このゆびとまれ
歩いていて、ふと目に留まった標識に首を傾げる。 <人間通行禁止>。
「何だ、あれ」
<にんげん、つうこうきんし>?初めて見る標識だ。随分とボロくさ…あ、いや、違う。レトロな雰囲気を醸し出している。標識を支える錆びかけた鉄棒が色んな方向に折れ曲がっているのが何とも言えない。 …本当に、何とも言えない。
気を取り直して、もう一度標識を見上げる。其の文字は変わらない。まあ、当たり前なんだが。<人間通行禁止>ということは人間は通ってはいけない、ということなのだろうか。もし其の通りならば、引き返さなければならない。でも、今時たかが標識ひとつにはいそうですかと従順になるのもどうか…。
何とは無しに、意味もなく辺りを見渡す。うん、普通の町並みだ。人通りの全く無い、都会の端にあるかのような閑静な住宅街。空は青い。雲は無い。気持ち良いくらいの晴天。絶好の洗濯日和――…て、主婦か俺は。
改めて、前を向く。そして、踏み出す。標識は気にしない。今時に従ってみた。標識の向こう側まで、あと一歩。片足を上げ、
「ちょいと其処の青年。其方側へは往ってはいけないよ」
ぴたりと止めた。
地面すれすれのところで下ろそうとしていた片足を止めるなんて我ながら器用だと思う(少しふらついたのはご愛敬というやつだろう)。それよりも、誰だ。何の前触れもなく声を掛けてきて俺の器用さを発揮させた奴は。
「そう、其れで善い」
先程と同じ声。満足そうな声音だった。
踏み出していた、いや、地面に足裏がついていないのだから踏み出しかけていたか。其の踏み出しかけていた片足を下げながら其の声の発信源を探す。左見て、右見て、左見て、右見て、左見て、右見、て、左、見…て…。居ねえじゃねえか!
すると、声がけらけらけらと笑い始めた。何だ、俺の挙動不審さがそんなに可笑しいか。…恥ずかしいじゃねえか此の野郎。
「私を探しているのかい?」
「見れば判るだろ」
「其れもそうだね」
「(本当に何だこいつ)」
「教えてほしいかい?」
今度は楽しんでいるかのような声音。俺は楽しくない。なんだか遊ばれている気分だ。
少しむっときたので素っ気なく返す。
「別に」
「んん?」
「別に、教えてもらってまでお前を見つけようなんて思ってない」
「けらけらら!そうかそうか!」
「(…変な笑い声)」
「そんなに教えてほしいのなら教えてあげよう」
「は、いや、だから別にい…」
「上だよ、真上」
「(『別に』って言ったのに!)」
絶対にこいつ人の話聞いてねえ。其の上あれだ。きっとこいつ『他人の不幸は蜜の味』が座右の銘だ。絶対。
…まあ、折角だ。不本意ながらも相手の居場所が判ってしまったので言われた通りに真上を仰ぐ。というか、何で真上?真上って、空だろ?
「…はあ?」
黒い。いや、空はあった。空は相変わらず青い。だが、黒い。視界の中心が黒い。黒い、之は、下駄の、歯?しかも、多分、一本歯下駄。山で修業する人たちが履いたって言われてるやつ。嗚呼、天狗が履いてたって説もあるな。て、おいおい俺。今はそんなこと関係ないだろ。関係有るといえばあるけど基本的には関係無いだろ、俺。
どう見ても、俺の頭上数メートルの位置に、黒い下駄の歯があった。取り敢えず、じっと見つめて一言。
「あの…下駄って喋れるんですか」
「阿呆」
「ぶ!」
めり。
見上げながら真顔(真剣だったから口調もつい敬語を使ってしまった)で聞いた俺の顔面に黒い下駄の歯が食い込んだ。如何やら数メートル上から重力に従って落ちてきたらしい。痛い。下駄の重量と重力が相俟って痛みも倍だ。 …と思う(物理だっけか?苦手なんだ)。
「喋れる奴も居るには居るが、こいつは喋らない」
「(喋れるの居んのかよ!)」
「まあ、偶に脱走というお洒落心を持っているくらいさ」
「……」
「けらけらけらけら」
…何に突っ込めというのだろう。
うん、よし。気を取り直して、下駄が声の主じゃない、となるときっと声の主は此の下駄の主なので――…なんか、ややこしいな。
兎に角俺は下駄を顔面から引き剥がし、数歩下がって、先程まで俺の真上だった位置を見上げた。其の位置とは、あの<人間通行禁止>の標識が立っている位置。
其の標識の上に、其処に在るのが当然かのように、悠々と、あいつは腰を据えていた。異様な、姿だった。
「…変な格好」
「むう。失礼な青年だ」
そう言う割に口角を吊り上げるあいつは、変だった。格好も、喋り方も、雰囲気も。
真っ赤で、胸と足の大部分が見えるほどに着崩された着物。真っ黒で、やたらと歯の長い一本歯下駄。真っ白で、左下の四分の一程度が手で潰し取られたかのように欠けた御面。あと目立つところと云ったら、細長く白い首と開けた胸と曝け出された太股に荒々しく巻かれている黒い布きれくらいだろうか。
「そんなに見つめて、厭だね。惚れちまったかい?」
あいつは、随分と異質な女のガキだった。
「安心してくれ。不審者に一目惚れするほど俺は落ちぶれてねえから」
「そりゃ残念」
けらけらけら。
血を塗りたくったかのように赤い唇を豪快に開けて笑う嗤う哂う。品が無い。加えて不気味だ。御面が御面なので、左の口端しかあいつの顔は見えない。
何か、あれだ。ほら、あの、妖怪の。
「のっぺら坊」
「そう、それだ」
「あたしをあれと一緒にするんじゃないよ」
「だってお前、そっくりじゃねえか」
「之は只の面、あれはあれ自体が歴とした顔だ」
「でも見た目は一緒…て、おい」
「んん?」
「俺、口に出した覚えはねえぞ」
「出していないのだから当然だろうよ」
「…心、読めんの?」
「あたしだからね」
「…ええー…」
驚愕の事実発覚。如何やら俺の思ってることはだだ漏れらしい。之って人権無いってこと?(悲しいな俺!)
