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仕合せという結婚  作者: 餅屋まる
第2章 ドレッセル家
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12.ぬくもり

「母上や姉上と過ごす以外はきちんと休むように」と言いながらグリオル様が本と辞書を下さった。私のお願いした本は全て薬草に関するものだ。勉強は好きな方なのでとても嬉しい。辞書を引きながら図鑑や本を読む。読み終わればまたグリオル様が次の本を持ってきて下さる。おかげで空き時間は大分減った。


 グリオル様はダンスレッスンの他にも、少しの隙間の時間でお出かけやお庭の散歩に誘って下さる。時間が短い事を謝られるけれど、忙しい中でも考えて下さる気持ちが嬉しい。その内、グリオル様の方が身体を壊さないかと心配になる程。


 約束したので掃除も洗濯も控えている。とはいえ、インクで汚した机と雑巾を放置するのは気は引けるので、これだけはグリオル様に内緒でたまにさせてもらっている。実はご存知で黙っていて下さっているのかもしれないけれど。

 あの日以来、気まずさで距離が遠くなっていたように思った使用人たちに詫びて礼を言うと皆快く「驚きましたがお気になさらず」と笑ってくれた。何も出来ないが、こまめに感謝の意を伝えるようにした。



 出来上がったハンカチをグリオル様に渡すと、とても喜んで下さった。

「ありがとう。とても上手だね。大事に使うよ」

嬉しそうにまじまじとハンカチを見て、思い出したようにふふ、と笑う。

「ソフィアが姉上の刺繍を見た今だから正直に話すが、実は僕が今使っているハンカチは姉上の練習台でね」

差し出されたシルクのハンカチは、いつかのように彼女の香りがする。そしてそれには、いつぞやの自分の筆跡とよく似たよれよれの縫い取りがあった。

 あの時の妙な顔はこれだったのかと理解した。

「何でも出来る姉上は、刺繍だけがとても苦手なんだ」

2人で顔を見合わせて緩く笑う。


 エラ先生の時もそうだった。誰しもが少し苦手なことがある、それが嬉しい。皆もまだ、歩いている途中なのだと思えるし、完璧ではなくても素敵な人になれる事を教えてもらえる気がするから。私の好きな人達は皆、優しくて尊敬できる人たちだ。


 勇気を出して、考えていたことを口にする。

「その色、お似合いになると思って選んだのですが、フランシスカ様からグリオル様のお好きな色だとうかがいました。それで……私、グリオル様の事をあまり知らないことに気が付いて……失礼なのは承知ですが、お好きなものを聞いたら教えて下さいますか? ……知りたいのです」

はしたない自覚はある。顔が熱い。でも聞いた事を後悔はしない。

 グリオル様が浮かべる柔らかい微笑みに胸が高鳴る。


 この気持ちがあの本のような愛になるのか、何を以って好きというのか、わからない。でも私は目の前のこの人を好きだと思う。

――知りたい。喜んでほしい。側に居たい。

今まで誰にも持ったことのない気持ちが温かさを伴って胸にある。




 この頃ソフィアはよく笑う。家に来て暫くの頃にようやく見せた笑顔は曖昧なものだったが、変わってきた。嬉しそうに笑ったり、恥ずかしそうにはにかんだり、様々な笑顔を見せてくれる。貴族の令嬢としては不都合もあるが、今はこれでいい。上手になるはずのダンスが少し踊りづらい時があっても、恥ずかしがってもらえるのも少し嬉しい。これまでなかった事をひとつひとつ、彼女が経験してくれるのを見ていると、とても温かい気持ちになる。

 父上は仕事の都合上どうしても会話が少ないが、お互いに悪い印象は持っていない。特に父上は勉強熱心な彼女を気に入っているのか、薬草の本を借りる度に褒めている。母上と姉上は彼女と仲良くしているようだ。ソフィアと過ごすように頼んだこちらも感謝しているが、意外な事に2人からもあれこれ感謝されている。

