彼女の物語
今回で最終回です。あと少しだけお付き合いいただけると幸いです。
小学校からの幼馴染に間一髪のところを助けられ、文芸部部室まで連れてこられた字森文人のこの時点での率直な感想は、「面倒なことになった」、これに尽きる。目の前で暑そうにボムの被り物を脱ぐ筆崎を見ながら、字森は遠い目になる。
筆崎理花とは小学校からの付き合いではあるものの、正直言って嫌いではないが苦手な人物だった。なにしろ破天荒傍若無人天衣無縫の役満なのだ。なんだかんだ言って振り回されてきた字森にとっては、折角高校に入ってから距離を置けたのに今更猛獣の檻には入りたくないとしか思えない。しかも、今回はよりにもよって彼女に助けられた。これはもう末代まで搾り取られるのでは?もしかして先ほどの夢かわヤンキーたちにカツアゲされた方がマシだったのではないか。ひとり鬱々と考え込んでいると、汗を拭きながら筆崎が事情を説明してくれた。
曰く、さっきは風紀委員としての巡回の仕事をしていたら、たまたま知り合いが他校の生徒に絡まれているのを見つけたため声を掛けたのだと。
曰く、文芸部には今3人しかおらず、その内の1人は幽霊部員なのだと。
曰く、ここままだと部誌を作るのにもひと苦労で、なんとしてでも新入部員が欲しいのだと。
ここまで聞いて字森は察した。人身御供にさせられる!
彼は必死に、「自分には他に入りたい部活があり、期待には添えないのだ」という旨を説明した。それはもう身振り手振り。その甲斐あってなのか、思いの外彼女はあっさり諦めたようだった。やる気がない者を無理やり入部させても意味がないと思ったのかもしれない。何はともあれやっと帰れると安堵する字森に、彼女は一冊の部誌を差し出した。
「折角来たんだし、お土産にあげるわ。良ければ読んで、感想でも聞かせて」
いくら苦手な相手であろうとも、助けてもらっておいて何も返せなかったことに後ろめたさを感じていた字森は、その部誌を受け取った。そして逃げるように文芸部を出て、帰りすがら何気なくページをめくる。長方形の紙にきっちり納まった文字列の隅には、「筆崎」と見てとれた。それはたしかに、彼女が書いたもののようだった。
はじめは道を歩きながらおざなりに。しかし、次第に彼の歩調が遅くなり、ついには立ち止まった。道の真ん中で立ち尽くし、一心不乱に顔を紙面に埋める字森を、通行人がギョッとした顔で避けていく。
20分後、彼は再び文芸部に向かって走っていた。その手に、入部届けを握りしめて。
扉を開けた時の彼女の驚いた顔は、一生忘れられそうにない。
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あの瞬間自分が抱いた感情を、どれだけ頑張って言語化させようとしても結局できなかった。ただひとつだけ、はっきりと言葉に出来るのはーーきっと、彼女の物語を読んで、僕は。
「彼女のことが、すっごく、好きになった」のだ。
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「気分転換にちょっと外の空気でも吸ってこようかな…噂のヘチマサイダーも気になるし…」
字森は薄暗い階段を下りていく。うだうだと悩んでいるうちに、だいぶ長い時間が経ってしまったようだ。そういえば筆崎にはトイレだと言って出てきたが、これはとんでもない誤解をされるのではないだろうか。
少々まずいことに気づき若干顔色を悪くさせた彼は、注意力が散漫になっていたようだ。昇降口で危うく小柄な人影にぶつかりそうになり、慌てて身体を反らせる。
人影に謝ろうと向き直った字森は、意外な人物に思わず驚きの声を上げた。
「えっ…へ、蛇野さん…?」
「あ、あれっ、字森さん…?」
