06.一歩前へ
翌日、ツァールマンのデザイナーは素敵なドレスの提案をして、笑顔で帰って行った。ソフィアを挟んで座った侯爵家の姉弟は、お互いに「珍しく意見が合う」と言いながら、綺麗な生地を選んでくれた。ドレスのデザインの事はソフィアにはよくわからないが、短期間で仕立てられる無理のないデザインだと聞いて安堵した。
選んだ布を身体に巻いたり顔に寄せたりしながらデザイナーはソフィアのワンピース姿を褒め、姿勢を注意した。身体を丸める癖のあるソフィアを猫背だと指摘し、背筋を伸ばして顔を上げれば服がもっと似合うと教えてくれた。ソフィアは恥ずかしく思いながら素直に従った。今日はダンスのレッスンがあるのでワンピースドレス。色はペールアイリス。クリスタが勧めてくれたのをこれ幸いと、カナリーから遠い色を着てしまったのだが、フランシスカは考え込んでロイヤルパープルもありだとかブツブツつぶやいていた。
昨日、決めたことがある。出来ない事だらけでみっともないが、彼らの望み通りの侯爵夫人になる努力をしようと決意したのだ。
それに勉強は楽しい。音読する本の言葉遣いで話してみるだけでも一歩進める気がする。与えられるものは精一杯吸収しようと思う。今日のダンスもきっと頑張れる。
午後、ダンスの講師がやってきた。すらりとした中年の女性。
見本を見せながら教え、時にダンスの相手パートを務めて女性の身体を支えるダンス講師は男性であることが多い。敢えて女性講師を選んだのはグリオルだ。ソフィアが全く踊れない事と、伯爵家の年齢層から判断して選んだ。慣れないことに少しでも緊張しないように、伯爵家で見かけた使用人の年齢層に合わせたつもりだったのだが、これは正解だった。クリスタもそうだがソフィアは慣れた年齢層の人を見て安心する。
伯爵家の使用人は皆、中年から壮年しかいない。若者は大抵の場合すぐに辞めてしまう。ソフィアは知らないが、そのほとんどがアレクサンドラのわがままや態度、伯爵家の異常さに慣れるのが怖くて辞めていったのだ。今いる年配の人間もそれを善しとするわけではなく、ソフィアを守るべくそこに踏ん張っていただけ。一部は再就職先の都合もあったが、伯爵家で過ごすうちに、誰もがこの空気に飲まれて行かざるを得なかった事情がある。
因みに出入りする町の商店にも若い人はいなかった。
講師は優しく笑うとソフィアの前で綺麗にお辞儀をした。
「初めまして、ソフィア様。エラと申します」
「初めまして。あの、お手数をお掛けしますが宜しくお願い致します」
慌ててソフィアも頭を下げる。
「ご主人から心得がない事はうかがっておりますのでご安心下さい。急ぎとは承知しておりますので少し駆け足ですが、なんなりとご質問下さい」
「はい」
当主かグリオルかわかりかねるが、どちらにしても心遣いがありがたい。
まずエラの指示通りに部屋の中を歩く。講師は途中でソフィアを止めた。
「歩き出すと途端に姿勢が良くなくなりますね。それではドレスがもったいない」
ダンス以前に歩き方の指導が始まる。午前中、ツァールマンに姿勢を注意されていたので立ち姿は良かったが、歩き方がぼてぼてしていると眉をひそめられた。
エラの言い方は優しいが厳しい。応えたいソフィアは足がつりそうでもお尻がむずむずしても、ぎくしゃくしながら必死に歩き続けた。
すっかり歩き疲れた1時間後、少しだけステップの練習をすることになった。
エラが手本を見せ、その通りに真似をするのだがソフィアの動きはとんでもなく不自然だ。ソフィアは本物のダンスを見たことがない。踊る人やダンスを見た事もなければ、観劇の類に連れていってもらったこともない。姉は音楽を習わなかったので家にピアノなどの楽器もない。身近にあったのは、野菜を洗いながら使用人が歌う働き者の歌だけだ。母や使用人が子守唄を歌ってくれたかどうかは記憶にない。だからこの動きが何を意味しどうなるのかが理解できなかったのだ。
