転生と最初の救出
捜査会議で筋の悪い見立てを指摘すれば、空気を読めと言われた。被害者の訴えに気になる点があっても、上が事件性なしと判断すればそれまでだ。納得できなくても、決まった方針に従うしかなかった。
それでいて、応援で入っただけの事件が、いつの間にか俺の担当になり、取り調べから書類作成まで押しつけられることも珍しくなかった。何か問題が起きれば、責任を取らされるのは現場の人間だ。
一番ハズレの貧乏くじを引くのは、決まって俺だった。
だから、いつからか頭の中にキルスイッチを置くようになった。
理不尽だと思っても口にはしない。言われた仕事を片づけ、余計なことは考えない。助けを求める声があっても、自分にできることがなければ、そこで考えるのをやめた。
最初から何も感じなかったわけじゃない。ただ、どうにもならないことを考え続けるのは疲れる。自分が何をしたいのかまで後回しにしているうちに、考える習慣そのものがなくなっていた。
二十年も続けていれば、そう簡単には変わらない。
最期の瞬間も、そうだった。
手柄を焦った後輩が勝手に踏み込み、応援要請の無線が入った。また面倒なことになったと思ったが、行かないという選択肢は頭になかった。俺は現場へ走り、夜の路地で逃げる男を追った。
角を曲がったところで、そいつが振り返った。
乾いた音が二つ響き、胸に衝撃が走った。足がもつれ、受け身を取る間もなくアスファルトへ倒れる。
……拳銃所持の報告なんて聞いてないぞ。
頬が妙に冷たかった。
……これはダメなやつだ。始末書は、書かなくて済むな。
そこで意識が途切れた。
* * *
頬に湿った土の感触があった。
冷たい。おまけに、鼻の先で小さな虫が動いている。
死んだ人間にも虫は寄るだろうが、そいつを鬱陶しいと思うのはどうなんだ。
目を開けると、見知らぬ木々が頭上に広がっていた。葉の隙間から日が差し込み、どこかで鳥が鳴いている。少なくとも、パトカーのサイレンではない。
身体を起こし、胸を確かめた。
痛みがない。
スーツの上着を開き、シャツまで調べたが、血もなければ銃弾を受けた痕もない。胸を撃たれ、アスファルトに倒れたところまでは覚えている。夢だったにしては、あの衝撃も、頬に触れた路面の冷たさも妙にはっきりしていた。
周囲は木々に囲まれた小さな空き地だった。道らしいものはなく、少し先で森が途切れ、その向こうに空だけが広がっている。近づいて確かめると、案の定、崖だった。
どうやら、落ちたら今度こそ死ねそうだ。
「……冗談じゃないぞ」
腰や膝にも痛みはなく、二十年も使ってきた身体とは思えないほど調子がいい。その代わり、腰には見覚えのない剣と革袋が下がっていた。
剣を少し引き抜いてみる。鈍い光を帯びた刃が現れ、慌てて鞘へ戻した。模造刀には見えない。拳銃を扱った経験はあるが、だからといって刃物まで専門というわけじゃない。
革袋の方はもっとおかしかった。
外から見れば弁当箱が入る程度の大きさなのに、肘まで手を入れても底に届かない。ひっくり返して振ってみたが、何も落ちてこなかった。
「……どういう仕組みだよ」
異動初日に渡された引き継ぎ資料が白紙だったとき以来の、嫌な予感がした。
捜査報告書にしたら、最初の一行で突き返される内容だ。
とにかく、人のいる場所を探すしかない。
そう考えたときだった。
〈いや……死にたくない〉
女の声がした。
思わず振り向いたが、誰もいない。木々の間に人影はなく、足音も聞こえなかった。
「おい、誰かいるのか!」
返事はない。
耳元で囁かれたわけでも、遠くから叫ばれたわけでもない。頭の中に、知らない女の言葉だけが直接入り込んできたような感覚だった。
幻聴かもしれない。
ただ、切羽詰まった人間の声というのは、仕事柄、何度も耳にしてきた。あの響きには覚えがある。
空耳だったら、それでいい。
俺は木々の奥へ向かった。
最初の一歩で、身体が予想以上に前へ出た。慌てて次の足を踏み出すと、今度はさらに勢いがつく。
「うおっ!」
木の幹が横を通り過ぎた。
速い。いや、速いなんてもんじゃない。足元の根を飛び越え、枝をかわし、身体は勝手に木々の隙間を選んで進んでいく。自分の脚で走っているはずなのに、ついていくので精一杯だった。
現役時代、若い連中に混じって犯人を追いかけたことは何度もある。大抵は途中から息が上がり、最後は無線に頼る羽目になった。
それがどうだ。呼吸一つ乱れない。
……俺の身体、どこでこんな改造を受けた?