蛇野舞は一瞬目を丸くさせたが、字森の姿を確認して、すぐに真面目な顔になる。
「あの…字森さん。私、言わなくちゃいけないことがあるんです」
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「理花ー、戻ったよー」
「遅かったわね…大丈夫なの?ヘチマサイダーでも飲んだ?」
「お腹は壊してない。それよりさ、ちょっと話を聞いてくれない?」
どこか改まった様子の字森を、筆崎は頬杖をついたまま一瞥した。
「何?進展でもあった?」
「そうなんだ。実はさっき、蛇野さんにばったり会ってね。…彼女が昨日の昼に、こっそり文芸部に入っていく怪しい人影を見かけたらしいんだ」
「……へえ」
「そいつがどうもこの学校の生徒じゃなかったみたいで、不審だとは思ったみたいなんだけど、隣の学校の人が何か用事があって来てるのかも…って、そのままスルーしちゃったんだって」
「…………」
「あっ、蛇野さんのことは責めないであげてほしいな。彼女も僕たちに言うべきだとは思っていたようなんだけど、ほら、ここ最近ずっと会ってなかっただろ?ちょっと気まずいというか、それで声を掛けるのを躊躇しちゃったみたいなんだ」
「…………」
「だからさ、理花。犯人探しとか、もうやめた方がいいんじゃないかな?だって隣の学校の人かもしれないんだよ?見つかるとは思えないな。しかも、お昼にわざわざ忍び込んで、夜になってまた戻ってきて爆破するなんて…こんなこと言いたくないけど、ちょっと危ない人かもしれないよ」
「……なるほどね。火村に届いた手紙はどう説明するの?」
「きっとこの学校の誰かに頼んだんだろうね。なんにせよ、今更手がかりを探すのは難しいと思うよ。もう1日も経ってしまったんだ、きっと証拠だって処分されてるさ。だから僕たちも、そろそろーー」
「よくわかったわ」
そろそろ帰ろう、と促そうとした字森の言葉を遮って、筆崎が口を開いた。
「それがあんたにとって、一番良いシナリオだったのね」
ニコニコと柔らかい表情を浮かべながら、筆崎を宥めるように言葉を続けていた字森は、その台詞に戸惑ったように眉を八の時にする。
「な、何言ってるの?僕はーー」
「あんたはほんとに嘘が下手よね、文人」
外は既に暗くなり始めている。濃紺に沈んだ美術準備室に、2人分の沈黙が満ちた。
「ねえ、ボム男…火村のところに行った時のこと、覚えてる?あんた、ボムのことなんて知らないって言ってたでしょう。この学校でも今まで見たことがなかったって。そんな訳無いわよね。私があんたを文芸部に勧誘したとき、あんたの目の前でボムを使ったもの。それに、私たちが体育館で騒いでいた時も、バトミントン部が投げつけてこようとしていたのがボムだったってちゃんと判別できていたようだし?」
「…そりゃあ、そうだよ。この学校で投げつけられるようなものといえば、ボムくらいでしょ」
「文化祭の時の方にはノーコメントなのね?まあいいわ。ーーええ、そうよ。『この学校で投げつけられるようなものといえばボムくらい』…逆に言えば、この学校でボムが使用されること自体は日常茶飯事、いちいち騒ぐようなことではないわ。…ねえ、文人。そんな、『いちいち騒ぐようなことではない』のに、なぜ私はこんなにこだわっているのでしょうね?」
「……君は、何か被害を被れば、末先まで文句を言いに行くタイプじゃないか」
「ふん、よくわかってるじゃない。…じゃあ、この場合の被害って、何?」
「な、なにって…そんなのわかってるだろ?部室が吹き飛んでーー」
「でも今私たちがいるところは、綺麗にそっくり元の通りだわ。元通りじゃないものと言えばーー私のUSBメモリくらいね」
字森から、スッと表情が消えた。左手で口元を覆う。
「……………気付いてたんだね?」