何度目かのステップで、エラに「リズム感がない」と言われ、ソフィアは疑問に思う。
「先生、質問です。ダンスはどうなれば完成で、リズム感とはどういう事でしょう……?」
エラは大きく目を見開いた。ダンスの心得がない、とは聞いていたが、見たことがないとは思っていなかったからだ。
「無礼とは思いますが、ソフィア様。ダンスが何たるかをご存知ないので?」
震える声の質問に真面目な顔で頷くソフィアを、エラは気の毒そうな顔で見つめた。
「ダンスというのは、音楽に合わせて踊る事です。曲によって踊りは変わります。色々ありますが今お教えしているのはデビュタントで踊る、一番簡単なものです。音楽はご存知ですか?」
「使用人が歌を歌っていました。楽器も本で読んだことがあります。でも音を聴いた事がなくて……」
幸いながらホールにはピアノがある。だがエラは申し訳なさそうに目を逸らした。
「……ピアノを弾けば踊れませんし……歌って差し上げられればいいのですが、恥ずかしながら歌が下手なのです……」
顔には出さないがソフィアは驚いた。ソフィアのいた使用人と商人だけの狭い世界では誰もがその分野のプロだった。だから勝手にそれを生業に働いている大人は何でもできると思っていた。だがそうではないらしい。ダンス講師でもそれに関わる事で苦手なことがあるのだ。少し安心する。
「ですが、それではきっとダンスを覚えられませんね。歌いながらお手本をお見せします……音が取れないので聞き苦しいかと思いますが、宜しいですか?」
この親切な申し出にソフィアは勢いよく頷いた。正解の音など知らないソフィアにとっては細かい事は構わない。
「ダンスの曲には歌詞がなく、音楽だけが流れます。それに乗せて、身体を動かすのです。このように……」
エラが音を取り、時に手拍子を叩きながらステップを踏む。ソフィアは真剣にそれを見て感覚を掴もうとする。
「曲のリズムに合わせて動く、それが大事です」
何度も同じ動きを歌いながら繰り返してくれるエラの顔は恥ずかしそうだ。ソフィアはこの講師にお礼を言うとともに、真面目に練習に取り組んだ。
夕方、ソフィアがエラの教えてくれたステップを踏めるようになった頃、グリオルが様子を見に来た。今日の成果を見せるとグリオルはソフィアを褒め、エラに感謝を述べた。
その晩、ソフィアから音楽の件を聞いたグリオルはエラに謝罪とお礼の手紙を書き、早々にピアノ奏者を手配する。
グリオルもまた「ダンスを見たことがない」とは思っていなかった。
翌日、ソフィアは初めての筋肉痛に苦しみ、クリスタに支えてもらって動いた。エラから、筋肉痛は必要な筋肉が育っている証拠なので、無理なく練習をするようにと言われていたソフィアは歩き方を常に意識し、座学の合間にもステップを踏んだ。時間がないのは承知していたし、昨日真剣に教えてくれた講師にあまり負担をかけたくなかった。
マナーの座学は比較的簡単だ。エスコートに始まり、パーティー会場での振る舞いや飲物の飲み方や指の所作、扇言葉など、これらは当日グリオルが居るのだから無礼を働かないよう必要最低限を覚えればいい。食事作法も見様見真似のマナーを訂正される程度で良かった。歩き方も指導されたがダンスの授業で教わり筋肉痛だと話すと、先生はにっこりそちらにお任せしましょうと理解してくれた。
一番の問題は話し言葉だった。貰った本を手本に話してみるが習慣とは恐ろしいもので、うっかり簡単な言葉遣いになってしまう。マナーの先生は焦らないように言いながら一冊の本を寄越した。
「先日劇場で公開されていた劇を題材にした本です。お茶会や夜会のシーンなどが描写されていて、想像しやすいと思いますので参考までに」