止まり方を間違えれば木に激突する。速度を落とそうとしたところで、前方から枝の折れる音と獣の唸り声が聞こえた。
茂みを抜けると、若い女が地面に倒れていた。片脚を引きずりながら後ずさっている。その前には、灰色の獣が立ちはだかっていた。
狼に似ていた。
ただし、背丈は俺の腰ほどもあり、口から覗く牙は犬のものとは思えない。首から肩にかけての筋肉も異様に発達していた。
獣が俺に気づき、女から身体の向きを変えた。
まずいな。こいつが何なのかは知らないが、少なくとも人間を見て逃げる種類じゃないらしい。
「おい、大丈夫か!」
女は口を動かしたが、声は出なかった。
獣が前脚を広げる。
目だけを見るな。重心を見ろ。ナイフを構えた容疑者も、殴りかかってくる酔っ払いも、動く前には身体のどこかが変わる。
前脚が沈み、左肩がわずかに落ちた。
「おおおおっ!」
声をぶつけると、獣の耳が伏せられ、踏み切りが一瞬遅れた。
横へ半歩ずれたつもりが、身体は予想以上に大きく動いた。
獣が跳んだ。
牙が目の前を通り過ぎる。
気づけば右手が腰の剣を掴んでいた。鞘から刃が滑り出し、そのまま右上から斜めに振り下ろす。
手応えがあった。
獣の身体が横へ弾かれ、木の根元まで転がった。土が跳ね、枝が折れる。獣は二度と起き上がらなかった。
俺は剣を構えたまま、しばらく動けなかった。
真剣を握ったのは初めてだ。それなのに、斬る瞬間まで手は少しも迷わなかった。
刃先に付着した血を見て、ようやく自分が何をしたのか実感が湧いてきた。
拳銃を向けたことはある。だが、引き金を引くのと、自分の腕で刃物を振り下ろすのでは勝手が違う。相手の身体を斬った感触が、まだ手に残っていた。
「……誰の仕業か知らんが、仕事には使えるな」
口にしてみても、たいして気は晴れなかった。
剣を下ろし、女へ近づいた。
「大丈夫か」
「……はい」
女は立ち上がろうとして、右膝を押さえた。ひどい擦り傷だ。
「ほかに痛いところは?」
「いえ、あの……」
女が俺の肩越しに目を向けた。
背後の茂みから、低い唸り声が二つ聞こえた。
振り返ると、先ほどの獣によく似た小さな獣が二匹、木々の間から姿を現していた。まだ成長しきっていないのだろう。
一匹はこちらに牙を剥いたが、もう一匹は倒れた獣へ駆け寄り、鼻先でその身体を押し始めた。
反応がない。
少し離れてから、また押す。耳元に鼻を寄せ、何かを確かめるように顔を動かしている。
……親だったのか。
女を襲っていた以上、放っておくわけにはいかなかった。俺が手を出したことに後悔はない。
だが、あの獣が腹を空かせていたのか、子どもを守ろうとしていたのかは、もう確かめようがなかった。
「……立てるか」
「はい。たぶん……」
「無理に走らなくていい。俺が前に出る。ゆっくり下がってくれ」
女が身体を起こすのを待ち、剣を構えたまま距離を取った。
二匹は追ってこなかった。
一匹はまだ牙を剥いていたが、もう一匹は倒れた親のそばを離れようとしない。鼻先で押し、少し待って、また押している。
何度押しても、親は動かなかった。
俺は後退しながら、その光景を見ていた。
目は逸らさなかった。
見届けるくらいは、俺の仕事だ。
* * *
「膝の傷はどうだ」
「大したことありません」
そう言うわりに、血はまだ滲んでいた。ここがどこなのかも分からない森の中だ。放っておいていい傷とは思えない。
革袋へ手を入れ、薬か布でもないか探してみたが、何も触れなかった。肘まで入るくせに、肝心なものは入っていないらしい。
「何か手当てできるものはないかと思ったんだが……」
「結構です。自分でできますから」
女は自分の服の裾を裂き、手際よく傷口を押さえた。手を貸そうとすると、わずかに身体を引いた。
……おや。
「助けていただき、ありがとうございました」
礼は丁寧だった。ただ、こちらと目を合わせようとしない。