「そんなに大事そうに握りしめてちゃ、気付かない方がどうかしてるわよ。…さっきの話だけれどね、私がこんなにこの事件にこだわる理由…そんなの、とっても簡単なのよ」
部屋はやけに暗くて、字森を見つめているであろう筆崎の姿も、彼にはうまく見えなかった。
「文人…あんた、とっても苦しそうよ」
「………………」
字森が一歩、後ずさる。背中が引き戸に当たり、ガタッと耳障りな音を立てた。
「あんた、今日ずっと様子がおかしかったのよ。気づかない訳ないでしょ」
「………」
「爆破されたのはムカつくけどね、正直もうどうでもいいわ。私がこだわる理由だなんて…あんたが苦しそうにしてるから、それ以外に必要ないでしょう?」
「……の、ことは」
今まで黙りこくっていた字森が、絞り出すように呟いた。
「君自身の、ことは…いいんだね」
「…どういう意味かしら」
「本当はもう、わかってるんだろう」
字森が顔を上げた。固く握り締めていた右手を開き、筆崎の方へ突き出す。
「これをやったのが、誰なのか」
そのUSBは、潰され、ひしゃげ、黒焦げていて…なんとも酷い有様だった。まるで、誰かに意図的に破壊されたかのようなーー。
「…舞、ね」
筆崎は僅かに、目を伏せた。字森の手にグッと力が入る。
無残に破壊されたUSBは、筆崎の私物だった。中には彼女の今までの作品や、これから賞に応募する予定だった原稿のデータが入っている。ここまでボロボロにされていれば、復元は難しいだろう。
「…文人」
筆崎が静かな声で呼びかける。
「文芸部にボムを仕掛けたのは、あんたでしょう」
彼は、何も言えなかった。
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字森は、自身の性格が周りから評価されるほどに良いとは思えなかった。むしろ、表面上は温厚そうにしていながらも、腹の底であれこれ考えているぶんタチが悪いとさえ思う。
彼には、犯人を探す気なんてさらさらなかったのだ。
それどころか、適当な犯人をでっちあげようとすらしていた。彼女の顔見知りを犯人にしてしまうと角が立つので、全く知らない生徒か、外部の人間の仕業にしようと目論んでいたのである。
その理由は、蛇野舞だった。
つい数分前、旧校舎の昇降口で会った彼女。思い詰めたような顔をしながら蛇野の告白した内容は、おおよそ字森が想像していた通りのものだった。
私、昨日はたまたま文芸部に用があったんです。ふ、筆崎さんに、風紀委員長から伝言を預かっていて…それを放課後に思い出して、あの人はもう帰っちゃったかもしれないけど…でも、一応来てみたんです。そしたら、やっぱり誰もいなかったんですけど…パソコンに、USBが、挿さっていて。筆崎さんのものだって、すぐにわかりました。………。字森さん。私、バイト増やしたから文芸部を続けられないって言ったの、嘘です。本当は、…本当は、ただの嫉妬でした。…………私、ずっと昔から、本が好きで…絵本も児童書も、大人が読むような文庫本も、どんなものでも…文字が煌めいて見えて、すっごくドキドキしたんです。私も、そんな文章を書ける人になりたいって、ずっと思っていて…。筆崎さんに自分の夢が分かってもらえたときは、ほんとに嬉しかった。…だから、文芸部に一緒に入りました。はじめは、本当に楽しかった。これは嘘じゃありません。でも。……でも、彼女の書いたものを見たとき、私、気付かされました。自分には才能なんか無かったんだって。………輝いていたんです。彼女の言葉は、私が今まで読んだ、どんな本より……、私の、私の書いた文章なんかより、ずっと、ずっと。…ねえ、字森さん、わかりますか?彼女のこと、大切な友人だと思っていたんです。それなのに…私は、あの人に…酷く、嫉妬しました。