07.いつか
次の日の夜、並んでソファに座ったグリオルはソフィアに綺麗な絹の手袋を渡した。
「ツァールマンに頼んでいたのが仕上がった。夜寝る前に例の軟膏を塗って、これをして寝て。少しは治りが早くなるはずだから」
そこまで気にさせていたことを申し訳なく思ったソフィアが唇を噛むと、グリオルが情けない顔になる。
「……すまない」
思わず俯きかけるが、グリオルはソフィアの顔をしっかりと見た。
「君はこの家に来てから、ずっと申し訳なさそうで辛そうで……すごく無理をさせているのはわかっているんだ。この前もそんなに気負わなくていいと言いたかったんだが、いい励ましがわからなくて、ごめん」
突然の謝罪にソフィアの目が点になる。どうしてグリオルが謝るのかわからなかった。この家では自分にはもったいない様なありがたい事ばかりだ。グリオルが謝ることなどなくて、むしろ自分が言うべきなのに。
ともかく安心してもらおうと慌てる。
「グリオル様が謝られることは何もありません! それは……自分のせいです。私が本当に何もできないのが申し訳なくて……良くしていただいています、とっても!」
だけどグリオルの表情は晴れない。かぶりを振る。
「君に頑張ってもらっているのは、全部侯爵家の都合だよ。前も言ったけれど、今までの事は君のせいではない。今の事も。誰だって初めは出来ない。でも君は今頑張っている。それで十分だ」
この状況でなければ安堵できたであろう言葉が虚しく部屋に響く。ドアは開いているのに、息苦しく重い空気が部屋中に充満するような不自由さを覚える。
「でも僕は今のままじゃだめだ。君の夫になっていくべきなのに何も出来ていない。用意したのは家の力で出来ることだけ。君が君個人としてこの家で過ごせるようにして、その隣にいるのが僕だ。向き合って寄り添わないとならないのに、何もできていない。恥ずかしながら約束を叶えること以外出来ていないんだよ」
いざあの家から連れ出し接してみると、約束を果たした後の事に無関心だった自分に気が付き急に愚かに思えた。敬称を止めて、意識を改めた時からずっとどうするべきか考えている。
自分が考えていた結婚生活の範囲の狭さと幼稚さに申し訳なさも募った。可哀相だと思ったのも自分のせいだ。
形だけ侯爵家の妻になれてもきっと幸せではない。自分だってただの飾りの夫という立場の人間でしかない。側にいて寄り添いたい。ソフィアに届く言葉を話したいと思っている。それすら、どう言ったら伝わるのかがわからない。
こんな情けない事を、答えも出ないうちに誰かに話すのは嫌だった。ずっと前から決まっていた女の子1人、思い遣れず大事に出来ない。解決策も思い浮かばない。
だけどこれが今の現実。
情けないと黙っていたらこのまま、あっという間に日だけが過ぎる。これまで16年弱不自由だったソフィアの1日も無駄にさせたくない。
「僕は今、すごく反省しているんだ。だけどそれを活かせる気がしない。姉上に事務的と注意され、自覚しながら今もまだ、どうしたら君の夫として君を支えられるか、正しい在り方がわからないんだ」
いつだって冷静だったグリオル。今だって落ち着いて見える。だけど苦しそうな表情の瞳は悲しそうにわずかに揺れる。
その揺れを見たソフィアの胸が逸る。
――事務的なわけじゃない。この人はただ、落ち着いているだけ。
大丈夫です、そんなことないです、そう返そうとしたソフィアはあることに気が付く。
少し考えてグリオルの瞳に映る自分の顔を相手に話し始めた。
「多分、私もです」
その顔は怯えている。
「ずっと家を出ることが着地点でした。家に残る可能性が出た時は、あの家で愛せる夫と頑張ろうとだけ。でもどちらもただの言葉だけの存在で、その時の事を私は何も考えていませんでした。今、ここにやることがたくさんあって感謝していますが、もし私が全部持っていたらどうだったかなって思います。もし、全部出来ていたら、私はただの飾りだったかもしれない……ただ、マナーやダンスが出来るだけなら姉だってグリオル様の妻になれます。でもそれだけじゃ家族になれない」
