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メイガス×クロス  作者: 夢見鶏
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湖上の神都 Ⅰ


「それでね!お父さんがね!」


 二人掛けの椅子が対面式となっている個室の一つ。そこには明るい声が響いていた。

声の主は小さい少女だ。


 全身を使ってハオリに何かを伝えようとする様は、頭につけられた大きなリボンが一緒に揺れるのも相まって微笑ましい光景と言える。


 ついさっきまでは、先日食べたという郷土料理の魚のスープについて熱心に語っていたのだが、話題はいつの間にか彼女の父親についてのものへと移り変わっていた。図書館の司書をしているという話を聞きハオリはうんうんと頷いて見せる。


「そうか、そうか。それはすごいお父さんだな」


 黒髪を短く切りそろえたハオリの人相はどこからどう見ても好青年そのものだ。見ず知らずの幼女の話にも嫌な顔一つせず付き合う様子はまさしく模範的な好青年といえるだろう。しかし、さすがに、その顔にはかすかながら陰りが見られ始めていた。


 懐に忍ばせた懐中時計をちらりと覗き見てみれば、目の前の少女の話を聞き始めてかれこれ二時間もの時間が過ぎていることが分かった。


 これがどこぞのおっさんであれば速攻で寝たふりを決め込むところだが、相手がこのような小さな子どもであれば無下にはできない。

さらに言えば子どもの隣に座っている母親が申し訳なさそうにこちらを見ているのに気づくと選択肢などないようなものだった。


 現在、ハオリたちが乗車している大陸鉄道は、その名の通り、大陸を東西に分けて運行している巨大鉄道だ。

ここ数年で目覚ましい発達を遂げた科学技術を駆使した最新の移動手段は、ちょっと背伸びすれば一般の市民でも使える便利な交通手段として注目の的となっている。

しかし、その余りの人気ぶりに指定席は向こう半年は満席となっているらしく、相席も珍しいことではない。


 そんな超人気車両の一室をなけなしの財布を叩いて、背伸びどころか垂直飛びするような無理をして二人で一室を貸切ったまではよかった。これでだれにも邪魔されずに惰眠をむさぼれると意気揚々と乗車したのが三時間ほど前だ。


 誰に邪魔されることもない空間で、早々に昼寝でもと思った矢先、目の前にいる少女とその母親が現れたのだ。

どうやら鉄道側の手違いで手配していた部屋が使えなくなっていたらしい。


 もともと四人用の個室であるしスペースに余裕はあった。どうしたものかと思ったが、少女の顔に疲れが浮かんでいるのを見るとどうしようもなかった。仮に彼女たちを見放すと目覚めが悪くなりそうだったのだ。


 しかし、その判断がよろしくなかった。


 席に着くや否や、この少女の喋ること喋ること。顔に浮かんでいたはずの疲労も吹き飛んだようでそこから約二時間彼女のおしゃべりに付き合わされている。


 個室には彼だけでなく、相棒であるシルフィーも座っているのだが、こちらは鉄道に乗り込む直前に買ってやった本に夢中で回りに対して一切反応しない全自動読書装置と化してしまっている。

結果として、ハオリは一人で彼女の相手をしなければならなかったのだ。


 適当に相槌を打ちながら、ハオリはこっそりと欠伸をかみ殺す。

窓から燦々と降り注ぐ太陽の光に目を細めながら景色に目を向けると、ようやく味気ない山岳地帯を抜け緑が目に入るようになってきた。

 そして、その緑の間からこの地域を象徴する青色が見えるようになる。


 窓を少し開けると、海沿いの風とは違う、柔らかい風が個室の中へと吹き込んできた。


「へぇ、これは……」


 思わずそんなことを呟いてしまうくらいには見ごたえのある景色だった。


「へへん!すごいでしょ!」


 息を飲むハオリに、少女は自慢げに胸を張ってみせる。

目の前に広がるのは広大な湖だ。


「そうだな。確かにびっくりしたよ」


 湖はここが内陸地にあるにもかかわらず海が広がっていると錯覚する程度には広い。

遥か彼方に見える岸辺のさらに奥に広がる広大な山々の緑と透き通った湖の青のコントラストはひたすらに美しかった。どことなく神秘的な雰囲気を持っている湖を眺めると、なるほど、これから向かう場所の異名もあながち的外れではないと思ってしまう。


『湖上の神都』


 それがハオリたちが向かう目的地、ソロモニアの首都の異名だ。




「ごめんなさいね、この子話し出すと止まらなくって」


 それから数十分後、糸の切れた人形のように眠る少女の頭を撫でながら、母親は頭を下げた。


「いえ、まあ、おかげで退屈せずに済みましたよ」


 少し疲れをにじませつつ苦笑する。

一人っ子である羽織も、シルフィーと出会ったあとのこの数週間で子供の相手には相棒のおかげで慣れたものだと勘違いしていた。

しかし、よく考えてみるまでもなく相棒は特殊で全く子供らしくないのだ。本物の子供のエネルギーを完全になめていた。


「そういっていただけるとありがたいわ。お連れさんもごめんなさいね。うるさかったでしょ」


 その言葉にも反応はなく、ページをめくる音だけが室内に響く。ハオリは溜息をつきながら母親に頭を下げた。

事情があって頭からすっぽりとフードを被っているシルフィーは表情が全く見えない。だからこそ、母親も余計に気を使っているようだった。最も、フードがなかったとしても感情に乏しい彼女の考えていることは読みにくくはあるのだが。


