12.わがまま
馬車に乗り込むと緊張がほぐれ、同時にどっと疲れが出る。ぼんやりしながら家に帰ると、姉の全部ほしい病が始まっていた。
全部ほしい病とは幼少期に私が考えた姉の癇癪の名である。なんでも一番で育った姉は、少しでも自分がいいな、と思った物があると屁理屈を述べたりだだをこねたりして手に入れる。時には私から奪ってしまう。
幼い頃、祖母にもらった誕生日プレゼントのぬいぐるみは姉に奪われ、ものの数分で手元を離れた。親戚から姉妹にともらったリボンも全部姉の物になった。次に会った時の親戚は両親に守られ着飾った姉と相変わらず飾り気のない私を見て困ったように笑った。
いつだって姉が涙目で頬を膨らませて強請れば両親は目じりを下げ、泣き喚けば本当に何でもすぐに叶えた。飽きたらゴミ同然に放り出し、お下がりになる。それだってもう一度ほしいと思えば奪い返す。そんなことが数回あって、私は姉のこの癇癪に病名を付けた。
最近では久々の発症だが正直18も超えてこれでは幼過ぎる。御者も苦笑いしていたが外まで姉の喚き声が聞こえている。よく意識しないと内容こそ聞き取れないものの、この閑静な住宅街では誰の耳に拾われるかわからない。
近所の噂話を恐れ、慌てて家中の窓を閉めて回る。使用人にも声をかけて協力してもらい勝手口も閉めた。その分家の中にやかましく響くようになったが洩れるよりましだ。疲れ切って廊下に座り込むと、かなきり声が耳に刺さってくる。
大きくため息をつくのを家令に見られ、心配されるが大丈夫。それにあの伝言を早く父に伝えないといけない。
父の居場所を聞くと姉の部屋だと言う。私がこの状態に近づきその言葉を伝えたら火に油を注いでしまうのは明らかなので、家令に頼んで父を件の部屋から離れた廊下に呼んでもらう。
やってきた父の顔は怒りで真っ赤だ。ひどく不機嫌だが構っていられない。淡々と伝える。
「只今戻りました。ドレッセル家から伝言です。明後日そちらに伺うが今回の件での謝罪は結構、手紙の内容は受け入れられない、と」
その言葉に父の顔が真っ白になる。
「ご当主はお怒りだったか?」
震える声で質問が投げられる。父の気持ちはよくわかる。
「王命でお出かけされたため、侯爵様には会えておりません。グリオル様より、侯爵様のお言葉として承りました。いずれの項目も不可、里帰りはいずれも費用をこちらで持っても難しいとの事」
父の目が信じられないほどに大きくなる。
「いずれも?! なんだと? 条件は全部でいくつあったのだ」
怒鳴りつけられても困る。そしてやはり姉は今でも手紙の全てを話していないのだ。家で父から聞いたのは「結婚式を王都でも挙げたい」「里帰りをしたい」の2点の嘆願書だという事。それだけでも居丈高な文章を想像してはいたが現実は雲の上だった。
失言だったかと思いながらも正直に答える。忘れたことにしても嘘をついても、侯爵家への不敬になってしまう。姉から告げ口だと思われようが正直に答えるしかない。
「7点です」
答えるや否や父は壁に寄りかかった。神に祈るように天を仰ぎながら唸る。
「今からでも謝りに行こうと、アレクサンドラを説得しているのだが埒が明かないのだ……」
断られた上、侯爵様は不在なのでそれも無駄だが、父は唸り続けた。
「……まあいい。お前は早く仕事に戻りなさい」
「はい」
既に父の中の自分は使用人なのだろう。労いの言葉もなく「仕事」と言われて私は呆れる気持ちをはるか彼方に蹴り飛ばした。
父に背を向けて歩き出し、ふと思い出して顔だけで振り向き声をかけた。
「お父様、もし可能であればお姉様にお伝えいただきたいのですが、ドレッセル家のお姉様は領地関係者とご結婚なさるから縁は切れないそうです」
俯いていた父は黙って手を上げた。
気疲れしただろうと気遣ってくれた家令と使用人に台所でお茶とお菓子をもらう。普段ならこそこそするが、今は両親とも姉に掛かり切りなのでのんびりできる。
どちらも程よくいただき、やっと落ち着いた頃、折角淹れてもらったお茶の味もわからないほど緊張した侯爵家での出来事を思い出す。あれだけの手紙を送っておいて、本当に当主への謝罪なしで済むことだろうか。お帰りを待っても迷惑と思ったが待つべきだっただろうか。それより、帰り際に家紋付きの馬車があったような気がするが、本当にお出かけされていたのだろうか。
――もし、今も我が家が試されているとしたら?