声が震えて涙が出そうになる。
「婚約の条件がどうではなくて、そうじゃなくて……うまく言えないけれど、多分隣に居ても離れ離れなんです」
グリオルが頷く。その目に映る自分はもう泣く寸前だ。
「それは嫌です」
3人+自分というあの家。あの伯爵家の事は過去だ。入る余地のなかった空間に嫌だなんて感覚はない。思い返しても冷めるだけだ。ただ歪なのはわかる。そんな家をこれから作りたくない。
グリオルが使った「向き合って寄り添う」という言葉の意味を、理解できないなりに察した途端、苦しくなった。この人はソフィア自身に向き合おうとしてくれている。お互いにそこにいるだけではだめだ。わかりあって繋がって初めて形が出来る。自分よりもっと先の事を、この人は考えてくれていたのだと。
「今はまだ自分の事に精一杯で恥ずかしいですが、私も、グリオル様と家族になりたいです」
グリオルもまた考える。自分が出来ると思っていた義務の範疇は家族じゃなくても出来る事ばかり。情けなさと同時に無性に胸が騒いだ。少なくともソフィアより家族をわかっているような環境で育ったはずなのに、何もできない自分に焦燥感が募る。目の前の少女を、どう幸せに出来るか。
そんなグリオルを余所にソフィアは先日見せたような柔らかい表情を見せた。
「正解はわからないけど、私はここに来られて良かったです。私はグリオル様に感謝しています。必要だったからだとしても、ピアノの事も、薬もリボンもこの時間も、この手袋も、グリオル様が考えて下さったことでしょう? 例えそれが同情や義務でも、いくらグリオル様が家の事だって仰っても、こんな私の話を聞いて下さって、励まして下さる。私のこれまでも事情も関係なく、近付いて下さるグリオル様は良い人だと思います」
ありがとうございます、と手袋を大事そうに抱え頭を下げる。
頭を上げるソフィアの顔はほんの少し、これまでにない明るさを伴っている。心配をさせたことを申し訳なく思い、ここまでしてもらうことを恐れ多いと思ったが、何より嬉しかった。これまでだってグリオルはそうだった。ソフィアが規格外だからという以上の心配や配慮を見せてくれていた、今だってこうして真剣に話してくれた事が嬉しい。充分に向き合ってもらっている。
唯一知っている貴族の男性である父親は、何よりもまずプライドの塊だった。今回の事で微妙な弱音を口にしたこともあるが、あれも解釈次第では責任回避の逃げ道だ。伯爵家の事だって本当の意味で大事にしている訳ではない。
ソフィアはそう思っていたから、こうして真摯に向き合うグリオルが誠実でいい人に思える。「務め」だとしてもこの人はこんなに考えてくれていた。不器用なのはお互い様だ。
「それに今だってお話して下さったじゃないですか。それで十分です。私、頑張ります。話し合っていけば大丈夫です」
その明るさにグリオルも表情を和らげた。知りたい正解はソフィアに聞かないとわからないということに思い至った。やはり、出来る限り側にいる、必要であればきちんと話をする。何かを倣えば正解ということではないのだ。貴族としての振る舞いは得意だが、グリオルだってこういう事は初めて。わからなくても当然だが、答えが明確な物ばかり側にありすぎて、自分もそれだけを考えていた。
「……ありがとう。君にそう言ってもらえて少し救われた。頼りない僕に、変な家でごめん。たくさん話していい家族になろう」
2人で笑う。ソフィアの笑顔はぎこちなくて薄いけれど、あまり笑わない生活が続いていたのだから当然だ。
そのぎこちない笑顔を見ながら、グリオルはこの婚約者にもっと笑っていてほしいと思った。自分だって今はまだどうするのが良いのかを探しているだけだ。ソフィアを人として好きだが、異性としても好きになれたらいいと思う。ソフィアにとっての自分もそうありたい。いつかまでにそうなれるように頑張ろうと心に決める。
