04.貴族の家
翌朝のソフィアはいつもの時間に目を覚ましてしまっていた。伯爵家では朝番の使用人が起きる時間。侯爵家でも半分くらいの人数が静かに動き始めていた。枕の変わった緊張感もあってか、どんなに疲れていても長年の習慣は消えない。
部屋の中にいてもすることがないため、ドアを開けて廊下で働く使用人の様子を見ているとそのうちの1人がソフィアに気付いて目を丸くする。
「若奥様! いかがなさいました!」
慌てて走ってくるので挨拶をする。
「おはようございます。習慣で目が覚めてしまって、皆様のお仕事を見せていただこうかと」
「シュウカン?」
使用人の目が更に大きくなる。それはそうだろう。貴族の屋敷では下働きが起きて何もかも整えた頃に主人たちを起こすのだから。こんなに早起きの令嬢など存在しない。それくらいはソフィアも知っていた。
「まだ夜明けです。どうぞもうしばらくはお休みになって下さい」
そう言われる気がしていた。だけど目が冴えていて眠れそうにもないし、見ていたい気持ちがある。
その使用人は少し困ったような顔をしながらソフィアを部屋に押し戻す。
「枕が合わないなどの不都合はありませんか?」
「ありません」
話しながらデスクの周りの灯りをうっすら点けてくれる。
「お布団は重たくは?」
「大丈夫です」
「それはようございました。ではもう一度ベッドにお入り下さい」
でももう眠くありません、と言いかけて口をつぐむ。この使用人を困らせてはならない。
「もししばらくしても眠れないようでしたら、こちらのデスクでの読書はいかがですか。本棚の本はどれも簡単な読み物ですが、暇つぶしにはなるかと思います」
そう告げて部屋を出て行った。
大人しくベットに戻るが瞼を閉じても眠れない。それならと本棚の前に立つ。並んでいる本はよくわからない小説や図鑑、難しそうな植物の本だ。パラパラとめくってみるが小説も植物の本もわからない単語が目につく。家で学んだのは簡単な読み書きと詩の朗読だけだ。その授業以外で読んだ本は姉のお下がりの童話や児童書だけ。辞書を与えられることもなかったから文字が読めても意味が解らない。
小さくため息をつきながら図鑑を手に取る。やはりわからない言葉もあるが、綺麗な挿絵がたくさん載っていて目を奪われた。数冊ある図鑑は植物と虫のものばかりだが、これなら気にせず眺めていられるし、少しは読めそうだ。
デスクチェアに座ってじっくりと図鑑に向き合う。
小さなノックの音で気が付くと、外はもうすっかり明るくなっているようで、カーテンの隙間から天井に向かって明るい光が差し込んでいた。
「若奥様、おはようございます」
部屋に入ってきたのは初老の使用人。
「今日から王都にいらっしゃる間、若奥様のお世話をいたします、クリスタと申します」
ドア脇すぐで腰を折って丁寧に挨拶をされ、ソフィアも慌てて椅子から降りる。
「おはようございます。クリスタさん。宜しくお願いします」
ベッドにいるはずの人物の声が思いがけない方から聞こえたからか、一瞬驚いたような顔になるが、年配者は落ち着いた表情でソフィアを着替えに促す。
今日から着る服は1人で着られるものと、そうじゃないものがある。初めソフィアは自分付の侍女という言葉に戸惑ったが、服を着るのを手伝ってもらったり髪を結ってもらわないと立場上まずいのは理解できた。
――でも出来る限り負担にならないようにしないと。
クローゼットには昨日届けられた見事な服が並んでいる。伯爵家のソフィアのクローゼットにこんな数の服が並んでいたことなどないし、選ぶ必要もなかったので、どれを着ていいのかわからない。まごまごしているとクリスタから声を掛けられる。
「若奥様、お坊ちゃまから今日のご予定を聞かれていますか?」
ソフィアには立派に見えるグリオルも、この使用人に掛かればお坊ちゃまである。
「ええと……今日は朝食後にお屋敷を案内していただいて、それから少しお勉強と聞いています」
「承知致しました。それならば、今日はこのあたりのお召し物が宜しいかと」
少しだけ飾りの多いワンピースドレスを薦められる。ソフィアは黙って頷いた。
「本来は私の方が若奥様のご予定を把握してあれこれお世話をするのですが、しばらくはこちらから若奥様に予定を窺ってお召し物を決めるようにと言われております。失礼は承知しておりますがお許し下さい」
またもソフィアは黙って頷いた。この家の人が勧める事には何か意味がある、と思っている。質問出来れば聞いてしまうが、まずは言われた通りにするのが一番。
好みの髪型を聞かれるが、そんなものはない。これまでも「仕事」の邪魔にならないように全部上にまとめていただけだ。
「この服に合うようにって言ったら、してくださいますか?」
早速負担になっていると気まずそうなお願いに、使用人は柔らかく微笑みながら手早く髪を編み込んでいく。今日のワンピースは首が詰まっているタイプだからと説明しながら、全部結い上げて首回りをすっきりさせる。半分下ろすハーフアップもおすすめですが、今のシーズンならこの方が、と教えてくれる。
ソフィアは編み込みの綺麗さに感動しながらも、鏡に映る普段とあまり変わらない自分の姿にほっとする。ただでさえ綺麗な服を着て落ち着かないのに、髪型まで別人のようになってしまったらお尻がかゆくて座っていられそうもない。
気付けばもう朝食の時間だという。陽の様子から見るに実家よりも大分早い。
食堂に案内してくれるクリスタの後ろを歩きながら、ソフィアは改めて廊下を見る。自宅と違い、どこもかしこも綺麗だ。継ぎの当たっているカーテンなどない。朝ということもあり絨毯の毛足も綺麗に揃えられている。朝動いていた使用人たちの仕事は完璧だ。背筋が伸びる思いがした。
