act.1 狼さんにご用心
それはおだやかなの休日の昼下がりのこと――
十月も下旬に入り、星見市にも少しずつ紅葉の気配が近づいてきていた。
居間のソファでのんびり本を読んでいるのは香坂遼、十八歳。気の強さをうかがわせる切れ長の瞳は、ただ黙々と新刊の文章を追っていて。形のよい指がページをめくる。
学校中の女子から「王子」とささやかれている整った顔立ちがふとしかめっ面になった。身じろぎした拍子に、濡羽色の前髪がさらりと落ちて視界を妨げたのだ。
「くそっ」
そろそろ髪を切りに行くか。
面倒くささが先に立って、ずるずると予定を先延ばしにしていた結果がこれだ。
イライラと落ちてきた前髪をかきあげる。受験勉強の息抜きがこれでは台無しである。
と、
「ねえねえハルカくん。みてみて~」
ジャン、と効果音つきで李莉子が目の前に飛び出てきた。
休日だというのに突然自宅にやってきて、別室でなにやらごそごそしていたと思ったら――と顔を上げると、
「なっ、おまっ、それっっ」
視界いっぱいに入った彼女の姿に遼は絶句した。
「あははは~。ハルカくん顔まっかだヨ」
「うるさい!」
大笑いしている李莉子を一喝する。が、それはただの照れ隠しにしかならなかった。
直視できずに視線をそらす。
有明李莉子は遼より三つしたの高校一年生だ。身長は一四七センチと小柄で、性格も容姿も年齢に比べれば幼く見える。「また小学生にまちがわれたあっ」と泣いて抱きついてきたことも数知れず。それくらい童顔なのだ。
そんな彼女を直視できないその理由とは――
「ふふーん。コレ、ハロウィン祭の衣装なんだヨ」
かわいいでしょ~。
上機嫌でくるりと回ってみせる李莉子。
ふわりとなびくのは黒いマント。フリルとレースがふんだんにあしらわれたミニスカートから伸びるすらりとした足。くるりと回ってみせた瞬間、ただでさえきわどかったスカートの裾がひるがえり――
「わ! どうしたの、ハルカくん?」
急にかぶりをふった遼に李莉子は問う。
が、答えられるはずもなくて。顔を覆って「なんでもない」と唸る遼。
それはそうだろう。憎からず想っている女の子と二人きりで。毎回毎回なんの試練だと嘆きたくもなる。
通う学校も年齢も違う二人が出会ったのは、遼が高校二年の春だった。星見市に引っ越してきたばかりの李莉子と街中で出会い、ちょっとした事件に巻き込まれたことが原因だった。それ以降もことあるごとに顔を合わせるようになり、天真爛漫な彼女に振り回される日々は、色あせた一人暮らしに色彩が施されていくようで。
(だからと言ってこうも恥じらいもなくやられるとなあ……)
頭が痛くなってくる。
とりあえず話をそらすことにした。
「ハロウィン祭?」
「うん。今度のハロウィン祭でね、ウチのクラス『コスプレ喫茶』やることになったの。あたしは吸血鬼なんだヨ」
「吸血鬼……」
ぼそりと繰り返す。
改めて李莉子の姿をながめた。
いわゆるゴスロリといわれるファッション。そしてマントを羽織った姿。本物らしく牙まで作っていた。ただ怖さよりもかわいさの方が全面に出ていて。
まあ、なにはともあれ、それは李莉子にとても似合っている。似合っているから余計困るのだ。
「?」
固まってしまった遼に李莉子は首をかしげ、ニヤリと笑みを浮かべた。
なにやらよからぬことを思いついたようだ。
嫌な予感が……と、身構えるよりも早く、
「ハールーカーくん!」
「うっわ!」
李莉子に飛びつかれた。
反射的に小さな体を抱きとめる。やわらかい感触にどきりとした。
「な!?」
「へへ。あたし、吸血鬼なんだヨ。だから」
ハルカくんの血をちょーだい?
そう言って遼の首筋に唇をよせてきた。
「――っ」
わかっている。これは李莉子の悪ふざけだ。
言動・行動が子どもっぽい彼女に『計算』という単語はなくて。
だから、振り回されるな。
そう自らに言い聞かせようとするが――
「うにゃ!?」
まあ無理なわけで。
体を返して李莉子をソファに押し倒していた。
「は……ハルカ、くん?」
「おまえさ――」
「へ?」
きょとんとした表情の李莉子の耳元に唇を寄せる。
「誘ってんの?」
ささやいた。
さすがの李莉子もやっと状況に気づいたらしく、今度は彼女が真っ赤になる番だった。
「ちちちちがうヨ! ていうか、ちかい! ハルカくん、顔ちかいヨ!!」
バタバタと暴れ出すが、小柄な体格ではかなうはずもなく。
あまりの羞恥に目を閉じる李莉子に、遼はその額にキスを落とした。
「っ」
びくりと肩を震わせる李莉子。
遼はゆっくりと体を離す。
「ったく、少しはこっちのことも考えろっての」
「……ふえ?」
解放されて体を起こした李莉子が額を押さえつつ遼を見上げる。
意味がわからないようだ。
「なんでもない。ココア、飲むか?」
と訊けば、
「飲む!」
ぱあっと顔を輝かせる。
そんな彼女に苦笑を浮かべ、
「ほら、キッチン行くぞ」
「うん!」
パタパタと駆けていく李莉子の背中を見送りつつ、遼は小さくつぶやいたのだった。
「いつまでも羊のままだと思うなよ」