ピーターパンの夢
朝露に濡れた葉の先で、堪え切れなくなった滴が落ちた。
アデルの幼い頬や、剥き出しの白い手足に絡みつく空気は冷たい。しかしもうじき、朝がやってくる。朝がくれば、この暗い森の中にも柔らかい光が射しこむはずだった。夜闇を払い、だれもが暗い眠りから目覚める。眩いばかりの光を思うと胸が躍って、アデルは飛び跳ねるような足取りで住処を目指した。
深い深い森の中にアデルの住む小屋はある。その昔、一本の巨木から作り出したアデルの自信作だ。やや傾いた屋根が不格好だが、保存の魔法の効能は抜群で二百年以上経ったいまでもなんの変化もない。にっこり笑うと、アデルは小屋の扉を開いた。中には、小屋と同じ木から作り出したテーブルと椅子、それから二つのベッドがある。膨らんでいる方のベッドにアデルは迷わず近づいた。
「ウィリー、起きて」
布団の塊に手をかけ揺さぶると、もぞもぞと身動ぎをした。アデルはくすくす笑いながら彼の目覚めを促す。
「ねえウィリアム、起きてよ。僕、早くきみに会いたくて飛んで帰ってきたんだよ」
「きみの大好きなクルミ入りのパンも焼いてあげるからさ」そう付け足すと、少しの間の後に掠れた声が「うん」と返事をした。そうしてまた少しの間を置いて、アデルが手をかけていた布団の中から並外れて美しい青年が顔を出す。印象的な澄んだ青い目をした、唇や鼻や額、頬や顎のラインのどれをとっても素晴らしく均整のとれた顔立ちだ。しかしアデルは、彼の顔の美しさよりも寝乱れた金色の長い髪にうっとりと溜息を吐きだした。
「おはよう、アデル」
ふわりと溶ける砂糖菓子のようにウィリアムは甘く微笑む。部屋が未だ薄暗いことには気づいているのだろうが、起こされたことへの不満は欠片も持っていないようだった。
同じように朝の挨拶を返して、アデルは彼の髪を一房、丁寧な手つきで手に取る。アデルのその動作にまた一つ微笑みを落として、ウィリアムは後ろを向いた。ベッドに座ってなお、彼の美しい金の髪は白いシーツの上に散らばっている。立ち上がると膝裏に届きそうなほどの長さなのだが、こよなくこの金色の髪を愛するアデルによってウィリアムは髪を切ることを禁止されていた。その代わり、無闇やたらと長い髪はアデルの手で管理され、優しい手つきで念入りに毎朝毎晩ケアされている。森を駆けることが好きなウィリアムの邪魔にならないよう、編みこんで結ってもくれる。ウィリアムもアデルの思う半分くらいは、この心地よい時間が好きだった。
約束通り、アデルの焼いてくれたクルミ入りのパンと赤いリンゴを食べると、ウィリアムはようやく日の入り始めた森へと出かけた。アデルは彼の背中で揺れる一纏めにされた金の髪を名残惜しげに見送って、自分の寝床に入ってしまう。ウィリアムはその事になにも言わなかったし、アデルも勿論なにも言わなかった。朝も昼も夜も、彼らにはなにも関係がなかった。起きたい時に起き、眠りたい時に眠り、食べたい時に食べる。ウィリアムはアデルにそう教えられて育った。成長する自分と比べ、彼の姿が少年のまま変わらないことも不思議に思ったことはない。どうして自分がアデルと一緒にいるのか、彼に育てられているのか、自分は本当は何者なのか。
ウィリアムは何一つ、考えたことはなかった。
それが覆ったのは、ベアトリスという名の女に出会ってからだった。ウィリアムはその日、仲の良い若い雌狼と戯れていてアデルから近づいてはならないと教えられていた森の境界に踏み込んでしまった。すぐに引き返そうとしたウィリアムとは逆に、境界線など知らぬ顔で若い雌狼は進んでいく。
「待って、それ以上進んではならないよ」
制止をかけたウィリアムを一度は彼女も振り返ったが、結局首を戻して行ってしまう。ウィリアムは短い逡巡の末、僅かばかりの好奇心の手伝いもあって結局その後を追いかけることに決めた。
徐々に境界線に近づくにつれ、慣れ親しんだ森の空気が薄れていった。湿った土と濃い緑の匂いが占めていた空気に嗅いだことのない匂いが混じり始めている。不快とは言わないまでも、その匂いはウィリアムの胸をざわつかせた。これだけ落ち着かない気持ちを味わうのはほとんど初めてで、ウィリアムは自分の前をゆく雌狼を心細い気持で見つめる。すると突然彼女は歩みを止め、頭を下げて低い声で唸りだした。その咆哮はなにか危険を察知したような、そんな不穏な調子を伴って辺りに響く。
「一体、どうしたの……?」
