11.好きな色
先日の茶会の時にその成果が発揮されたが、毎朝予定を聞かれる意味を理解してからのソフィアは、クリスタに質問をしていた。用事に適した服装や色遣いや髪形など様々だ。
「ソフィア様は勉強熱心でいらっしゃる」
優しく目を細めてくれる初老の使用人はソフィアにたくさんの事を教えてくれた。
クリスタは貴族の令嬢らしくないソフィアが何事にも真剣に打ち込み、熱心に質問をし、たまにいう自分の小言も真摯に受け止める姿勢がまるで娘の様で可愛くて仕方なかった。
この頃にはソフィアの希望で若奥様という呼び方をソフィア様に改めていた。ソフィア自身、まだ何もできない自分がそう呼ばれるのが嫌だったのだ。きちんとできるようになったら呼んでもらおうと心に決めている。
少し前からはソフィアが選んだ服の合否をクリスタが判断するまでになった。髪型もソフィアが提案する。たまに訂正が入るが、手持ちの服の中では上手に選べるようになってきた。色も次第に明るい色が選べるようになってきた。
こうなってくるとソフィアにもフランシスカの「これしか買わなかったの」の意味が解ってくる。クリスタが言う「もう少しレースが多い方がエレガントです」や「些か重すぎます」の「この服は少し惜しい」のニュアンスがわかるようになったのだ。フランシスカは枚数ではなくバリエーションの事を言いたかったのだろう。グリオルの選んでくれた服はどれも男性目線。不足はないが姉の目は厳しい。
今朝もソフィアは自分で服を選んだ。今日はダンスの日。自分では選んだことのなかったシェルピンクのドレスを選ぶと、目を細めたクリスタが新しい髪型にしてくれると言う。
「こちらは少し簡略的ですが、この様な形に結ってお茶会や夜会に行くことが多いのです。折角可愛らしいドレスをお選びになったのですから、少しでも本番に近い髪型で踊られてはと思います」
丁寧にパーマをあてながら話してくれる。毛先だけを緩く巻き、その状態で上半分をすくい、三つ編みを作っていく。頭頂部を逆毛で盛り上げてその周りを三つ編みとリボンで飾る。
「夜会ではこの辺りに宝石のあるアクセサリーを飾るのが一般的です。本番は少し重たくなりますのでお気をつけて」
「はい」
初めの頃は無言でうなずいていたソフィアも成長した。頭は固定したまま、きちんと口で返事をしている。そもそも行儀が悪いのだが、スタイリング中は特に危ない。櫛や鏝や何やらで怪我をすることもある。
下りている毛先はふんわりと仕上がっているので、そのまま流すと思っていたがそれも後ろに編み込み始めた。
「お茶会でしたら下ろしたままでも構いませんが、踊られるときは当然きつくまとめます。パーマをあてたのはこのように、編み込んでもきつい印象を与えないためです」
確かに後ろが柔らかく綺麗にまとまっている。思わず顔が輝く。
「ありがとう。素敵だわ」
「とってもお似合いですよ。さ、食堂へ向かいましょう。お坊ちゃまも喜ばれると思います」
その言葉にもソフィアは励まされる。
グリオルは新しい服を着れば褒めてくれる。同じ服でも髪型を変えればまた褒めてくれる。褒められ慣れていないソフィアは初めの頃こそ戸惑ったが最近は素直に嬉しいと思える。
マナー講師に、貴族の男性は女性を褒めるのがマナーの一環で務めであると教わった。女性側にもマナーがある。ある程度の謙遜は大事だが、それを受け取らずに拒否したり行き過ぎた謙遜を示すことはマナー違反だ。勿論、過剰に喜んで受け取るのも。
この家に来た頃のソフィアは「何かを受け取る事」がとても苦手だった。表情も乏しい。ここに来て暫くは罪悪感や緊張で心許ない顔ばかりしていた。頑張ろうとしつつも、引っ込んで恐々様子を見ているのがありありと伝わっていた。