翌朝、ソフィアは寝ているうちに脱いでしまったらしい手袋を見て、頭を抱えた。
3回目のダンスレッスンの時、基本のステップを間違えなくなったので感覚を覚えるためにと、形をなぞるだけだがグリオルと踊ることになった。周りに人の壁が出来るので、1人の時より踊りにくい。何度もステップを間違え、身体が安定せずフラフラした。そのたびにエラから注意が入り、グリオルが支えてくれる。
きちんとしなければと思う程に踊りにくくなる。何より、つないだ手がくすぐったい。温かくてかゆいという以前に、こうして人と手をつなぐことに慣れていない。エスコートの時も手には触れるがダンスの時は違う。軽く握られているし、転びかければぎゅっと支えられる。背中にも手が添えられているし、距離も近い。
おまけに相手はグリオルだ。当然だが夫婦になると改めて意識した、美しい男性の顔が側にあるのはなんとなく恥ずかしい。タイミング悪く、いつぞや夜会帰りの両親が玄関ポーチで唇を合わせていた事を思い出してしまった。意識してしまうと途端に、このドレスや髪型はおかしくないかと気になり始める。エラに元気な色をと言われて勇気を出して選んだブールジョンのドレスが派手ではないか、日焼けが目立つのではないか気になって仕方がない。
たった数分の間でソフィアは気まずさで渋い顔になってしまった。そんなソフィアの令嬢らしからぬ表情に思わず笑いそうになりながら、グリオルは仕事へ出かけて行った。エラは微笑ましいと思いながら、ステップのおさらいと、この先のレッスンを促した。
そして帰り際にはソフィアに笑顔で死刑宣告をしたのだ。
「今日は良かったですね。ご主人のご都合が合わない時は私がお相手しますが、いらっしゃる時はご主人にお願いしましょうね」
その言葉にソフィアの目が大きく見開かれる。
「先生、男性パートを踊れるんですか! それなら先生にお願いしたいです! 私、そもそも人とあんな距離で立ったことがないのと、グリオル様が近すぎて緊張で……!」
その必死の訴えに先生は眩しい笑顔でかぶりをふる。
「いいえ、慣れて下さい。指導の都合もありますが、緊張なさるなら尚更です。ご主人と踊ることが一番多くなるでしょうが、会場でソフィア様のお相手をするのは絶対に男性なのです。何しろひと月半しかありません。慣れて下さい」
2度も言われてしまい、ソフィアは情けない顔になった。エラとピアノ奏者は励ましてくれたが道のりは遠そうだ。
その晩、グリオルにダンスの感想を聞かれたソフィアは情けない顔のまま答えた。
「上手く出来る気がしません……」
そんなソフィアをグリオルは優しく慰める。
「大丈夫だよ。ステップを少し間違えてもドレスで見えないし、足を踏まれても痛くないから。転びそうになったら支える。今は動きを覚えるだけでいい」
なんと頼れる事か。そう思うもソフィアの心配事はそれだけではない。一昨日までのソフィアだったら、ここではいと言って終わりだったが、一昨日からグリオルには正直に話そうと決めていた。
「ありがとうございます……でもそれだけじゃなくて、その、グリオル様が近すぎるのです」
何のことかと片眉を上げるグリオル。しばしの沈黙の後、察した。
「そうか。すまない。それであの様子か。てっきり失敗するのが怖くてかと思っていた。それもそうだね、いきなり触られたら驚くか」
「驚く、というか緊張します。かなり混乱しました……」
「ごめんよ。次回はやり方を変えようか?」
優しい提案に頼りたくなるが、先生は頑張れと言っていた。ソフィア自身もまだ諦めたくはない。
「……いえ、頑張ります……先生がひと月半しかないのだから慣れろと。へたなままだったらすみません……」
「構わないよ。さっきも言ったけれど、全体が形になっていれば当日はなんとでもフォローする。安心して。まだ難しいけど、ソフィアのあかぎれが治ったら手をつなぐ練習をしようか」
項垂れるソフィアの肩をぽんぽんと叩くグリオルは穏やかに笑っていた。