09.婚約者たち
掃除の件から2日。ソフィアの部屋を訪れるなり、グリオルは言った。
「今日、雑巾を洗濯していたと聞いたけれど、本当?」
にこやかなその顔に言葉が詰まる。本当? と聞いているが絶対に全てを把握しているはずだ。
「はい……」
ソファの上で小さく縮こまりながら観念して答える。
今日のテーブルマナー講座の時、突然部屋に虫が飛び込んできた。虫は怖くないが、テーブルマナーに集中していたため、急に視界に現れたそれに驚いてスプーンを取り落とし、皿の縁で弾かれたスプーンがテーブルクロスにポタージュ色のシミを作った。
勿論、クロスはすぐに取り換えられ汚れたものは洗濯に回された。だがソフィアはくっきりついた染みをどう取るのだろうと気になってしまった。
――絶対大変なはずよ……。
姉のドレスのワインの染み抜きを命じられるようになってから、関心を持つようになった染み抜きの技術。ここの使用人たちは皆優秀だ。さぞいい方法を知っているのだろうと、洗濯の時間を狙って洗濯室に向かった。
洗濯室は石鹸の良い香りとふわふわのアイロンの湯気が充満している。たくさんある洗濯物の陰に隠れながらこっそりと様子を見る。使用人たちは皆揃って機嫌よく鼻歌交じりに細かい泡を立て、水面を揺らし、時にブラシを手にする。裏庭につながる扉から取り込まれた洗濯物は、その軽快なリズムに合わせて熱いアイロンをあてられていく。ぴんと整ったリネンを2人がかりで綺麗に畳んでワゴンに乗せていく。
伯爵家にいた頃、一番好きだった家事は勝手口でする洗濯だ。家の事はあまりいい思い出ではないが、久々に目にするそれは自分の心の拠り所として懐かしく心地よく見えた。
洗濯室には人がたくさんいて温かい。勝手口のあった伯爵家の台所のようだ。いつもソフィアが顔を出した唯一の居場所。
1人の使用人が緑の染みのついたクロスを広げる。彼女はそのクロスを洗い桶に入れて、細かく泡立てた泡を乗せたブラシで丁寧に叩いていく。トントンと優しい音が響く。何度か水をかけて落ち具合を確認して、ある程度のところで今度は揉み洗いを始めた。
すっかり綺麗になったテーブルクロスを見て彼女は満足そうに笑うと外の干場に持って行くカゴにぽいと投げ入れる。そしてまた次の洗濯物を手に取る、ところだがここで真剣にカゴを覗き込んでいるソフィアの姿に気が付いた。
ソフィアはあのクロスがどこまで綺麗になったのか知りたくて、カゴを覗きに来てしまったのだ。見つかってはいけないと思っていたのに、あまりの懐かしい雰囲気と、使用人の慣れた手つきに夢中になり、すっかり忘れていた。
「すごいわ。とても綺麗に落ちてる」
カゴの中を覗き込んでいたソフィアは顔を上げると使用人に礼を言った。
「染みを落として下さってありがとうございます。汚してしまってごめんなさい。こんなに白くなって、このお家の皆さんはすごいわ!」
面食らった使用人は「はぁ……」と返す。この頃には洗濯室中の使用人がソフィアの動向を見守っていた。
「お願いです。私に染み抜きを教えてくれませんか?」
その仰天発言に洗濯室の中が一段と静まり返る。
「実は字の練習をしているんですけど、とにかく不慣れなものであちこちインクで汚してしまって……拭いた雑巾が染みだらけになるのが申し訳なくて自分で洗っていたのですが……」
ソフィアはインクを拭き取った雑巾をこっそりと忍び込んだ洗濯室で予洗いしていた。できれば染みを綺麗にしたかったのだが、実家のシーツやテーブルクロスの汚れと違ってインクというのは思ったようには上手く取れず、苦しんでいた。毎回出来る限りで薄くしてここの洗濯カゴにお願いして帰り、翌日に綺麗になった雑巾が庭の風に靡いているのを見て感動していた。
使用人たちは顔を見合わせた。そう言えば最近、インクまみれの雑巾がよくカゴに入れられていた。洗濯物の詮索はしたりしないが、明らかに「洗った後のある洗濯物」を不思議には思っていた。
「あれは若奥様でしたか」
「いいんですよ、洗うのが私たちの仕事ですから」
「でも、覚えたいんです……」