「こいつは、集中すると周り見えなくなるので特に気にしてないと思いますよ。むしろ、すみません」


 言いながら頭をポンポンと叩いてやるが、羽織の言葉通り彼女は触られているとにすら気づかずに読書に没頭していた。


「いえ、そう言うことならいいのだけれど…。何だか若いのに旅慣れていらっしゃるみたい。兄弟?」


 その質問にハオリは言葉を詰まらせる。


「え、その、まあ、そんなもんです」


 余り突っ込まれてボロが出ても困る。

相棒はフードこそ被っているが顔立ちが似ていないことは少し見比べればすぐにわかることだ。しかし、親子というにはハオリが若すぎるし、恋人といえばハオリは白い眼で見られることとなる。兄妹と答えるのが一番無難なのだ。


 ハオリは速やかに話題転換を図ることにした。


「娘さんからもレクチャーを受けましたが、『湖上の神都』は俺らが思っていた以上に賑やかなところみたいですね」


 大陸の西端にある『湖上の神都』。

ソロモニアは、大陸にある四大国のうちの一つだ。

他国の技術でもある大陸鉄道をいち早く取り入れていることからも分かる通り、他の国と比べるとかなり柔軟な思考を持った国だ。そして、その国名と同じ名を冠する都、ソロモニアは大陸鉄道の西の終着地点にあった。


 現在、鉄道が走っている横に広がる広大な湖を活用した産業が盛んな場所で、特に漁業と水力を使った紡績業は他国でも評判だ。


 名物は湖でとれる水産物を使った魚のスープと、質のいいシルクのシャツ。

そして、もう一つ。ソロモニアの目玉ともいわれているのが、大陸中の本がすべて収められているとの触れ込みの図書館塔だ。


 今回のハオリたちの目的もこの図書館塔にあった。


「そうね。年中賑やかなところだけれど、今年は特に賑やかね。何といっても『継承祭』があるから」


「『継承祭』ですか」


それは先程、女の子の説明の中にも何度か登場していた言葉だ。


「あなたたち『ソロモン様』はご存知よね?」


「ええ、まあ、聞きかじった程度ですけど」


「―『ソロモン』」


 突然、ハオリの横から声が発せられた。

パタンという音ともに本が閉じられ、読み終わった本の表紙からハオリに目線を移す。

買うときは気づかなかったが、その本のタイトルは『ソロモニアの今昔物語』だった。

児童向けではあるものの、それなりの厚さを持ったその本には、ちょうど今話題に上がったことについて書かれていたらしい。


 よく見てみれば鼻が少々興奮気味にピクピクと動いている。どうやら読了した本を気に入ったようだった。


「『召喚戦争』の時代に召喚された『始まりの魔王たち』の一人。『西の魔王』と呼ばれており、召喚で呼び出された魔王でありながら、自らも召喚術を得意とした王で、召喚において右に出る者はいない王」


 淡々と辞書を読み上げるような調子で、しかし、どこか得意げに説明するシルフィ―を見て目の前の母親はポカンとした表情を浮かべたがすぐに顔をほころばせた。


「そう!そうなのよ。まだうちの子とそんなに変わらない年頃に見えるのに物知りな妹さんね」


 その言葉にフードがかすかに揺れる。おそらく首をかしげているのだろう。

しばしの間の後、手を小さく上げて


「訂正をお願いします。私はこのお方の妹ではなく下ぼ」


「おうおうおう!物知りで偉いなシルフィ―!『あ・に』は鼻が高いぞ」


 とんでもないことを口走ろうとしたシルフィ―の口を押えながら、頭をフードの上から撫でまわす。ついでに耳元に口を近づけて囁く。


「このバカ!人前でそういうこと言うと誤解されるってこの間教えただろうが。いいな、俺とお前は兄弟だ」


シルフィ―はコクンと頷く。


「あらあら仲がいいのね!」


 兄妹のコミュニケーションだと思い、微笑む母親を見てハオリは乾いた笑い声をあげる。

誤魔化せたことにホッと胸をなで下ろしつつ先程の話を続ける。


「そのソロモン様の『継承』が今年行われるんですね」


 如何に魔王と呼ばれる存在であったとしても、永遠の命を持つという訳ではない。

中には普通の人間よりも長生きする者もいるらしいが、その生には例外なく終わりが訪れる。

どんなに魔道を極めようとも未だ不老不死という悲願には誰も至ってはないのだ。

故に、次の王への引継ぎが行われるというのはさほど珍しいことではない。


 とはいえ、それを行事として行っている国というのはおそらくソロモニアくらいだろう。国風もあるのだろうが、他国では継承は国家最重要機密として行われている。


「前回、『承継』が行われたのはもう二十年以上前なの。私がまだあなたぐらいの年齢の時だったけれど今でもよく覚えてるわ」


母親は当時を思い出すように目を閉じる。


「『継承』は図書館塔で行われるの。屋上にある儀式上で、現ソロモン様から次のソロモン様にペンダントを渡すの。それで、そのあとに次のソロモン様が皆の前で自分の召喚術を披露されるのよ。私の時は現ソロモン様であるクラリス様がみんなの前で術を披露してくださったわ」