「其れはそうと。其の下駄、返してくれないかい?」
つい、と差された指の先を見る。右手。其の手に握られているのはあいつの物である片方の下駄。嗚呼、返し忘れてた。意外と重いのによくもまあ今迄忘れてたな、俺。
思いながら返そうと、一歩踏み出しながら右手を掲げる。
「悪い、ほ、ら―――!」
ぴよん。
そんな効果音と共に右手の重みが消えた。からり。見開かれた俺の目に映るのは、何も持っていない右手と、下駄。ころり。重みが無いので右手に何も無いことは当然。からり。だが、下駄は。ころり。下駄は可笑しいだろう。からりころり。独りでに飛び跳ねて行く下駄なんて、可笑しいだろう。
其の儘下駄はからりころりと鳴きながら独りで地を跳ねて持ち主の許へと帰って行く。持ち主であるあいつが座っている標識の真下迄来ると、一際大きく跳ね上がり、見事あいつの片足に納まった。
「良し。之で良い」
「…もういい」
「けらけらけら」
「もう金輪際決して驚かねえよ、俺」
「先の顔、面白かったよ」
「うるせえ」
「見事な阿呆面だった」
「うるせえって」
溜息が出た。あいつと話してると疲れる。常識を逸脱する事態がこうも立て続けに起こるとは。何だってんだ、一体。今日は厄日か?住宅街の中で変な標識は見つけるし、其の上に座った変なガキには遭うし、其の所為で道は通れないし…あ?道?
其処まで回想して、思い出した。住宅街、標識、少女、道。そう、俺は標識を超えた向こうに、向こうの住宅街に行こうとしていたんだ。
「何故?」
「…何故って、」
「何故、彼方に行こうとしていたんだい?」
「そりゃ…何で、だっけ」
少女が、あいつが標識の上で足をぶらぶらと弄びながら俺を見下ろす。其の視線を受けながら、俺は標識を跨いだ向こうを見つめる。見詰める。見詰る。
其処で、気付いた。標識を跨いだ此方側の、道路に白線で描かれた<止まれ>の文字に。漸く、気付けた。標識を跨いだ彼方側の、道路に白線で描かれた<止まれ>の文字に。如何して、気付かなかったんだ。こんなにも大きく主張していたのに。
「なあ、」
「んん?」
「なあ、此処何処だ?」
何処にでも在る住宅街。否、違う。違うんだ。こんな住宅街が在る筈がない。こんな――標識を境に折り畳んだかのように左右対称――な住宅街なんて。
「其の言葉を待っていたよ」
視線を戻せば、何時の間にか地に足を付けたあいつが腕を組んで此方を見ていた。標識に背を預け、其の体の半分は此方側に、もう半分は彼方側に。にい、と其の唇は綺麗な弧を描く。豪快ではない、妖艶さを含ませた笑みだった。
俺が何か言おうと口を開ける。しかし、それを狙っていたかのようにあいつも同時に口を開け、俺よりも先に声を出した。
「――ようこそ、同士よ。此の、曖昧模糊で如何しようもない狭間の中の狭間の境界へ」
「境、界?」
「そう。狭間で在って境界で在って間隙でも在る」
満足そうに、楽しそうに、あの不快な声音で、軽快に。
「何処と何処の」
「此方と彼方の」
「…何と何の」
「けらけらけら!」
其の問いに唇を更に吊り上げ哂う。
「そんなもの、之しか無いだろうよ」
そして、あいつは緩慢な動作で双方を紹介するかのように両腕を掲げ、俺に告げた。
「ヒトと。其れ以外のモノの。――さ」
之が、俺と不可思議で不気味な奴等との、取り留めの無い日常のハジマリだった。
漢字を沢山使っているのは仕様です。読みづらい文章を目指しました。