そんなソフィアを見守って変えてくれたのはこの侯爵家で出会った人達だ。この家族に自分が混ざる事を異物だと感じていたソフィアの手を引き、座らせてくれた。そこに居て当然のようにソフィアに話し掛け、笑ってくれる。ソフィアもまたここに居たいと感じたから、変わり始めた。
アルマとお茶をしてからのソフィアはますます変わった。ただ侯爵家の妻であろうとしてもだめだ。グリオルとその周りとだけの世界でもだめ。外まで連なる世界の中で、グリオルの隣にいるために動く必要がある。そのために成長しようと考えていた。
自分が変わってきた事は実感している。毎朝今日の自分の姿を決める事が楽しい。地味な顔は相変わらずだが、辛気臭い顔つきが少しずつ変わりつつある。マナー講座の日にしてもらえるお化粧で別の人みたいになれたのには驚いた。急に毎日するのは疲れるだろうからと、今はまだマナー講座の日だけだが、それも楽しみだ。鏡を見るのも好きになった。
だけどグリオルが褒めてくれるのが一番嬉しい。ソフィアがどんな服を着ていても態度が変わらず親切だった彼が、安心したような嬉しいような顔をしてくれるからだ。口から出るそれが社交辞令の褒め言葉でも、僅かにでもグリオルが前と違う反応を示してくれることが喜ばしかった。いつだってソフィアを温かくしてくれる優しい人。
今日もまた食堂の前の人は朝の挨拶と同時に笑みを浮かべてくれる。
「まあソフィア! あなた刺繍がとっても上手なのね!」
目を輝かせたフランシスカがソフィアの刺繍枠を覗き込む。先日どこかで見たような反応にソフィアは思わず笑う。あの母とこの娘はよく似ている。
伯爵家で繕い物をしていたソフィアは裁縫が得意だ。プロ並みとはいかないが、素人にしては丁寧に仕上げる事が出来る。刺繍は使用人から教わった。
「ありがとうございます。少し、針を持つ機会が多かったもので……」
対するフランシスカは刺繍がどうにも苦手だ。糸の向きが揃えられず、光沢は安定しないし、どうにも途中でガタガタにずれてきてしまう。強く引いてしまって攣れたり、潰れてしまう事もある。
刺繍は貴族の令嬢の嗜みの1つだが、一向に上手くならない。精一杯刺繍したそれを婚約者は喜んで受け取ってくれるが、夜会などでハンカチを取り出されるたび、刺繍が見えませんようにとフランシスカは内心で祈っていた。
「どうしたら綺麗に出来るの? 私これが大の苦手なの」
弱音を吐きながらお手上げのポーズを取るフランシスカの刺繍枠を覗き込み、ひっくり返したり触ったりしてからソフィアは言った。
「少し力が入りすぎているのと……糸を割ってしまっている……枠をぐるぐる回して刺繍していませんか?」
思い当たることがあるフランシスカが勢いよく頷くと、ソフィアは笑った。
「それです。糸を刺してから枠を回してしまうので、糸の撚りが戻ってぼよぼよしているのです」
回さないと刺しにくくて、というフランシスカの為にソフィアが手本を見せる。すいすい動くソフィアの手元をフランシスカが凝視する。
「少しなら回しても大丈夫ですが、グルグル回してはいけません。このくらい……次刺すときは逆に戻して下さい」
見様見真似で始めるフランシスカの手を、ソフィアがそっと注意する。2針刺してみた糸は先程より綺麗に揃っていた。その調子です、とソフィアが言うとフランシスカは刺繍枠を回さないように気を付けながら、続きを刺していく。
刺繍の時間は穏やかに流れる。次第にフランシスカにも余裕が出てきて、針を動かしながら色々な話をした。お茶会の作法やドレスの事など、フランシスカの話は勉強になった。
この家でソフィアの一番の話し相手はフランシスカだ。侯爵夫妻もグリオルも忙しい。それに比べればフランシスカは屋敷にいることが多く、共に過ごすことはなくてもすれ違う度に声を掛けたり、朝食の際ものんびり会話を楽しむことができる。グリオルと過ごす優しい時間も好きだが、フランシスカと話す楽しい時間がソフィアは好きだ。