食堂の入り口でグリオルが待っていた。
「おはよう、ソフィア。良い色だね。似合っている」
「おはようございます。クリスタさんに選んでいただいて、その、ありがとうございます」
今日はオパールグリーン。襟元と裾のフリルにはピコットが細かいレースが着いている。自分には明るすぎる気もしたが、似合っていると言われると嬉しくなる。クリスタが浅く礼をする。グリオルは満足そうだ。
嬉しい気持ちに励まされて、朝食の席でお礼をいうと侯爵家の方々は目をぱちくりさせた。
「そんなこと、気にしなくていいのよ」
一番に口を開いたのは女主人アルマ。アーデルベルトは薄い笑みで頷いている。
「そうよ。不自由があればすぐに言ってね。そのワンピース、とてもよく似合っているわ」
フランシスカも朝から朗らかに笑っている。
グリオルに促されて席に着くと、すぐに焼き立てのパンが運ばれてくる。食卓の上にはバターとジャム。小さなスープ。その脇にティーカップが用意されている。それだけだ。肉も魚もない。
「うちのメニュー、変でしょう。もしお肉やお魚が良ければ用意するわ」
アルマの言葉に慌てて首を横に振る。元々ソフィアはそんなに食べない方だ。1日3食きっちりと食肉や魚を食べる必要はない。
見慣れないスープはポタージュというものらしい。
「ポタージュは農民の食べ物と嫌がる貴族もいるのだけれど、我が家では苦い薬草を少しでも効率よく美味しく食べるために色々研究していてね。その過程で私たちも飲むようになったの。小さい頃のグリオルのこともあったし」
「病人食にもなる。栄養があるから風邪や病気の予防として毎朝少し口にしている。苦みがあるから、慣れないうちは一口だけで残しても構わない」
「このジャムは領地で取れるコケモモのジャム。これも栄養価が高いの。少し酸味があるけどお好みでパンにどうぞ」
「我が家は朝食はいつもこの時間。特に忙しい日の両親は食べ終わった順に席を立つけれど気にしないで」
母、父、姉、弟の順ですらすらと話す説明を聞いているうちに、置かれていたカップに紅茶が注がれる。すっきりした良い香りが広がる。伯爵家の朝は二日酔いで無言な事が多いし、銘々が飲みたいものを飲むスタイルなので紅茶やらワインやらの香りが混ざるのだが、この食卓の上は爽やかな紅茶の香りが充満していた。
パンが焼き立てなのは朝に仕込んだパンが焼ける時間が今だから。それに気が付いたのは2つ目のパンが大分冷めていたからだ。それでも実家のパンに比べて温かくて柔らかかった。
1日2食文化が一般的な周辺諸国で、珍しいことにこの国では貴族も3食、食事を摂る。内容は他国と変わらず肉と魚が中心で、平民の食べ物である野菜はほとんど口にしない。大宴会で料理が続々と運ばれてくるスタイル以外、冷えているのが当然だ。飲み物も大半は酒か紅茶。水も飲むが貴族は皆、色と味のついたものを好む。ベルネット家は一般的な貴族の家だったので、慣例通りの食事だった。
先程女主人のアルマの言葉通り、ドレッセル家は変わっている。このことをソフィアが知るのは少し先。マナー講座でテーブルマナーを教わる時だ。
言われた通りポタージュは苦かったしコケモモは酸っぱかったが、ソフィアはどちらも美味しく食べた。パンはスープにつけて食べると思っていたので別々に食べるのは意外だったが、パンがふやけたら苦い物体が大変な量になってしまう。あれはあれでいいだろう。
メニューや味付けの違いは色々あるが、朝から温かいものを食べたので身体がぽかぽかする。普通の貴族の家庭を知らないソフィアだが、実家では冷えた料理ばかりだったからありがたい。
ただ少し困った事にパンが温かいと手のあかぎれがかゆい。時折机の下でぎゅっと握ってごまかしていたが、毎日もじもじしていればその内に気付かれてしまうだろう。
部屋で休みながらそう思っていると、グリオルが大きな容器に入った例の軟膏を持って部屋を訪れた。気まずい思いのソフィアを気にした様子もなく、グリオルは軟膏を手に取ってソフィアの手に塗り込んでいく。まさかそんなことをされると思わなかったソフィアは驚いて手を引っ込めそうになるが、やはり力が強い。
丁寧に塗り込まれていく軟膏が冷たくて気持ちいい。反比例してソフィアは後ろめたさに俯いていく。
「あの、すみません。折角お薬を下さったのに……私、お世話になった使用人たちになんのお礼もできないから、みんなで使える台所に置いて、そのままあげてしまったんです」
グリオルの手が止まる。
「本当にごめんなさい」
手を握られたまま頭を下げる。安心したようなため息が頭上から聞こえた。
「そうなのか、それなら良かった。燃やされたことに気付けなかった自分が情けなかったと……いや、どのみち良くないな。昨日のうちに渡すべきだったのにすまない」
顔を上げると複雑な表情のグリオルがいた。
グリオルは朝のソフィアの様子を見て軟膏も燃やされたのだと思い至った。昨日は自分もどうかしていたと情けなく思いながら急いで薬を持ってやってきたのだ。
「私こそ、言い出せなくてごめんなさい」
「いや、いい。謝らなくていい。あの件は君が無事で良かったし、薬が今誰かの役に立っているならそれでいい」
穏やかな声の主は薬を塗り終わった手をまだ握ったままだ。温かくて少しかゆい。微かなはずの甘い香りが部屋に充満した。
朝食がある段階でお察しの方もいらっしゃるかと思いますが、念の為に注記させて下さい。
食事に関しては某島国をモデルにしております。