真剣な様子のソフィアに対して洗濯室の使用人たちは強く断ることができない。
インクの染み抜きの方法を教えて、それでも洗濯物は置いて行ってくれるようにと何度も頼んだ。
「彼女たちから聞いたんだ。掃除に洗濯……そんなに気になる?」
隣に座るソフィアの顔を覗き込むグリオルは穏やかだが目は心配そうに揺れた。一体ソフィアが何故それにそんなに執着するのか気になって、もし原因があるのなら解決の役に立ちたいとも思っていた。昨日1日あんなに悩んで、今日もどう声をかけるか迷ったが、実際にソフィアの顔を見ていたら遠回しに聞くことができなくなってしまった。表情や雰囲気や、気を配っているつもりでいた。だけど何かを見落としている、そのことに焦りが駆け上がってくる。
「すみません……自分の汚したものを片付けたいという気持ちの他にも、掃除や洗濯をすると気持ちが落ち着くもので……。特に洗濯が好きなのです。楽しくて落ち着けて……アイロンをかけると気分が晴れます」
それはここに来て初めてソフィアが「大変」という辛さを示した瞬間だった。これからの事をわからないなりに本音で話した事もある。2人で初めてダンスを踊った時は出来ない事への不安を口にしたこともある。細かい日常のマナーでの苦労や何やらを話した事もある。だけどここまで「日常にストレスがある」という趣旨の事を口にしたのは初めてだった。無自覚だからこそ。
グリオルは自分の無能さを悔いた。1から10までわかると思っていたわけではない。察していても何か出来なければ意味がない。それにしてもあんまりな現実だった。
ソフィアの負担は当然だ。慣れない家で、慣れないことを詰め込まれる。そんな中で掃除や洗濯が気分転換になるらしいということはわかる。
出来る事なら休みを与え、好きな事をさせたい。だが時期も立場も難しい。今の勉強の類を緩める事も、まだ家に来たばかりの次期侯爵夫人に使用人のような真似をさせる事も難しい。特に洗濯は一番治したいソフィアの手荒れの最大の原因だ。許可できない。
懺悔と義務の間で言葉を探すグリオルの渋い顔に、ソフィアは話しかける。
「それに、もしここが病院になることがあれば、私も出来る事をしたいのです。洗濯は得意です。何も出来ない私でも、きっとそれだけは役に立てるし、皆さんといられるから……」
想像していなかった角度からの発言にグリオルは少し感動を覚える。こんな状況でも面倒な家に来てしまったものだと思わずに考えてくれた事が嬉しかった。
緊急時に病院になったここは医療関係者が全ての指示を行う。許可を下すのは侯爵家当主だが、実質自分たちの屋敷とは言い難くなる。その時に自ら使用人たちと働いてくれるというのだ。
グリオル自身は彼女にそれを望んではいないし頼むつもりもないが、もし彼女がそうしてくれるならこれ以上のことはない。
そしてもう1つ気が付いてしまう。彼女をどう扱っていたか。
いじらしい様子に胸が熱くなる。鼻の奥が少し痛いが、グリオルは精一杯今言える言葉を紡いだ。
「ありがとう。とても嬉しいよ。……だけど今は、ソフィアはソフィアのデビュタントの事だけを考えて」
物事には優先順位がある。
「洗濯室を見に行くのは許すよ。だけど、頼むから作業はしないで休んでほしい」
「でも、何かしないと落ち着かなくて……」
「いいかい、ソフィア。ここに来てからずっと普通ではないペースでマナーやダンスを学んでもらっている。まだ現実に慣れていないから大丈夫だと思えるだけで、確実にソフィアの負担になっている。いつか倒れてしまうかもしれない。だけどスケジュールは減らせない。だから今は少しでも休むことを覚えてほしいんだ」
話しながらグリオルはソフィアの手を取る。
「手だってそのうち皮膚が硬くなってしまう。まずはきちんと治してくれ」
この頃にはグリオルはソフィアの手を取れるようになっていたし、ソフィアも手を触られるのは大丈夫だった。軟膏と手袋の効果であかぎれはほとんど治ったが手荒れはまだひどい。
