15.名前
デビュタントから1週間。グリオルとソフィアを乗せた馬車はドレッセル侯爵領を走っていた。2台の馬車で5日、やっと領地に着いた。
「すごい! こんなに広い草原、初めて目にしました!」
馬車の窓から見える黄金の絨毯に目を輝かせるソフィア。その様子をグリオルは穏やかに見つめた。
「見慣れてしまうかも知れないけれど、良いものだよ。春に花が咲く種類もあって、夏は青々としている。秋には今のように黄金になったうえ、実が取れるものもある。冬は育つ薬草も少ない。あまりすることがないから、その間に社交に出るんだ」
今年はそれが少しずれた。季節はまだ穏やかな秋だ。
「もうすぐ式を挙げる教会の横を通るよ」
窓からステンドグラスが見える。質素とも言われる程に古くて小さな教会だがステンドグラスは豪華に出来ている。公園の時のように目を輝かせるソフィアを見てグリオルが声をかける。
「降りてみるかい?」
いつぞやの心配も杞憂ではあったが、この領内でなら本当に心置きなく外出できる。
馬車を降りる彼女に日傘を差し出す。
初めて庭の散歩に出た時、ソフィアは日傘の使い方を知った。町で晴れた日に傘をさしている人を見た事はあったが、お仕着せを着たソフィアには縁がなく、その意図もわからなかった。どうせ日焼けしている、そう思って庭の散歩のときには使わなかったが、今は大人しく使うことにした。少しでもそれらしくあるために出来る事はするのだ。
「ガラスがとても綺麗ですね。こんなに景色の美しい領地の素敵な教会で結婚式を挙げられるなんて、楽しみです」
柔らかく笑う2人の周りで黄金の光が揺れる。
王都の屋敷とほとんど同じ造りの屋敷の客間でソフィアは緊張していた。こうして並んで座る夜を迎えるのは久しぶりだ。宿の部屋の都合に加え、想像以上に大変な馬車旅の疲れで毎晩ぐっすり眠っていた。
隣に座るグリオルは涼しい顔で紅茶のカップを傾けている。
――額とはいえキスした事は、グリオル様にとって何でもない事なのだろうか。
そんな思いで1人で気まずくなるソフィア。
「……手をつないでも?」
カップを机に置いたグリオルの誘いに少しぎこちない動作で手を差し出す。動きこそいつも通りの彼だが、よく見れば少し恥ずかしそうな気配を漂わせている。
「久しぶりだと、少し照れるね」
「はい」
妙に嬉しくなってほんの少し笑う。心なしかつないでいる手もいつもより温かい。
「今日は領地と教会を褒めてくれてありがとう。今更聞くことではないが、この結婚は君にとっていい事ばかりではない。王都行きの事も含めて本当にいい?」
手に力が入る。
「あの条件以外の事ならソフィアの希望に近寄る努力をするよ。遠慮なく話してほしい」
もう恥ずかしそうな様子はなくいつもの真面目な彼だ。
「大丈夫です。あの時返事をしたのは私自身、条件の事は私にとって本当に何も問題のない事です」
ソフィアの目に安堵の表情のグリオルが映る。
「ありがとう。領地でも王都でも君に不自由をさせない事は約束しよう。先生方にも了承は得ている。妊娠にも備えてあるから安心して」
妊娠の言葉にソフィアの息が止まった。文官勤めの間は難しいと思っていた。しかし思い返せばあの時、誰の口からもそんな言葉は出ていない。勝手に思い違ったのは自分自身。1年目の予定が変わった今、それが遠くない話なのは理解できた。最後のマナー講座で教わったが些か不安で目が泳ぐ。
「結婚式後には部屋も客間から寝室に移ってもらうけれど……でも考えている……恋や愛がなくても子どもを作ることはできるけれど、その空しさやただの使命感で君が理解できなくなるのを避けたい。君が僕を好きで、抱きしめたいと思ってくれるまで待とうかと」
これはソフィアと過ごすうちに決めたことだ。どう接するのがいいか迷ったグリオルは様々な事を学んだ。その中で人の心理の一説として頭に入れた情報である。難しい事だが、人は愛を受け取る時それが突然であったり過剰であればあるだけ、戸惑い、正常な反応が出来なくなる。特にソフィアのような持っていない者は顕著だ。拒絶や妄信による依存、様々な良くない可能性がある。これまでソフィアに然程おかしな兆候は見られなかったが、泣かせてしまった事がある。あれは問題なかったが、それでも些細な事まで気を配るつもりでいた。