「ソロモンの召喚術と言うと七十二柱の悪魔召喚ですよね」


「そう!私たちの国を守ってくれるから悪魔さまって呼んでるんだけどね。屋上に眩しい光が現れたかと思うと空中に魔法陣が現れてね。それで、空からバラが散ったかと思うとラクダに乗った綺麗な女の人が現れたのよ。ソロモン様も大層お綺麗なんだけれど、悪魔さまもすごく綺麗だったわ」


「ラクダに乗った女というとグレモリーかな」


呟くように言った言葉は母親に聞こえていたらしい。母親は手をパンと打って笑顔になる。


「なんだ、お兄さんすごい詳しいのね!私でもうろ覚えなのに。確かにそういう名前だった気がするわ。でも、特徴で名前まで分かるなんて学者さんか何かなのかしら?」


完全に藪蛇だった。知らず知らずのうちにつぶやきが声に出てしまうのはハオリの悪い癖だ。純粋な好奇心からの質問ではあったが、ハオリは自分のうかつさを後悔する。


「あー、えっと、そ、そうだ!実は僕たち召喚学について調べものをしているんです。世界一の技術を持っておられるであろう『ソロモン』様にお話しを聞けたら、勉強になるだろうなと思いまして」


 即席の理由付けとしては中々だろう。

何せ完全な嘘ろ言う訳でもないのだ。

何とかこれで乗り切ってくれとハオリが願う前で母親は信じられないものを見たように目を見開いた。


 やっちまったか、と冷や汗をかくハオリの手が突然両手で握られた。


「まぁ、まぁまぁまぁ!勉強熱心なのね。どうりで妹さんも博識なはずだわ。本当に、うちの子にも見習わせたい」


 興奮した面持ちでそういう母親を見てハオリはほっと一息つく。

横でおそらくキョトンとした顔をしているであろうシルフィ―に心中で礼を言う。


「でも、そうねえ。さすがに普通の人が『ソロモン様』に謁見というのは少し難しいかしら」


ハオリとしては口から出まかせだったのだが、母親はたいそう申し訳なさそうに言う。


「やっぱりそうですよねー。残念だなー」


 などと言いながらシュンとしたフリをする。

隣で何か言いたげなシルフィ―に必死でアイコンタクトを送ることも忘れない。


「あ、でも公式の場でなければ、運が良いいと話せるかもしれないわ!」


 そんなハオリを気の毒そうに見つめていた母親はふと思い出したようにそう言った。


「と、言いますと?」


まさかくじ引きで謁見が行われたりするのだろうか。


「実はね。次のソロモン様はお忍びでよく町にいらしゃってるらしいのよ」


「らしい、ですか」


 母親の話を総合するとこうだ。

次のソロモンとなる人物はたいそうお転婆な娘さんで、たびたび変装しては都内のパトロールをやってくれているという噂が流れているらしい。


 なぜそんな噂が流れるかというと、困った人の前に現れては、不思議な力を使い解決していく少女の目撃談が絶えないからとのこと。

それも一件や二件ではなく大量に、だ。


 ある時は、馬車の下敷きとなった子どもを助けたり、また、ある時は無くなった結婚指輪を探したり。


 些細なことから割と大きなことまで、話は様々だが巨大な本を抱えた女の子であるということだけは共通していた。

そこまで聞いてふと疑問に思う。


「ソロモン様の子供が次のソロモン様という訳ではないんですか?」


 異能の力は誰でも使えるようなものではない。

何よりも重視なのは血統のはずだった。


「それが残念ながら、クラリス様はお子さんに恵まれなくてね。どうやら、どこかの分家の子供を養子にされたのよ。で、その話があったのが一年くらい前でね。その子はまだお披露目されていないんだけど、どうやらそのお披露目と継承式を一緒にやるみたいで」


「なるほど」


召喚術を使える人間はそう多くはない。


正しい使い方をすれば誰かを助ける力となる術も、使う人間によっては容易に人殺しの道具になりかねない。

そして、『召喚戦争』では多くの場合が後者のためだけに使われた。

以降、そのようなことが起こることがないように四国はお互いにこれ以上の召喚を行わないという条約を結んだのだ。


つまり、現在、召喚術を使えるのは過去に召還を行ったものから、血や技術を引き継いだものに限られる。

そして、その者たちは例外なく各国によって管理されていることとなっている。


ソロモニアももちろん例外ではない。

であれば登録されているはずだ。で、あれば突然現れるというその女の子の正体もおのずと絞られてくる。何せ、身元不明の人間が召喚術を行使しているのに放置されているなどということはありえないからだ。