それが自分には耐えられなかった。自身の醜さをまざまざと見せつけられているようで、苦しくて。文芸部にいることが、段々苦痛になっていきました。だから辞めたんです。……彼女の顔を見るたび、あの時覚えた劣等感と嫉妬と…自己嫌悪を思い出すから、接触も避けました。…………それなのに、あの日。私は…彼女のパソコンの、USBの中身を、見てしまいました。いけないと、いけないとわかっていたのに、です。震えながら、何度も閉じようと思いながら、それでも、彼女の原稿を見て、私はーー私の抱いた感情はーー
憎悪、だったんです。
あれだけ羨んで、嫉妬して、焦がれて焦がれて焦がれて、心が醜い化け物になってまで焦がれた彼女の物語は、今まで以上に輝いていてーー私は、もうあの子に、少しだって追いつけないって…突きつけられたように思えました。…そこからの記憶は、曖昧です。ただ、そのUSBを壊さなきゃって…そればかりで。ぐちゃぐちゃになったUSBを見て、私は逃げ出したんです。
……。………………。字森、さん。私、私…。あの子に、言わなくちゃいけない…。ごめんなさいって。許さなくてもいいから、謝らせて欲しいって。あと、あと…
本当は誰よりも、あなたの物語が好きだったって。
手の平に爪が食い込むほど強く拳を握りしめながら、蛇野舞が血を吐くようにして懺悔するのを聞いてーー字森は頭の隅で、今後自分のすべきことを淡々と考えていた。
筆崎には、絶対にこのことを知られてはならない。蛇野は彼女の幼馴染で、筆崎は彼女を信頼していた。真実を知れば、きっと理花はーー。
字森がそれを見つけたのは、忘れ物を取りに朝早くに部室に向かったからだった。忘れたのは今日提出の課題で、昨日の放課後から置きっ放しにしてしまったらしい。どうせならそのまま部室でやってしまおうと思い、かなり早めに来たのである。そうして錆びつく引き戸を開けて彼が目にしたのは、破壊されたUSBだった。
ーー犯人に関しては、なんとなく検討がついた。文芸部に居た頃の、蛇野の苦しそうな顔。嫉妬と憧憬がないまぜになったような表情を見れば、彼女がやったのではないかと想像するに難くないだろう。問題は、どうやってそれを誤魔化すかだった。
なにしろ時間がない。破損したUSBを隠すくらい大した労力ではないが、そうすればきっと筆崎はUSBの行方を探すだろう。そうなると、真犯人へ行き着く可能性も無いとは言い切れない。それでは駄目だ。そこで、焦った字森が思いついたのが、部室ごと破壊することだったのだ。
ボムは、元々別件で字森が火薬同好会に発注していたものだった。文芸部の部屋の引き戸が余りにも建てつけが悪く、最近はついに鍵まで閉められなくなってきたので、一度爆破して建て直してもらえば多少はマシになるのではないかと思ったのだ。火薬同好会に赴いたところ人が居なかったので、仕方なく手紙を部長の机に入れて帰ったのである。ボムの使用許可は後々筆崎に相談しようと思っていたのだが、急遽予定を変更することにした。教室ごと爆破さえしてしまえば、USBが見つからなくとも、爆発のせいにしてしまえる。万が一ボロボロのUSBを彼女が見つけても、ボムでやられたのだと言えば何もおかしくはないだろう。
そうして字森は、筆崎が忘れて帰ったUSBを取りに来る前にーー教室を爆破したのである。
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「…僕は、やっぱりロクでもないな」
字森が自嘲するように笑う。部屋はもう真っ暗だ。しかし、なぜか電気を点けようとは思えなかった。
「さっき蛇野さんに会って…彼女は、君に謝りたいと言っていたよ。自分がしてしまったことを、すごく後悔していたんだ。…それなのに、僕はあえて彼女に言わなかった。理花が…理花も、君の物語が好きだと言っていたことを…わざと教えなかった。…本当に、嫌な奴だ」
