泥に濡れたおねえちゃん
.
「おねえちゃん、あの人にかさをあげてもよかったの?おねえちゃんがぬれちゃうよ」
「ありがとう。でも、私は大丈夫だよ。濡れても平気だから」
「ん~…、あ、じゃあボクのかさにはいってよ!」
「一緒に入るにはちょっと小さいかなあ。そうだ、おんぶしよっか!」
「なんで?まだあるけるよ」
「私が君をおんぶして、君が傘を持てば、一緒に入れるよ」
「やる!」
「ようし、じゃあほら、おいで。咲野」
ピピピピピピピピ、という甲高い耳につく喧しい音に刺激され、目を覚ました。とても懐かしいものを見たような覚えがあるけれど、どんな内容のものだったか思い出せなくなってしまっていた。けれどもし夢に見るとしたなら、幼い頃にいつも一緒にいたおねえちゃんとの思い出だろうな。と、寝ぼけて目の前が霞む頭で考えた。どうせなら、続きを見るためにもう一眠りしようか。今日は久しぶりの休日だ。そう思った直後、脳内で曜日を確認してから日付を確認した。
ああ、そうか。もう、この日が来たのか。
高校2年になった俺は、順風満帆な生活を送っていると思う。学校にも休まず登校し、テストは良くも悪くもない点数。いい友人に囲まれて、身近にいじめもなければ、仲間はずれもない。 恋人は、まあいないけれど、正直バイトで家にお金を入れてる俺としては、暫くいない方がいい。気になる人も、いない。バイト先の人はとても親身に接してくれているし、やりがいがあって、疲れるけれど毎日が楽しい。
悪いところなど、何一つない。そう胸を張れる日々だった。
そんな俺が毎年12月22日に行っていることがある。今年で何回目か数えることはなくなったけれど、忘れたことなどなかった。
今日は、おねえちゃんが死んだ日だ。
雪が降り霜が降りた夜、いつもとは違う学校の帰り道についていたおねえちゃんは、泥酔したトラックに撥ねられた後轢かれた。とても遺族や知り合いには見せられない姿だったらしい。当時低学年だった俺にも、深い傷を負わせた。女手一つで俺を育ててく れた母親の仕事が入り、保育園が休みの日には、決まって従姉のおねえちゃんの家に預けられた。その家族の中で誰よりも俺と遊んでくれたのが、おねえちゃんだった。
布団の中でうだうだしていることに飽きた俺は、寒さを堪えながら着替えた。一ヶ月ほど前からずっと冷えが続いていて、室内でも見て取れるように息は凍るし、窓の結露は凍るしで気が滅入りそうになる。
今年はおねえちゃんにどんな花を供えようか、と考えながら欠伸をする。本棚に立てられた花の図鑑を手にとって、暖かいであろうリビングへと向かう。母さんは今日急に仕事が入ったとかで、慌ただしく出て行ったようだ。携帯に一通、ひらがなのみのメールが入っていた。インスタントコーヒーをカップに淹れれば、少しだけ安っ ぽい香りの白い湯気が立ち上る。スプーンで中身をくるくると回した後、キンッと音を立ててスプーンをシンクに置いた。コーヒーをすすりながら椅子のある場所まで歩き、座る。分厚い本を眺めれば、いいアングルで映された綺麗で華やかな花々が並んでいた。
おねえさんはあまり派手な人ではなかったから、少し控えめで明るい色の花を選ぼうか。ぺらぺらと花を目で追うように見ていると、あるページに一枚の紙が挟まっていた。カップをテーブルの上に置いて、その紙を手に取る。ノートの端を破いたような切れ端で、あしらってあるのはツバキかサザンカの柄。この柄はどこかで見たような覚えがあるけれど、思い出すには至らない。眉間に皺を寄せながら、引っかかりに長い間耽っていた。偶然このペ ージにゴミが挟まったのか、それとも意味があるのか。このまま、喉元まで出てきている記憶を引っ張り出そうとしても無駄だと本を閉じ、自室に戻ろうと席を立った。コーヒーの湯気は、すっかり息を潜めていた。