「あ、そういえば…」


 母親は、バックから一枚の紙を取り出すとハオリに手渡した。

目を通すとそれは『継承祭』の開催告知と演目表だった。

華々しいデザインで書かれたその文字の羅列を上から見て行き、ある一点で不意に吹き出してしまう。


「どうかした?」


「い、いえ。その、これは何かなって」


 そう言って指さしたのは紙の端に書かれていた一つの絵だった。

四本の脚があるということは動物なのだろう。

が、不思議なことに推測できるのはそこまでだった。

ミミズがのたくったかのような弱弱しいくせに、圧倒的な禍々しさを放つその謎の生物は、たぶん人間ではないだろうということ以外は全く分からない。

初めは今、目の前で寝息を立てている女の子が書いたかと思ったが印刷されていることから、原本の時点でこの謎の生物は既に存在していたということになる。それにこんな小さな子がこの暗黒生物を生み出したとは信じたくない。


「学者さんでもわからない?私たちの間でも不思議がられていてね。随分禍々しいからすごく話題になったんだけど、これ次のソロモン様の悪魔さまなんじゃないかって噂でね」


「なんかこいつが既に魔王よりも強そうなんですけど」


微笑んでいるようにも見える謎の生物は、間違っても幸福は運んできてくれなさそうだった。


「でも、私たちの国を守っているのは悪魔さんたちなんだからむしろ禍々しければ禍々しいほど幸福を呼ぶんじゃないかって話になってね」


「は、はあ。確かに道理ですね」


 横から食い入るようにしてチラシを覗き込んでいたシルフィ―にそれを渡してやると鼻息を荒くして読み込み始めた。彼女はいわゆる活字中毒なのだ。本でなくとも文字が載っているものを与えてやれば基本ご機嫌である。


