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仕合せという結婚  作者: 餅屋まる
第2章 ドレッセル家
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05.役目

 食休みが明けると、侯爵家の中をグリオルが案内して回った。広い屋敷だが見事に手入れが行き届いている。朝は共用部分を掃除し、主人それぞれが仕事や稽古をしているうちに各部屋を掃除して回ってくれるのだと言う。廊下ですれ違った使用人たちは皆きびきびと動き回っていた。

 それらの指揮をとる年配の2人はやはり家令とメイド長で、常々屋敷の中に居ると説明された。万一、クリスタが不在で困ったことがあれば声をかけるようにと教えてもらった。


 侯爵家には伯爵家にはない部屋があった。薬品庫と洗濯室だ。

 薬品庫はドレッセル家の仕事の大きさを物語った。瓶詰めや紙に挟んで乾かした数多くの薬草や薬品がたくさん保管されている。中には触れない方がいい物もあるらしく、それらには注意書きが貼られているのでよく見てから手に取るように言われた。いくら注意書きがあろうと恐れ多い。今は触れる気はないが、こういう物も覚えていく必要があるのだと気を改める。

 綺麗さや広さもだが、ソフィアが一番驚いたのは洗濯室という洗濯専用の部屋がある事だった。なんでもこの家では毎日全員分の寝具を洗濯するらしく、勝手口では間に合わないからこうした専用の部屋が作られたそうだ。他にも事情はあるらしいが、今度話すと言われてそれ以上は聞けなかった。



 屋敷中を案内された後、居間に連れていかれる。向かいのソファに座ったグリオルから、伯爵家でどういったことを勉強していたか聞かれたソフィアが家庭教師に算術と読み書きを教わった事を話すと、簡単な問題を出された。算術はお使いに行っていたのもあり得意だ。音読や詩の朗読もそれなりに出来る。だけど紙とペンを与えられなかったので文字を書く事は数える程度しかしたことがない。はっきり言って苦手だ。試しに書かせた名前のよれよれの線を見てグリオルが本当にほんの少しだけ妙な表情になった。


 ソフィアの状況を把握したグリオルが教育の予定を立てていく。

「デビュタントまでの1か月半は全部ダンスとマナーにあてる。期間も短いし、今はそれらしい形になればいいよ。当日は僕が補佐をする。領地に帰ったらそれを引き続いたまま、文字の練習と足りない分の勉強をしよう。薬草や領地の勉強もそこからでいい。領地に移ってからはソフィアはソフィアのペースで大丈夫だからね」

わかっていたことなのに、よりによって真っ先に必要な事を学んでいなかったのが本当に申し訳ないと思うソフィアの顔は険しくなる。

「ただ、デビュタントまでの1か月半は大変だと思うけれど頑張ってくれ。マナーもダンスも優しい先生だから安心して。それにダンスはある程度から僕も一緒に踊るから、2人で頑張ろう」

険しい顔のまま頷く、そんなソフィアをグリオルがじっと見る。

 告げればどうなるかわかるので口にはしないが、グリオルはあの家を出てからのソフィアの表情が気になっていた。彼女の顔を見て何事か考える。

 ソフィアに不審に思われないうちに口を開く。

「デビュタントのドレスについては……申し訳ないがそんなに手の込んだものが作れない。明日、昨日行ったツァールマンの者が来てくれるが、ほとんど店に任せて生地と形を君に確認してもらう程度になると思う。いいかい?」

ソフィアからしたら用意してもらえるだけで充分過ぎる。そもそも2か月を切っているというのにドレスを1着作らせる方が申し訳ない。それも繁忙期。豪華なドレスなど似合うわけもないし、どんなものでもありがたく着るつもりだ。

「ただその席に姉上が同席するらしいからな……どうなるかは不明だが、もし好みと違うドレスを姉上に薦められたらきっぱり断っていいから」

苦々しい顔になるグリオル。それでもその様子はまるでフランシスカが隣にいるような柔らかい雰囲気だった。思わずソフィアが笑うとグリオルが少しだけ軽い声で言う。

「本気だから。あの人、そのうちお揃いのドレスを作ろうとか言いだす」

「それは困ります! フランシスカ様とお揃いだなんて恐れ多い!」

慌てて否定する。目を細めるグリオルが愉快そうに続けた。

「姉上が君をおもちゃにし始めたら、その調子で断ってくれ」

些か自信はないが、ソフィアは頷いておいた。もしそれが本当なら、断れないと困ることになりそうだ。


 グリオルはいつもの表情に戻って話を続ける。

「それから明日、午後にダンスの先生が来る。早速で済まないが、明日はちょっと仕事が入っていて一緒には出られなさそうなんだ。出来る限り早く終わらせるよ。クリスタが一緒にいるから、それで大丈夫かい?」

「はい」

ダンスというと姉が部屋でくるくる回っていたのを見たことしかない。ソフィアに習わせるには給金を余計に払う必要があり、それがもったいなかったらしい。家庭教師なら姉の隣に座らせれば充分だから、おこぼれに預かれただけ。