「声が聞こえたから来ただけだ」
「声……?」
女が初めて俺の顔をまともに見た。
「私、声なんて出せませんでしたけど」
「……そうか。空耳だったらしい」
口に出していないなら、あれは何だったんだ。声のした方角に走ったら、本当に助けを求める女がいた。偶然で片づけるには出来すぎている。
もっとも、頭の中から声が聞こえたなどと説明しても、相手を困らせるだけだろう。
「では、失礼します」
女は立ち上がり、足を引きずりながら歩き出した。
早いな。
命を助けたのだから礼を尽くせとは思わないが、ずいぶんあっさりした別れ方だった。もっとも、目の前で獣を斬り殺した知らない男だ。警戒されても文句は言えない。
ただ、こちらも困っている。
「待て。俺は真野という」
女が足を止めたが、振り返っただけで近づいてはこなかった。
「実は俺も道が分からず困ってる。人里まで案内してもらえないか」
「……どちらから来られたんですか?」
「それが、俺にもよく分からん」
「分からない?」
「ああ。気がついたら、この森にいた」
女の表情が硬くなった。
しまった。事情を正直に話したつもりだが、これでは不審者の自己紹介だ。
「……道をお教えするだけなら」
「助かる。名前を聞いてもいいか」
「ヨーコと申します」
「ヨーコか」
日本人の名前じゃないか。見たところ外国人のようだが、今の状況で名前一つに驚いても仕方がない。
「村までは近いのか」
「行き先は村ではありません。両親に会いに行く途中でした」
「そうか。なら、途中まででいい」
ヨーコは小さくうなずき、先に歩き出した。
俺が横に並ぶと、彼女は少し速度を落とし、後ろへ下がった。道を尋ねれば答えてくれるが、それ以上は話しかけてこない。
右膝をかばっているせいで足取りは遅いが、本人は休もうとしない。獣の出る森で立ち止まる方が危ないのかもしれなかった。
やがて見覚えのある空き地に出た。
俺が目を覚ました場所だ。その先は崖になっている。こんな場所に家があるとは思えないが、ヨーコは迷わず崖の方へ向かい、手前に並んだ二つの石積みの前で足を止めた。
額に指先を当て、目を閉じる。
……そういうことか。
墓だったのだ。
俺も少し離れた場所で手を合わせた。
仕事で葬儀に参列したことは何度もあるが、遺族に何を言えばいいのか分からず、とりあえず手を合わせて帰ってきたことも一度や二度じゃない。
今回も何を祈ればいいのか分からなかった。
「……その祈り方は」
目を開けると、ヨーコが俺の手を見ていた。
「どうかしたか」
「父も、そうしていました」
「親父さんも?」
「はい。ニホンから来た人は、そのように祈るのだと」
ヨーコという名前に、合掌の仕草。
なるほど。話がつながった。
「親父さんは、日本人だったのか」
「はい。ニホンから来たと聞いています」
「そうか。実は俺も日本から来たんだ」
「……そうですか」
今度こそ何か反応があると思ったが、ヨーコはそれだけ答えて墓石へ向き直った。
「親父さんのこと、詳しく聞かせてもらえないか。俺はここがどこなのかも分からんし、同じように日本から来た人間がいたなら、何か手掛かりがあるかもしれない」
ヨーコはすぐには答えなかった。
二つの墓石に目を向け、それから俺の腰に下がった剣を見た。
「……父は、ニホンから来た方を何人も助けていました」
「俺だけじゃないのか」
「はい」
「そうか。それなら、ぜひ話を聞きたい」
ヨーコは少し考え込んでいたが、やがて小さくうなずいた。
「今日、お会いしたのも女神さまの定めなのかもしれませんね。私の家へどうぞ」
「いいのか?」
「父なら、きっとそうしたと思いますから」
それでも、宿を貸してくれるというのだからありがたい。財布も携帯もない身では、強がっている場合じゃなかった。
ヨーコの後について森を抜けると、村が見えてきた。
ただし、人の暮らしている村には見えなかった。
