10.義母アルマ
日差しが穏やかな午後、ソフィアはマナーのレッスンを終えて部屋に戻るところだった。少しずつでも出来ることが増えると自信がつく。そこに褒め言葉までもらえると益々励みになる。
そこへ、通りがかった様子の義母アルマに声をかけられる。
「ソフィアさん。丁度良かった。今のお時間はお暇かしら?」
「はい、奥様」
「まぁそんなかしこまらないで。これからテラスでお茶をするのだけれど、良かったらご一緒して下さらない?」
夫人とお茶をしたことはない。自分よりフランシスカの方が、と思うが確かフランシスカは友人宅でのお茶会だと言っていた。緊張しながらもソフィアは頷いた。
「私で宜しければ」
「ありがとう。嬉しいわ。少し後にテラスにいらしてちょうだいね。お待ちしているわ」
夫人の後姿を見送って礼をしてから側にいるクリスタに質問をする。マナー講座に出たホライズンブルーのドレス、少しならお化粧もしているので簡略的なお茶会であれば問題はないはずだが、家の中の事とはいえ侯爵夫人のお誘いである。失礼はないだろうか。
「問題ありませんよ。それより豪華なものにお召替えなさっても宜しいとは思いますが、もし畏まった席になさるなら奥様の方から指示があるはずです。髪とお化粧を整えてテラスに参りましょう」
胸を撫で下ろしたソフィアをクリスタが褒める。
「誘って下さった方の事まで考えられるようになるなんて、たった数週間で目覚ましいご成長ですね。ですが、ご家族の前以外ではそのように明らかにほっとなさったりされませんように。表情が豊かなのは良いですが、お外では淑女の仮面も大事になさって下さい」
ソフィアはクリスタが大好きだ。前の家の使用人と年代が近く、一方的に気安く思っていたのもあるがとにかく優しい。たくさん質問して二人三脚の数週間で仲は良好。こうして無意識の行動を諫めてくれるのもありがたい。
「気を付けるわ、いつもありがとう」
使用人への敬語を止めるように教えてくれたのも彼女だ。
テラスではアルマと数人の使用人がにこやかに迎えてくれた。
「ようこそ! と言っても、とても簡単にお茶を飲むだけなの。畏まらないでちょうだいね」
「はい。お誘いありがとうございます」
「さ、座って。日頃あまりお話する機会もないから、色々聞かせてほしいわ。あなたの都合も気にせず我が家の都合で進めている事も、大変なら遠慮せずに話してちょうだい」
「恐れ入ります。まだまだですが、皆様のおかげで形になりつつあります」
勧められた椅子に腰かけ、お茶を淹れてもらう。以前味がわからなかったのがもったいないと思う程、侯爵家の使用人は皆お茶を淹れるのが上手だ。一口だけ含んだそのお茶も、とても香りが高く美味しい。
カップをソーサーに戻す際に少し音を立ててしまったが、アルマはにこにこ笑っていて、気にする様子がない。
「もし渋いようなら教えてね。私が好きなものでどうしてもそうしてしまって」
「はい。香りが良くてとても美味しいです」
その返答に満足そうな笑顔のアルマが質問を始める。
「我が家では薬草の関係上、ハーブティーもよく飲むのだけれど、ソフィアさんはお好きかしら?」
「はい。先日初めていただきました。すっきりする香りで美味しかったです。色も薄緑で綺麗でした」
「ありがとう。お口にあって良かったわ。繁殖力が強い都合上、管理が難しくて王都ではハーブの栽培が禁止されていて専ら乾燥ハーブだけれど、領地ではもう少し香りが高いものが飲めるから、楽しみにしていてね」
ふわふわ笑う様が上品で綺麗だ。いつか自分が目の前の女性と同じ立場になることに背中が伸びる。
何気ない生活や花の話をしながら、夢見半分、恐れ半分で時間は進む。
アルマは食事や部屋に不備がないかを確認し、グリオルとの事を聞きたがり、彼の事を話してくれた。幼少期に病弱だったグリオルに効率よく栄養を取らせるため、ポタージュの改良が進んだらしい。以前のそれはもっと青臭く、子どもには厳しいものだったと。今も苦みはあるが大分良いという。
