歯車世界6
「ニャニャニャ?」
宿屋の一室でのんびりとしていると、ベッドの上で眠っていたオーデとエインの耳が、同時にピクピクッと反応した。二匹は左手にある窓からじっと外を見つめ、目だけでなく耳もそちらの方に向けられた。
「・・・」
二匹があまりに真剣に窓の外を見ている為、ワタルも釣られるように窓の外を見た。
窓の外には素朴な町並みが広がっているだけで、これといって特に変わった物は無い。猫にしか見えない何かが見えているのか、ステータスお化けである二匹だからこそ見えるのか、凡人のワタルには判断が付かなかった。
「微かだけど、お宝の匂いがするニャー」
「するニャンするニャン。あの森から匂ってくるのニャン」
「・・・」
オーデとエインは、町の遥か先にある森林地帯を見据えながら、フレイヤに聞こえるよう報告した。耳で探っているようにしか見えないのに、匂いとはこれ如何に。ワタルはツッコミを入れたくなったが、命はとても大切なので何も言う事はしなかった。
匂い言いながら、耳ピクピクしまくってるやないかい!
「オッタル。何か文句でもあるのかニャ?」
「な、ないよ・・・」
ワタルは二匹から目を逸らした。
間違いなく言ってたら逝っていた。この猫怖過ぎだっちゃ。
「宝があるのであれば、回収しましょう。オッタル、こちらへ」
「は、はい・・・」
フレイヤに呼ばれ、ワタルはドギマギしながらもフレイヤに近付いた。
フレイヤはそんなワタルを優しく抱きしめ、ワタルの顔は二つの柔らかな谷間の中に納められた。全身の血液が沸騰し、沸騰した血液が一点に集中しようとした所で、ワタルの目の前から二つの柔らかな山が遠のいた。
フレイヤがワタルの気持ち悪さに押し退けたからではなく、必然的にそうなってしまう変化がワタルに起こったからだった。ワタルは今、フレイヤの魔法によって、体調2メートルの巨大なイノシシに変身していた。
変身したワタルの背中にフレイヤは飛び乗り「行きましょうかオッタル」という優しい声がフレイヤからは掛けられた。
この一連の流れを既に経験した事のあるワタルは、四肢を動かし、宿屋の窓からフレイヤを乗せたまま飛び出した。飛び出した部屋は二階にあり、ステータスが軒並み一桁台であるワタルにとって、この行動は自殺にも等しかったが、地面に着地したワタルは体勢すら崩す事はなかった。
これは全てフレイヤの魔法による効果であり、イノシシとして強化されたワタルは、そのまま地面を駆け、オーデとエインが言う森に向かって四肢を動かした。
「ふふっ。この派手な出立は、もの凄くわたくし好みですわ」
「あの宿には、二度と泊まれないのニャー」
「あら、金貨一枚でも差し出せば、きっと喜んで泊めてくれますわよ。ねぇ、オッタル」
「・・・」
フレイヤに聞かれワタルは頷いた。
歯車世界で金貨は流通していないものの、金は流通している。
フレイヤの持つ金貨を売った場合、その価値は一枚で十万ギアバルクであり、先程の宿であれば、最低でも三千回は宿泊できる計算だった。因みにギアバルクというのは、歯車世界における通貨の名称である。
「イノシシとなっても、言葉は話せるはずですのに、頷かれるだけというのは何だか寂しいですわね」
「は、話す事が・・・苦手で・・・」
ワタルは女性と話す事が特別に苦手というわけではなく、家族以外の者と話す事自体を苦手にしていた。そしてこれは、オーデやエインのように人語を操る猫にさえ、当て嵌まってしまう事柄だった。
ワタルは話すというコミュニケーションにおいて、人見知りも猫見知りもするのである。
「オッタルは雑魚だから仕方がないのニャー」
「雑魚はコミュ障と、相場が決まっているのニャン」
「あら、つまりオッタルが強くなれば、コミュ障では無くなるという事かしら?」
「強い者は、自信を持っているものニャー」
