワンピースが風に揺れる。
手を振る夫が見える。私の夫は働き者でとても素敵な人だ。
近場の木陰にマットを敷き、2人で並んでサンドイッチを食べる。虫の入った瓶を横目に思い出す。ここに来た当初、共に視察に出ようとするたび虫や日焼けの心配をしてくれた。
「届けてくれてありがとう」と笑う夫はずっと優しい。
私はとても幸せだ。
実家を出てからずっと私は幸せだった。いつも誰かの優しさに包まれて守られていた。あの家にいた頃、こんな生活が待っていると思わなかった。楽しかったり寂しかったり、誰かを愛しいと思うことも。全て自分には関係ない事だったから。
こんなに色に溢れた中に生きている今を本当に恵まれていると思う。身の回りの人に感謝している。4年経つ今、少しでも誰かにその恩を返せたらいいと思う。
結婚1年目はダンスレッスンの都合もあり王都のお屋敷に一緒に住んだ。この間に色々なお茶会や夜会にも出る事が出来た。
グリオル様と一緒におじゃましたベルタ様のお茶会に始まり、様々なお茶会や夜会に出席し、私はマナー講座で学べないようなたくさんの事を知った。
お茶会や夜会で聞くには、グリオル様には多くのファンがいるという。見た目も麗しく礼儀正しく、女性の誘いも婚約者を尊重して当たり障りなくお断りする。そのスマートさが素敵だと、憧れる女性が多いらしい。
皆様にうらやましがられると、美しいご令嬢方の憧れの人の妻がこのように地味で申し訳ない気がするけれど、私もこの場所を譲る気はない。それに、よく聞けばどなた様にも公平に断るその姿に皆様「グリオル様は観賞用」として割り切られるようになったらしい。私への羨望の眼差しも褒め言葉の一種。貴族のご令嬢には色々な趣があるのだと不思議に思う。
それでも扇の下に隠された多少のやっかみはあったようだけれど、私のような地味な女にムキになるのもと、いつの間にか聞こえなくなっていった。
女性だけのサロンに招待されて知った事には、貴族の妻というのは夫以外に恋人を作るのが普通であり、結婚生活の楽しみだという。歳の近い夫婦や恋愛結婚が増えた最近では減りつつあるも、今も女当主の家や政略結婚の家では顕著だと。浮気する男性がいるのだから、女性だって当然だと笑われた。
正直驚いた。人の生活を否定はしないが不誠実なのではと胸がもやもやする。笑顔でかわして話は終わったが気分は良くない。
夜、複雑な気持ちが顔に出ていたのか、グリオル様に心配されてしまい正直に答えて苦しい程抱きしめられる羽目になった。ともかくうちには関係ない事だと割り切る事にした。
エラ先生と領地からきてくれた先生方のおかげで、1年目の冬頃には一通りの教育が終了し、1人でお茶会に出られるようになった。
社交シーズンに王都に戻ってきた義両親が私の努力を誉めて下さる。それを嬉しいと思いつつも、慢心してはならないと気を改める。私は常に次期侯爵夫人として誰かに見られている立場だ。常々自らの位置に相応しく、国の支援や期待に値する行いをする必要がある。
それに私はここでようやくスタート地点に立ったのだ。まだまだな部分もあるがやっと貴族の令嬢らしくなれた。領地に帰ってからも勉強は続く。社交に戻る際、1年目の私と同じではならない。
この1年が実現できたのは侯爵家の皆様、特にフランシスカお義姉様のおかげ。グリオル様が数か月、私を連れて王都に行きたいとお義父様に話をした際、それに上乗せするように、フランシスカお義姉様が協力を申し出て下さった。
そのお義姉様のお友達からもたくさんのお誘いをいただいた。社交界に友人がいない私の事を気遣い、自分が王都にいない時は義妹を、と話して下さっていたらしい。