普段は大人しく可愛らしいはずの彼女が、危険で獰猛な獣のように思えた。腹の底が冷えるような感覚に首を竦めていると、獣が勢いよく頭を上げ、地面を蹴って駆け出した。あっと思う間もなく、木立の向こうに灰色の毛が消えていく。ウィリアムは慌てて後を追ったが、雌狼は加減無しで駆けているのか尻尾の毛の先すら見つからない。ウィリアムが青い目に涙を溜め始めたころ、大きな音を聞いた。近くで雷が落ちた時のように、耳がビリビリとする嫌な音だった。
今度はなんなのだろう? 追うことに疲れ、飽き始めてすらいたウィリアムは音の聞こえた方に足を向けることにした。しかしウィリアムが一歩を踏みしめるたびに、指先は熱を失って心臓の鼓動がいつもより少し早くなる。心が浮き足だっているような、そんなおかしな心持だった。
彼が歩いていると、そう幾らも進まないうちに森の道なき道が途切れていて、その先の景色が少し下方にずれているのを見つけた。どうやら、崖のようになっているらしい。近くの木の幹に手を掛けると、ウィリアムはひょいとその下を覗き込んだ。そうして、息を飲んだ。
血にまみれた灰色の毛の塊のそばに、細長い筒のようなものを持った何者かが立っていた。ウィリアムやアダムとは違い、柔らかな曲線を描く身体を強調するような肌の露出の多い服を着ている。アデルと同じ黒い髪はウィリアムのように長く、しかし蛇のようにうねっていた。ウィリアムが呆然としたまま見つめていると、蛇のような髪が動いて顔が上がった。茶色い目がウィリアムを映してぱちりと瞬くのを見て、彼はようやくそれが人間と呼ばれる生き物だったことに気付いた。
その人間の足元で死んでいたのはあの雌狼だった。ウィリアムは泣きながら、それでもアデルに教えられた通りに、未だ温もりを残す亡骸を丁寧に埋めると盛った土の上に石を乗せる。そのまま傅いて石に優しくキスを送ることで別れを告げ、そのまま森に引き返そうとした。けれど少し離れた所で欠伸を繰り返していた人間によって引き留められて、ウィリアムは困ったように首を傾げた。ウィリアムはアデルから人間と話してはならないときつく言われていたのだ。二つも言いつけを破ることに躊躇いはあったが、引き留めてくるものを突き放せるだけの警戒心も冷たさも、あいにく彼は持ちあわせていなかった。
「アンタ、どこに住んでるの」
「あの中で」
ウィリアムはそう言いながら、自分が出てきた欝蒼と茂る森の中を指さした。すると人間が「つまんない冗談ねえ」と言いながら顔を歪めるので、ウィリアムはますます首を傾げる羽目になる。
「あたしはね、この近くの別荘に来てんの。あたしの男の別荘なんだけどさ、金持ちだけどやっぱりジジイでね。あたしヒマでヒマでさー、この辺クマが出るっていうし一応注意して猟銃を拝借してきちゃったんだけど、案外当たるもんなのねえ。狼仕留めるなんて、あたしも中々の腕だと思うでしょ」
けらけらと笑う人間の言っていることがウィリアムには半分も理解できなかった。けれどウィリアムはもしかしたら今ごろ小屋で彼の帰りを待っているかもしれないアデルのことが気がかりで、人間が息継ぎの為に言葉を吐かなくなった隙に「ねえ、人間」と呼びかけた。本当はそのあとに「わたしは帰らなければならないから、もう行くね」と告げたかったのだけど、茶色い目を丸くした人間が笑いだして彼の言葉を捩り潰してしまった。
「あたし、人間なんて呼ばれたの初めてよ!」
「? きみは人間ではないの?」
素直に首を傾げると、人間の顔がまた歪んだ。
「ちょっと、それ本気で言ってるの? あたしが人間の女に見えないわけ? ベラトリスっていう名前だってちゃんとあるわよ」
「おんな?」
ウィリアムが再び不思議そうな声をだすと、ベラトリスの頬がひくりと引き攣った。見る間に眉尻を吊り上げてウィリアムを睨むと互いの間にあった僅かな距離を詰め、彼の土に汚れた手を一瞬躊躇したあとに握った。そして思い切りよくベラトリスの豊満な胸の膨らみにその手を押しつけ、勝ち気に笑う。
「これが偽物だとでも?」
「……これ、なに」
ベラトリスによって押さえつけられた掌に感じる、柔らかくて弾力のある存在が不可思議でウィリアムは眉を寄せた。アデルにも、勿論彼にもこんな柔らかいものは身体のどこを探したって付いていない。温もりの感じられるそれを確かめるように軽く握りこんだりと手を動かしていると、ベラトリスが呆れ顔になった。
「男って奴は、やっぱり下で知ってるもんだね」
「した……」
「アンタの股の間にもぶら下がってんだろ」