本を戻し、本棚に収まっているノートや参考書、辞書を一つ一つ人差し指で追っていく。部屋にある紙の類はこの本棚に全て集約されているため、ここになければ諦めるしかない。膝をつき、最後の砦である下段を見ていくと、一冊だけ小さなノートのようなものを見つけて引き出した。
鍵付きのノートだった。
おじいちゃんが、死んじゃった。
どうして死んじゃったのか、お母さんもだれも教えてくれなかった。だけど、ちょっと遠いばしょでだれかが、「あんなにおふろぎらいだったのにねぇ」とか、「その前の日も、たくさんお酒をのんだんですって」とか言っているのがきこえたけど、それが理由になるのかはわからなかった。
おねえちゃんは少しいそがしいから、また後でお話ししよう、ってお母さんに言われたから、"そうしき"が終わるまで待っていた。イスの上に何時間もすわらされてつかれたけど、おねえちゃんと話したくて、待っていた。長い長いお経を聞き終えて、お母さんがいいよって言うまでおねえちゃんの方を見ていた。そうしたら気づいたんだ。おばあちゃんも、おばさんも、お母さん もかなしんで目が赤くなってるのに、おねえちゃんは、なにもかわらない。こわいかおをして少しだけ下の方を見ながら口をとじている。おねえちゃんはおじいちゃんが死んじゃっても、かなしくないのかな。
高校のせいふくを着たおねえちゃんが、ボクの方を見たような気がした。手をふれば、おねえちゃんも手をふり返してくれた。うれしかった。かなしそうじゃないおねえちゃんが気になって、お母さんがいいよって言ったあと、きいてみた。
「おねえちゃんはかなしくないの?」
そうするとおねえちゃんは、センタクモノをほそうとしたのに雨がふってきたときのお母さんみたいなかおをした。ビミョーなかおだ。ボクはそのかおを見て、きいちゃいけないことだったとわかった。
「知りたい?」
おねえちゃんはそう言って、むりやりわらった。首をたてにふると、おねえちゃんは考えるときみたいに首をよこにする。
「明日、咲野はおねえちゃんの家に来れる?」
それにも、首をたてにふる。そうするとおねえちゃんは、明日はおしえてあげられないけど、サキノに渡したいものがあるの。そう言って、ボクのあたまをなでた。それだけしか、その日はおねえちゃんとはなせなかった。
そうだ。そして次の日おねえちゃんの家に訪れた俺は、この鍵付きのノートをおねえちゃんから手渡されたのだ。その時はどうしても知りたくて開けたいとぐずったが、おねえちゃんが真剣な顔をして、今見ても咲野にはわからないだろうから、と言い聞かせるようにして宥められた。高校生になって開けてみれば、おねえちゃんがどう思っていたかわかるから。このことは、誰にも話しちゃダメだよ。咲野と私だけの秘密。そのようなニュアンスのことを言われ、二人だけの秘密という言葉に酔いしれて安易に頷いた。単純に、嬉しかったのだ。
そして今、高校生になった。今日中にお参りに行くことができればいいから、先にこのノートを読んでしまおう。そう考え、本の背と前小口の部分を両手で挟み 、押す。そうするとノートのページとページの隙間から薄っぺらい鍵が落ちてきた。これはおねえちゃんから教わったものだ。おもちゃのようなこの錠を壊すことは簡単だが、あまり手荒なことはしたくなかった。もし鍵がなかったら壊していたかもしれないが。
カチッ、と小さな音が聞こえた後、錠を外した。無事外れたことに、小さく息をつく。外した錠と鍵を机の上に置いて、リビングへ戻ろうと立ち上がった。早く見たい衝動が湧き上がってくるものの、それを堪えて椅子に座った。冷めてしまい、後味に気持ち悪さを残すようになったコーヒーを一口だけ口に含む。息を整えてから、表紙をめくった。
・・・
2005年10月18日 火曜 晴
学校帰りに見つけた鍵付きノートで、日記を書いていこうと思う。私そんなにまめじゃないから、気がついたら古紙回収に出されちゃってそうだー。好きな柄だから、そんなことにならないよう出来事を書いていこう!