フランシスカと話すと、たまに姉の事を思い出す。フランシスカと同じ、女の姉妹。何かが違わなければ、あの姉ともこうして過ごせたのだろうかと思う。
けれどなんにしても全てが遅い。生まれた瞬間から分けられていた姉と自分の道は一度も交わらなかったのだ。間に合う着地点も、後悔するポイントすら元々存在しない。『たった1人の姉妹』だが他人より遠い。この侯爵家と並べてしまうとなんだか随分寂しいものがある。最後に見たのは炎の前の憐れな姿。何も考えずに姉の幸せを祈る事でしか、ソフィアには姉妹の答えを見つけられない。
フランシスカが縫い取りをするのは婚約者に渡すハンカチ。ソフィアも薦められてグリオルの名前をハンカチに刺繍する。時折唇を固く結びながら、真剣に針を動かす姿が可愛くてソフィアは思わず微笑む。
「フランシスカ様は、婚約者の方が本当にお好きなのですね」
ほんのりと顔を赤くしたフランシスカが、チェーンステッチを引っ張りながら答える。
「ええ。大好きよ」
「刺していらっしゃるとき、とても一生懸命な気持ちが伝わってきます」
「だって、こんな拙い刺繍でも喜んで受け取って使って下さるんだもの。少しでも綺麗なのを渡したいわ。ソフィアのおかげで今回こそ、良いものが出来そう」
にっこり笑うその顔は、やはりアルマによく似ている。
「前も話したけれど私の婚約者、バルトルト=エヴェルスは薬草の研究者で、賢くて格好もよくて……でもすごく真面目で興味がない事には本気で興味がないの。無愛想でお世辞も下手。貴族の男性としては落第点。だから女性に全然人気がない。でも私は好きなの。どこがって言われてもわからない。もしきっかけがうちの領地の薬草でも、もう関係ないわ。彼の事を知りたいし役に立ちたいし、名前を呼んで名前を呼ばれたい」
そう話しながら刺繍の針を動かしていく。
「とっても幸運な事に、相手もそう思ってくれたから、結婚することが出来る」
僅かに声のトーンが落ちる。フランシスカはフランシスカで、自分だけが望んだ恋を成就させたことを後ろめたく思っているのだ。
ソフィアはなんと返すのが良いかわからず言葉を探す。どうか自分達の結婚を気の毒だと思わないでほしい。責任を感じて、いつか義務感ではないと話していたその幸せな結婚を後ろめたく思う必要などない。
「グリオルとは仲良くしている? 失礼な事はされていないかしら?」
僅かな沈黙の後の唐突な質問にソフィアは慌てる。
「はい。良くしていただいています。勿体ないくらい」
「そう」
フランシスカの声は優しい。
「ソフィアのおかげでグリオルも変わりつつあるわ。不愛想で事務的なのに、最近少し柔らかくなったもの」
「……私、こちらにお世話になれて本当に恵まれていると思っています」
針を動かす手は休めない。何も言わない義姉の顔は見ない。唇を噛んでいるのが視界の端に見えているから。
「本当に」
噛みしめるようなソフィアの言葉に、かすかな息漏れが走った室内は少しだけ湿っぽい。
フランシスカは目を細める。ほんの少し鼻声だ。
「その色、グリオルが好きな色ね。きっと喜ぶわ」
ソフィアははっとする。似合うだろうと思って勝手に選んだ色だ。思えば、毎晩話はするけれどグリオルの事をほとんど知らない。いつだってグリオルが外の話をしてくれて、ソフィアの事を聞いてくれて褒めたり叱ったり笑ったりしてくれた。
「知りたい……」
フランシスカの恋心。口の中で繰り返したその言葉が胸をするりと埋める。思い出せる笑顔が眩しくて息が苦しい。
――喜んで下さったらどんなにいいだろう。
後悔と希望とたった1つの感情が、海の底のように暗い心の底に沈んだ気持ちの箱の蓋を開けていく。
「……喜んで下さるでしょうか」
「勿論よ。毎朝あなたを食堂の前で待つようなやつよ、絶対に喜ぶわ」
少し潤むフランシスカの視線の先には幸せそうに針をくぐらせるソフィアの姿があった。