お友達は皆様さっぱりした性格の方が多く、お茶会も賑やかで和やか。話題に上がったことがないのに刺繍を教えてほしいと頼まれた事があり、少し不思議に思ったけれど、後々、上手になった刺繍が嬉しくてお友達に自慢されたお義姉様が原因だと発覚する。あんなことでも、彼女の役に立てていたのなら何より。
まだ社交に不慣れだった私に対し、どなた様も本当にご親切で、良い事も悪い事も言葉できちんと教えて下さる。ベルタ様もご親切にたくさんの事に誘って下さった。多くの人と出会い、学び、優しい友人もたくさんできて、私にとって実りある貴重な1年だった。
社交シーズンが終わり、グリオル様を残して領地に下がった。少し寂しく思ったけれど、さすがにもう泣いたりはしない。
その少し後に妊娠が発覚した。義両親は大喜びしてくれた。グリオル様もすぐに身体を気遣うお手紙を下さる。お仕事も忙しいはずなのに、お城からの気遣いもあって年に3回も帰ってきて下さった。温かい季節にはお帰りになったグリオル様と軽い運動を兼ねて領地の視察や散歩をしたり、とても幸せだった。自分が親になるという事に不安はあったものの、義両親や義姉夫婦の温かさが自分が求める答えのような気がして、深く考えるのをやめた。
乳母がいるとはいえ、子どもが生まれた年は社交に出ることが難しく、半年先に出産されていたお義姉様が一緒にいて下さった。
お義姉様は嫁いで以来、王都に行かれていない。私の代わりに領地に居て下さった1年の間に妊娠した事で、王都に向かうことが難しくなった。協力に気が付いてお礼の手紙をしたためた際のお返事には、妊娠の報告と丁度良かったという言葉をつづって下さった。
私が領地に戻ってからは視察や仕事の関係で合うことも多い。お義姉様はいつも幸せそうに笑っている。「グリオル以上に不愛想だけど気にしないでね」と紹介されたご主人もとても優しい人だと思う。個人的な会話はほとんどないけれど、あまり理解の深くない私にも丁寧に薬草や研究の事を話して下さる。何より、お義姉様の事を「パカ」と愛称で呼ぶ時のお義兄様の目は優しい。良い人なのがわかる。
義両親とも話す機会が増えた。お義母様とは王都にいた頃の様にお茶をしたり、子育ての事で相談をしたりお世話になっている。これまでほとんど会話のなかったお義父様と領地の事で話す機会が増えたのは嬉しい。お義父様は言葉数が少なく、非常に厳しい方だけれど、常々私の事をよく見て心配して下さっていた。今後、グリオル様の補佐をする役目を担う私に必要なものを揃えた上で、声を掛けずに待って下さっている。
私は今初めて「親」というものを意識している。自分自身が親になってから親を意識する有様で我が子には申し訳ないけれど、努べき行動は決まっている。
一歩ずつ、前へ進む。応えるために焦らない。それだけだ。
私たちの子はいつかこの侯爵家を継ぐ。夫は子どもには領地以外の事で何かに縛られることなく、将来を自分で決めてほしいと願っている。私も同じ思いだ。これから下の子どもが生まれても平等に育てたいと思う。口に出すと恥ずかしさで顔をしかめるので黙っているけれど、私の理想はドレッセル侯爵家の姉弟。
人に歩み寄り手を伸ばす。誰にでも正しくて優しい。そういう家族になれたらいいと思う。
4年目の昨秋、社交に復帰した。
そこで姉アレクサンドラの結婚の噂を聞いた。実は初年度にも噂は耳にした。
「妹の婚約に割り込もうとし、嫉妬で放火した」、その噂は尊大な姉の行動を良く思わない方々の間で静かに話題になっていた。これ以外にも姉に関する良くない噂は多く、どれもが自業自得と笑われていた。
伯爵家はこれを撤回する手立てを持たない。これを嘘で塗りつぶして挽回するのは今以上の醜聞を伴い、侯爵家の顔に表立って泥を投げつけることになるのだ。気の毒には思うが当然、私自身もこれを弁護する術は持たない。