えぐみの話に行き着いたところで、思い出したように夫人が話を振る。
「そういえば、珍しい茶葉があるの。フランシスカが苦手だと言うからあまり進んでいなくて……もし宜しければ、お味見なさらない?」
程なく使用人が持ってきた茶葉の袋は特徴的で見覚えがある。この珍しい茶葉は大分前に叔父が送ってくれたことのあるものだ。蒸らし時間が独特で、失敗すると渋みを超えたえぐみばかりが増して、あまり美味しくなくなるため、色々試行錯誤したものだ。
「その茶葉、淹れるのが難しいですよね。たくさん練習しました」
思わずそう返してしまってから、失言に息が止まった。まさか下働きを自分から口にしてしまうとは思わなかった。懐かしいものを目にして完全に気が緩んだ。ソフィアはどきまぎした。伯爵家のことを何処まで知られているのかわからない。どこまで知られて良いのかもわからない。内心グリオルに詫びる。
だがアルマは気にしない。知っているから柔らかく隠すことができる。
「あら。このお茶をご存知なのね。そういえばソフィアさんってお家でお手伝いをなさっていたのよね? グリオルから聞いたのよ。偉い事だわ」
「あ……ありがとうございます。その分令嬢らしい事が出来ずにご迷惑をおかけしております」
「なぁに。気にしなくていいのよ。フランシスカだって10くらいまでは棒切れを振り回していて、レッスンの時だけ猫を被っていたような子ですもの」
ふふふ、と思い出したように笑う顔が少しフランシスカに似ている。グリオルもそうだ。この家の人は家族の事を話すとき、急に気安く似た雰囲気になる。見るたびに胸が温かくなる。
「それで、うかがいたいのだけれど、先程の言い方から察するにお茶を淹れられるの?」
話が戻ったことに、油断していた気持ちが再び引き締まる。
「はい……その茶葉はたまたま親戚からもらったことがあるのです」
「そうなの。なら教えて下さらない? どのようにするのがおすすめ?」
お茶の詳細を伝えるうちに、実際に淹れたいという気持ちが沸き起こり、淹れさせてくれないかと頼んだ。
「まあ! 美味しいわ! ソフィアさんはお茶を淹れるのがお上手ね!」
規定通りの蒸らし時間できっちり仕上げたお茶は明るいオレンジ。透明度も高い。渋みも丁度良く、アルマは気に入ったらしい。
「恐れ入ります」
ポットを片手にソフィアは安堵する。
「あなたたちも少しいただいて。とてもお上手よ!」
笑顔で勧める女主人。恐縮しながらも口にした使用人たちの間から感嘆のため息が洩れる。みんなが笑顔で楽しそうだ。
口々にソフィアのお茶を褒めてくれる。
「あの、恐縮です。たまたま頂いて練習したことがあるだけです。皆様のお茶の方が……」
「いいえ、これはたまたまや、限っての練習のそれだけで淹れられる味ではないわ。よくお茶を淹れてらしたのでしょう?」
さすがの観察眼にソフィアは観念した。
「はい……家族がお茶をする時は家族に。あと自分がお茶をする時には自分で」
「あら、やはり偉いわね。貴族の妻となるとそこまでの家事は必要ないのだけれど、お茶は淹れられた方がいいの。こんなに美味しく淹れられるならもう満点。文句なしにグリオルは幸せだわ」
にこやかに同意を求める夫人の周りの使用人たちも満足げに頷く。貴族の夫人がお茶を淹れることなどあるのかと思うが、グリオルの妻として不足がないと言ってもらえるのは嬉しい。
「因みにこちらにあうお菓子はご存知?」
「恐れながら、先日いただいたメレンゲのお菓子が相応しいかと思います」
実家ではほとんどお菓子を食べなかった。この家に来てからマナー講座でお菓子の食べ方を勉強することがある。ソフィアは意地汚いと思いつつも、甘くて美味しいお菓子の事を忘れられない。
「いいわねぇ。今日は用意がないのだけれど、次はあれを用意してこのお茶をいただきましょう」
夫人の発言は常に和やかだ。和気あいあいとした空気が穏やかに流れていく。
――ああ、そういえば、私は家族のお茶の席に着くことはなかったけれど、みんなと台所でお茶を楽しむのがとても好きだった。血はつながってなくても、温かかった。