屋根の落ちた石造りの家が並び、窓から雑草が伸びている。道だったらしい場所にも草が生え、井戸の周りは蔓に覆われていた。戸締まりをして留守にしている家と、もう誰も帰ってこない家では、荒れ方が違う。
ここは後者だった。
「この村には、あんた一人か」
「はい」
「ほかの住人は?」
「数年前に村を出ました。父も母も亡くなりました」
「なぜ残った」
「ここが家だからです。父も母も、ここにいますから」
ヨーコはそれだけ答えて、村の奥へ歩き出した。
質問が気に障ったのか、単に話したくないのか。どちらにしても、これ以上訊いたところで答えは変わらないだろう。
俺は黙って後に続いた。
まともに住めそうなのは、村の一番奥にある一軒だけだった。屋根は補修され、入口の周囲だけ草が刈られている。
「こちらです」
ヨーコは扉を開け、俺が入るのを待った。
家の中は古びていたが、掃除は行き届いていた。窓際には補修した跡のある椅子が並び、食器棚には三人分の器が残っている。
三人分。
誰も使わなくなった器まで、丁寧に洗われていた。
「そちらにお掛けください」
勧められた椅子に腰を下ろすと、ヨーコは向かいには座らず、台所の方へ行ってしまった。
……徹底してるな。
日が暮れる頃、ヨーコが戸棚から麦と豆、それに小さな干し肉を取り出した。
「夕食です。どうぞ、お食べください」
差し出された皿には干し肉の半分と豆が盛られていたが、ヨーコ自身の皿には豆が少ししかない。
「あんたの分はどうした」
「私は、お昼にたくさん食べましたから」
下手な嘘だった。取り調べなら、新米刑事でも見破れる。そもそも俺が見ている前で戸棚を開けたのがまずい。残っているのは、せいぜい一握りの麦だけだった。
「俺の分はいらん。あんたが食え」
「お気遣いなく。お客さまにお出ししたものですから」
「客といっても、いきなり押しかけたようなものだろう」
「父も、ニホンから来た方には食事をお出ししていました」
「だからって、あんたの分まで出す必要はない」
「……お召し上がりにならないんですか?」
穏やかな口調だったが、少しだけ強くなった。
どうにも噛み合わない。
食事を出してくれるのに、こちらが気遣うと困った顔をする。親父さんの教えだけで、ここまでしてくれるものだろうか。
「いや、そういうわけじゃないが……」
ヨーコは皿を引っ込めようとしなかった。
困ったな。ここで遠慮を押し通しても、余計に気まずくなるだけだ。
あの革袋に、何か入っていればいいんだが。
腰の革袋を開き、食べられるものでもないかと手を入れてみた。
指先に、温かいものが触れた。
……おいおい。
掴んで引っ張り出すと、大きな葉に包まれた平たい塊が現れた。葉を開けば湯気が立ち上り、白い生地の中に豆と刻んだ野菜が包まれている。
「なんだ、これ。肉まん……じゃないな」
「リュカ包み……」
ヨーコの声が変わった。
「知ってるのか」
「母がよく作っていました。父も好きだった料理です。特別な日に作ってくれて……」
彼女は包みを見つめたまま、言葉を切った。
俺には見慣れない料理だが、ヨーコにとっては違うらしい。
革袋をもう一度探ってみたが、今度は何もない。
「一個だけか」
「さっき、思っていたんです。父と同じ国から来た方なら、母のリュカ包みを食べてほしいなって」
俺は手の中の包みと、革袋を見比べた。俺が欲しかったのは何でもいいから食べ物。ヨーコが望んだのは、俺に母親の料理を食べさせること。
それで、これが出てきたのか。
仕組みはさっぱり分からないが、偶然にしては出来すぎている。
「真野さんがお食べください」
「半分で十分だ。あんたも食え」
「でも、それは真野さんのために……」
「宿代込みだ。遠慮するな」
包みを半分に割り、大きい方をヨーコの皿へ置いた。彼女はすぐには手をつけず、しばらく眺めていた。
「冷めるぞ」
「……はい」