 その様子を微笑ましそうに眺めていた母親の顔が少し曇った。


 娘の髪を触りながら申し訳なさそうに言う。


「これだけ自慢げに説明したあとににこういうこと言うのもなんだけど、もし『継承祭』を見て回るのならくれぐれも気を付けたほうがいいわ」


「と、言いますと」


少し迷ったようだったが、言葉を選びながら、母親が説明してくれた。


「なんでも『ソロモン』様を快く思ってない連中が『継承祭』を破壊するって予告があったらしいのよ」


ほんの一瞬だけ、ハオリの目が鋭い光を帯びたことに母親は気づかなかった。

いかにも不安そうな青年を装って母親に再度尋ねる。


「詳しく聞かせてもらえますか」


「ええ、実は――」


 と、その時不意に車両が大きく揺れた。


 その揺れでシルフィ―が無抵抗のままハオリの胸に突撃してくる。


「おごっ!」


 鈍い痛みに胸を押さえながらシルフィ―を小突く。


 遠くから聞こえる音が止んだかと思うと個室に備え付けられた連絡装置がガサガサという音が聞こえ始める。


「あら、もう着くのかしら。でも、いつもよりもえらく早い連絡ねえ…」


不思議そうな顔をする母親を見ながら、ハオリは、未だ自分の胸の中にいるシルフィ―に小さな声で尋ねる。


「シルフィ―、今の音って」


「はい。銃声、です」


 突然、連絡装置からけたたましい音が鳴り響いた。

パンという乾いた音と叫び声。

そして、複数の人の声。


「い、いったい何の音」


「…お母さん?」


 今の衝撃で起きたのだろう。

寝ぼけ眼で状況が分かっていない娘を母親ぎゅっと抱きしめた。


 そして、連絡装置から、くぐもった声が聞こえ始めた。


『我々は『ミシャンドラ』!ふぬけたソロモン王に正義の鉄槌を下すものである』


 それを聞いた母親の顔が見る見る青ざめていくのが分かった。


ろくでもない事態に巻き込まれたことを理解しながら、ハオリは母親に尋ねる。


「先程言いかけていた『連中』」というのはもしかして?」


 声も出せない母親はただコクンとだけ頷くと、娘を抱きしめる腕に力を込めて祈るように目を閉じる。

そんな親子を視界の端に入れつつ、ハオリはシルフィ―に問いかけた。


「状況は理解できてるか?」


 その問いに対しコクンと頷く。


フードの奥から覗くルビーのような紅の瞳がハオリを正面から見据え、告げた。


「襲撃、されました」






 ソロモニアの駅周辺は操業始まって以来の大混乱となっていた。

無理もないだろう。いきなり『大陸鉄道がテロリストに占拠された』との知らせが届いたのだ。

それも『継承祭』が1週間後に始まるこのタイミングで、だ。


「やっぱり例の過激派のやつらが」


「こりゃ本当に祭りが中止になるかもな」


 そんな声がいたるところから聞こえてくる。

当然、本当に汽車が都に突っ込んで来れば祭りどころではない。当然、中止されることになるだろう。


 そんな群衆をかき分けながら一人の少女が駅への道を強引に突き進んでいた。

目深に被ったフードでその顔はよく見えないが上下する肩から相当苦労していることは見て取れる。

少女の身長では群衆をかき分けて進むのはなかなかの重労働だ。

しかも、流れとは逆の方向にともなればもはや一種の罰にさえ思える。

途中で休憩でもしようものならあっという間に波にのまれてスタートに逆戻りだ。

少女は、いつか昔話で読んだ河原で積んだ石を完成直前で延々と壊されるという話を思い出す。


「も、もうちょっと。ファイトです私!」


彼女の戦いは十数分に及んだ。


「や、やっと着いた」


 人の波を渡り切った少女は人気のなくなった駅の入口まで来てようやく一息ついた。

町を歩きなれているとはいえ、立場上人ごみを極力避けてきていた。

まさか、ここまで大変だったとは。


 辺りを何度もキョロキョロと見回し、追手がいないことを確認してから、フードを脱ぎ去る。

頭を軽く振るとまとめられていた美しい青髪が露わになる。

人ごみに逆らってもみくちゃにされながら歩いたせいで上気した顔を手で仰ぎながらホームに向かって歩き出す。


と、目の前から小太りの男が慌てた様子で駆け寄ってきた。


「ち、ちょっと困るよ、君ぃ。ここは危ないから非難してもらわなきゃ―」


 出てきた男はこの駅の責任者だ。

気は進まないながらも役職柄、最後まで駅に残っていた彼は、これ以上厄介ごとを増やさないように来訪者を早々に追い払おうとした。


 しかし、その来訪者の少女の顔を見るなり血相を変えた。


「ア、ア、アアアア、アンリエット様!?」


「静かにしてくれます?せっかくお城の兵士たちを撒いて、じゃなくて人目を避けて出てきたのですから」


その言葉を聞いて駅長は頭を抱えてしまう。


「あなたはここに一番来てはいけない人間でしょう」


泣きそうな顔の駅長の言葉をアンリは鼻で笑う。


「見解の相違ですね。私は、私以上にこの場にふさわしい人間はいないと思っています」


 カツカツという小気味いい音を響かせながら駅構内を歩くアンリエットは後ろからついてくる駅長に尋ねる。


その言動には未だ十七歳の少女とは思えない威厳が感じられる。彼女の名前はアンリエット・ヴェルニカ・フォン・クロウリー。


 現ソロモンであるクラリス・クロウリーの養女にして次期ソロモンだ。


「それで、状況に変わりはないのね」


「…はい。通信の主は不明ですが、都に着くまでに止まるはずだった駅をすべてすっ飛ばしています。列車がここに突っ込もうとしているのは間違いないかと」


 駅長は、そう言いながら額の汗をハンカチでぬぐう。


 それは駅へ来る前、兵士たちから聞いていたとおりだった。

話によれば、謎の男から通信で駅に連絡が入ったらしい。

名前も所属も不明の男から『駅に列車が突っ込むことになるかもしれないから、可能な限り住民を避難させろ』という指示を受けたのだ。


 何をバカなことをと疑いつつ、確認してみれば、確かにこのソロモニアに向かってきているは異常な速度を保ったまま通過駅をすっ飛ばして近づいてきていることが分かった。

さらには数日前に、『ミシャンドラ』を名乗る組織から都を破壊する旨の犯行予告を受けていたことも明らかになり都中がパニックとなった。


「目撃証言によると先頭車両以外はすでに切り離されているようでして。現在、切り離された車両には地元の保安隊が向かっています」


「先頭車両だけが?それは妙ですね」


 アンリエットはその整った眉を顰める。


『ミシャンドラ』は最近、都内外で活動している自称革命団体、要は過激派テロリストだ。

打倒ソロモン王家を謡い至る所で破壊活動を行っている。


 そして、『継承祭』が近づく今、彼らの行動は日に日にエスカレートしていた。

ついこの間も、白昼堂々に広場の噴水を爆破されたばかりだ。乗客ごと突っ込むぐらいのことは躊躇なくやるはずの彼らが先頭車両だけでテロを行うのはどこか腑に落ちなかった。


その時、構内に設置されていた通信装置が音を立てた。

駅長が確認に向かい、すぐに走って戻ってくる。


「隣の駅から連絡がありました。どうやら乗客は全員無事なようです。それから実行犯たちも既に拘束されているとのことで」


「それは良かったけれど、どういうこと?乗客の中の誰かがテロリストたちを拘束したということでしょうか?」


そう考えると駅に連絡してきた男の正体も同一人物と考えるのが妥当だろう。


「とにかく、どこの誰かは知らないけれど、その方にはあとからお礼を言わなくてはね」


「いえ、それがですね…」


 駅長は困ったように言いよどむと、再び額の汗をハンカチで拭う。


「実は、その男は先頭車両に残ったらしいんです」


「へ?」


 アンリエットは駅長の思わぬ言葉に素っ頓狂な声を上げた。


「残った、ってどうしてです?」


「いえ、よくわからないのですが、おそらく列車を止めようとしたのかと」


 列車が止まったという話は来ていない。

つまり、未だ列車は走り続けているということだ。一体、どういう目的で先頭車両に残ったのだろうか。


(ここで考えていても仕方ありませんか…)


