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仕合せという結婚  作者: 餅屋まる
第2章 ドレッセル家
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13.ひとに触れる

 泣き疲れた私が眠ってしまった翌朝も、グリオル様は変わらず爽やかな笑顔で私を迎えて下さった。恥ずかしさで思わず身体が強張り、「笑顔は令嬢の武器」というマナー講師の言葉をかみしめる。全く上手に笑える気がしない。ファンタムグレイのドレスをきゅっとつまむ。


 食堂の入り口で昨日の失態を詫びる。

「昨夜は失礼しました。これから長くお留守になさるというのに、たった数時間で情けない有様で申し訳ありません」

みっともないとも思ったが、何よりも身勝手な理由で泣いて困らせたことが申し訳なく情けなかった。

 けれど目の前の人はいつも通り。ふわりと目を細める。

「気にしないで。まだここに来てひと月ばかりだ。配慮不足もあった。ごめんよ」

優しい言葉に緩く首を横に振る。



 グリオル様は本当に素敵な人だ。私が自分の力で感じ、考え、答えを見つけられるようにして下さる。齢16にもなって情けないけれど、無知な上に何もできない、不足しかない自分にとって、これ以上ありがたい事はない。

 あの約束もあるとは承知していても、それ以上に何より私自身を案じてくれている。うっすらと感じていたことは、昨夜なんとなくの実感に変わった。確信したと思い上がることは出来なくても、あまりの優しさに少しだけ自惚れてしまう。

――私は私が思う以上に、この人に大事にされている。

 毎晩、私の部屋に来てくれていたのも、たくさんお話して下さるのも、手を繋いで下さったのもお掃除やお洗濯の件であんなに怒っていらしたのも。全部そう。

 今更ながら、今日までの様々な事にその優しさが散りばめられていたことに気が付き、嬉しさで顔まで温かくなる。



 確かにこの家に慣れているとは言い難いけれど、私はこの侯爵家が好きだ。不安も不満もない。この家の人たちはとても優しいし、その優しさを信じている。

 使用人も含めてこの家全体がこんなに優しいのは、ご当主の許しがあるから。


 貴族の家は家長の許しで運営されていく。当然、家長が愚かであればそれを諫める者が必要になる。古く政略結婚が多かった時代はそれも考慮されていたという。家というのは中だけではなく外にも向けてドアを備えているのだから、社交も含め、夫婦とは補い合うためにあるのだと家庭教師は教えてくれた。


 ベルネット家はその良くない例に属している。夫婦が共に愚かだ。例え母と姉が暴走しようと父がまともであればもっと違う家になったはずだ。だが父は無力だ。自らを省みる事の出来ない父は助長の援けですらある。


 時に厳しくあるべきと聞く貴族の家として、ドレッセル家の在り方が正しいかはわからない。だけど私はこの家がとても好きだ。居心地がいい。

 この家にある、個人が個人として自らの意志で動く気配、集合体として形を成すために思い遣る気配はとてもありがたい。私が自ら背を向けない限り、ここにいていいと教えてくれる。いつか恐れた違和感はどこにもない。

 優しく見守って下さるアルマ様とフランシスカ様。お話する機会は少ないけれど、ご当主のアーデルベルト様も。

 私に出来る事はこの家に誠実に応える事。目下のところは努めて成長し相応しくなることだ。約束の婚約者にここまでして下さるご厚意に返せる精一杯の誠意。


 優しい皆様の中でも、私にとっての一番はグリオル様。心細かったのは彼がいなかったから。知らず知らずのうちにとても頼りにしていた。夜に話す穏やかな時間を楽しみにしていた。当たり前になっていた温もりがなくて、寂しくて心細い。グリオル様自身にどうお返し出来るかはまだわからない。だけどどうにかお返ししたい。胸にある温かい気持ちはあの人に向けてそこにあるものだとわかっている。

 何かを楽しみだと思うこともなかった、無味無臭の世界がいつの間にか変わっていた。それは全部この人たちのおかげ。


 いつの間にか随分贅沢な自分になったらしい。諦めている頃は寂しいなんて思わなかった。こんな風に誰かを思うことも。



 ドレッセル家の朝食の席は今日も慌ただしい。ただ、そこにある空気は常に穏やかだ。この席に着く誰もが、1日の始まりを優しく迎えるために、ここに集まる。いつもと変わらない焼き立てのパンの香りにまざるポタージュ。変わらない挨拶。

 窓の外は晴れている。今日もきっといい天気になる。




 今日のグリオル様はとても忙しそうで、ダンスのレッスンにはお見えにならなかった。そして私は初めて完璧にダンスを踊ることが出来た。ちょっと複雑な気分。さすがに恥ずかしいので今日だけは都合が合わなくて良かったと思ったけれど、踊れないのも少し寂しいと思うのだから、本当に勝手だ。




 その晩、グリオルはいつもより早くソフィアの部屋を訪れた。

「ソフィアに大事な話があるんだ」

 いつも通りに手を取ってから気が付く。昨夜の事を恥ずかしく思ってか、ソフィアが少し強張っている。グリオル自身も人を抱きしめたのは初めてで動揺しないわけではなかったが、今は話の方が大事で、自分の一部になったいつも通りの行動を気にも留めていなかった。


 改めてしまえばほんの少し気恥ずかしいが、冷静に言葉を続ける。

「文官の仕事の詳細が決まってね。来年の春から2年間、城に仕える事になった。それで……もしソフィアが一緒に来てくれるなら、しばらくは一緒にいたいのだけど、どうだろうか」