急に怖くなって怒鳴られる覚悟で姉の部屋へ急ぐ。
ノックしようと思ってその叫び声に身が竦んだ。
「そんな田舎でひっそりと式を挙げるのも嫌よ! 田舎育ちの方にはわからないでしょうけれど、王都が全てよ! 国の中心なんだから!」
ぼそぼそと低い声が聞こえる。父だ。
「ならパーティーでいいわ! 我が家で盛大にお祝いしましょうよ、それなら迷惑ではないでしょう」
「すまないが、そんな余裕はないんだ。これからはソフィアにもお金がかかる」
今度ははっきり父の声が聞こえた。
「なんでソフィアにお金をかける必要があるの!」
「仕方がないだろう。あの子が当主になって婿を取るんだ。お前と同様に教育も準備もしないとならない」
その言葉が気に入らなかった姉の不機嫌がドアから洩れる。
「あの子は次女なのよ? そんな豪華にしてどうするの?」
「何も豪華にとは……だが当主に必要な教育をしてそれなりの身なりにしないと伯爵家の顔が立たない」
「そうよ、あの子にはあまり派手なものは似合わないから、あなたよりずっと安く上がると思うし、あなたより良い事なんてないわ。それにあなたは向こうでもっと綺麗なドレスが着られるわ」
「でも田舎で暮らさなきゃいけないのよ! 流行だって遅いし、着る機会も少ない。それに誰が見て褒めてくれるの? その間、あの子は王都で最先端の綺麗なドレスを着て華やかにちやほやされて暮らすなんておかしいじゃない」
華々しい世界を知り、そこに浸っている姉らしい意見だ。自分にとっては縁がなさ過ぎて憧れすら抱かなかった世界。渡り歩く気もないが姉のような人がたくさんいるのなら仲良くもなれないだろうし楽しくもないだろう。
私は気が付く。さすがにこうなっては両親も本格的な説得を決断したらしい。あの条件に従うか、この家に残るかを、本人に決断させるつもりでいるようだ。しかし論点が違う。家の事情だと諦めさせたい父親の思惑はお金。湯水のようにお金を使っている姉には父が遠回しに言う「金がない」という表現が伝わらず理解できないらしい。理論的な父もまた数字を優先するあまり、目の前の感情論の姉が理解できていない。母はいつだって姉の味方で、女の感情で彼女を支持する。だから嫁がせたい気が前に出ている。あの子はあなたより良くしないから納得してくれと訴える。姉とよく似ていつも誰かの事を気にして、片方を下げないと気持ちを上げられない悲しい人だ。だから慰め程度のことしか言えない。
どちらの理屈も今の姉には関係ない事だ。お姫様に金庫の事情は関係ないし、下に見ている他の子が恵まれるのは許せない。
「子どもが出来なかったら養子だなんていうのも嫌よ! きちんと私の子どもに継がせたい! それにこれじゃ恋人を作ることも難しいじゃない!」
叫ぶ姉をなだめる母の優しい声がドアから洩れてくる。
私はドア前で固まって動けない。気持ちの悪い空気が充満しているドアの向こう。この家ではいつもそう。この構図が我が家特有であることを祈った時期もあったが、使用人たちの冷めた瞳から性別や立場が入れ替わってもまた有り得る事なのだと察している。でも、いざ目の前にあるとドアを開けられない。
「私が長女なのよ! 私が一番じゃないなんて虐待だわ! だって私はグリオル様が好きなんだもの! 2人とも、いつも話していたじゃない! 貴族でも好きな人と結婚するのが幸せだって!」
好き、という言葉に気道がウッとなる。もし姉の語りの熱が本当に一目惚れなら、どうだろう。グリオル様側の気持ちや事情があることで、こちらにはどうにもできない事だが姉が彼に恋をしているなら、父と母が諦めさせた場合、姉の中では私が奪ったことになるのだろうか。ほんの少し胸がもやもやする。
同時に熱が冷めた。
どうにかしないといけないのではという焦りの衝動でここまで来たが、姉はまだ喚き散らしていてどうにも出来なさそうだ。自分の意見が通るとは思えないし、下手な事を言うだけ悪くなる。侯爵家から然るべき処罰が来るとしても、それが最善の結果になると思い直した。深呼吸をして踵を返す。
泣き喚く姉を慰める両親の声が聞こえる。さすがに虐待と大泣きされてはこれ以上叱責できなかったのか父の声も優しい。
「離縁を許さないとは書いていない。……お前が離縁を選んでもこの家はお前を待っていると約束しよう」
さすがにこれは衝撃だ。踏み出しかけた足が止まる。嫌だと言いながらも諦めてもらえないと判断した父の提案は恐ろしいものがあった。
姉が出ていくと自分はここに残ることになる。そこに姉が戻ったらどうなる? 父は金の事、母は姉の事、姉は自分の事、みんなそれしか考えていない。「離縁なんてみっともないのは嫌よ」なんて声も聞こえてくるが、このままの性格の姉が嫁いでも父の提案通り離縁しそうだ。姉が家に出戻った場合、例え当主になっていても私の扱いは悲惨になるだろう。お姫様の次は悲劇のヒロイン、いつかは女王様。陳腐な展開に意図せず口が歪む。侯爵家を巻き込んでまで結果の見えている愚かな舞台を続ける気か。
姉の代わりに当主を継ぐことになれば聡い伴侶を迎え努める気でいたが、出戻りがあるなら話は別だ。養子か出戻りの姉に婿をとってもらうことにしてどうにかこの家を出ようと決心を改めた。
人生を投げてまでいる気はない。この人たちと離れたい。
「リボンをつけてくれるとありがたいな」と言ってくれた人が縁談をどうするつもりか、自分にはわからない。希望を持つと絶望してしまいそうだから考えたくない。そっと足元に視線を落として廊下を戻った。