両手で持ち上げ、小さく口をつける。
そのまま動かなくなった。
「……どうした」
「おいしいです」
頬を涙が伝った。
「母の、味です」
俺も自分の分をかじった。豆と野菜の甘みが口に広がり、後から香ばしい穀物の風味が残る。初めて食べる味だが、妙にほっとする。
ヨーコはもう一口食べ、今度はゆっくり噛んでいた。
急いで食べ終えるのが惜しいのかもしれない。
夕食はリュカ包みと、少しの豆を煮たものになった。
「親父さんも、これを食べてたのか」
「はい。母が作ると、いつも二つ食べていました」
「よほど好きだったんだな」
「そうですね」
ヨーコは手元の包みを見て、少し笑った。
「親父さんのことを聞かせてくれ」
「父も最初は森で野宿していたそうです。母が見つけて、この村へ連れてきたんです」
「なるほど。俺と似たようなものか」
「そうですね。父はそのまま母と暮らすことを選んだそうです。でも、後からニホンの方が来るたびに、必ず家へ連れてきていました」
「俺みたいな奴を?」
「はい。この世界のことを何も知らない方ばかりでしたから。父は言葉や暮らし方を教えて、王都までの道を案内していたそうです」
「ずいぶん面倒見のいい親父さんだったんだな」
「はい」
ヨーコは迷わず答えた。
「それで俺を家に呼んだのか」
「父がいたら、きっと同じことをしたと思います」
なるほど。日本から来た人間は、俺だけじゃないわけだ。
この世界へ来た理由も帰る方法も分からないが、先に来た人間がいたのなら、何か手掛かりが残っているかもしれない。
「真野さんは、何をなさるおつもりですか?」
「……さあな」
二十年間、次に何をするかで困ったことはほとんどない。事件は勝手に回ってきたし、終わったと思えば別の仕事が押しつけられた。
それが今は、やれと言ってくる人間が一人もいない。
喜ぶべきなのだろうが、いざそうなると何をすればいいのか分からない。
「まあ、拾った命だ。こっちで何ができるか、試してみるさ」
「そうですか」
「まずは王都だな。道は分かるか?」
「森を抜けて街道へ出たら、南へ進んでください。三日ほど歩けば、大きな関所に着きます」
「三日か。そこから王都までは?」
「関所を越えてからも、まだかかります」
思っていたより遠そうだ。金もなければ食料もない。剣と妙な革袋だけで旅行を始めるとは、我ながら無計画にもほどがある。
「助かる。明日の朝に出るよ」
ヨーコは俺のスーツを見て、少し考え込んだ。
「あの、そのお召し物では、道中で目立ってしまうと思います。父の服と革鎧がありますので、よろしければお使いください。旅用の水袋と毛布も残っています」
「この格好じゃ、そんなに目立つのか?」
「はい。たぶん、いろいろと詮索されると思います」
そいつは面倒だ。ただでさえ現在地の説明がつかないのに、服装のことまで聞かれても困る。
「ありがたく借りるよ」
「父のものですから、お返しいただかなくても大丈夫ですよ。ニホンから来た方にはいつもそうしていましたから」
「そうか。じゃあ、せめて汚さないようにする」
「革鎧ですから、汚れても大丈夫ですよ」
「……そういうものなのか」
ヨーコがくすくすと笑った。
初めて見る、年相応の笑い方だった。
艶のある黒髪に、整った目鼻立ち。こうして笑うと、ずいぶん綺麗な顔をしている。
……いや、待て。二回りは若いだろう。下手なことを考えれば、今度は俺が取り調べられる側だ。
俺は何食わぬ顔で、借りることになった革鎧へ目を戻した。
その夜は、板張りの床に借りた寝具を敷いて眠った。
事件の呼び出しも、無線の雑音もない。明日出勤する必要さえないのだから、気楽なものだ。
もっとも、明日の仕事を心配する必要がなくなった代わりに、明日の飯と寝床の当てがない。
結局、どこへ行っても楽はできないらしい。
* * *