苦笑したまま、彼は続ける。
「僕は、怒っていたんだ。僕の好きな君の物語が、彼女に踏みにじられたことを。…だからあんなことで報復しようとするなんて、なんていうか、みみっちいよね」
筆崎はしばらく沈黙する。そして、幾ばくかの間の後、不意に問い掛けた。
「あんたは、なんでここまでしたの?」
字森はなんと答えるべきか、迷っているようだった。口の中でぼそぼそごにょごにょと言い訳じみたことを呟き、しかし、暗闇の中で自分を見つめる筆崎の視線に負けたのか、観念してぼそりと言った。
「…君に、傷付いてほしくなかった」
「………」
筆崎が再び黙った。席を立つ音がする。字森はそんな彼女に構わず、箍が外れたように喋り続けた。
「蛇野さんは、君の幼馴染で友人だった。彼女があんなことをしたのが君に知られれば、君がどう思うか、なんて…そんなの、僕にだってわかる。適当に犯人を捏造してしまえば、君が真相に辿り着くことはないって考えたんだ。だから、こんな嘘をついて…みんなにだって迷惑をかけて、それでも…。君が、傷付きさえしなければ、僕は」
「文人」
「ーーーーッ!」
ぱっ、と。世界が明るくなった。彼女が、字森の真横にあった電気のスイッチを入れたのだ。筆崎は、自分のすぐ目の前…顔がくっつきそうなほどの距離にいた。
「うわぁっ!えっり、理花!?」
驚きのあまり声を裏返らせる字森に構わず、筆崎は彼の後頭部をガッと掴んだ。お互いの額がゴチンとぶつかる。
「いったぁ!?」
「騒ぐんじゃないわよ私だって痛いわ!
ーーいい、黙って聞きなさい」
筆崎に一喝され、字森は思わず口をつぐむ。その様子に満足そうにしながら、筆崎は穏やかなトーンで話し始めた。
「それくらいじゃ、私は傷付いたりなんかしないわ。少し悲しくはあるけれど、きっと私もあの子を傷付けた。彼女が私をどう思おうと、私はあの子のことを、ずっと友人だと思ってる。だから今回のあんたのしたことは、正直言って徒労、無駄骨よ」
「と、徒労…無駄骨…!」
「…………でも、あんたがそうしようと思ってくれたことは、感謝するわ。こっ恥ずかしいけど…嬉しかったわよ」
「………っ、うん」
視線を外すことすら許されない至近距離で、彼女の言葉をゆっくり咀嚼する。言葉少なに告げられた感謝に、字森は思わず破顔した。相変わらず字森の後頭部に手を添えたまま、筆崎は小さく笑う。
「やっぱりあなたは…優しすぎるわね」
そのままおもむろに手を離し、彼女は数歩、距離を取った。先ほどまでの穏やかな空気から一転、いつものふてぶてしく邪悪な笑みを浮かべる。
「まあそれはそれ、これはこれ!あんたには今回の騒動の責任を取ってもらおうかしら!」
「だ、台無し!!!!いい雰囲気が台無しだよ!!!?」
一瞬にしてスンッと真顔になってしまった字森だが、一拍置いて観念したように苦笑した。
「…まあ、それでこそ理花だよね。僕も、他の人たちに迷惑かけちゃったし。自分に出来ることなら、何でも言ってよ」
「ふふ…言ったわね?後悔するんじゃないわよ。…ところで文人、あんた今までは、文芸部の活動って言っても製本とか雑務とか、そんなんばっかだったわよね」
「えっ?まあそうだけど…。それがどうかしたの?」
急に変わった話の流れに、字森は怪訝そうに首を傾げる。彼が入部したのは筆崎の文章に惚れ込んだからで、自分自身が小説を書こうとは考えていなかったのだ。
「ふふふふふふふまあ安心しなさい。そんなに無茶振りはしないわ。私があなたにお願いしたいのは………ーーーー」
彼女が悪い笑顔で告げたそれを聞いて、字森は硬直した。
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事件から、1週間後。