高校でできた友達の彩音と一緒にプリクラ撮ってきた!記念に貼っとこ♪
・・・
プリクラが貼られていたと思われるところには強引に引き剥がしたような跡があり、そこに写真はなかった。それを見て、俺は息を呑むことになった。これはただの日記ではない。
無意識に日記を握る手に力がこもる。
それから暫く丁寧に糊付けされて、無理矢理に剥がすと破けてしまうようなページが続いた。恐らく、例の彩音という人とトラブルがあったのだろう。あまり思い出したくない記憶 だから、こうして蓋をしているのだろうか。めくり続けていると、一行だけ書かれていたり、1ヶ月ほど飛んでいたり、まばらに書いていることがわかった。
気を取り直して、表紙に戻りページをめくる。
・・・
12月6日 くもり
最近靴がなくなったり、教科書紛失事件が相次いでいる。私がやるわけがないし、誰がやっているんだろ。ほんと、やめて欲しいんだけどなぁ。やんなっちゃう。
雪が積もっていたから、と、おじいちゃんが迎えに来てくれた。嬉しかった。やっぱり車は暖かかった。ついつい家に着くまでの間寝てしまった。多分、疲れていたのだと思う。でも、寝ればきっとまた元気になるから。大丈夫 大丈夫
12月7日 雪
初雪が観測された。今年はいつもより早いらしい。綺麗な雪だなぁ。
学校から帰ると、咲野が「女みたいな名前」って保育園で馬鹿にされたと泣きついてきた。かわいいかわいい。咲野に「自分の名前は嫌い?」ときいたら「嫌い!」と強く言うものだから、「私は好きだよ」と言うと、咲野は「ぼくも好き」と言った。あれあれ?おかしいな?なんて笑いながらこちょこちょすれば咲野も笑った。野原に咲くって、とってもいい名前だと思うけどな。素敵。
私の名前の由来ってなんなんだろう?聞いたことがないから、今度聞いてみようかな。
12月24日 雪と雷
今日は家族、咲野と咲野のお母さんと一緒にクリスマスパーティー。お父さんは夜遅くまで仕事らしくて、今日明日も帰ってこれないらしい。お勤め、ご苦労様です。
咲野は炭酸が苦手らしくて、一口飲んでコップをつっかえしてきた。私のひざの上で、口の周りを汚しながらチキンをほおばってる姿をずっと見てた。かわいい。大好き。お腹いっぱいになったからなのか、眠そうにしている。早く寝ればいいのにね。
2006年1月9日 雪
知らない人から、掃除をするときに使ったバケツの水をかけられてびしょ濡れになった。寒い。明日風邪引いちゃうかな…。そろそろ辛い。
おじいちゃんに、当たっちゃった。うるさい、って、やめてよって。謝りたいけど、どうしてもごめんって言えない。こんな意地を張る自分なんて大嫌いだ。死んじゃえばいいのに。
1月10日 みぞれとあられ
酒を飲んだおじいちゃんが机を叩いたり、おばあちゃんを怒鳴りつけたり、叩いたりしてた。止めたら勢いで殴られた。その後おじいちゃんはどっか行っちゃった。おばあちゃんが泣きながら「こんなはずじゃなかったのに」って言ってるのを聞いて、
ああ、そうか。いなくなればよかったと思った。私だって、言いたいよ。こんなはずじゃなかったのにって。でも、起きたことは仕方ないじゃん。生まれちゃったんだからしょうがないじゃん。どうしろっていうのさ。私じゃどうだってできないよ。私だって好きでこんな、
もう、考えるのやめよ。寝よう。
1月14日 くもり
お父さんがまた出張に行くらしい。大きな荷物を抱えて行くのを見送った。
今日も咲野が来てくれた。嬉しいなぁ。でも、いつか大人になったら、おねえちゃんなんて嫌いって言われる日がくるのかな。そうなったら、嫌だなぁ。咲野とはずっと一緒に仲良くしてたい。
1月18日 くもり
お母さんが泣いてるところを見つけた。酒を飲んでるみたいだ。珍しくタバコも吸ってる。荒れてるなぁ、なんて思いながら部屋に戻ろうとした。
お父さん、いつ帰ってくるのかな。帰り何日になるか、聞いてなかった。
1月25日 雪
最近、お母さんが仕事に行ってない。あれだけ大好きだった仕事なのに、どうして行ってないんだろう。酒飲み過ぎなんじゃないのかな。今日の夜も飲んでいたから、それを取り上げたらはたかれた。びっくりして、腰を抜かした。立てなかった。お母さんも、びっくりした顔して、また泣き出した。
