08.問題
侯爵家に来てからもうすぐ2週間。すっかり筋肉痛も治まったソフィアは日常生活においては令嬢らしい動きを身に着けていた。完璧には少し遠いが、歩き方も礼も教わった通りに出来る。食事もフランシスカを盗み見なくても1人で出来る。意識している言葉遣いも徐々に令嬢らしくなってきた。
ダンスはやっと一通りのステップを覚えたところで、まだ戸惑う部分が多い。グリオルが居る日は一緒に踊れるが、緊張して足を踏んでしまったり間違えてしまったりと色々ある。1人の時は出来ることも、やはりパートナーがいる時とは違う。いくら本番でカバーすると約束されていても、できればグリオルともっときちんと踊りたいし、エラも出来る限りソフィアの意欲に応えたい。時にレッスンの時間を延長してまで頑張っていた。
苦手なのは笑顔だ。マナー講師から笑顔は貴族の令嬢の武器だと教わった。笑顔を湛え顔色を変えないことが大事らしい。勿論ソフィアも笑う事は出来る。でも気を抜くとすぐに真顔に戻ってしまうし、得意ではない。鏡の前で練習しようとすると、もう記憶も曖昧だが、あの姉の異様なほどに口元が歪んだ笑顔を思い出して妙な気持ちになる。フランシスカやこのマナー講師のように柔らかく笑える気がしない。上手く笑えないことを悩んで相談した時、講師は笑った。
「普段はとても素敵に笑われていますよ。特にダンスレッスンやグリオル様のお話をなさる時。私に質問なさる時だって楽しそうです。その笑顔とこの笑顔は別物で構いません。私が話している武器用の笑顔は作り物です。本心を悟られず、失礼にならないためのもので、ソフィア様が思われる笑顔とは別なのです。私の説明が不足でした。申し訳ありません。見かければわかりますよ。もし出来なければ扇で隠してしまえばいいのです」
別物、見ればわかる、その言葉にソフィアはなんとなく納得しながら、なるほどと大人しく扇を構える練習を始めた。
マナー講座は貴族としての常識を教えてくれる。様々な事を学ぶうち、ベルネット家の狡猾さに気が付いた。虐待ではなくしつけだと言い張れる範疇で自分を虐げていたことを理解した時には、もう一度心が冷えるのを感じた。侯爵家がここまでしてくれる意味も理解した。厚意に応えたい気持ちを持ってから、初めて罪悪感を意識した瞬間だった。
グリオルとは仲良くしている。お互いに不慣れではあるが、1日の報告以外にも、様々な事を話すようになった。特にグリオルは前以上にソフィアの体調や何やらに気を遣うようになった。その優しさに感謝しながら、ソフィアは満ち足りたような思いで忙しい日々を過ごしている。
何日経っても長年の習慣で朝は早く起きてしまう。廊下に出れば使用人に捕まってベッドに連れ戻されてしまうため、朝の時間を持て余さないようにソフィアはこの時間を勉強にあてる事にしていた。音読をし、時間が余れば便箋に文字を練習した。相変わらずよれよれの字で情けなくなるが、すぐ横に広げた本を手本に書き続けるうちに、なんとか名前がそれなりの字で書けるようになった。こうなると楽しいもので、ソフィアは一生懸命にペンを走らせた。
レッスンにも慣れ、自主的な勉強が朝のうちに終わるので、昼間や夕方の空いている時間に段々とこの家の事を見回す余裕が出来てきた。何か役に立てる事はないかと考え、習慣で掃除道具の在処や、洗濯室の使い方をこっそりとのぞく。インクで汚してしまった机を拭きたくて雑巾を失敬したりもした。部屋を毎日綺麗にしてもらうのも悪いと思い、棚や机を自分で拭くこともあった。次第に気になる部分は増えてきて、だんだんと掃除の範囲は広がっていく。
そしてその時はやってきた。
ある日の夕方、いつもの通りに洗濯室の洗い桶に入っていた雑巾を自分で洗ってきて、それで部屋を掃除していると、ソフィアの部屋の時間ではないのに使用人が部屋に入ってきたのだ。掃除道具を手に持った2人の使用人は腰を抜かさんばかりに驚いた。
「わっ若奥様!! 犯人は若奥様だったので!?」
狼狽えながらソフィアの方に走ってくる。
「犯人……? あの、何かありましたか?」
「ここ数日、こちらのお部屋が掃除する前に綺麗になっていることがあったのです。誰に聞いても掃除していないと言うし、何事かと思っていつもと違う時間に覗いてみれば若奥様自らこのような……」
わななく使用人は真っ青だ。
「すみません。時間に余裕があったので少しでも自分のことをと思いまして……」
「掃除は私共がやりますので!!」
「でも……あの、今日はもうほとんど終わりました。あとはドアだけなので宜しければやり切ってしまいたいのです」
「いいえ! なりません! 扉のレリーフは細かく出来ておりますので指を痛められては大変! 私めが!」
慌てながらもソフィアの手から優雅に雑巾を奪い、ドアを拭き始める使用人。もう1人は室内を確認して回ると、小さくため息をついてソフィアに話しかけた。
「とても綺麗に掃除されています。……お礼を申し上げるべきなのでしょうが、どうぞ明日からはそのままになさって下さい。私共の仕事です」
困ったような顔をされては返す顔がない。ソフィアは殊勝に頷いておいた。
その晩、ソフィアはグリオルからもこれを笑いながら注意された。
「時間がありましたもので……私がいる分、お仕事が増えたでしょうし、少しでも負担が減らせればと思ったのです」