翌朝、譲ってもらった服と革鎧に着替えた。想像していたより軽く、肩や腕も動かしやすい。父親の体格が俺に近かったのか、寸法もそれほどおかしくなかった。
ヨーコは台所で、残っていた麦と干し肉を小さな袋へ詰めていた。
「真野さんの旅の食料です。持っていってください」
「全部じゃないか。置いておけ」
「私は大丈夫です。山に入れば、木の実や山菜がありますから」
右膝の傷はまだ腫れていた。まともに森を歩ける状態とは思えない。
「昨日、飯と寝床を借りた。それで十分だ」
「でも……」
「王都までの道も教えてもらったし、服まで譲ってもらった。これ以上は受け取れん」
ヨーコはしばらく袋を抱えていたが、やがて戸棚へ戻した。
「今日はどうする」
「両親に会いに行きます」
「そうか」
昨日も墓参りをしていた。両親を大切に思っているのだろう。
「真野さんに出会えて、父の話ができて……本当によかったです。ありがとうございました」
「こっちも助かった」
礼を言って家を出た。
村の通りには、昨日と同じように人の姿がなかった。崩れかけた家の間を抜け、森へ続く道へ向かう。
十数歩で、足が止まった。
……待てよ。
両親に会いに行く。昨日も墓参りをしていた。毎日の習慣かもしれないが、残っていた食料まで全部渡そうとしたのはどうだ。
怪我をした脚で山へ入れば食べ物が採れるというのも、無理がある。
どれも証拠にはならない。捜査会議でこんなことを言えば、考えすぎだと一蹴されるだろう。
昔の俺なら、ここで頭のキルスイッチを押していた。
自分の担当じゃない。証拠もない。余計なことをするな。
「……くそっ」
俺は振り返り、全力で引き返した。
地面を蹴ると、昨日と同じように身体が前へ飛んだ。森の木々が左右へ流れ、さっき歩いてきた道を一息に駆け抜けていく。
声は聞こえなかった。
聞こえなくても、戻る理由なら十分だった。
森を抜けると、墓石の横にヨーコが立っていた。
つま先は崖の縁にあった。
俺は数歩手前で止まった。ここで飛びつけば、二人とも落ちかねない。相手が驚いて一歩退いたら、それだけで終わりだ。
「ヨーコ」
彼女が振り返った。
「真野さん……なぜ、ここに?」
声は落ち着いていた。俺が戻ってきたことを喜んでいるようにも、困っているようにも聞こえない。
「道案内が要る」
「……道案内、ですか?」
「ああ。お前の親父さんが王都へ送り出した連中の足取りを追いたい。この土地を知らない俺一人じゃ、どこから調べればいいかも分からん」
ヨーコは足元へ目を落とした。
「……私には、もう何もありません。父も母もいなくなって、村には誰もいません。食べるものだって、もう……」
「だったら、ちょうどいい。俺も今夜の飯の当てがない」
ヨーコが顔を上げた。冗談だと思ったのかもしれないが、残念ながら事実だ。
「でも、私がいても……お役に立てるかどうか」
「少なくとも、俺よりこの土地を知っているだろう。まずは王都まで案内してくれ」
俺は手を差し出した。
「それに、服も飯ももらった。まだ恩を返し足りない」
ヨーコは差し出した手を見つめていた。
崖の向こうから風が吹き上がり、彼女の髪が揺れる。
昨日会ったばかりの人間が、両親を失ってからの数年間を理解できるはずもない。何を考えているのかも分からない。
それでも、一緒に来てくれと言うことはできる。
ヨーコはゆっくりと足元へ目を落とした。
そして崖の縁から一歩、こちらへ踏み出した。
俺はその手を取り、崖から離れた場所まで一緒に歩いた。
ヨーコはそこで膝から崩れ落ちた。背中が小さく震え始める。
「真野さん。父と母は、ニホンから来た女神の使者様に殺されました」
俺が日本から来たと告げたときの、あの素っ気ない返事を思い出した。
訊きたいことは山ほどあった。だが、崖から離れたばかりの相手に事情聴取を始めるほど、俺も野暮じゃない。
何も言わず、そばにしゃがんだ。
……また、割の合わないヤマを引き受けてしまったらしい。