「無理無理無理無理書けない…オオカナダモの運命は僕が背負うには重すぎる……っ!!」
「ぐあーーーーッ思い出せない…ッ!前の私が何を思ってここを書いたのか…記憶が…無い……ッ!」
文芸部の部室で、部員の2人は雄叫びを上げながら、パソコンの画面と睨み合っていた。
1週間前、筆崎が字森にした“お願い”とは、「あんたの書いた小説を読ませて」という、よくわからないものだった。
彼女の真意が読めず困惑したが、自分に出来ることなら何でもと言ってしまった手前撥ねつける訳にもいかないと、渋々了承したのである。
あれから色々あった。火薬同好会やら演劇部やらに迷惑をかけたことを謝りに行くと、火村はカラッと笑って許してくれた。演劇部の部長と総監督からは引くほど詰られた。
…演劇部といえば。
「あ、あの…差し入れ、です…。よ、良ければ…」
そう言って紙袋を控えめに差し出したのは、2ヶ月前に辞めたはずの蛇野舞だった。
「あっ、ありがと〜。これ中身は何?」
「ヘチマサイダーゼリーのもち米添えです」
「なんでヘチマサイダー流行ってんの?」
「添え物の主張が異様に激しい」
事件の後、蛇野は筆崎に謝罪したようだった。蛇野は罪悪感からかかなりぎこちなく、まだ昔のように…とはいかないが、時折校内で2人で話している姿を見かけるようになった。最近は演劇部の活動の合間を縫って、文芸部の部室にも来てくれている。
「うっわヘチマサイダーゼリーじゃないですかぁ!?それ、あたしが買おうと思って諦めたやつですよぉ!?」
「どこから湧いたポメラニアン」
「ポメラニアンじゃねえっつってんだろ刺すぞ!!ごっほん、勘違いしないでくださいね〜?あなたたちに会いに来たわけじゃなくってぇ、うちの部員がいじめられてないか見に来ただけですからぁ〜?」
「あんたじゃあるまいしそんなことするわけないでしょこっちはポメと違って暇じゃないのよこの単細胞クイーンが」
「ノンブレスで悪口言うのやめてよこのサイコパス!!!!」
「あ、あの…犬井さん…私はいじめられたりなんかしてないので…というかむしろやった方なので…」
演劇部の介入で壊滅的に騒がしくなってきた。筆崎の破壊されたUSBだが、今まで書いた作品のデータは家にバックアップがあったため無事だったそうだが、応募用原稿はバックアップを取り忘れた為今から書き直しらしい。それを聞いた蛇野は土下座していた。
「ーーそういえば、聞きたかったんだけど。なんで僕の書いた話なんかが読みたかったの?」
ふと脳裏をよぎった疑問を、字森は筆崎にぶつけた。彼女なら金塊10トンでも要求してきそうだったので、ずっと不思議に思っていたのだ。
「そんなの簡単よ」
筆崎はいたずらっぽく笑った。
「文人が一方的に私のことを知ってるんじゃ不公平でしょ?私もあんたのことを知るべきだと思ったの」
「あんたの書いた物語で…あんたのことを、『すっごく好き』にさせてよね」
一瞬にして狼狽した字森が、咄嗟に口から出した無意味な母音は、爆音に遮られて届かなかった。また誰かが、校舎のどこかを爆破したらしい。
きっとこれからもボムを投げたり投げられたりしつつ、この爆音と白煙の中で、自分たちの平凡な日常は続いていくのだろう。
がやがやとうるさくなった部室を眺めながらそんなことを考えていた字森は、犬井に煽られてボムを投げつけようとする筆崎に気付き、彼女を止めるべく慌てて立ち上がるのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。この話は一旦ここで完結です。他の部活についても書きたい話があるので、短編として追加していくかもしれません。お付き合いいただきありがとうございました。