 ほんの少し驚いたような顔をされるが当然だ。結婚したら王都に居るのは年に1か月だけの予定だと伝えてあったのだから。

「昨日の今日でこの話もなんだが……」


 実は先の夜会に文官で働く間の上司が来ていた。すでに略式で伝えてあった自分の結婚と次の春の姉の結婚の日取りを伝えたところ、気を遣って時期も期間も先に教えてくれたのだ。


 文官の仕事に携わるのは理由がある。薬草を扱う次期侯爵として医療部門の書類の動かし方なども知っていた方がいいということからである。勿論、触り程度だが、現当主の代から始まったこの仕事は国と領地とのやりとりの円滑化にいい形で大きく影響している。


「予定では薬草の勉強と見回りをお願いする予定だったのだけど、領地のダンスの先生が引退されていてね。だからソフィアが許してくれるなら、もう一度エラ先生にお願いして、しばらくこちらで練習出来たらいいと考えている。勿論、ソフィア次第だ」

 ソフィアは2つの事に驚いていた。話が変わる事にもだが、グリオルが一緒にいたいと言ってくれた事に。ほんの少し胸が弾む。一緒にいられる? だけど浮かれることは出来ない。

「領地の件は大丈夫ですか? 視察など忙しいと……」

「心配させて済まない。1年なら問題ないと許可をくれている」

 昨日のうちに家族には相談し、1年という期間は父から今日約束された。領地の家庭教師陣は大喜びで引き受けてくれ、王都まで来るのもやぶさかではない様子だったので、話が変わっても大丈夫だろう。だが心配はソフィア自身。王都に長くいればその分、ベルネット家と遭遇する機会が増える。特に夜会で姉に合うのは嫌だろうとグリオルは心配していた。

「口にすることを許してほしいが、色々あるだろうから……」

不安げに言葉を濁す様子にソフィアもその意図を察する。

「ご迷惑でないのならお側に参ります」

グリオルが安堵と歓喜の表情を浮かべる。ソフィアにとってもそれが嬉しい。

「お気遣いありがとうございます。ご心配には及びません。もう関係のない事です」

 その笑顔に嘘はない。本気でそう思っている。忘れたいわけではない。あれはそういう事実で、過去だ。ここにいる自分のこれからに、混ぜ込む意味がわからないだけだ。

「ありがとう」

 グリオルの笑顔もまた、側にいると言ってくれたのが嬉しくて、見せたことがない程の優しさを浮かべていた。



 ソフィアの返事を伝えると父はそうか、と短く答え、グリオルに向き直る。

「お前は許可を出された意味を解っているか」

 ソフィアを連れて行きたいと言ったのはグリオルだ。自分側の理由や気持ちを、本当の意味で快く受け入れられたのではない事は理解している。侯爵家にとって今のソフィアは小さな子供と同じだ。ないものを補うために一生懸命努め、その姿勢を全員が評価している。だがそれを身に着け終わった時からはソフィア自身の資質が問われる。それをきちんと見極め、支えろと言われている。

 ソフィアが座る妻の椅子に求められるものは、現在の侯爵夫人と同じものである。それは十分に理解しているつもりだ。それに向けて支える気もある。

「はい。ありがとうございます。努めて参ります」

例外として認めはしたが甘やかす気はない。侯爵家当主の目は、自分もその妻も、容赦なく評価する。そこはそういう椅子だ。



 デビュタントまでの間、ダンスの他にも時間を捻出したグリオルはソフィアと町に出るようにした。気分転換の他、先日の裏付けとエスコートの練習も兼ねている。

 友人から聞いた限り、侯爵家が領地に戻るまで伯爵家が外出を控えるのは確実らしい。表向きは「次期当主の教育に専念する」という話だが、誰もが嘘だと見抜いている。件の夜会から風向きは変わりつつある。加えて先日ソフィアからも伯爵家の事は気にしていないという言葉をもらえたので、遠慮をするのをやめた。大手を振ってソフィアをエスコートすることにした。

 マナー講座の成果と慣れもあり、エスコートには大分慣れてきた。これならデビュタントは問題ないだろう。


 デビュタントでは腕を組むだけで充分なのだが、ちょっと予習だと言いながら腰に手を回したりすると、口元をむずむずさせて頬を赤らめる。恥じらうような反応を見せるのが可愛くて、何度かからかったりもした。慣れてきた頃、グリオルがわざとそうしていることに気が付いたソフィアが控え目に抗議の視線を送ることがあったが、そうやってからかうのは大体、慣れない場所や作法を間違えて緊張している時や気が抜けている時だ。意図がわかっているから強く出られず、なんだか曖昧に照れているようになってしまう。

 この頃2人は1から10まで話さなくてもなんとなく心を通わせる事が出来るようになっていた。それでもグリオルはたくさんの言葉をソフィアに伝え、ソフィアもまたそれに応えた。ただひとつ、肝心の好きという気持ちだけは恥ずかしくて口に出せない。

 すっかり打ち解け合った2人の様子ははた目にも仲睦まじく、侯爵夫妻はその様子を微笑ましく見守っていた。

 いつかのソフィアが見せた、深い淵のような虚ろな瞳や怪しい気配はすっかり消えた。それだけでもグリオルにとっては救いだ。約ひと月半でここまで変わった事が嬉しい。満面の笑みで未来の妻の明るい明日を祝う。


 ただ、全てが万全とはいかなかった。手荒れはひどいままだ。こればかりはいただけない。いつもは優しいグリオルも素直に渋い顔をしてソフィアを叱った。気まずそうなソフィアは結婚式までには治すと約束したが、幾日もない。そのしょんぼりした顔も可愛いものがあった。



 そしてデビュタントの日はやってきた。



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