なんだろう、家族が壊れてる気がする。
お父さん早く帰ってきてよ。
2月8日 雨
テーブルの上に離婚届が置いてあった。だからか。
2月14日 くもり
チョコレートの代わりに下駄箱の中には煮干しとガビョウが入っていた。私のくつでダシをとれっていうのか。いやだよ汚いなぁ。チョコレートをあげる人もいないし、今日も変わらない。
2月17日 雪
久しぶりに咲野に会った。一か月近く会ってなかったから本当にうれしい。やった。今日も咲野は私と一緒に遊んでくれた。前まで当たり前だったことが当たり前じゃないような気がして、それだけですごく嬉しくて、咲野が帰ってから、寂しくて泣いた。あーあ、前はこんなんじゃなかったのになぁ。
また、遊びにきてくれるかな。
2月22日 雷とあられ
今日の夜もおじいちゃんがおばあちゃんに怒鳴っていた。本当に些細なことだ。それなのにおじいちゃんは全部おばあちゃんのせいにして、怒っている。お母さんも部屋で泣いている。おじいちゃんはイライラして、ピリピリしている。おばあちゃんは息をひそめて、堪えながら泣いている。
この原因を作ったのは、誰なんだろう。
2月25日
私だった。
3月7日
おばあちゃんが、骨を折って入院した。少しだけ、安心した。これでおじいちゃんがおばあちゃんを殴らない。年をとるにつれて骨が治りづらくなると聞いたから、半年くらいは入院していてもらいたい。
お金は問題ない、お父さんが置いてっているだろうし。
3月23日
朝、風呂嫌いのおじいちゃんが寒くてお風呂に入ってた。思いついた。
私はおじいちゃんに、朝すごく寒かったら少し熱めのお風呂に入りな。と、言った。
いつになるかはわからない。だけど、きっといつかおじいちゃんは死ぬ。
4月10日
入学式があった。
もう慣れた。
6月19日
かわいがってた野良猫が、車にはねられて死んでた。頭がつぶれてたけど、胴体をひっぱってなんとか道路から土のある場所まで運んで埋めた。あの子の大好きだった鰹節を供えた。あと、帰り道の途中にある花屋さんで、一輪だけ白い花を買った。
どうしたって生き物は死んじゃうんだよなぁ。
11月8日
寒くなってきた。
12月22日
12月の夜空は、滅多に見ることできないけど綺麗だ。
1月12日
朝、おじいちゃんが脱水症で死んだ。救急車に運ばれていった。その時私は疲れていて寝ていたからそのことに気付かないまま、お昼頃起きてきたから知らなかった。その頃にはもう意識不明だったらしい。
待ちに待ったこの日だったのに、どうして嬉しくないんだろう。嬉しくもないし、悲しくもなかった。
おばあちゃんやお母さんみたいに、涙を流すこともできないし、久しぶりに見たお父さんみたいに苦しげな顔をすることもできなかった。
葬儀は、明日執り行われるらしい。
1月13日
咲野が葬式で、悲しくないの?と聞いてきた。わからないよ。
そうだ、咲野にこの日記をあげよう。それだけで、少しは私の気持ちが晴れるような気がする。利用してるみたいで、気が引けるけど。私は、本当に卑怯なおねえちゃんだね。ごめんね、咲野。ごめん。
・・・
ここで、日記が終わっていた。
俺の思い出の中にいるおねえちゃんはいつだって楽しそうに笑っている。けれど、きっと俺が気付かなかっただけで本当のところは何もわからないし、どうなのか知る由もない。だから尚、この日記を見て怖くなった。俺の友達も、口には出さないだけで何を考えているのか、わからないということ。
小さく息を吐いて、冷たくなってしまったコーヒーを飲み干す。気持ちが悪かった。 日記を置いて、カップを軽くゆすいでから冷蔵庫の中にある牛乳を入れる。これもまた飲み干し、洗ってから乾燥台に伏せて置いた。
その時、ふとノートの切れ端を思い出した。今まで見てきたページはどれも綺麗なままだったのに、なぜ切れ端があって、しかもそれが図鑑の間に挟まっていたのか。再び椅子へと戻り、読み終えたところから順々に残りのページをめくっていくと、最後のページだけ右下の角が破けていた。その形は図鑑の間に挟まっていたものそのものだ。破けたページを見れば、そこに何かが書かれていた。
