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「なんなんだよ、まったく……」
少年の呟きが通路の闇に響く。
先程まで広間に倒れていた少年は、ようやく体を動かせるようになった。
そのまま広間を出たものの、迷宮のような通路の上で、早々に迷っていた。
すでに小一時間が経過しようとしているが少年はいまだに、あの少女はおろか、誰一人ともすれ違っていない。
逃げ出そうとしている少年からすれば、幸運この上ない。しかし、ここは恐らくは品位ある洋館だ。そしてあの少女は所謂お嬢様で、そこに仕える従者も多くいるはずである。
それなのに人の気配がまったくない。
この館にはあの少女しかいないのだろうか、それともやはり偶然居合わせないだけなのか、もっと別の理由があるのか。
いずれにせよ、あの少女の手のひらで踊らされているような気がした。
そんなことを考えていたときだった。
少年の視界に人影が見えたのは。
暗がりに紛れてわかりづらいが女性のようだ。
少年はようやく見つけた人の気配に安堵する。だがそれと同時に、見つかって面倒ごとになる前に早く逃げてしまおうとも思う。
少年は女性に背を向けて逃げようとするが、慌ててしまったため、あろうことか躓き、大きな音と共に転倒してしまう。
もちろんそれに女性に気付かないはずがなく。
「大丈夫ですか!?」
よく通る声をあげて、パタパタと少年のもとへと駆け寄ってくる。
屋敷の使用人が失敗したと勘違いでもしたのだろう。
少年が早く立ち上がろうとする。しかし、思うように四肢に力が入らず、身体を起こすことが出来ない。
あの広間での倦怠感がまだ抜け切っていないらしい。少年は歯噛みする。
そうこうしているうちに、足音はどんどん近づく。そして、少年を見下ろす位置に女性はいた。
その位置に来てようやくおぼろげだった女性の姿が鮮明になる。
漆黒の給仕服に包まれた純白の肌。そして、給仕服と同じ色の髪と瞳。髪は長く艶があり、目はきりっとしている。年のころは少年よりも二、三ほど上か。また、給仕服の腰の部分が絞られている関係上、その大きな胸が強調されていた。
「あなたは…」
その女性が少年を見るなり怪訝な面持ちを見せる。
それはそうだ、見ず知らずの人間が敷地内にいれば誰だって不審に思う。
これはいよいよ絶体絶命かと少年は思う。まずは何者かどうかを吐かせるための拷問をさせられるのだろうか。
「あなた、新しくお嬢様の眷属になった方でしょう?」
しかし、少年の予想とは裏腹にいきなり核心を突かれてしまう。
少女の問いかけは正解ではあるが、首を縦に振ったところであの少女のところに連れていかれてしまうに違いない。
「いや、あの、僕は通りすがりの人間なんで」
少年は仕方なくそう言った。間違ったことは言っていないはずだと、自分に言い聞かせて。
このまま誤魔化して、早いところ逃げ出そうとする少年に、女性は笑顔で一言。
「つまりは正解、ということですね」
「はい?」
女性の言葉を理解できず、少年はつい間の抜けた返事をしてしまう。
「言ってる意味がわからない、そんなお顔ですね」
女性は、少年の内心を察して微笑を浮かべる。
「私とお嬢様がこの館に二人きりになってから、館の周辺も含めて、人間が訪れたことなどありません」
女性の言葉に少年は言葉を失う。もっと沢山の執事や家政婦がいるはずだと、思い込んでいたからだ。
「あなたも見ませんでしたか? この館を取り巻く霧を」
忘れるはずもない。自分の精神をとことんまですり減らしたあの霧は。
「本来であれば、あの霧が通るものを惑わせ、この館には一切来ることが出来ないようになっています」
そこで言葉は一度切れた。訪れる静寂。女性の品定めするような視線は少年に真っ直ぐ向けられている。
「ですが、あなたは来ることができた」
視線は重なったまま。
「なぜかは分かりませんが、それはあとでゆっくり調べれば良いでしょう」
そう言って女性は少年の肩に向かって手を伸ばす。
捕まるまいと少年がダメ元で足に力を込める。すると先程の倦怠感が嘘のように体が持ち上がる。少年はその勢いのまま、女性に背を向けて駆け出した。
しかし、ほんの少し走ったところで、何かに足をつまずいてあっけなく転倒。そのまま地面に体を打ち付ける。
痛みに顔をしかめながら少年が振り替えると、少年をつまずかせたと思われる足が分岐通路の奥から伸びていた。