伯爵家の台所を思い出し、ほんの少し泣きそうになる。そのソフィアの手にアルマがそっと手を重ねた。
「まぁまぁ、働き者の手ねぇ。グリオルから軟膏は受け取られていて?」
果物屋の主人と同じ言い方だ。誰かには汚いと笑われる手を褒めてくれる人は皆優しい目をしている。
「はい。毎日塗っております。手袋もいただいたのですが、朝起きると外してしまっていることが多くて……申し訳ない限りです」
そして思い出す。掃除も洗濯もだめだと言われた。お茶を淹れるのも良くなかったかもしれない。ささくれのガサガサはまだあるのだから。
「あの、奥様、お願いです。私がお茶を淹れた事、グリオル様には内緒にしていただけませんか? 先日お掃除とお洗濯をしていたことで……ご心配をおかけしてしまったのです」
しゅんとした様子にアルマは笑う。
「黙っておくわ」
「ありがとうございます! もし、奥様が許して下さるなら、これからも何かの際にはお茶を淹れさせていただきたいのですが、宜しいでしょうか? グリオル様には自分で確認します」
久々に紅茶を淹れて思った。やはり何かをするのが好きだ。お茶を淹れるだけなら手荒れはしない。先程「お茶は淹れられた方がいい」とも聞いた。正直に話せばグリオルも許してくれるのではないかと、頭を巡らせている。
「ええ、勿論よ。お茶は淹れられた方がいいし、ソフィアさんのお茶は美味しいもの。納得しないならグリオルも一緒にお茶させましょう。忙しいからとあなたを放っておくことが多くて仕方がないわね。冷たい息子で申し訳ないけれど、今しばらくの間、許してやってね」
「とんでもないことでございます。お忙しい中でも、とても優しくしていただいております」
満足げなアルマがゆっくり頷いた。
「そう。あなたが来て下さって良かったわ」
ソフィアは思う。
この家ではみんなが自分の事を穏やかに気にかけてくれている。声を掛けなくても、常に見守ってくれている。自分が迷惑をかけるたび、グリオルが心配し、そのソフィアとグリオルを周りが心配する。自分と使用人だけの世界で生きてきたソフィアにとっては初めての経験。その誰かがこんなに優しい事が嬉しい。
周りの役に立ちたいと言いながら、いかに自分の事しか考えていなかったか、今更ながらに気が付く。見えていたのはグリオルの隣に立つ自分がどうあるかだけ。ぎゅうぎゅうに自分を追い込んで、誰1人、自分を荷物だと思っていない侯爵家の中に、無自覚に居住まい悪く座ろうとしていた。ここはあの家ではないし、自分は最早あの家の捨て駒ではない。ここで生きる自分を望むなら、自分自身も向き合う必要がある。
クリスタが侯爵家の人の事を「ご家族」と言う。それが答えだ。
お茶会の終わりにアルマはまたお茶をしましょうと約束してくれた。
「ソフィアさん、私の予定は執事長に聞いてもらえればわかるわ。フランシスカも。声を掛けて下さって大丈夫だから、お茶でもお散歩でもしましょうね」
ソフィアは明るく頷いた。
嫁入りしたらアルマが義理の母親になる。実母が嫌いな訳ではないが、素敵なお義母様が出来る。なんだか無性に嬉しい。
その夜、お茶会の様子をグリオルに話すと、お茶を淹れる許可も快く出してくれた。グリオルはソフィアが楽しかったと話すのが嬉しかったし、話し方の端々からその変化が受け取れる気がして心が温かくなった。
「ただ気を付けてね。母上と姉上は恐ろしい程似ている。気が付いたらお茶の度に呼び出されて、もう飲めないと言っても飲ませてくることがある」
まさか、と思うがその目は一度見た地獄を映しているようだった。
「あと何より火傷にも気を付けて」
その一言がソフィアにとっては嬉しい。
「気を付けます。今度グリオル様にもお淹れしますね」
「ありがとう。楽しみにしている」
そう答えたグリオルの顔は家族の事を話していたアルマの穏やかな顔によく似ていた。温かくなる胸を抱え淡く微笑むソフィアの手に、今日も薬を塗り込んでいく手はとても優しかった。