10.フランシスカ
「グリオル! 聞いていて? あの令嬢、信じられない手紙を寄越したわよ」
耳に届くのは楽しそうな声だが、確実に怒っていると思われる足音で姉上が部屋に入ってきた。扉が外れそうな勢いだ。もう少しレディらしくしてほしいと嘆く母上の声が階下から聞こえる。
あの姉ならやりそうだなと思いながら、鼻息の荒い我が姉上に声をかける。
「姉上、その書状、今手元にお持ちですか?」
返事の代わりに封筒と手紙が机の上にバサッと広げられる。
「ほんと、何様なのかしらね。家長の名前でなく自分の名前で出してきたのよ。自分の家にも泥を塗る行為だと気が付かずに、“次期当主だった”とか笑わせるわ」
ざっと目を通すと、想像の斜め上に信じたくない言葉が並んでいて思わず顔をしかめた。
「これはひどい」
特に領地の事など、王命だと言ったことまで意識されていないのがうかがえる。ここまでとは思わなかったが身勝手も大概だ。
防御に見せかけて攻撃を仕掛けてみたが、言質ではなく書面で成果を得られたのは大きい。作戦は他にもあったがこれで充分。
「我が家だけでなく領民の事も馬鹿にして、失礼にも程があるわ」
目の前で息巻く姉上に薄く笑いかける。
「姉上、ご安心下さい。作戦通りです。我が家は到底これを受け入れませんでしょう。僕とてここまでいう女性をこの家の妻としては迎えられません。お断りするための手段ですよ」
笑いながら手紙を封筒に戻す。と、父親と自分の連名宛な事に気付いた。つまりこれは既に父上の目を通り、それから……。まさかと思いつつ椅子から立ち上がるとジッとこちらを睨んでいた姉上がフンと鼻を鳴らして一言。
「……まあいいけど。父上がお呼びだからすぐに行きなさいな」
「何故それを一番に言ってくれないのです!」
慌てて父上の部屋へ向かった。
完全に一張羅と化したいつものワンピースを着てお邪魔した侯爵家。ソフィアは反意がない事を示すため、もらったリボンをつけようか迷ったが、浮かれているように見受けられたら悲劇だ。大人しく質素に結い上げるだけにした。だが少し後悔していた。自分がまるで雑巾のように思える。
粗末な自分を出迎えた使用人の態度も、目に入る調度品も何もかもが上等。先触れもなく自分のような者を寄越した事を無礼と責められても少しも不思議ではないほど、全てが違っている。
両親にはドレッセル家から条件の事を聞かれたら、自分は異論はないと涙を使ってでもアピールし許しと婚約をもぎとってこいと言われたが、無理だ。そもそも家の為に泣ける気がしないし、こんなことの後に「だから自分と婚約して」なんて軽蔑されて当然の事は言えない。第一、人様の家にお邪魔すること自体が初めてで余裕なんかない。心臓が早鐘を打ち、体中の水分は汗に取られて苦しい。
案内された客間で縮こまっていると急に勢いよくドアが開かれ、そこには烈火の如く怒る美しい女性が立っていた。その眉間の谷は信じられない程の深さを刻んでいる。が、慌てて立ち上がろうとするソフィアを見とめるなり驚いた表情に変わる。
「あなた……初めまして、私はこの家の長子のフランシスカ。あなた、どなた?」
ソフィアは礼をする。戸惑いながらもツカツカ近付いてきた彼女からは良い香りがした。
「は、初めまして、ベルネット家の次女のソフィアと申します。この度は姉が無礼を申し上げまして……」
頭を下げているので表情こそ見えないものの、少しむっとした気配が滲む。
「そうね、とんでもない話よ。それでどうして妹を寄越すのかしら。本人でもご当主でもなく、妹? 理由をうかがっても?」
丁寧な口調に不釣り合いなその棘の大きさに震えが走るが、ここで謝れなければ家は終わりだ。
「申し訳ありません。姉は錯乱しており、両親は姉を支えております。私は……私はご覧の通り、図々しさが取り柄の小娘です。家の中で一番身軽な私がまず先だってお詫びにと、父の指示で急ぎ参りました」
「あらそう。ではこの後ご当主がお見えになるのかしら」
そんな話はない。だが来させるしかない。
「はい。必ずや」
硬く結んだ唇が震えた。父を説得できるかは気が重い。だがそれしかない。
訝しむように目を細めたフランシスカは短いため息をついて、ゆっくりと詫びの言葉を口にした。
「……ごめんなさい。そんなこと言ってもあなたが困るだけね。顔を上げて、座ってちょうだい」
恐る恐る顔を上げて、改めて見たフランシスカはとても美人だった。
後ろに控えていた使用人にお茶を頼むと、彼女もソファに腰かける。
「悪いわね。先程手紙が届いてから怒りが収まらなくて、謝罪に来たと思ったら妹君だなんて、あまりの扱いに不愉快になってしまったの。あなたは言われて来ただけなのに。あなたの立派な態度に我に返ったわ」
首を横に振るとその口元が緩む。
「父とグリオルはもうしばらくしたら来るわ。お待たせしてごめんなさい。私も同席するのだけれど、一足お先に座らせてもらうわ」
お茶が運ばれるまで静かな沈黙が漂う。ソフィアは考えていた。つまり、自分はこの家の人ほぼ全員を相手に謝らねばならないのだ。失言しないように気を付けねばならないと、背中に溢れていた嫌な汗がついに流れ背筋が伸びる。