「自分に自信がある奴は、コミュ障になんてならないものニャン」
「なるほど。オッタルに足りないものは、経験に基づいた強さと自信という事ですわね。理解しましたわ」
「・・・」
オーデとエインの意見は合っている気がするとワタルも思った。小田野ワタルという人物は主観的にも客観的にも雑魚そのものである。ミーミルの書にもその雑魚っぷりはしっかりと記されており、例え書に記されていなかったとしても、経験からワタルはその事を理解していた。
ワタルはこれまでの人生で承認されてこなかった。あるのはいつだって承認とは反対の否定だけだった。ワタルが今ここにいるのは、エロい恰好をした女神に飛ばされたからではなく、存在そのものを否定されたからだった。否定がなければワタルは、女神に会う事さえなかったのだから・・・。
「でも、こいつを戦わせたりしたら、すぐに死んじゃうのニャー」
「オッタルは今、世界で一番弱いのニャン」
「今の状態であれば、湧き出てくるモンスター程度前足で蹴り倒せますけれど、この方法ですと、モンスターから得る経験値はなぜかわたくしに入りますものね」
「オッタルは、フレイヤ様が使役する魔物だと判断されているのニャー」
「使い魔が倒した経験値が主人に入る事は、普通の事ニャン」
「そういえば、オーデやエインが得るはずの経験値も、わたくしに入りましたわね」
「ペットなのだから当然ニャ」
「今のオッタルもそうですが、オーデやエインの強さも、わたくしの魔力に依存していますから、世界はそういう風に判断したという事かもしれませんわね」
「妥当で真っ当な判断なのニャー」
「つまりオッタルが強さを得るには、4のHPでも削られる事のない防具と、3の力でも相手を倒せる武器の調達が必要不可欠という事ですわね」
「フレイヤ様の宝具は、貸さないのかニャン?」
「わたくしのコレクションは、微妙に呪われている物ばかりですし、レベル制限もありますので、貸した所で使われる事はあっても、使う事は不可能ですわ」
「そう言われるとそうニャン」
「・・・」
オーデやエインに馬鹿にされつつも、それをフォローするフレイヤによって、今後の方針がぼんやりとだが決められた。
イノシシになったワタルが、躊躇なく二階の窓から飛び降りる事ができたり、強そうなモンスターを蹴り倒したり出来る事を考えると、この方針は悪くないように思えた。
「フレイヤ様、フレイヤ様。お宝のニオイがかなり近付いて来たのニャー」
「あの木の側から匂って来るのニャン」
森を抜けた前方約500メートル先には開けた丘があり、丘の中心には、ポツリと大きな木が聳え立っていた。
「中々に面妖な女がいますわね」
聳え立つ木の影には一人の女の姿があり、フレイヤはそっと指で唇を撫でた。
「・・・」
遠過ぎてあまり良く分からないものの、ワタル目には面妖というよりは綺麗な女性として映し出された。青くて、キラキラしている。
「オーデ、エイン」
「ニャ」
フレイヤに名を呼ばれたオーデとエインの二匹は、ワタルの上から飛び降り、体長3メートルの化け猫へと変身し、ワタルの少し前を駆け出した。
これは、HP4のワタルを確実に護る為に、フレイヤによって敷かれた布陣であり、この行動をフレイヤに取らせる程度には、女はフレイヤから見て危険な存在だった。
フレイヤは、面妖な女が操る莫大な量のマナを、その目で捉えていた。
「こんにちは」
オーデとエインが臨戦態勢のまま女のすぐ近くで待機する中、フレイヤがワタルの背中から降りて女に近付くと、木の幹に凭れていた女はゆっくりと立ち上がり、フレイヤに挨拶を交わした。
挨拶をされながらフレイヤは再び「面妖な」と呟いた。
女が全身をフードとローブで隠し、素性を見せないようにしているからではなく、女自体がフレイヤが最初に捉えた女ではない事に気が付いたからだった。