「僕が至らないばかりに苦労を掛けてすまない。本当は君の希望のひとつくらい許可したいんだ。だから手が治ってからの事はその時に考える。お願いだから今は我慢してくれ」
グリオルの声はいつになく真剣で悲しそうだった。このお願いにソフィアは大人しく頷いた。
その翌日。ソフィアはグリオルと共に馬車に揺られていた。行先は教えてもらっていない。今朝の朝食の席で急に、午後一緒に出掛けると言われた。クリスタに何事か伝えて、グリオルは午前の仕事に出かけてしまい、帰って来るなり馬車に乗せられた。
ソフィアは王都に住んで長いが、外に出るのはいつも使用人としてだった。だから今走っている綺麗なお店が並んだ通りがどこかわからない。窓から見える景色は綺麗な煉瓦の敷き詰められた道に、煌びやかな装飾品やドレスを扱うお店ばかり。
初めの頃は目を輝かせて見ていたが、次第にまさか買い物では、またお金を使わせてしまうのでは、と焦り始める。ちらりと正面のグリオルを見ると目が合った。
「……どこを走っているかわかる?」
真面目な顔のままそう聞かれ、ソフィアは窓から顔を離す。
「いえ、買い物は下の方にしか行かなかったものですから……」
「そう。この辺は少し城に近い方の買い物通り。貴族の屋敷に聞きに行くお店と、貴族が来店する店が混ざっているんだ」
やはり目的は買い物かと緊張する。充足している今、必要なものはない。内心縮こまるソフィアを無視して、グリオルは続ける。
「この先に大きな公園があるんだ。すごくきれいで、社交シーズンの頃は紅葉が見事なんだ。今日は少し足元が悪いから馬車で通り抜けるだけにするけれど、今度一緒に散歩をしよう」
その言葉から間もなく、まだ少し緑の残る公園に馬車は差し掛かる。色とりどりの木々が目に入る。見慣れた秋の風景だが、伯爵家から見えるものとは規模が違う。グリオルが馬車の窓を開けてくれたのでよく見える。
「見て下さい、グリオル様。あの木、3色になっていて綺麗」
目を輝かせるソフィアを見て、グリオルはほんの少し安堵の気持ちを覚える。
グリオルは貴族の息子だ。社交辞令でお世辞や適当な事は言えるが、気持ちを伝える術は知らない。女性の事も一般的にしかわからない。それにソフィアのようなタイプは初めてだ。
散歩に連れ出したのが良い事かわからない。散歩と言っても、あの姉に遭遇する恐れがあるから大っぴらに歩かせるのは憚られる。自由に出来る時間も少なく、こんな些細な事しか出来なくても、少しでも気晴らしをさせたかったし喜ばせたかった。
昨日の言葉から、彼女の孤独を知った。無自覚に安心できる時間を探している。不慣れなあの家で不慣れな生活に自分とクリスタしか近くにいない。気が付かなかった事が申し訳ない。
目の前の少女に健やかに過ごして安心してほしいと願っている。どうにか役に立ちたいと考えている。いつかは幸せになってほしいと心の底からそう思う。わからないなりの努力をしたい。
感嘆のため息を洩らす彼女に目を細める。
折角なので、帰りに少し高級なお菓子屋に寄って家にお土産を買った。グリオルは午後を休みにしており、帰ったらお茶をする提案をした。素直に喜ぶとグリオルが嬉しそうに笑う。
その雰囲気にソフィアは気が付いた。いつか別れを告げた家の使用人たちのような泣く寸前の笑顔だ。気持ちを察し、心配をかけたことを申し訳なく思った。謝ろうとすると、グリオルは何も言わず遮るようにソフィアの手を取ってもう一度笑いかける。ソフィアも言葉を飲み込んで、そっと笑い返した。
帰りの馬車は隣に座って、いつもの夜のように手をつないで揺られて帰った。
その日の晩、グリオルは母と姉に声を掛けた。
「母上、姉上、大変に恐縮ですがお願いがあります」
出来ればソフィアの事は自分でなんとかしたかった。だが忙しい上に、一緒に出来る事は話す事とダンスくらい。女性の2人にしか頼めないことがある。
ソフィアが掃除やら洗濯やらをしていたことを聞いた2人は笑いながら協力すると言ってくれた。グリオルが大いに感謝したが、数週間後には2人から逆に感謝されることになるのを、この時はまだ誰も知らない。