ただ手をつないで話をして、歩み寄る時間を重ねるうちに、いつの間にか大事な存在になっていたソフィアを本当に愛しく思うからこそ、譲れる範疇で最大限に彼女の気持ちもリズムも大事にしていきたい。
「条件にもあるが子どもに関してこだわりもなく急いでもいない。君が侯爵夫人として務めてくれる以上、僕からは離縁することはないということだ」
ソフィアは何も言わずにグリオルの顔を見つめている。
「養子縁組というのには事情がある。離縁の理由がなくなるからだ」
実はね、と口にしたのは少し前の悲しい話だった。
「病が流行る少し前から、子どもが生まれない夫婦が増えていた。その大半は病による高熱や内臓への負担が原因だ。男女どちらが原因か証明は出来ない。ただでさえあの時の貴族は皆、自分の血を残そうと必死だった時代だ。当然だがどの家も当主が原因だなんて不名誉を許さない。自動的に、婿嫁入りした方が有責での離縁が続いたんだ。それを理由に離縁されたらどこにも行けない。真偽も不明な気の毒な貴族が後を絶たなかった。状況を憂いた曽祖父はこれを入れた」
病から大分経った今も、血筋にこだわる家ではそれが理由の離婚があると聞く。
「勿論、自分たちの子が家を継いでくれれば嬉しいけれど、それよりもこの家がきちんと薬草を守ることが大事だ。従ってくれれば構わない、それはあの時の僕の本心で、この家の意思だ。あの言葉で君を傷つけてしまったなら謝るが、撤回は出来ない」
真面目なグリオルの様子は淡々としているように見え、僅かに変化がある。
自分の気持ちもまだ伝えていないが、ソフィアの気持ちもわからない、急がない侯爵家だからこそ出せた結論。その気持ちをソフィアも察した。
ソフィアは緩く首を振る。あの時の自分は傷付きもしなかったし、グリオル自身とこの家を知った今はもっと傷付きはしない。
「承知しております」
ソフィアはグリオルの手を包むようにもうひとつの手を重ねる。
「今、グリオル様がその時の言葉で傷ついていらっしゃることも。どうかお気になさらないで下さい。いつも真剣に話して下さってありがとうございます」
重ねられた手にじんわり熱が集まる。
「ありがとう。情けない事に僕は相変わらず事務的だ。本当はもっと、君に優しく接したいんだけれど恥ずかしながら不慣れですまない」
よく見ればグリオルの目は潤んでいた。
「君が一緒に王都に来てくれると言ってくれた時、本当に嬉しかった。寂しいと言ってくれた事も、申し訳なく思うどこかで少し嬉しかった。こんな僕でも少しでも君の役に立てていたなら、何よりだと思ったから」
至らない自分に、不自由なこの家に厚意を感じて、努力してくれる姿。約束の前提から巡り合わせでやってきてくれた少女。彼女の実家での扱いを肯定する訳ではないが、彼女が彼女で今ここに居てくれることを本当にありがたく思った。真摯に向き合いたいと思うからこそ、今胸にある気持ちを口にする決心を固める。巡り合わせでこの家に来てくれたこの妻を、大事にする気は十分にある。
「僕はソフィアが好きだ。ソフィアにも僕を好きになってもらう努力をしたい」
思いがけない言葉にソフィアは今度こそ本当に息が止まるかと思った。同時に言い様のない喜びが胸に湧き上がり胸がつかえる。
頬が熱い。目の前の頬と同じくらい色づいている自覚はある。デビュタントの日に言えなかった事を言うのは今だ。
「わ……私は約束であなたの妻になります。条件に従って侯爵家の妻の務めを果たします。ですが何より自分の意志で約束を叶え、グリオル様のお側で支え合いたいと思っております。はしたないと承知してはおりますが……わたしもグリオル様をお慕いしております……」
赤い顔の小さな声は確かにグリオルの耳に届いた。口に出して益々恥ずかしくなったソフィアは慌ててグリオルの手を離してもじもじと気まずそうに指を揉んだ。
「多分、今、全くマナー講座に反しているのです……凄い顔をしている自覚がありますので、あまり見ないでいただけると嬉しいです」