 これからどう動くにしろ、この場にいてはどうにもならない。

アンリエットは頭を切り替えると改札をぴょんと飛び越えてホームの中に入った。

慌ててそのあとを追ってくる駅長は、どうやら止めることを諦めたらしい。


 アンリエットはホームまでやってくると背中に括り付けていた風呂敷を降ろす。

ズンという鈍い音からして、かなりの重量を持っている風呂敷を解いて中身を取り出す。


そこにあったのは一冊の本だった。無論、普通の本ではない。

両手で持ってもなお収まりきらない巨大な本は、それだけで一種の鈍器になりうるレベルの大きさだ。

それを意気揚々と開く彼女を見て、駅長の顔は真っ青になる。


「あ、アンリエット様?もしかしてその手にあるのは」


 巨大な本は本らしからぬ存在感を放っていたが、それもそのはず。

彼女の手にあるそれはソロモン家に伝わる秘宝の中の秘宝だ。


 公用語ではない、不可思議な文字が躍る表紙。その薄汚れた状態から見ても相当な年代ものであることはすぐに分かる。それなのにその本はくたびれたどころか、むしろその状態こそが最善の状態であるかのごとくイキイキとしているかのようだった。


駅長の弱り切った顔に対して悪魔のような微笑を浮かべるジュリア。


「えぇ、『レメゲトン』よ」


 それを聞いて駅長は我慢できずに悲鳴を上げた。


「ちょっと待ってください!まさか『悪魔』を使うおつもりですか?」


「もちろん」


 そう。レメゲトンはソロモン家の者が悪魔を召喚するときに用いられる依代だった。

正確に言えばすでに召喚されている悪魔を自分の元に顕現させるための依代で、悪魔からしてみれば一種の目印のような役目を果たす。


「列車を破壊するおつもりですか!?いや、下手したら都ごと壊れるんじゃ―」


ソロモンの悪魔は全部で七十二柱。その一柱一柱が一国の軍に相当するとされている。。

実際、ソロモンはその力を使いこなし大陸統一に一番近かったとまで言われているのだ。


「お義母様じゃあるまいし、そんなことはできませんよ。精々、この駅舎を吹き飛ばすくらいが関の山です。ここまでで十分です。あなたも避難してください」


 自らの発言で後ろで駅長の顔が青から紫色に変化したことには気づかぬまま、アンリエットは線路に飛び降りた。


砂利を踏みしめながら、アンリエットは現在汽車が向かってきているであろう方角へと目を向ける。

すでに陽は沈みかけており赤く染まる線路の先はまるで地獄に続いているように見えて、不気味な印象を受けた。



 どうして危険を冒して男が車両に残ったのかが分からない。

車両を切り離していることから推測するに、おそらくブレーキが壊されていたのだろう。

自分がテロリストでもそうする。

そうだとすれば自らが残る必要性は皆無だ。

もっとも、ブレーキも使わずに列車を止める方法を持っていれば話は別だが。


(そんな人間が偶然乗った列車がテロリストに占拠されるなんてことがあるでしょうか?)


 答えは否だ。

いや、万が一、億が一の確率でありえたとしても、少なくとも自分は否として動く必要がある。

常に最悪を考え動く。

それがアンリエットの座右の銘だった。


 最悪なのはノンストップのまま汽車がが都に突っ込んだ場合だ。

そのときの被害を考える。


 既に避難勧告は出されているしバリケードの準備も進められているはずだ。しかし、完全に誘導が住んだところでけが人がゼロというのはありえないだろうし、全速力で突っ込んでくる汽車に対して急ごしらえのバリケードがどこまで役に立つか正直疑問だ。


 次によろしくないのは、遺憾であるが自分の力を使うことだ。

おそらく列車を止めることはできるだろう。しかし、強盗を捕まえたり馬車をどかしたりするのとは違い、力をセーブするような余裕はないだろう。そうなれば周りに被害を出さない自信がない。駅長に言った通り、駅ごと吹き飛ばしかねない。


「今日に限って、お義母様がいらっしゃらない…。いや、だからこそ今日が狙われたと考えるべきでしょうか」


 クラリスの技術と力をもってすれば、暴走する汽車を止めることなど造作もないだろう。

被害すらほとんど出さずに事を治めるであろうことが容易に想像できる。


 無意識に母親に頼ろうとしていることに気づき、アンリエットは頭を振る。

クラリスは初代を除けば歴代最高の術者であると噂されていた。

それに比べて自分は余りにも未熟だった。あらゆる意味で。


それにもう一つ彼女の頭に残る不安があった。それは



「少なくとも一人は殺さなければなりません」


それは列車に残っているという男のことだ。


 できれば乗り込んだこと自体が間違いか、もしくは途中で脱出していてくれるといいが、やはり考えるべきは最悪の場合だろう。


初めて人を殺すかもしれない。


その事実に彼女の体がかすかに震えた。

と、その時だった。


 すでに陽が沈みつつあり暗くなった線路の先に光が現れたのだ。その光は瞬く間に大きくなり、さらには汽笛が鳴らされる。それが意味することは二つあった。一つは、やはり汽車は止められなかったということ。そして、もう一つは今もあの中には誰かがいるということだ。つまり、もう一つの最悪は当たってしまったこととなる。