その本は男爵家の令息と公爵家の令嬢の恋の物語だった。許されない身分違いの恋人たちが駆け落ちをして幸せになる話で、上演が終わった今も町では人気だという。
ふとアレクサンドラの事を思い出す。あの姉はグリオルを好きだと言った。その真意がこの本のような情熱と信頼を伴った愛ではない事はもうわかっている。
「好き」には種類がある。あれは一方的な希望による期待だけの「好き」だった。
では自分たちはどうだろう。自分もグリオルも、この婚約を「約束」だと思っているだけで多分好意はない。いつか「好き」になるのだろうか。どこからこの物語のような「好き」になるのだろうか。この令嬢のように何もかもを失ってでも選ぶ好きの気持ちを今のソフィアは理解できない。
グリオルは優しい。だがそれも「務め」だからではないのか。そう思えば少し自分にも答えがわかる。間に愛はなくても、役割を全うする者同士として尊重し合えるような関係になれば信頼はある。1日でも早くそれに相応しくなりたい。
そんなことを考えていると、グリオルから心配される。
「何か心配事でも?」
今は夜の自室。ドアの側にいたグリオルが近寄ってくる。
「いいえ……言葉遣いが難しいなと」
少しごまかす。
「そうだね。でも本もきちんと読んでいるし、講師も真剣にやっていると褒めていたよ。まだどちらも始まったばかりだ。気にしないでいい」
それに、と言葉が続く。
「デビュタントはダンスも少しだけ形になっていればいい。僕がリードして踊れば良いし、他も全部カバーする」
甘やかすつもりではなく、これが今のグリオルの本心だった。ダンスを見た事すらなかったことを知った今、ソフィアに成果を期待することが酷に思えた。与えるだけ与えて、結果は彼女の出来る範囲でいいのだ。
「すみません、侯爵家の恥にならないように努めます」
申し訳なさそうな彼女になんと返せばいいかわからない。
「いいんだよ。そんなことにはならないから。気にしないで」
それ以外の言葉が言えず、グリオルは曖昧に微笑んだ。
ダンスレッスンは1日おきにある。2回目のレッスンの日、ホールにはピアノ奏者が呼ばれていた。エラは密かに胸を撫で下ろし、グリオルに礼を述べた。
今日は冒頭だけグリオルが同席できる。折角なのでとグリオルとエラが手本として踊ってみせた。きちんとした伴奏の下で踊るエラをソフィアは食い入るように見つめた。
やはり筋肉痛なのでぎくしゃくしているものの、その日のステップは大分良くなったと褒めてもらえた。ピアノ奏者も優しく、ソフィアの為にいろいろな音を弾き、何度も練習に付き合ってくれた。
運動音痴だと思っていたソフィアだが、どうやらそうではないらしい。普通にそこそこ動けているとエラは褒めてくれた。慢性的な運動不足で筋肉が育っていないらしい。もう16歳になるが、貴族の令嬢に必要な筋肉などたかが知れている。今からでも十分間に合うと励ましてもらった。ただ、ソフィアはこれから始まるかもしれない筋肉痛の日々にほんの少し気が滅入った。
帰り際、恥ずかしそうなエラが「随分音が違ったでしょう。音痴な事は秘密にしてね」と可愛く笑った。はにかんだ笑顔に気負っていたソフィアの胸が温かくなる。
あの家を出てから驚いたり戸惑ったりすることばかりだ。でも、新しい人たちと接して知らないことを知るたび、良くも悪くも自分が改まるのを感じる。他人から見たら小さな一歩かも知れないし、半歩にも満たないかも知れない。それでもソフィアは自らの「務め」の為に足を進める事を心に決めている。
予定が繰り上がり今日から連日投稿再開します(恐縮ですが時間帯未定です)
全31話構成に落ち着きました。
ゆっくりしている2人ですが見守っていただけますと嬉しいです。