どんどん赤くなるソフィアが面白くて可愛くて、その気持ちが嬉しくて、グリオルはソフィアを抱きしめる。一瞬ぎくりとするソフィアだが、こうなると顔は見えない。グリオルが泣きそうな笑顔なのも、ソフィアがおよそ令嬢らしからぬ慌て顔なのも、お互いに分からない。
「ありがとう」
耳元で聞こえた優しい声に応えるようにソフィアもそっとグリオルの背中に腕を回した。
静かな教会の小さな控室。用意していただいたウエディングドレスは十分なほどに私を飾ってくれた。デビュタントとは違うすっきりとしたデザイン。先程、アーデルベルト様とアルマ様がおいでになった。満足気に微笑むお2人にお礼を言うとこちらこそと手を取られた。いつかこのお2人の様に寄り添って立てるようになりたい。
続いて入ってきたフランシスカ様は飛び切りの笑顔で私を褒めてくれた。
「結婚おめでとう。それと、ありがとう。我が家に来てくれたのがあなたで良かった。あなたのおかげでグリオル、幸せそうだもの」
にこにこ笑うその目に徐々に涙の膜が張られていく。
「けれど、ごめんなさい」
震える唇が謝罪の言葉を口にする。
「この結婚は決していい条件ではない。ソフィアは幸せ? ただの約束の窮屈な家であなたは辛くない?」
ついにぽろりと一粒の涙が零れる。
「私、この家が大好きよ。でもこの家を出る。本当はずっと困っていたの。この家では人を愛称で呼ばないでしょう。けれど婚約者は違う。あの人に愛称を呼ばれた時、ショックだった。本当に家を出るんだと実感して。同時に、嬉しかった。嬉しかった事もショックだった。恋人が私を愛称で呼ぶ度、嬉しいのがつらかった。結局私はこの家を出る事に喜びも感じていたのよね。薄情な自分が大嫌いよ」
肩を震わせるこの人はこの懺悔を何年抱えていたのだろう。いつぞや自分の意志で決めた結婚だと言ったそれを、幸せな気持ちをこんなに気にしている。約束に関係ない立場になってからも多分誰より気にしていたのだと思う。だから姉の手紙にあんなに怒って、屋敷に来た私が早く慣れるように話しかけて下さっていた。
「ありがとうございます。お気になさることは何も。私は幸せに思っております」
ぎゅっと手を握ると握り返された。少し震える手は冷たかった。
「好きな人に名前を呼ばれて嬉しいのは当然だと思います」
そこに家の事なんか関係ない。いつかのご自身の発言の通り、引け目があるだけ。
「私もグリオル様に名前を呼ばれると嬉しいです。呼ぶのも嬉しいです。好きな人の事を知りたくて、知る程愛しい。側に居たいと思う気持ち。それを教えてくれたのはフランシスカ様です」
あの日の刺繍の時間。自分の中の答えを見つけた瞬間。
「私はグリオル様に嫁げて、こんなに素敵な家族が出来てとても幸せです。これ以上ない程に。だからどうか笑って下さい」
美しい義姉は泣きながらも笑ってくれた。
「本当にあなたで良かったわ。不出来な義姉でごめんなさい。不愛想な弟をよろしくね」
宣誓の言葉の後、国の書類に署名をする。ベルネットの系図の私の名前に二重線を引き、ドレッセルの系図のグリオル様の隣に名を連ねる。当初、グリオル様が書くと言って下さったが、下手でも自分で書きたいと書かせてもらった。雑巾を汚しながら書いた字は確実に上手になっていると思う。
誰より穏やかに微笑み、私の隣に立つ彼はいつだって優しい。腕を組んで人々に向き直る。日焼けした顔の領民たちが秋の花を撒いてくれる。知っている人は誰もいないけれど、全員が優しい笑顔でこの結婚を祝福してくれている。
2人で歩く先の扉の外は眩しい程の金色が波打っている。
今から私はベルネット改め、ドレッセルとして生きていく。
夫の隣に立つ私は、夫にとって「ソフィア」。義両親や義姉夫婦にとってドレッセル家の嫁「ソフィア」。
私がこの温かい手を離して名前を返すことは決してない。
鐘の音は穏やかな秋晴れの空を軽やかに駆け抜けていった。
※今回の離縁の件の「嫁婿側が絶対有責」はフィクションです
■お詫び
14話の本文に一文抜けがありましたので追加しました。ストーリー変化はありません。
・お茶会の件、アルバンがベルタを諫める箇所。
→微笑ましい兄妹のやりとりに、グリオルが穏やかに声をかける。
失礼しました。
明日最終話のまとめ回です。