「やらなきゃ―」


 乾いたくちびるをなめて湿らせると、本に手を当てて目を閉じる。


最初は、燃やすことを考えた。

しかし、汽車を焼却し尽すような温度の炎を使えば周りに及ぶ被害も小さくはない。

よって、物理的に止める方法をとることにした。


『来たれ、来たれ、来たれ』


巨大な本に手を当てながら、震える声で呼びかける。


『汝は殺戮と暴虐を司る力の権化!血に飢えし獣の王!』


 彼女の叫べに呼応するように、本が脈打つように光り出すと、体から力が抜ける感覚を得た。

その感覚は間違いではない。

レメゲトンは本当に、彼女の手から血液を吸い取るのだ。


急激に血液を抜かれた影響で、ふらつく視界に耐えながら、なおも契約の言葉を口にする。


『我が名はアンリエット・ヴェルニカ・フォン・クロウリー』


『始まりの魔王の一人、ソロモンの名を継ぐ者なり』


 本自体が震えはじめ、アンリエットを包む空気が変わる。

風もないのに彼女の着ているローブが靡き、本の光が一層強くなる。


『我が訴えに応えよ。三十六の軍団を指揮する序列二十五番の大総裁!』


 彼女が目を見開くと同時、周囲の空間が裂けた。






 刻々と迫る都を見据えながらハオリは先頭車両の上に立っていた。そう、煙突の横だ。

普通の人間なら風圧で吹き飛ばされているだろう場所にいるにもかかわらずその体制は余りにも自然体だった。


「本当、こっちに来てから厄介ごとばっかりだな」


 辺りがだいぶ暗いせいで目隠しされているような感じがして思わずブルリと震えてしまう。 

テロリストたちを拘束した後、ハオリはシルフィ―に連行を任せて一人先頭車両に残った。


 列車のブレーキが壊れていることは既に確認済みではあったものの、何もせずに汽車を都に突っ込ませるわけにはいかなかったのだ。


「ま、特に何もできなかったわけだけど」


 ブレーキが使えない以上できることはほとんどなかった。

できたのはせいぜい、これ以上の加速はできないように炉は既に止めたことくらいだろうか。


「それじゃあ、まあ、やってみますか」


 当初は都に入る前に停止させる予定だったのだが、炉を止めるのに思っていた以上に手間取ってしまった。

結局ギリギリになってしまい、もはやソロモニアは目と鼻の先に近づきつつある。


「一、二、の三で行こう」


 ゴクリと生唾を飲み込む。


「一」


 既に沈みつつある夕日と入れ替わるように灯されている都の明かりは幻想的で美しかった。その明かりの中に件の図書館塔らしき建物も見つけ、あの上から見る景色はさぞやすごいだろうな、などと呑気なことを考えた。


「二」


 次で飛び降りる。腹をくくったハオリの視界に不思議な光が目に入った。

それは街の明かりとは違う明らかに異質な光だ。以前、それをどこかで見た覚えがある気がする。

それを思い出そうとした直後、その光の中心に誰かが立っているのが見えた。


(これは、やばいかも―)


 ハオリは最後のカウントを省略してその身を宙に躍らせた。





「な、なんですかあれは…」


 始めは見間違えかと思った。

何をどうすれば今まさに都に突っ込もうとする汽車の上に人が立つなどという状況を想定できるだろうか。

既に暗くなっているというのに気付けたのは偶然としか言いようがない。

さらには、見つけた次の瞬間にはその影が汽車の上から飛び降りたのだからたまらない。


「―ッ」


(今、何を考えた?)


自分が手を下さずに済んだとホッとする自分がいて、それがたまらなく嫌だった。


かといってボーっとしている場合でもない。


どこの誰だか知らないが、必ず遺体を見つけて丁重に葬ることを誓い、アンリエットは傍らに立つ四本足の獣に呼びかける。



「グラシャラボラス!どうするか分かっていますね?」


猛禽類のような雄々しい羽と、のこぎりのような鋭い牙を持った巨大な狼が頷いて見せる。


「概ね理解している。目の前のあれをぶっ壊せばいいのだろう」


 ソロモンの力を持つ者と悪魔とは、通常の召喚術と違い常に精神の一部が繋がっている。

この世に顕現させるには本を使って呼び出す必要があるが、召喚していない状態でも、彼女が見て、聞いたことの大よそはグラシャラボラスにも伝わっている。


 しゃがれた声でしゃべるグラシャラボラスは、迫りくる列車を見て彼にしては珍しくなんと笑みを浮かべた。


「だが、どうやら俺らが手を出す必要はなかったみたいだぞ」


 面白そうに告げる悪魔の言葉にキョトンとするアンリエットは、前方で巨大な火花が上がったのを見た。




 汽車から上がるすさまじい土煙と火花、そして、耳をつんざくような摩擦音があたりに響き渡った。

目をこらして見れば汽車の前に飛び下りたはずの男が、既にぺしゃんこになっているはずの男が、汽車に抱き付くようにして立ちふさがっているではないか。


 男は汽車を正面から止めようとしていた。


「グラール、私の見間違いでしょうか?汽車を止めようとしている男の方が見えるんですけど」


「見間違いでも、幻でもないようだな」


「そんなことってありえます?」


「…お前がそんなことをいうのか?」


 今まさに悪魔を傍らに召喚している人物をしてもそのような感想を抱くほどに目の前の光景は異常だった。


 呆然とする彼女の目の前で、汽車の車体が歪む。

どういう原理かは分からないが汽車は見る見るうちに減速し、それに比例して火花が、そして耳をつんざくような金属音が一層大きくなる。


「わざわざ代償を払う必要がなかったな。我は寝るぞ」


 グラシャラボラスは、楽しそうにそういうと姿を薄れさせていくと、霧状の粒子になり完全に消えた。


 アンリエットは慌てて我に返ると、手に持った本をバシバシ叩く。


(なかなか面白いものも見れたし、次呼ばれるときは多少まけてやろう)


