思い出したくない
その部屋で目が覚めたとき、自分がどこにいるのかすぐにわからなかった。
最初に感じたのは頭部の痛み、脈打つようにずきずきと襲ってくる。
誰かに襲われて昏倒していたようで、不安のまま周囲を見回す。ほのかにともった裸電球が部屋を弱々しく照らし、漆喰の茶色い壁を見せる。
地面についた手の平にひんやりとした板張りの床の感触がつたわり、体を起こそうと腕に力をこめる。
急激な痛みが両手を襲った。
両手にナイフを直接さしこまれたような激痛に、脂汗が吹き出る。
両腕の関節部分が真っ赤にはれあがり、おかしな角度に曲がっていた。
ふーふーと息を乱し、痛みから逃れるために体をよじらせようとしたところで、さらなる違和感に気づく。
両足がうごかず、視線をむけるとロープのようなもので縛られているのが見えた。
良く見るとそれは電源用の黒いコードのようで、どうしてこんなものを使ってと疑問がうかぶ。
なおも痛みは寄せては返す波のように体を苛むが、次第にさざなみのように落ち着いてきたころ、誰かの気配を感じた。
自分以外にも人間がいたのかと薄明かりを頼りに首だけを向ける。
そこには高校生ぐらいの制服姿の少女が壁を背にして座っている。
「……キミは、いったい誰なんだ? それに、ここはどこだろうか?」
少女は答えない。なんの感情も浮かばない両目でボクのことを見下ろすばかりだった。
目が暗がりになれてきたのか、少女の姿がぼんやりと見えてきた。
制服はボロボロでところどころ泥で汚れているようだった。
もしかしたら、この少女もボクと同様に何者かによってここに連れてこられた被害者なのかもしれない。
だんだんと状況がわかってくると同時に、新たな恐怖がわいてきた。
もしかしたら、こんな残酷な仕打ちをした犯人が同じ部屋にいる可能性に思い至る。
いるかもわからぬ犯人を刺激しないように、慎重にあたりに視線をめぐらせる。
湿り気のある粘着質の薄闇の中、いまにも何かが飛び出してくる恐怖におかしくなりそうだった。
あまり広くない室内には、コンビニの弁当や缶ビールが床の上に雑然と放り捨てられ、まぎれるように大きめの塊が2つ転がっているのを発見する。
じっと見つめるにつれて、輪郭がはっきりとしはじめそれが人間の体だと理解した。
二人とも血だまりの中に倒れピクリともしない。確かめたわけではないが、なんとなくもう事切れているというのがわかった。
犯人は人殺しもためらわない人間だとわかると、さらなる恐怖で頭がパニックになりそうになる。
早く逃げなければ、次に血だまりに転がるのが自分になるかもしれない。
「ねえ、キミ、お願いだ。この足のコードをほどいてくれよ」
こんな異常な雰囲気の中でも平静でいられる少女を不気味に思いながらも、彼女が唯一頼れる相手だった。
近くに犯人らしき人物はいないようで、いまのうちに両足を自由にしてもらう必要があった。
「頼むよ。キミもこんなところにいたくないだろう。ボクたちは協力し合えるはずだ」
動こうとしない少女に懇願すると、彼女はじっと観察するような目つきでボクを見下ろすだけだった。
淡い光を反射して揺らいでいる少女の瞳にみつめながら、だめなのかと諦めかけたときゆっくりと近づいてきた。
その動きは奇妙で、はいずるように両手を使ったゆっくりとした移動だった。
近づいてくるにつれて、彼女が何故動けなかったのかを理解した。
膝のあたりが血まみれで、応急処置のためであろう巻きつけたタオルが血で固まって黒ずんでいる。
「その足、大丈夫なのかい?」
心配になり具合を聞いてみるが、返事はなかった。
歩けば数歩の距離を数分かけてたどり着くが、ケガのせいかコードをゆっくりとほどいていくのがもどかしかった。
もしかしたら、いまにも犯人が姿を現すのではないかと気が気ではない。
「ありがとう。助かったよ」
こんな状況だったが少しでも少女に信頼してもらえるように、こわばった顔で笑みをうかべてみる。少女は無表情のままだった。