 ソフィアの妙な動きを面白がりながら報告してくれる使用人たちも活き活きと働いている。聞けばソフィアによく礼を言われるらしい。

「仕事ですし、褒められるためにしている事ではありませんが、とても励みになります」

その顔はとても朗らかだった。

 ここしばらくで家の中自体が明るくなったように思う。彼女が家に馴染めるようになってきたのは皆のおかげなのでとにかくありがたい。

 先日はハンカチをくれた。姉上と刺したという上手な刺繍を見て思わず笑った。自分にも関心を持ってくれるようになったらしく、色々聞かれて正直内心で浮かれている。

 自分も出来る事をと思うが、どうしても作れる時間はダンスに優先される。それ以外の時間が思うように都合がつかずに少し悔しい。本当はもっとたくさん話して、ソフィアの気持ちを知りたいのにままならない。ため息が出そうだ。




 デビュタントまであと2週間。2人の関係は穏やかに形を変えつつある。




 その夜会は父のみが参加する予定だったが、グリオルはとある事情で急遽参加を決めた。残念ながら夜遅くなるためソフィアには先に休んでもらうように伝えた。

 事情というのはソフィアの未来に影を落とす「噂」である。アレクサンドラの流した金遣いの荒い妹、自分が侯爵家に嫁ぐ話、そしてそれに掛かる形で貴族間で歪み面白おかしく伝えられた火事。アレクサンドラはあの火事以来、謹慎処分を受けている。本人の謹慎及び社交界にソフィアがいないのをいいことに、アレクサンドラ側や、話を面白く思う貴族が噂を盛り上げているらしい。下品な輩はグリオルとは縁遠いが、ソフィアが1人で出るお茶会などに影響があっては困る。


 今日の夜会は仕事関係の家が主催し、王城に関わる国の重鎮たちも数多く出席する。この場で噂が嘘であることをアピールする必要がある。火のないところに煙は立たず、相手にすれば燃え盛るものもある。だが無駄に振り回される松明を叩き落とすくらいの事は夫として出来て当然だ。一番効果の高い夜会を狙って出席した。

 叩き落とす真意のその証明が出来るのはソフィアを伴うデビュタントでのみだが、そちらには自信がある。


 会場でいつも通りに挨拶を済ませ、挨拶ついでに生来の婚約者であるソフィアと暮らしている旨を話す。付き合いが長く、婚約を知っている貴族は噂の性質の悪さに見舞いを述べてくれる。良識ある貴族は皆、そういうものだ。


 ワイングラスを片手に顔見知りのご令嬢方に挨拶を返す。皆綺麗に着飾り美しい。おしろいの匂いがふわりと漂う。そういえば先日初めてソフィアが化粧をしているのを見た。姉上の時も驚いたが、随分雰囲気が変わるものだと感心した。明るくなった表情が華やかになる。デビュタントのドレスの完成はもうすぐだ。

 本人の気持ちは心配だが、その日を楽しみだと思う。なんとなく胸がそわそわして、手に持ったワイングラスをくるくる回す。


 ふと、友人が近づいてくるのに気付く。同じ侯爵家で今回の噂を教えてくれた人物でもある。視線を送ればその顔に浮かぶ、からかい気味の笑顔。話が早い。

「お前が姉の方を見初めたのに、強欲な妹が譲らなかった事になっているらしい」

そう聞いた時は忌々しく思いながらも、いつぞやの夜会で顔も合わさずに帰って正解だったとあの時の自分を褒めた。

 いつもならご令嬢に失礼な事を言わないグリオルだが、こうなっては話は別だ。アレクサンドラに容赦はしない。

 友人も心得たもので、周りの人が聞き耳を立てていることに気付きながら、わざと聞こえるように会話を始めた。

「お前にしては珍しく面白い噂があるようだが」

「珍しい? そういうのは大概どこかで誰かが面白半分の嘘にしているものだよ」

この発言にアレクサンドラの友人とつながりのある者は顔が陰った。アレクサンドラが夜会で侯爵家の条件を不満げにべらべら話した事は有名だ。火事の噂も始めは目撃者から正しい噂が流れた。それを勝手に脚色してしまうのが社交界の恐ろしいところ。それが侯爵家に見透かされているのだ。

 グリオルが追い打ちをかける。

「ああ、最近可愛いお嬢さんを家に迎えた話なら本当だけどね。幼少期からずっと会いたかった婚約者だよ。控えめで優しい。うちにはもったいない程の良い子だ」

軽く冗談めかすつもりだったが、グリオルの口からはすらすらと言葉が滑った。

「そこまでか。お前はどんな美人のお誘いも、婚約者の為に受ける事がなかったような真面目だからな。どこの集まりにも出られたことがない令嬢と聞いたが、デビュタントが楽しみだ。ダンスに誘っても?」