「……私はね。この家が大好きなの。両親の事も弟の事も、領民の事も」
ふいと話し始めたフランシスカに視線を移すも、紅茶のカップを片手に目を伏せるその顔からは何もうかがえない。ソフィアにはフランシスカのように家や領民を愛する気持ちはないから、フランシスカの本意は理解できない。家を大事に思う目の前の女性に新しい感覚を覚えた。
「この婚約の事もね、お爺様が決めた約束で反対は出来ないししないわ。けれどあの手紙でしょう。そんな女が嫁入りするならあたしが家を継ぐけど! って怒りが沸き上がったわ。大事なものを侮辱された事に腹が立ったの」
ソフィアにはわからない感覚だが、姉の手紙が失礼だということはわかる。
「本当に申し訳ない事を致しました」
もう一度頭を下げる。
「あなたのせいじゃないわ。あなたの姉を悪く言うのは申し訳ないけれど、戯れにしても性質の悪い冗談を謝りにも来ない人なんて初めてよ。あなたのお家の人はそれを善しと思わなかったから、あなたはここにいるんでしょう」
似ていて違う。父も母も家が潰されることだけを心配していたように思う。言わなかった本心があるとしても、ソフィアには善い悪いではなく損得で動いた現金な親にしか思えなかった。
その時、フランシスカは冷めないうちにと紅茶を勧めようとして、膝にきちんと揃えられたソフィアの手を見た。土や草をいじる自分たちの領地の領民のひどい時と同じような真っ赤な手。普通には有り得ない荒れ方をしている。
息を飲みながらも、ソフィアの装いからもそのことに触れない方がいいのだと判断したフランシスカは、視線を気取られないように目を細めて穏やかにお茶を勧めた。
「お茶をどうぞ。慣れない家では緊張で喉も乾くでしょう」
恐れ多いと思いつつ、飲まないのも失礼に当たるかもしれないと思ったソフィアはいただきますと一口だけ口をつける。
「……あなたは、この婚約が変更になったら実家の伯爵家を継ぐの?」
問われてソフィアは頷いた。
「そうなります。折角こちらに救っていただいた我が家です。私は役目を果たさないとなりません」
「……救った、ね」
また少しフランシスカは目を伏せた。
「……あなたはこの約束、嫌じゃないの? 小さい頃から決まっていて、突然変更になって、自分が振り回される。貴族の子どもだからって諦められる?」
ソフィアは答えられなかった。家の事も誰の事も関係なく、自分はそういうものだと諦めて生きてきたから、どう答えていいかわからない。
「私は嫌よ。この家の約束を弟だけに押し付けるのがとても嫌。弟の結婚が幸せじゃないなら、今からでも自分の嫁入りを婿入りに結び直して私が当主になったっていい。でもお父様には聞いてもらえなかった。だから今はせめて弟の幸せな結婚を見届けてから結婚しようと思ってるの」
はっとする。自分が男に生まれていたらこの人と結婚する事になっていただろう。全て自分がカギを握った人生。ソフィアの気持ちを察してかフランシスカが笑う。
「順番よ、仕方ないわ。私が男に生まれれば良かっただけ。ただ、悪いけどあなたの姉貴は嫌いだから約束が拷問になったわね。だから変更後の弟が幸せに笑えるなんてこれっぽっちも思えない」
「……フランシスカ様は、グリオル様が大好きなのですね」
ソフィアが思わず口からこぼした言葉は呑気なものだった。ソフィアには兄弟や家族を好き、という感情がわからないが目の前の人が優しい人なのはよくわかる。自分があの家で大事にされていないのはわかっていた。だからこの婚約を「誰か」に「押し付けた」と責任を感じて、それを精一杯「支えよう」としている人を間近で見て、その怒りの一番の理由が胸に浮かんだからだった。自分が持っていない感情。
「そうね。たったひとりの姉弟だもの。弟は生まれた時から身体が弱かったから、領地でもよく倒れて揶揄われてたの。守りたくて元気になってほしくて、棒切れ持って前歩いてたらこうなっちゃった。もう守らなくてよくても、そう望まなくても……見ていたいのね」
いたずらそうに笑う顔は可愛い。
先程怒っていた時はその剣幕におののいたが、アレクサンドラより2つ上の大人は気取らず話しやすい雰囲気がある。婚約が決まっているからそう言われなくても、彼女だってもう行き遅れと言われる年齢だ。
「我が家のせいでフランシスカ様の嫁ぎ先にもご迷惑をおかけして申し訳ありません……」
「大丈夫よ。元々弟の結婚の半年後に結婚する予定で、先方も事情はわかって結んでくれた婚約だもの。薬草の研究者をしていてね、格好良くて賢い自慢の婚約者なの。たくさんの人を救えるって領地のことを褒めて下さるのよ」
嬉しそうに笑う柔らかさにソフィアの胸が苦しくなった。
ソフィアは姉と自分のどちらが嫁ぐにしても、この姉には詫びをせねば、と心に決める。
アレクサンドラが与えられた暴君でお姫様なのに対し、フランシスカは自ら選んだ暴君で騎士です。
この辺がちょっと似ている姉同士の絶対的な差というか。
誤字脱字報告ありがとうございます。大変助けられております。恐縮です。