結婚は、商家で働いていた敏腕会計士が婿入りした、というもの。年配でとても厳しい方という。社交の場に殆ど姿を見せない姉が嘆いているという、まことしやかな話もある。どちらも真偽は不明だが、現実が姉の描いた幸せと程遠いのはわかる。だが家は潰れずに済みそうだ。使用人たちは助かるだろう。願わくば、あの家で何かが燃える事の無いように祈るだけだ。
社交に出ると王都が拠点で自由なご婦人方や、恋人のいるご婦人方から真面目で平凡な生活はつまらなくないかと聞かれることがあるが、笑って満足している旨を伝える。美しいドレスも宝石も、刺激的な恋人もいらない。どんなに平凡に見えても、つまらなく思えても、私にとっては十分過ぎる程なのだから。
この領地は様々な話で有名だ。数年前、嫁入りの条件が噂になった前から、厳しい領地だというのは周知の事実だったらしい。お手紙をやりとりする程仲の良いご夫人やご令嬢はこの領地に理解がある。王都を離れても情報を交換することができて大変に助かっている。特にベルタ様とはとても仲良くさせていただいており、今度の結婚式には夫と共に参列する予定だ。
侯爵領はデリケート。天候の都合もあって管理が大変ではあるけれど、責任の重大さ故にやりがいがある。
随分前に日照りで薬草が枯れたことがあるらしい。特に暑い日のたった二日で草はカラカラになった。一角を世話していた領民も、見回りを怠った侯爵家も陛下から厳しいお叱りを受けたそうだ。そのため、スケジュールが厳しくなり、予備としての薬草の保管方法の研究も始まり、お金もかかるようになった。
私のような者が、見ず知らずの人の命に尽力したいと言えば偽善の様に聞こえるけれど、少なくともこの薬草は自分の先祖や、自分の大切な人を育ててくれた大事な薬だ。誰かの大切な人を守る事につながるのなら、この領地を守る事はとても素敵な事に思える。
この侯爵家で、グリオル様の隣で、領民たちと共にとても充実した日々を過ごしている。
領地の奥様たちとはお洗濯の話をきっかけに仲良くなった。ワインの染みの抜き方に始まり、泥や草の汚れ落としの話題を共有することで、とても仲良くなった。
「貴族の奥様でもお洗濯なさるので?」
と聞かれた時は言葉に詰まったけれど、そういう奥様も親しみやすいと受け入れてもらえた。現実に子どもが少し戻した時など、自分で濯ぐ事もあるし、しないと言うわけではないのだけれど、それとレベルが違う話をしてしまった。
こうなるとやはり洗濯物の染みを抜くのが楽しくて仕方がない。農工器具の錆が着いたシャツやら青草の染みやら泥やらを落とすために色々試すのが面白い。野菜や草を煮たお湯をかけると良く落ちる事もあって非常に勉強になる。叩いたりつまんだり揉んだり、こすったり。綺麗になった白い布が風にはためくのを見ると嬉しい。アイロンをかけて真っ直ぐになると安心する。
王都で荒れを酷くしていた私の手は慢性的な水分不足で、夏もクリームが欠かせない。今はたまに失敗して手荒れすることがある。心配した夫が試験薬用の水を通さない手袋を用意してくれたが、どうにももったいなくて使えていない。
午後の視察を一緒に回り、お屋敷へ戻る。途中、近所に住む義姉夫婦の姿を見かけて手を振る。お義兄様の横で、お義姉様は幸せそうに微笑んでいた。私たちは4人とも何かに対して不器用。だけどそれぞれに努めて幸せだ。
今日も寝室で私の手にクリームを塗る夫。不慣れだった頃、私の手を強く引いてしまったと詫びた不器用な彼は、回を増す事に優しく触れる。
「あなた、いつもありがとうございます」
うん、と小さい返事が甘い香りと共に部屋に溶けていく。
私は幸せだ。これからもずっと。
これにて終幕です。お付き合いありがとうございました。
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