「ああ」と、そこで初めてウィリアムが納得したような声を出した。ベラトリスが思わず噴き出すと、ウィリアムはまた首を傾げる。全く赤ん坊のような男だと、ベラトリスは心の中で呟いた。
「ねえ、アンタの名前を教えてよ」
胸に押し付けていたウィリアムの手を解放すると、ベラトリスはにんまり笑った。赤ん坊のようになにも知らないが、しかしこの男の見た目だけは最高だった。こんな何もないド田舎でこれだけ造作の整った男にお目にかかれるなんて、ベラトリスは考えてもいなかったのだ。折角のバカンスを退屈な田舎でジジイだけを相手にするなんて勿体ない。ここに来る前から考えていたことが、ふっと鎌首をもたげた。
「ウィリアム」
「へえ、意外に普通じゃないの」
この男、あたしのものにしてやる。ベラトリスはそう思いながら赤い唇で弧を描いた。
それから幾度か、請われるままにウィリアムはベラトリスと逢瀬を重ねた。そのたびにウィリアムはベラトリスから様々なことを教わった。ほとんどの人間は夜に寝て朝に起き、昼に働くこと。色々な色を持つ人間、大きい人間小さい人間。町での暮らし、贅沢と貧乏。よくわからないことだらけだった。その中でも一番驚いたのは、どの人間も例外なく歳を取って老いてゆく話だ。「アンタも変なこと聞くねえ」と、いつもベラトリスは不審そうだったがその内ウィリアムの反応も気にならなくなったのか何も言わなくなった。
ベラトリスと会話をする内に、ウィリアムは初めてアデルに対して疑問を覚えた。記憶の中で、確かに自分は歳を取って成長していった。けれど小さい頃のウィリアムの隣にいるのも、いまのウィリアムの隣にいるのも、同じ姿をしたアデルなのだ。ならばアデルは一体どういう存在なのだろう。そして自分はなぜ、アデルと共にいるのだろう。そのことだけは、ベラトリスに聞くことが出来なかった。何故なら、聞こうとする前に彼女が小さな肉片の欠片となってバラバラになってしまったからだ。
アデルは、かつてないほどに怒っていた。四肢を引き裂かれるような激しい苦痛とともに腸がぐらぐらと煮えている。怒りのあまり震え出す身体を抑えることは出来ず、噛みしめた唇の隙間からグルグルと低い呻き声が漏れた。
両手を血に染め、あの売女を細かく引き裂いてやっても怒りを抑えることは出来なかった。ウィリアムを穢した。あの淫売は、ウィリアムを汚したのだ! それだけに飽き足らず、純真無垢に育て上げたはずのウィリアムは疑心を知ってしまった。不審を知ってしまった。呆れを知ってしまった。そして人間を、知ってしまった。もう無知ではいられない。無垢であれるはずがないのだ。
「ウィリアム」
震える声で呼びかけると、ウィリアムはいつものように「なあに」と言った。甘えるようなその声が耳触りだった。砂糖菓子のようだったはずの微笑みさえ歪んで見える。それでも、金の髪だけは変わらずに美しい。こんな風に激情に襲われている時でさえ、その輝きはアデルを惹きつけずにはいられないのだ。その事実がアデルの心をより空虚なものにしていく。
堪らなくなって瞼を閉じたその先で、一つの光景がぼんやりと浮かび上がった。それがもしも一枚の絵だったのなら、端が擦り切れて手垢に塗れていたことだろう。それほど何度も手に取って眺め返した記憶だ。揺り籠で眠る赤子、たった一つの、アデルを照らす太陽。
「僕は、きみがとても綺麗だったから盗んできたんだ。取り替えなんかじゃない。だってきみほど美しい子供なんて、他に知らなかったから」
アデルは震えのおさまらぬ身体を自分の両腕で抱きしめると、苦痛を堪えるように頭を振った。なによりも耐え難かったのは、アデルを裏切ったウィリアムの非道さだった。大事に育て、愛情を注いだ末のこの仕打ちは彼のプライドと心をズタズタに引き裂くのに十分だった。アデルの黒い目から涙が落ちて、地面で弾けて消える。
「裏切りには罰を与えなければならない」
血の通わない、死人のような声が呪いの言葉を紡ぎだす。
「きみが一番苦しんで死ぬ道を与えよう。それは僕がいまきみを殺すことではない。残酷で、痛くて、つらく長い道をきみは行く。その道に救いはない、光はない。ただ飢えと渇き、それから、闇があるのみだ」
ウィリアムは静かに微笑んで、アデルを見つめた。黒い髪で黒い目をした少年は唇を曲げ、泣きだしそうな顔で言った。
「ウィリー、きみを愛していたのに」
※「取り替え子」……ヨーロッパの伝承。妖精・エルフ・トロールなど伝承の生物の子と、人間の子供が秘密裏に取り替えられること、またその取り替えられた子のこと。