夕立と猫と恋と
今年の夏の初め、真っ青な空が気持ちのよいある日、我が家に一人の若い男性がお見えになりました。お名前は秀一さん。画家の卵さんだそうです。すらりとした身長に聡明なお顔、丸眼鏡がよくお似合いの、素敵な方でした。
私か姉、どちらかに絵のモデルになってほしいというお話でした。秀一さんは顔合わせをしたとき、私たち二人を見て、迷わず姉を選びました。当然です。姉は町一番の美人さんですから。
私と姉はあまり似ていませんので、比べられることは日常茶飯事。姉はいつの時も私に優しく、大輪の向日葵のように輝くような笑顔を向けてくれます。私はそんな姉が好きです。色々と複雑な思いがありましたが、とうの昔に諦めを覚えました。
それでも、秀一さんが私を見ても表情が変わらなかったことが、とても嬉しかったのです。大抵の方々は、姉より劣る容姿の私に残念そうな顔を向けますから。
それから一ヶ月後のことです。
私と姉は絵が描き終わった秀一さんを見送るため、玄関へ向かいました。すると引き戸の向こうから、ポツリ、ポツリと雨粒が。みるみるうちに激しく降り、あっという間に視界は真っ白、外からザアザアと音を聞こえてきます。
「ああ、これでようやく暑さが和らぐわ。この日本家屋は真夏でも風が通り抜けるような構造になっているけれど、さすがにここ数日の猛暑には参っていましたから」
姉が明るい声を上げました。今まで秀一さんの絵のモデルになっていたので、白地に色とりどりの朝顔柄の浴衣をまとい、お顔にはしっかり化粧を施しております。
流れで私まで金魚が泳ぐ薄い青の浴衣をばあやに着させられました。華やかで艶やかな姉と並ぶと、より一層自分が子供っぽく地味に見えるので、同じ装いをしたくないのです。秀一さんには、できるだけ良く見られたいのですもの。
私は外の様子を伺いながら、姉の言葉に頷きます。
「少しでも雨が降れば違いますからね。でも藍子姉様、お帰りになる秀一さんの足元が心配ですわ……」
「たしかにそうね。秀一さん、この後お時間は?」
「師匠の家へ帰るだけです。夕飯を師匠と奥様と食べる予定ですので」
秀一さんも困った顔をされています。画材道具やスケッチブックはもちろん、カンカン帽も白い開襟シャツも革靴も、全て濡れてしまうのは明白ですから。この雨は傘でも防ぎきれないでしょう。
秀一さんのお師匠様は日本画の大家で、私の父と懇意にしております。その縁で、お師匠様のお屋敷で住み込みで修行している秀一さんは我が家に訪れるようになりました。
姉は笑みを深めて、何か思い付いたように両手を打ちます。
「それでは、雨足が落ち着くまで我が家で菓子などつまんでお待ちくださいな。茜がお相手いたしますので」
「ね、姉様?!」
「ほら茜、秀一さんを南の座敷にお連れして。私は太助様にお手紙を書かなければいけないの。ばあやに茶菓子を運ぶよう、言付けておくわ。では失礼いたしますね」
私が慌てている間に、姉は軽やかに姿を消してしまいました。いきなり二人きりなんて、心構えができておりません。思わずうつむいて立ち尽くす私の耳に、小さな声が届きます。
「すみません、茜さんお忙しいでしょうに……」
はっと顔を上げると、恐縮そうに縮こまる秀一さんと目が合いました。私は咄嗟に力を込めて叫んでしまいます。
「そんなことありませんわ! 私、前々から秀一さんともっとお話がしたいと思っておりましたもの!」
「そ、そうなんですか?」
「……お、大きな声で失礼いたしました。あの、それでは、こちらへどうぞ……」
「は、はい」
羞恥に染まる顔を見られたくなくて、そそくさと先導し、秀一さんを家の奥へ案内しました。
南の座敷は我が家で一番広く、大切なお客様をもてなす際に使用します。
私は特に、庭に面した縁側が好きで、夏の夕暮れは団扇片手に青々とした草木を愛でに参ります。庇を大きく取っているので、今日のような激しい夕立にも屋内に雨が降りこむことは滅多にありません。涼むには打ってつけでしょう。
お気に入りの場所である縁側へ向かうと、すでに座布団が二枚用意されていました。そしてその間には……
「おや先客が」
「まあヨルったら」
一匹の黒猫がちょこんと丸くなっていたのです。私の愛猫のヨルです。