 グリオルがいない事は不安だがクリスタが居てくれる。昨日も今日も、忙しいのにこうして時間を割いてくれているのだから、これ以上望むのはわがままというものだろう。

 それに何度も思うことだが、自分が普通に育っていれば必要なかった事をさせている。お金も時間も、自分のために削られていく。ソフィアは頭を下げる。

「ご迷惑をおかけして、本当にすみません」

「いいや。婚約者のことだ。これくらい当然だよ」

何でもないように答えるから、また心苦しい気になる。

「そうそう、クリスタに聞いたと思うけれど、毎朝予定を彼女に伝えて一緒に服を選んでもらって。彼女が用事に相応しい服や髪型を薦めてくれる。選ぶことを身に着けられるはずだ」

聞いた話とツァールマンの件でソフィアの服情報の少なさはわかっている。相応しい身なりをするのも大事だ。指示の意味を理解したソフィアは真面目な顔で頷いた。


「さて、先生が必要なものはその時にすることにして、まずは言葉遣いを直そうか。発音はきれいだが、会話慣れしていない。この本を毎晩音読して、少しずつ会話にも取り入れて。すらすら言えるようになったらいい」

 そう言って1冊の本を渡される。

「よし、それじゃ今から一度音読をして。読めない字や意味の解らない言葉があったら質問を。これからあと、こういう時間を作れるかわからないから遠慮しないで聞いてくれ」

わかりました、と小さく応えてソフィアは本を音読し始める。

「……初めてお目にかかります。私はペレ家のブルーナと申します……」

グリオルは予定表を眺めながらただじっと側で聞いていた。




 夜、部屋でベッドに腰かけたソフィアは昼間の本を開く。渡されたのは少し年齢が上の子ども向けの本。お嬢様同士の可愛い会話が主だ。

「ごきげんよう、マルト様。本日は素敵なお茶会にお招き……」

慣れないかしこまった言葉遣い。自覚はしていたがこの本で察した。自分の言葉遣いは貴族らしくない。「あの」や「ええと」と口癖になっているような言葉は出てこない。驚きや戸惑いのあるような場面でもいつも一呼吸あるように落ち着いて「あら」や「まぁ」といった柔らかい言葉で始まるのだ。

――街に出た時だってちょっと丁寧な使用人だと思われていたわ。そうよね。アレクサンドラ姉様とは違う……。

落ち込みかけるが、昼間の音読で発音は褒めてもらえたのを思い出す。なんとか令嬢らしい話し方が出来るようにならないと、この家に恥をかかせることになる。


 ブツブツと読み進めて行くと部屋の扉がノックされた。

 扉の向こうにはグリオル。手に持ったままの本をちらと見られる。

「その本を読んでいたの?」

「はい。あの、すみません。ずっと変な話し方をしており……」

「気にしなくていいよ。子どもが読むような簡単な本しかなくてすまないね」

「いいえ、充分です。ありがとうございます」

これ以上難しい本になると辞書が必要になりそうだし、実際自分はこの程度なのだとわかっている。

 入口に立ったままのグリオルが、若干俯く。

「ソフィアにお願いがあるんだけど、話を聞いてくれる?」

なんだろう、私に出来ることなどあっただろうか、そう思ったソフィアの胸に不安と希望が湧き上がるが一瞬で答えはでた。

「私に出来る事でしたらなんなりと」

いくら婚約者とはいえ、これだけ手厚くお世話になるなど厚かましい。恩返しが出来るならそうしたいと考えていたソフィアは快く返事をする。

「これから毎日、寝る前に少しでもいいから僕とお茶を飲んで話をする時間を作ってほしい。……出来る?」

意外なお願いにびっくりする。

「時間は君に合わせる。その時間にここに来るから……そうだな、30分くらい? 婚約者らしくもっと知り合った方がいいと思っているんだ」

グリオルの言い方は遠慮がちではあるが事務的だ。でもそれでもソフィアの事を大事にしようとしてくれているのはわかる。グリオルだってこの約束の結婚を強いられながら、なんとか円満にしようとしているのだろう。

 ソフィアの返事に、安心した顔でグリオルは部屋を後にした。ドアを閉める直前の「おやすみ」という言葉がソフィアの耳と心に響いていく。



 昨日は緊張していたけれど、今日はとても穏やかな気持ちだ。

 灯りを消して布団にもぐりこむと、ソフィアはぐっすり眠りに着いた。




 グリオルは廊下を戻りながらため息をついた。

 気になっていた彼女の表情は今も変わらなかった。何度も見せる申し訳なさそうな顔。あの家にいた時は諦めていた瞳は、家を出てからずっと何かに怯えて申し訳なさそうな気配を漂わせている。まだ2日目といえばそうだが、その様子があまりにも可哀相で見ていられない。

 あの日我が家に来た時、姉に少し笑っていた。リボンの話をした時も穏やかな顔を見せた。今日も少しは笑ってくれた。

 でも、違う。

――どうにかしたい。

けれどどうすればいいのかわからない。とにかく少しでも側にいようと思って考えたのが比較的自由になる夜の時間だ。寝る前の数分でいい。顔を見て話をして、話を聞こう。譲れない事の他は歩み寄る努力をしたい。それで何が変わるかわからない。

 だけどそうしようと思った。思ったことは全部試す。


――どうかこの家に来たことを後悔しないでほしい。自分が彼女の為に出来る事はなんだろう。


 ただ約束の結婚を果たすだけだと思っていた自分の事が情けなく思えてくる。社交辞令が頭に浮かんでは消えていく。


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