「早く逃げないと……。犯人はどうしてるか知ってるかな?」
少女は首を振るだけで積極的に何かを説明する気力はないようだった。
根気よく話を引き出すよりも、まずはここを抜け出すために玄関へと向かう。
扉についているドアノブを見てためらうが、折れた腕を無理に動かしてドアノブをひねった。
食いしばった歯の間から苦悶の声がもれ出る。
幸いドアに鍵はかかっていなかったようで、外に出ることに成功した。
扉をくぐった瞬間の開放感は、外の光景をみてすぐに霧散していく。
外は真っ暗で外灯などはなく、背後の建物からもれでる明りによって何本かの木とうっそうとした茂みが見えるだけだった。
虫の音がかすかに聞こえ、視線は山や木々の影にすいこまれていった。
とてもじゃないが、視界の効かないこんな森の中を徒歩で脱出なんて無理という絶望が心に重たくのしかかる。
夜の暗闇の中、探索を諦めて建物へともどることにした。
弱々しい電灯の明りに照らされた部屋だけが、今のボクにとって世界のすべてであった。
ボクを出迎える少女の視線は無機質なままで、まるで実験動物を観察する科学者のそれである。
「ねえ、キミ。どうやってここに連れてこられたか、覚えている? ボクは背後から殴られて気絶している間に連れて来られたみたいで、さっぱりなんだよ」
少しでも周囲の情報が得ようとしてみるが、少女はやはり無言のまま。
ただ、変化が少しあった。
その口元が釣り上げられ酷薄な笑みを形作っていた。それはまるで、滑稽な様子をみて苦笑を浮かべているような表情だった。
どうして、この状況で笑っていられるのかわからなかった。不気味だった。もしかしたら、犯人にひどいことをされたショックでおかしくなってしまったのかもしれないと同情心でごまかすことにした。
少女とのコミュニケーションは難しいと判断し、外部へ助けをもとめるための手段を探すことにした。
固定電話などはないようで、気が進まないが倒れている男たちの服のポケットも探してみた。
しかし、見つかったのは液晶がひび割れ、スイッチを押しても反応がないスマホだけだった。
部屋の探索が終わり何もできることがないと悟り、夜が明けるのを待つことにした。
フタをするように玄関扉によりかかって座る。背中に感じる硬い一枚の板だけが、犯人から身を守る城壁であった。
夜が明け、やわらなかな光が部屋を満たしていく。
犯人がいつ戻ってくるかわからない恐怖のせいか一睡もできず、ぼんやりとした頭をおこす。
待ち望んだ日の光の下で、建物周囲の探索を始めた。
ドアを細く開けて、恐る恐るあたりの様子をさぐる。外に出た途端、犯人とばったり出会うなんていうマネはごめんだった。
心持ち頭を低くし影に隠れるようにしながら、探索を始める。
どうやらここは森の中に立てられた小屋のようで、どこまで続いているかわからない木々によって外界から断絶されていた。
上を見上げても生い茂った木々によって空が半分しか見えない。
玄関の正面には木の間に隠れるように小路がのびていた。この小屋から続く道はこの一本だけのようで、これをたどっていけば外へと続く可能性が高かった。
しかし、道の先は木々によって見通しがきかず無限の奥行きをもっているように見えた。徒歩でどれだけかかるかわからず、見切り発車で出発するのは危険に思えた。
なによりも両手が使えないことが不安であった。
探索の途中、一台の車を見つけた。
白いワゴンカーで排気量もあるタイプだった。森の悪路も走っていくことができるだろう。
恐る恐る中をうかがってみたが、人の姿はないようだった。
これで脱出のための足にできると喜ぶが、折れた両腕ではハンドルを握ることはできそうもない。
ため息をつきながら車から離れようとしたところで、ふと疑問を感じた。
車が残されているならば、犯人は森の外に逃げたわけではないことになる。
周囲には人が住めるような建物はこの小屋以外にはなく、犯人の居場所がまったくの不明であった。