「譲らないぞ」

冗談めいた言い方の中のグリオルの本音を感じ取ってか、友人が呆れる。

「随分ご執心だな」

「当然だ」

にやりと笑う。

「家と婚約者1人大事に出来ずに、貴族として胸を張れるわけがない」

その言葉はホールにじわりと溶けていった。



 帰りの馬車で父親は険しい顔で告げる。

「デビュタントは大丈夫そうか?」

デビュタントは今夜とは集まる貴族の層が違う。明るくないものを不安視する言い方だった。

「大丈夫です。レッスン日が多いため、ダンスもかなり様になってきました。その他は全てこちらでカバーします」

「そうか」

いつだって遠くから厳しく見ている父がここまで心配することは珍しい。丁度いいと思い切って相談することにした。

「父上、お願いがあるのですが、聞いていただけますか?」




 大分夜も遅いが、少し顔が見たいな、と思ってグリオルはソフィアの部屋に向かった。もう寝ているだろうと控えめにノックをして薄く扉を開けると、ベッドの上のソフィアと目が合った。読んでいた本を脇に置いて駆け寄ってくる。ソフィアはグリオルの手をぎゅっと握った。


 ソフィアにとって、ここに来てから初めてグリオルが来ない夜だった。夜会に送り出した時は平気だった。仕方がない事はわかっていたし、いつも無理に作ってもらっている時間だ。きちんと断られたのに待つと言えばそれはわがままだ。

 いつものように寝ようとして急に心細くなる。いつまで経っても叩かれないドア。誰も座らないソファ。試しにドアを少し開けてみても、階下の使用人たちの後片付けのかすかな物音が聞こえるだけ。誰もお茶の用意はしない。


 いない。


 それを実感して寂しさが胸を襲った。数年ぶりの寒さに涙が出そうになる。ごまかすように本を読むも目が滑るばかり。用意してもらえた辞書で色々な本が読めるようになって、いつも楽しみだったのに今日は全然読み進まなかった。

 ぼんやりと、ただ紙面を眺める時間が続いた。


 だから控えめにノックされたドアが開いて、会いたい人がそこに見えた時ソフィアは何も考えずに動いていた。


 グリオルの手を握る少女は泣いている。多分、本人は気が付いていない。

「ごめんね」

何を告げるわけでもなくグリオルは謝った。ソフィアも何も言わずに泣いている。その瞳には安堵の色が見え隠れしていて、グリオルは何事か問題でもあったのか、そっと尋ねる。

「……いいえ、何も。……何も、何もないのです」

答えてすぐに、ソフィアの目からボロボロと大粒の涙がこぼれる。

「きちんとご説明下さってこの様子で情けないのですが、グリオル様がお見えならないと実感したら心細くて悲しかったのです」


 はっと気が付く。出かける前に不在を伝えはした。勿論、ソフィアを労い気遣う言葉も忘れずに伝えた。だけどそれはいつもの通り事務的だったのではないか。また、選択を間違えた。必死に頭を回転させても言葉を見つけられなかったグリオルが出した答えは、言葉でもハンカチでもなく手を差し出す事だった。

 苦しそうに涙をこぼすソフィアをそっと抱きしめる。

「そうか。寂しい思いをさせてごめんね」

腕の中の少女はまだ泣いたままだ。

「ごめんなさい。わがままを言って……」

「大丈夫。僕も寂しかったから会いに来たんだ」

 本当はドアを閉めてはいけない。だけどこうして泣いていることを、ソフィアが「わがまま」を言ったことを誰かに見られたら彼女が可哀相だ。例え、他の誰にとってもそれが「わがまま」ではないにしても。

グリオルはそっとドアを閉める。

「ただいま、ソフィア」


 グリオルには『好きになる』ことの正解はわからなかった。だけど自分が会いたいと願い、今ここで泣いている彼女に笑ってほしいと、安心してほしいと。この前から続く理解したい、幸せにしたいと思うこの愛しさがそうでないなら、もうわからないままでいい。理由も感情も言葉同様、考えすぎて見つけられなくなるくらいなら自分の胸にあるものを信じたい。



 グリオルは安堵の涙が止まるまでずっと抱きしめていた。




2章16話が最終話です。

そこに向かってほんの少しずつの加糖中。

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