決して日記などではない、言葉の羅列だった。
・・・
咲野がこのノートを見るのは、いつになるのかな。きっと、私の言葉をちゃんと守って高校生になってから開くか、このノ ートのことを忘れて、大掃除をした時に思い出した時だろうね。今は何才かな?もし、高校3年生だったら、私よりも大人だ。
大人になった咲野、見たかったな。きっと、カッコよくなってるんだろうね。
このノートを見た咲野が、どんな思いをするのか私にはわからないけど、あまりいい気持ちはしないと思う。それでぐるぐる悩んじゃいそう。だけど、咲野が悩むことなんて何一つないんだよ。だって、咲野は私の家のこと知らなかったし、わからなかったし、まだ小さかったんだもん。
私のわがままに付き合ってくれて、ありがとう。嫌な思いさせてごめんね。
今、咲野は何をやってるのかな。咲野は私に絵本読んでもらうのが大好きだったよね。今でも、本は好き?たくさん本を読めば読んだ分だ け大人になれるって、知ってた?もし時間があったら、色々な本を読んでみて。
今でも、何か創作してる?小さい時は一緒に物語作って、雑な作りの本を作ったことなんて…覚えてないよね。あの本、どこにあるんだろう。捨てられてないといいな。
なんだか長くなっちゃったね。
私はいつでも、咲野が幸せになれるように祈ってるよ。悩むことなんてない。自分が楽しいって思える方に迷わず進んで。そうすれば、咲野は絶対、絶対幸せになれるから。
おねえちゃん、応援してるよ。
・・・
ノートを持つ手が、震えた。目からはなんのためらいもなくぼろぼろと涙がこぼれていき、後からツンとした痛みが鼻の奥に現れた。
おねえちゃんは、自分が死ぬことをわかっていたのだろうか。わかって いて、これを書いたのだろうか。最初から、死ぬつもりだったのか。おじいちゃんのこと、いじめのこと、家族のこと、全部だ。全部を一身に背負って、いなくなるつもりだったのか。
どんな想いで、これを書いたの。
本当に、俺にできることは、なかったのか。
手の届かない場所にあったティッシュを取りに立ち上がると、がくんと膝が曲がる。床にゴッという音を鳴らせて肘を打ってしまい、うずくまる。
痛いし、情けないし、歯痒い。色々な思いが頭の中を交錯して、何がなんだかわからなくなってきた。ふらふらとおぼつかない足取りのまま再び立ち上がり、ティッシュで鼻をかむ。また新しいティッシュで、目を拭く。それを何度か繰り返して落ち着いた時、テーブルの上に広げておいた日記に 視線を移した。
絵本を、探してみよう。おねえちゃんの墓参りに行くのは、その後でもいいはずだ。
忙しいとわかっていながらも、母さんに電話を入れる。案の定、用件をさっさと言えと急かされたので、小さく笑ってから言った。
「昔の、小さい頃書いた本とか、おもちゃとか、どこにしまってある?」
それを聞いた母さんは、考えるように数十秒黙ってから後で連絡する。とだけ言って電話を切った。
あの時は、絵本を書くことで一生懸命だった。おねえちゃんと遊ぶことで、一生懸命だった。ただ楽しいことをして楽しむのがやりがいで、それだけで十分だった。
それで、いいじゃないか。
悩む必要なんてなかった。今は今のまま、後のことは後で考えよう。そして、今やりたいと思ったこ とを全部精一杯、一生懸命になってやれば、きっと幸せだ。
母さんが帰ってきたら言おう。絵本を書きたい、と。きっと目を丸くさせた後に笑うだろうけど、それもきっと、馬鹿にしたような笑いじゃなくて、嬉しそうに笑うんだと思う。明日でも、明後日でもいい。その後に、おねえちゃんに報告しに行こう。
今、最高に幸せだって。
「おねえちゃん、おねえちゃんの足、ドロついてない?」
「泥?ちょっとだけついてるかもね。雨で水がはねてるから」
「きたないよ!ボクがおねえちゃんをおんぶする」
「咲野が私をおんぶしたら潰れちゃうよ」
「でも、おねえちゃんさむいでしょ?」
「ぜーんぜん。だって、咲野がいるんだもん。すごく、温かいよ」
.(20131217)