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仕合せという結婚  作者: 餅屋まる
第1章 ベルネット家
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13.答え

 家令から頼まれ、姉の肖像画を描いている部屋に入る。事態が急変し、一先ずそのままで、と数日放置された部屋には薄く埃が積もっている。綿ぼこりの類は積もるのが本当に早い。描きかけの絵の周りはぐるりと無視して、窓や棚から埃をはたく。床に落ちたものを手早くまとめ、ふと描きかけの絵を見る。

 そういえば姉はこれを気に入っていないと不満を漏らしていた。姉はこんな風に笑うだろうか。途中の状態とはいえ随分曖昧な淡い笑顔で、実物の倍は優しそうに描けていると思う。私が知る姉の笑顔は口端が吊り上がった、濃縮されたような笑顔。何もかもがわざとらしい。見え方も受け取り方もそれぞれだが、あの姉の笑顔が自分以外の人の目には少しでもよく映っていればいいがと思う。


 自分が笑わない事は自覚している。理不尽という言葉も知らないうちからの疎外感。喜ばしい事などなかった幼少期に加えてあの手記。一歩引いて冷めた目で見ているうちにこの家に「そういうもの」以外の認識を持たなくなり、目立った感情がなくなった。客観的で他人行儀な感覚。何に対しても良いとも嫌だとも思わなかった。さすがにここ数日は呆れる気持ちを中心に感情が動くことが多かったが。


 令嬢としての知識もなく、お茶会などを含めた社交の場にも出た事のない私は他の貴族の事をよく知らない。貴族社会では愛情の偏りも、愛情の裏返しによる縺れも起こり得る出来事で、家の中が殺伐とすることは珍しくないと他所から来た使用人に聞いたことがある。

 その言葉の意味が解る頃には、誰も私に「愛していないのに次女を産み育てるわけがない」とは言わなくなっていた。言われ続けていたら今もきっと、ありもしない幽かな希望に縋って家族を目で追い、真綿で首を絞めるように自らを追い込んだことだろう。


 我が家が正常ではないのはわかっているが、果たして正常な家とは何だろうか。あの侯爵家は正しいのだろうか。あの人たちはきちんと機能していて幸せなのだろうか。あそこに他人が割り込んでいいものだろうか。砕けた雰囲気の姉弟の画の中に自分が座っていた先日の様子。異物がある違和感が胸を刺した。

 もしかしなくてもこの婚約は重荷なのだ。


 だが自分にはどうすることもできない。

「お姉様は、グリオル様をお好き……」

思い出した言葉がぽそりと口から洩れた。自分は彼に厚意はあっても好意はない。父と母を見て思う。仲睦まじいのはいいことだと。だから彼に少なからず愛情を持っているなら、姉が嫁ぐのが適切なのかもしれない。実際嫁いでしまえば姉だって好きな相手との離縁は望まず、受け入れるのではないか。絵の中の姉は柔らかく笑っている。

 考えると妙に気分がふさいだ。払うように顔の前で手を振り、部屋を後にする。


 これからどうしたらいいだろうか。


 家を出るという希望は見えている。だが、それを現実にする方法がわからない。

 扉を閉める手がとても重たかった。




 その翌日、私は使用人と買い物に出た。今日は画家が来る予定だという。確かに掃除を頼まれたが画家が来ることに驚く。姉が父を説き伏せたらしい。やはりどこまでいってもここは姉の家だ。


 果物店でいつものご主人と話しながら果物を選んでいると声をかけられた。

「ソフィア嬢」

振り向くとグリオル様がいる。

「こんにちは。いつも後ろから声をかけてすまないね」

「いいえ、あの、どうしてこちらに?」

私は今日もお仕着せを着ているし、今は買い物までしている。慌てていると果物屋のご主人も突然の貴族に驚いている。

「そこの通りからあなたが見えたから。少し時間があったら、聞きたいことがあるんだがいいかい?」

「はい。あの、少し表でお待ちいただけますか?」

 私が慌てているうちに、気の利く使用人たちがご主人とやりとりをして買い物を進めてくれている。グリオル様はわかったと笑って表に戻られた。

「ひぇ~……お貴族様が来店されるなんて珍しい。相当な金持ちだね、あれは。嬢ちゃん知り合いかい?」

「だ、旦那様のお知り合いで以前お屋敷にいらしたことがあるんです」

どもってしまったが間違いではない。ご主人はうんうん頷きながら言う。

「嬢ちゃんは所作が綺麗だからね。お貴族様の目に留まったのも納得だ。次の働き口が良いところだといいね。その働き者の手はどこに行っても真面目にやりそうだし、頑張るんだよ」

 平民は皆会話が早くて景気が良い。勝手に私の将来をニコニコ笑って決めて褒めて、餞別だとそう言ってオレンジをひとつ、エプロンのポケットにおまけしてくれた。重たくなったエプロンに不思議な感情がせり上がる。