グリオルは優しく答える。
「大丈夫。心配しないで。侯爵家は使わない部屋も全て毎日掃除するんだ。君が居なくてもここは掃除していた。何も変わらないから安心していいよ」
「毎日……」
大きなお屋敷だ。さぞ大変だろうと思っているとグリオルが真面目な顔になる。
「どうして毎日全部屋を掃除するかというとね。この家は病院ではないけれど、貴重な薬草や薬品を持っている。もし町中で急病人が発生したとき、近所の医者の手配と同時にすぐに部屋を貸せるようになっているんだ。だからリネン類も余計にある。洗濯室が別に作られたのも、大量の清潔な布が必要なのと、病原菌などの感染を防ぐために煮沸やら何やらで、とにかく広い場所が必要だからだよ」
確かにそれなら屋敷を清潔に保つ必要がある。大きな洗濯室があるのもわかる。
「あの病以来、そんなことはめったにないけれどね。たまに転んだ子どもや腹痛の人が運ばれることがあるんだって。幸か不幸か僕はまだそういった急患を見かけていない」
侯爵家はその領地に薬草をたくさん持っている。状況によってはただの管理者か栽培者として流せば済む植物だったが、当時の他領の悲惨な状況から、自らの領地で研究や製薬まで出来るようにし、流通を目指した。その流れで王都の侯爵家も薬品の倉庫及び臨時の病院として動いていく役目を担った。
これらは全て先々代の当主と当時の王によるもので、今も王命として機能し、費用及び報酬として多額の現金が支払われている。
こうした事情からこの屋敷は重労働ということで、使用人も身元がしっかりした者を高給で雇っている。彼らにも仕事のプライドがある。
「使用人たちもこの条件で務めているから気にしなくていい。寧ろソフィアに掃除をさせたなんて、彼らが気まずい思いをするかもしれないから、止してやってくれ」
今までと目の前の現実が違い過ぎて、この時のソフィアにはよく理解できなかったが、後日、使用人たちの立ち話から自分がしたことは良くない事だと理解した。
小耳にはさんだ会話の使用人たちはソフィアの掃除の腕を褒めてくれていたけれど、時として人の仕事を手伝うことや代わることは、それを奪うことになるのだ。グリオルが言うように「その条件で働いている人」の仕事を奪えばその人は仕事を失くす。「若奥様に負けないように、しっかりお仕事しないとね」という笑い声交じりの気合の入れ方に、今更謝るのも失礼なのだと悟る。役割はそれぞれにある。
掃除は注意されたが、ソフィアはインクで汚した雑巾を洗うのだけはこっそり続けることにした。というのも文字が少し上手くなっても、インク壺にペンを入れるのは変わらずに下手で、どうしても手とペンにインクが付いて仕方ない。しかも気が付かないうちにそれが色々なところに広がってしまう。いくら仕事で毎日掃除するとはいえ、不要に汚したものをお願いするのは申し訳なかったのだ。
ここに来てからありがたい事ばかりで幸せだと感じているが、常々の緊張や詰め込まれる情報量に知らないうちに脳は疲れていた。掃除や洗濯をしている間は無心になれる。ソフィアは無意識下でそれを求めていた。
ソフィアの部屋を出たグリオルは考えていた。実は今回の掃除以外にもソフィアの行動の報告はあった。習慣で早朝に起きている事も、朝起きたらベッドを整えている事も実は知っている。部屋が綺麗になっていると報告を受けた時も、本人の仕業だと察しがついていた。そのうえで使用人たちには礼を言い、いつも通り働いてもらうように伝えてある。
ソフィアのこれまでを知るグリオルからすれば、気の毒に思うと同時に仕方ないとも感じていることだ。長年の習慣はそう簡単に変えられない。
だが問題だと感じているのも事実だ。ソフィアが動き続けていることが心配でならない。慣れない環境下で動き続けている。確実に負担になっているはずだ。
まだ明るく笑うという気配ではないが、ここ最近は申し訳なさそうな顔をすることは少なくなった。顔色もよく、まだ体調も崩していない。だが、緊張で張り詰めているのは感じる。あの家にいた時の妙な落ち着きがないのが、良い点であり悪い証拠だ。
本人にたくさんの質問をするのは簡単だが、言い方を誤ると問い詰めることになり、逆に追い込んでしまいかねない。こういう時に何という言葉をかけ、どうするのがいいのかグリオルにはわからない。
思い出せるのは幼い頃の姉の姿だ。いつだって強くて明るく優しい。その姉に励まされた事は数知れない。姉の様に出来たらソフィアの役に立てるだろうか。
この前からずっと、なんでも話そうと思っていた。どんなことも話して2人で答えを見つけて解決しようと思っていた。しかし今回の件は言い方がわからなかった。
グリオルにとって女性は縁遠いものではない。婚約者がいると断るため特別に親しい女性はいないが、仕事の都合上、王都でも領地でも女性に接する。貴族から平民まで色々な女性がいるが、そのどちらともソフィアは違う。いつもの社交辞令も口から出てこない。考えれば考える程、口調が事務的になる。
小さい頃、姉に言われた言葉で一番嬉しかったのは「あんたが困ったらあたしが助けに行くから、声掛けなさいよ」だ。もし同義の言葉を彼女に言えても、彼女が助けを求められるだろうか。そして自分はそれを言われるだけの価値があるだろうか。
どうやって助けたらいいのかもわからないのに。