近くの茂みにでも潜んでいるのではないかと考え始めると、わずかな物音にも敏感になっていた。
「車は見つかった?」
小屋に戻ると少女から唐突に話しかけられた。
これが少女との初めての会話であったが、それはあの車を発見するタイミングをずっと待っていたかのようであった。
「……あったけれど、キミは知ってたの?」
「あなた、車の運転はできる?」
ボクの話に応じる気はないようで、少女は質問を重ねてくる。機械的で一本調子なしゃべり方だった。
「免許は持っている。だけれど、腕がこの調子で、ハンドル操作なんてできそうもないよ」
「それならいい」
なにがいいのかまったく分からないまま、彼女は腕だけを使ってはいずるように玄関に向かっていく。
「行くよ」
「どこへだい?」
「車」
まるで話すことを拒否するように必要最低限の単語だけでのやりとりだった。
車の前にたどりつくと、少女がポケットから車のキーをとりだし鍵を開ける。
ドアを開けると、なんだか変なにおいがした。
獣のにおいとでもいえばいいのかわからないが、その不快さに顔をしかめる。
「早く乗って」
彼女の指示に従い、運転席には座った。隣の助手席には彼女が座ろうとしていたが、上半身だけでよじ登ろうとする彼女はかなり難儀しているように見えた。
「ほら、手伝うよ」
「やめて! さわらないで!」
脇の下に両手を差し入れて持ち上げようとしたが、 鋭い悲鳴をあげて、少女はボクの手を振り払うように暴れだす。
少女の手がボクの腕に当たり激痛が走り、耐え切れず彼女の体を放り出してしまった。
地面に落ち、打ちつけたひじの先から血がにじみ出ていた。痛みで顔をしかめているが、再び一人で助手席に上ろうと必死に手を動かす。
運転席で居心地わるく少女の苦行を見ていること数分間、ようやく彼女はその体を助手席に収めた。
「それで、どうするつもりなのかな? さっきも言ったとおり、今のボクじゃ運転なんてできないよ」
「……あなたはブレーキとアクセルだけを踏むだけでいい」
そういって、彼女はポケットから取り出したエンジンキーを、身を乗り出して差込もうとする。
ボクに渡せば済むはずなのに、どこまでも彼女はボクのことを信用していないようだった。
汚れのせいでごわごわした黒髪が、ボクの膝の上でひろがり、そのうなじがみえた。
白い肌に浮かびあがるように紫色に変色した跡が首に巻きついている。それは、まるで首をしめられた痕のようだった。
エンジンが動き出し車内に重低音を響かせると、彼女はホッとした表情を見せる。初めて人間らしい表情を見た気がした。
「はやくして。ハンドルはわたしが動かすから」
「そんなの危ないだろう」
「あなたは足、わたしは腕」
彼女は硬い表情のまま、助手席から腕を伸ばしハンドルを握りしめる。
他に方法は思いつかず、慎重にゆっくりとアクセルを踏み出した。
車は森の中にのびる一本の道をすすんでいた。
ろくに舗装もされず見通しのない道は進みにくく、おぼつかない少女のハンドルさばきであわてて急ブレーキを踏むことが何度かあった。
道はまっすぐではなく右へ左へとうねり、体内の腸や食道を通っているようだ。
車の速度は遅く歩くような速度でのろのろと森の中を進んでいる。
いまだに所在が不明な犯人への恐怖から、後ろから追いかけてきているような気がしてしようがなかった。
ルームミラーに写りこむ木々の合間に見える暗闇が怖かった。
そんな濃密な時間が1時間たったあたりでようやく、森が途切れる。
アスファルトで舗装された道を見ると、日常に戻ってきたという実感がわき、緊張がぬけていく。
山あいをぬける道路を進み、道の脇にポツンとたつ公衆電話を見つけ救急車を呼び出した。
「よかった、これで助かるぞ」
「……そうね」
せっかく脱出できたというのに、少女の表情は暗いままだった。
サイレンを鳴らしながらやってきた救急車にのせられ、病院へとたどりつくと少女とはそれっきりとなった。