思わず同じ間で言葉を発した私たちは、顔を見合わせて笑い合いました。少し緊張がほぐれたように思えます。後でヨルにたくさんお礼を伝えましょう。
秀一さんに座布団をすすめ、私はその隣に座りました。ヨルはピクリとも動きません。よほどこの場所が気に入ったのでしょうか。耳の付け根や喉元を撫でてあげると、ヨルは気持ちよさげにグルグルと喉を鳴らします。
まだまだ夕立は収まる気配を見せません。庭の木々や草花には十分過ぎるほどの雨でしょう。時折吹く風は湿り気を帯び、すっかり涼しくなりました。
私はこの何気ない時間がとても愛しく感じました。お気に入りの場所で大好きな愛猫と心惹かれる方と過ごすことが、こんなにも幸せだなんて知りませんでした。
「素敵な名前だと以前から思っていましたが、黒猫だからヨルと名付けたのですか?」
秀一さんはヨルを驚かさないようにしてくださったのか、雨音で聞こえないと思ったのか、私のほうへ顔を寄せてそっと話しかけてこられました。こういった気遣いは普段からされていて、私が秀一さんを素敵だと感じる要因です。私はドキリと高鳴る鼓動を抑えつつ、平静に頷きます。
「ええ、それもありますが、この庭で初めて小さな鳴き声を聞いたとき、夜の闇に溶け込むように姿が見えず、しばらく探すのに苦労をしたものですから」
「何日もかけて子猫を探したのですね。だからヨルは茜さんに一番なついているのか。良かったなヨル、優しい人に見つけてもらえて」
「秀一さん……」
「そういえば、藍子さんがヨルになつかれたくて、大量に魚を買ってきてしまって、茜さんに必死で止められたって聞いたんですけど」
秀一さんのヨルを見つめる優しげな眼差しと楽しげな口調に、私は胸が苦しくなりました。そして口からぽろりとこぼれたのは、お会いしたときからずっと聞きたかったこと。
「秀一さんは、藍子姉様のことを好いていらっしゃるのですか?」
「えええ?! どうしました急に! 藍子さんはお医者様の太助さんとご婚約中でしょう」
大層驚いたようで、秀一さんは目を丸く見開いていらっしゃいました。私は逆に情けない顔を見られたくなくて、俯いてしまいます。
「絵のモデルを決めるときには真っ先に姉様をお選びになりましたし、姉様とは笑顔で話しているのに私には困ったような顔を向けられることが多いですし……」
「それはっ! 茜さんだからっ!」
「え……?」
私は言葉の意味がわからず、小首を傾げました。すると秀一さんは突然、ヨルを撫でていた私の右手をぎゅっと握りしめるではありませんか。
もちろん振りほどく訳には参りませんが、どうしたものかと見上げますと、やはり困った顔の秀一さんと目が合いました。しかしいつもと違うところが。
頬が、耳が、首筋が、真っ赤に染まっていたのです。
「初めて会ったとき、僕は、茜さんに、一目惚れ、して。絵のモデルを頼んだら、照れ臭くて、練習にならないと思い、藍子さんにお願いしたんです……」
「は……」
「その後もお会いする度に、心優しくかわいらしい茜さんに惹かれていきました。藍子さんにはすぐに気付かれました。ですから、ことあるごとに茜さんを呼んでくださり、僕が話す機会を作ってくださったんです。今日も、だからこその、この時間などだと、思います」
「そう、だったのですか……」
秀一さんが、私に、一目惚れを。
何だか体がふわふわと、まるで熱に浮かされたようです。
私は夢なのかもしれないと、秀一さんの手を握り返しました。あたたかく、がっしりとした手でした。
現実に、そこにある、愛しい人の手。
「改めて、聞いてください。茜さん、僕はあなたが好きです」
「私も……私も、初めてお会いしたときから、秀一さんをお慕いしておりました……きゃあ!」
「ミャウ」
「え、ヨル?」
私が秀一さんに抱き締められる直前、間にいたヨルが唐突に起き上がりました。そしてぐぐぐっと伸びをして我関せずとばかりに縁側から外へ出ていきました。
「わあ」
「あら」
そのとき、夕立がすでに止んでいて、雲間から美しい夕暮れ時の空がのぞいていたことに、私と秀一さんは同時に気付いたのです。
「きれいな茜空ですね。今度はこの空を背景に、茜さんを描かせてください」
「はい。喜んで」
照れ臭そうに頭をかく秀一さんを見て、私は幸せを噛み締めました。