 よくお礼を言って店を出るとグリオル様と馬車が待っていた。使用人たちはいつもの手芸屋の前で待つと言って、残りの買い物を引き受けてくれた。

 馬車がゆっくりと道を走り出す。このお仕着せの言い訳をどうしようかと思って困っていると彼は笑った。

「家の手伝いをたまに、と言っていたがそれが嘘だったのはわかっているから気にしなくていいよ」

「……申し訳ありません」

「謝る必要もない。貴族の令嬢がお仕着せを着て働いていて、それが自分の婚約者だと言われて良い感情をもつ貴族の方が少ないよ」

やはりこの方も侮辱されたと思っているのだろう。嘘までついて、騙されたと。

「そう思ったから嘘をついたんだろう。こちらの事も家の事も考えて」

「……はい」

「賢い判断だと思う。それで、今僕が町で君に気が付いたのは僕が君を探していたからだよ」

それはお仕着せで町に出ているのを知っているという事。そうでなければこんな地味な顔を見つけられるわけはない。


 ぎょっとすると彼も少し驚いた顔になった。

「ああ、そういう顔も出来るんだね。本当に度々驚かせてすまない。先日出かけている君を見かけただけだよ」

今、自分がどんな顔をしているかわからない。情報の唐突さと重大さにどう謝ればいいかだけを考えてしまう。

「この前もそうだったけど、君は本当に家の外だとよく表情が変わるね。あの席に座っている時とは違う」

 その言葉に固まっていると彼は懐に手を遣った。

「今日はね、お詫びの品を持ってきたんだ。昨日姉が大分無礼をしたようだから」

そう言って取り出した小さな丸いケースを私の手に握らせる。何の飾りもないケースには見た目から想像できない重さの何かが入っている。

「開けて」

躊躇いながら開けると中には真っ白い軟膏が入っている。かすかな甘い香り。

「手に塗るんだよ」

やはり気付かれていた。

「姉上も僕も、君の可愛い手がそんなに真っ赤なのが気になってね。照れてくれるのは嬉しいけど、いつかつなげたらもっと嬉しいから」

 凄い言い回しだ。あかぎれと見抜いていながらのフォローに下唇を噛む。俯いて軟膏を眺めていると、さっきのおじさんの言葉が耳に蘇る。

 ぱたりと涙がエプロンに落ちた。

「……すみません」

あかぎれの手で拭うより先にハンカチを差し出された。上等なシルクのハンカチは昨日の綺麗な人と似た香りがする。ハンカチを使わないと落ちてしまう化粧などない。手で拭って不細工に腫れても誰も見もしない顔だ。


 それでもグリオル様は空いている方の私の手にハンカチを持たせる。

「……ソフィア嬢。伯爵家でこの話がどうなっているか知らないけれど、侯爵家はまだ宙吊りな状態だと判断している。あの日君が裏庭で嘘をついた時は、嘘をついても守りたいと思う程にはこの婚約に前向きだったのかと思っていたけれど、昨日の言い方はどうやら違うみたいだった。君はこの婚約が自分に戻ったら困る?」

 昨日の自分の発言が脳内に響く。思わず口をついて出た懺悔。軽率な自分の言動に胃が重くなる。

「……困る、だなどと、恐れ多い事です。私に選択権はないのです」

絞り出した声は情けないものだった。彼は黙ってこちらを見ている。

「ですが、昨日お話した通りなのです。今だってお仕着せを着ています。そもそも、グリオル様にとっても、フランシスカお姉様にとっても、侯爵ご夫妻にとっても、この約束事は重荷なのでは。我々姉妹は2人揃って至らぬ点ばかり。特に私は貴族の令嬢とは言い難い。侯爵家のご迷惑にしかならないのではないでしょうか。だからドレッセル家の方々がこのような姉妹はご迷惑だと仰るなら、お約束を先延ばしになさるなりなんなりされても構わないと思うのです」


 グリオル様はいい人だ。フランシスカ様も。きっと侯爵夫妻も。だから望まないなら、あの姉に結婚を押し切られていらぬ苦労をしてほしくない。

 でも役立たずな私も嫁げない。

 それならいっそ約束を先延ばしにした方がいいと思うのだ。その方が侯爵家の皆様のためではないかと。優しい人を傷つけてまで約束を形だけで守っても、それは絶対に良い事じゃない。


 真剣な瞳は私を射抜いたまま。

「昨日の話には驚いたけれど、そんなものはどうにでもなる。本来なら不誠実だと思う案件かもしれないが、君自身に罪はない」

 胸が締め付けられるような感覚に襲われる。私もまた、事態がこじれて、自分の心が動いて、こうして話す機会がなければただ従って黙って嫁いでいただろう。私も罪人だ。

「その上でもう一度聞くけど、この条件の婚約が君に戻ったら困る?」

「……もし、ドレッセル家の方が許して下さるなら、私は誠心誠意お仕えするとお約束いたします」

彼は笑った。

「許すって何をさ」

「……私がこんなにも不出来で不誠実なことをです」

ボロボロと涙がこぼれた。事実でも言葉にする度に惨めだ。泣いているのもみっともないがそれどころではない。

「ソフィア嬢」

ぽんぽんと、私の頬の涙をもう1枚持っていた綿のハンカチで取りながらグリオル様が私を見つめる。私の手は貸してもらったシルクのハンカチを握りしめていた。

「僕たちは数日前まで顔も知らない『約束上の関係者』だった、そう言ったね。君が婚約に対し何も考えずそういうものだと思っていたように、僕も家族もそう思っている。我が家はあの条件さえ守ってもらえればいい。ダンスも社交も下手でいいし、薬の知識もなくても良い。令嬢らしくないとしても学べばいい。こちらが君を重荷に思う必要がどこにある」

むしろ、姉の提案が1つでもまかり通ればそれが一番の重荷だよ、と困った顔で笑う。

「応えてくれる?」

私は鼻をすすってあかぎれの手を握りしめて頷いた。



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