それを最後に、脳内に響いた相棒の声が完全に消えた。


「ちょっと、何を勝手なことを言っているのですか!」


叫び声をあげる彼女の目の前で、ついに汽車が完全に停止した。

それは彼女からほんの数メートル先でのことだ。



「ああ!やってみるもんだな!何とかなるじゃん。偉いぞ俺!」


 そんなことを言いながら汽車から手を放す男。

パンパンと払うようにして手を打つ男は一瞬だけ顔をしかめたが、すぐそばにアンリエットがいることに気付くと、今度は困ったように頭を掻いた。


「あ、あなたは一体―」 


 震える声で問いかけるアンリエットを見て男は明らかに狼狽えていた。


「その、なんていうか無事、かな」


 そう言ってぎこちなく笑って見せる。


その笑顔からは、たった今汽車を一人で止めた者と同一人物とはとても思えない。


「かなり暗かったと思うんだけど、どの辺から俺の事見えてた?」


「あなたが汽車から飛び降りるあたりからですけど」


「そ、そっか…」


 汗をダラダラ流す男は、どうするか悩んだのだろう。しばし、考え込んだかと思うと


「じ、じゃあ、俺はこれで―」


 迅速な撤退を選んだ。


「ち、ちょっと待ってください!」


 しかし、アンリエットが彼の腕をつかむ方が早い。

普段からレメゲトンを振り回している彼女の腕力は存外強力で、男は必死にもがいたが逃げれない。


「…」


 アンリエットは無言で男に近づく。


 都を救ってくれたお礼も言わねばならない。

しかし、それよりも彼女の興味を引いたのはこの男が一体どうやって汽車を止めたのかということだった。

自分と同じ『普通』ではないその男に、彼女は興味を持った。


「あなたは、もしかして―」


「ん、あれその本って―」


 男が彼女の持つ本に視線を移したその時だった。


 ビリッ。


 盛大に布が裂ける音があたりに響き渡ったかと思うと、突然男の服がはじけ飛んだ。


「…」


 それは見事なはじけ飛び具合だった。

一片のかけらも残さずはじけ飛んだ様は芸術的とさえいえる。


 アンリエットは男の服が全身肌色に変化したのかと思った。

しかし、数秒のタイムラグの後、目の前の男が一糸まとわぬ姿になっていることを理解する。


「…」


 こういうのを何というのだったろうか。そう、確か露出狂とか言ったはずだ。


 男の裸を初めて見たアンリエットは混乱しながらも視線を逸らせない。

無駄な脂肪が一切ついていない均整の取れた肉体はなるほど確かに見惚れてしまうかもしれない。

しかし、その視線がやがて吸い寄せられるようにある一点に向き、そして固まった。


「ん?」


 男はアンリエットの視線が自分の下腹部に向いていることに気づき、下を見てようやく事態に気づいたらしい。

顔を真っ青にすると渾身の力を持って彼女の手を振り払うと両手を前に突き出した。


「違うんだ!君が何を考えてるか、たぶん俺には分かる!だから、まずは落ち着こう!深呼吸しよう深呼吸!ほら、息を吸って」


 アンリエットは、顔を真っ赤につつも、ハオリの指示におとなしく従い、大きく空気を吸い込んだ。


「そう。それでいい。そしたらゆっくり、吐いてー」


「へ、変態――――――!」


 あらん限りの力を込めて叫んだ。


 その時、駅の中から軍服を着た男たちがなだれ込んできた。

その集団の後ろには駅長の姿もある。アンリエットが駅に現れたことを伝えるために図書館隊の元へ駆け込んだのだが、結局、到着は汽車が停止したあととなってしまった。


「アンリエット様!ご無事ですか!?」


その集団の先頭に立つ眼鏡をかけた男は、彼女の状況を目にした瞬間、その目を見開いた。


「ちょっと待て!あんたたちも落ち着こう。どういう状況に見えるか何となく分かるけど、まずは話そう!な?」


 眼鏡の男は怒りで身を震わせながら、無言で銃の安全装置を外した。そして、右手を軽く上げる。

その背後では、後続の隊員たちも次々と安全装置を外し始める。


 張りつめる空気の中、グスっと鼻をすするアンリエットが再び


「変態…」


と呟いた次の瞬間。


「犯罪者一名!確保開始!生死は問わん!」


「ち、違うんだああああ」


 ハオリの悲痛な叫びは、銃弾の嵐でかき消され、夜の都へと溶けていく。



 ある年の虎の月、『継承祭』まで一週間となったある日の夜、ソロモニアの酒場では突然現れた変態の話題で持ちきりになったとか、ならなかったとか。


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