病院での処置後、入院することとなりベッドで寝ているところにスーツ姿の男性二人組みがやってきた。
まず見せられたのは警察手帳であった。
二人は刑事らしく、年配の男がもっぱら話しかけ、もうひとりの若い男が記録係として、後ろに控えてメモをとっている。
怪我の具合をいたわる言葉をかけられた後、あの小屋での状況を聞かれ、ボクはありのままを話していく。
気がついたらあの小屋で目を覚まし、男二人の遺体が転がっていたこと。そして、少女と協力して脱出したことを話した。
話している最中、聞き役の男はうなずくだけで特に口を差し込むこともしてこなかった。
しかし、次の日も、その次の日も同じように話を求めてきたため、苛立ちを感じていた。
「いい加減にしてください! もう何度も同じ話をしたはずです」
「お手数をかけて申し訳ありません。ただ、証言に確実性をとるために繰り返し聞くことが決まりとなっていますので」
刑事の男は慇懃無礼な態度で頭をさげる。その瞳の奥には、こちらの裏の裏まで見透かすように冷徹な光が点っていた。
そして、腕のギプスがはずれ退院する段になったところで、見慣れた二人組が出迎えに現れた。
今回は一緒に制服を着た警官まで一緒にいて、大層な出迎えだと舌打ちしたくなる。
「なんですか? もう話すことはないですよ。おかげで入院生活が退屈しませんでしたよ」
ここまでしつこくされるとは思わず、刑事相手とはいえイヤミの一つもいいたくなった。
「それよりも犯人はまだ捕まっていないのですか? 被害者として聞く権利はあると思うんですけどね」
「大丈夫ですよ。犯人は既に確保済みです」
「そうなんですか。それなら安心だ」
また犯人に襲われるかもという恐怖で退院するのが不安であった。
「さあ、行きましょうか」
しかし、刑事がとった行動は予想外であった。
病院の出口前にはパトカーが待機し、警官がボクの両脇を固める。
「ま、待ってください。これじゃあまるで、ボクが捕まるみたいじゃないか!」
慌てるボクの両腕はがっちりと取り押さえられ、パトカーの後部座席へと押し込まれる。
着いた先は警察署。
そして、再び始まる刑事との問答。
今までと違うことは、ボクが犯人であるという前提での質問だった。
何度も否定した。まったく身に覚えがないのだから。
ボクが仲間二人と共に、あの少女の帰宅途中を狙って攫ったこと。
ボクがあの少女にした行為。
ボクがあの少女が逃げられないように、両足の筋を切ったこと。
ボクが仲間割れを起こして2人を殺したこと。
「おかしいじゃないですか! だったら、なんでこの両手は折れていたんですか。ボクが自分でやったっていうんですか!」
自分で自分の腕を折る様子を想像して、あまりにもありえないことに思わず笑い声がでてくる。
しかし、返事はなく沈黙が部屋を満たす。
それは知っているが話せないといった類のものだった。
そこで一つの考えが浮かぶ。
あそこに居たのはボクと物言わぬ死体が二つ、そしてあの少女だけだった。
いるはずだった犯人がおらず、それがボクであったとしたら襲ったのはただ一人だけ。
「あの子が、やったのか……」
そして、思い出す。あの少女の態度を。
終始、じっと観察するように視線を向けていた。
話しかけても返事をすることはなく、ただ最低限のコミュニケーションをとるだけで、ボクを怖れているといってもいい様子であった。
ただただ、あの少女は自分が生き残るための手段としてボクという存在を生かしていたのだろう。
「ちがう……ボクは何もやっていない……。本当です。ボクも一緒に攫われてきただけなんだ!」
氷が解けていくように頭に浮かんでくるのは、少女を襲う自らの姿。思い出したくない、思い出したくない、思い出したくない……。
声を大にしながら無実を証明しようとするが、目の前の刑事の様子は最初に会ったときから変わらず冷静なものだった。
「それでは、もう一度最初から事件のことを話していただけますか?」