そのしなやかな脚線美に続くように漆黒の給仕服が現れる。
「え」
少年の口からそんな声が漏れる。ありえないものを見た、そんな表情で。
少年を転ばせたのは、つい先程まで少年の背後にいたはずの女性そのものだった。
仮に別の通路を使って少年の前に回り込んだとしても、疲れたような表情を浮かべるなり、肩で息をするなりしてもいいはずだ。
なのに、あの微笑を浮かべたまま、女性の息は全く乱れていない。
まるで瞬間移動でもしたかのような出来事。
「どちらに行かれるおつもりですか?」
女性が問いかけてくる。だが、少年は答えるどころではない。
目の前にいる得体のしれないものから逃げ出すように、今度は反対方向へと駆け出そうとする。
しかし、振り返った先には、またも漆黒の女性が変わらぬ微笑を浮かべていた。
その光景についに少年の腰が砕ける。へにゃりと尻餅をついた少年の顔がみるみる青ざめていく。
まただ。また一瞬で移動している。
もはや少年の頭には疑問符すら浮かばない。
完全な思考停止。
「そんなにここから逃げ出したいんですか?」
再び問われるが、少年は答えない。答えられない。
体が動かない。恐怖にすくむ。
あの少女のときと同じだ。
自身の理解の範疇を超えた、わけのわからないものに恐怖し、身体が震える。
目の焦点は合わないし、呼吸もどうしようもないくらいに暴れている。
「すっかり怯えちゃったかしら」
困ったように溜息をつく女性。少年はそれを認識できない。
もういっそ意識を手放そうと少年の頭が諦めかけた時だった。
「!」
不意に、手にぬくもりが宿った。
少年が自分の手に視線を向ける。そこには自分のではない手が添えられ、包まれていた。
その細い指先を辿り手の主の顔を見ると、やはりというべきか、漆黒の女性が微笑を浮かべていた。
「怖がらなくても大丈夫ですよ」
慈悲に満ちた声。
いつの間にか、震えは止まっていた。
漆黒の瞳を見つめたまま、少年は安堵の溜息をつく。
黒い魔物だと思っていたのに、いつの間にか優しい女性へと変わっていた。
「落ち着きましたか?」
少年は首肯する。
「それはよかったです」
そう言って、女性の手が離れる。
必然、少年の手からぬくもりが消え、少年は思わず声が漏れそうになるのを抑える。
そんな少年には気付かず女性は少年の背後へと回り込む。
今度は一瞬ではなく、しっかりと歩いている。
そして突然、視界が真っ暗になる。
少年は一瞬慌てるが、顔を覆うぬくもりで、視界を遮るものの正体がわかった。
先ほどよりも近い位置にいるためか、女性から心地よい香りが漂っていた。
「少しだけ、このままで我慢してくださいね」
女性の吐息が少年の首筋に掛かり、少年の口から妙な声が漏れてしまう。
それを了解の意図と捉えたのか、少年の背後から「いい子」という声が聞こえた。
「お嬢様もお待ちになっているようですし、早く戻るとしましょう」
「」
少年がその言葉の意味を訊ねるよりも早く異変は起きた。
突如、少年が浮遊感を感じたと思えば、次の瞬間にはまるで重力の嵐にでも巻き込まれたかのように、平衡感覚がめちゃくちゃに振り回される。
こみ上げる嘔吐感。ぐるぐると掻き回される脳みそ。
意識が飛ぶか飛ばないかのところでようやく脳を揺さぶる激しい何かが消えた。
「もう大丈夫ですよ」
その声とともに、少年の顔を覆っていたぬくもりが消える。少年の視界を遮っていた手が離れたのだ。
しかし、何故か視界は晴れないまま、おまけに浮遊感が抜けきっておらず、少年の身体が傾いていく。
だが倒れる前に何かが背中に当たり、それが少年の体を支えとなった。
背中に触れているものはとにかく柔らかく、どちらかといえば支えられているというよりは、包まれているの表現が正しい。
「あら」
その驚いたような声は背後、つまりはあの漆黒の女性から出たものである。
鮮明になりつつある思考で、少年はその声と背中に感じる柔らかさから、自分が何に寄りかかっているのか気づく。
気づいて戦慄する。
思い出されるのは広間での出来事。文字通り死にかけた恐怖も蘇る。
開きかけた目が固く閉じられる。恐怖に心がすくんで開かないのだ。
脂汗がだらだらと垂れる。どうしようもないのにどうしようかと少年は考える。
そして静かに肩を掴まれる。誰に、かは確認するまでもない。
殺される! 少年はそう覚悟した。
だが、肩を掴まれたまま引きちぎられたり、重力の嵐に襲われたりということは特になかった。
ほんの少しだけ肩を掴む力が強くなり、少年の身体が起こされる。
「もう、しゃんとしてください」
どこか素っ気ない声で女性が言う。なんだかよくわからないがどうやら命拾いしたらしい。少年は安堵する。
全身の緊張が解け、固く閉じていたまぶたも開く。
きつく目を閉じてぼやけた視界が、徐々にはっきりとしていく。
鮮明になった視界の真ん中。そこにあの、蒼白の少女が椅子に座っている。
「ごきげんよう眷属。さっきぶりね」
少年は絶句。
少女は無邪気な笑顔を浮かべているが、少年には悪魔のそれにしか見えない。
「元気してた?」
そんなはずがない。
この少女のせいでどんな目にあったか。
今もきっと自分の命を狙っているに違いない。胸の仇を討つために。
「なんだか随分怖がってるみたいだけど、何かしたの?」
蒼白の少女が首を傾げる。
「なにもしてないことはございませんが」
漆黒の女性は一度そこで区切り、少年の顔を覗き込む。少年はそれに気づいた様子もなく、一点に蒼白の少女を見たまま震えている。
「明らかにお嬢様に畏怖しているようですが」
「はっ」
蒼白の少女は嘲笑する。
「そりゃまあ、槍まで出されて殺されそうになったら子犬のごとく怯えもするわよね」
「そんなことをしてたんですか」
少しだけ呆れた表情を浮かべる漆黒の女性。
「だって、そいつに胸を触られたんだから当然の報いでしょ」
「そんなことをしてたんですか」
少年は後ろめたい経緯をあっさりと暴露されてしまい顔面蒼白。漆黒の女性の表情も明らかな怒りで冷める。
「失望しました。ごきげんよう」
漆黒の女性からどす黒い殺気が溢れ出す。殺気に触れた少年の体は硬直。
突然の死の気配に失禁しそうになるその刹那。
「別にいいのよ」
蒼白の少女が一言。たったそれだけで、充満していた殺気が霧散する。
「お嬢様?」
納得のいかない従者は主人に視線で説明を求める。
「事故だったし、私は特に怒ってないわ」
「ではなぜ」
「それでも、わざわざ槍まで出して殺そうとしたのは、私が眷属を殺すことが出来ないと分からせるためよ」
「なるほど」
黒き従者は納得したようで、残り香として漂っていた殺気も完全に消える。しかし、少年は全く理解できていない。殺すことができないのなら、なぜそんなことをしたのか。
「私の眷属だと思い知らせるためよ」
少年の表情から察した少女が簡潔に答える。
だが、それがなんだというのか。
「言ってなかったかしら? 眷属は主人の命令には絶対服従なのよ」
聞いていない。というか、そんな馬鹿なことがあってたまるか。
「本当よ。でなければとっくにあんたはその子に八つ裂きにされてたわよ?」
その子もあんたと同じだから。そう少女は続ける。
先程あっさり殺気を消した割には不服そうな表情を浮かべていた女性のことを少年は思い出す。
あれはそういう理由か。しかし納得したわけではない。言葉ひとつで人を操るなどありえるはずがないのだ。
「つまり、私に絶対服従だから逃げ出すことが出来ないというわけなんだけど」
そんなこと、
「信じられない。って顔に書いてある。まあ、無理もないけど」
蒼白の少女はどこか愉快そうに笑う。
「あの頃と同じね、ウタハ」
「いくらお嬢様でもそれ以上は口を縫いますよ」
「あら怖い」
今度はけらけらとおかしそうに笑う少女。そして少年に目を向ける。
「言って信じないのなら、直接身体に教えるまでよ」
瞬間、少年の背筋に悪寒が走る。この少女は今から自分に何かを命令しようとしている。おおよそろくなことではないだろう。
そして、残念なことに、少年の予想は当たっていた。
「舐めなさい。私の足を」
少年が耳を塞ぐよりも、少女のその言葉が耳に入るのが早かった。
逃げようという意識とは真逆に、少年の身体は少女へと向かってゆっくりと歩き始める。
「ちなみに仮に耳を塞ぐことができていたとしても意味ないわよ。私の命令は言霊。声が聞こえようが聞こえまいが、近かろうが遠かろうが、命令は魂に直接伝わるの」
どんな理屈なんだと、自由のきかない体で悪態をつく少年。
「ほら、早く来なさい」
少女の言葉が脳に届き、全身に痺れが走り、少年の歩く速度が上がる。
「ね、抵抗できないでしょ?」
少女は楽しむよう口調でそういうと、おもむろに右足を持ち上げる。そして細く小さな指先を、靴下に手をかけて、それをするすると下げていく。
あらわになった少女の美しい脚に少年は近づきながら、しばし見とれる。




