魔導百科事典
第7話です。
前話では主人公がこの世界の「違和感」に気づき始めましたが、今話ではその正体、そして世界の理に一歩踏み込みます。
軍人としての分析眼を持つ彼が、未知のエネルギー「魔法」をどう定義するのか。
お楽しみください。
母から放たれたあの奇妙なエネルギーを目の当たりにしてから、すべてが変わった。
それはもう、単なる好奇心ではなかった。
「高優先度の目標」となったのだ。
読み書きを覚えることは、単なる利点ではない……絶対的な優先事項となった。それが次のステップ、つまり「図書室」への唯一の道だったからだ。
そして、ようやく最初の言葉を口にできるようになった時、私は新しいフェーズを開始した。
「好奇心旺盛な子供」というフェーズだ。
だが、問題があった。……そう単純ではなかったのだ。
前世で分隊を指揮し、生死を分かつ状況に直面してきた男にとって、この世界での最初の大きなジレンマは、呆れるほど家庭的なものだった。
私は追い詰められていた。
文字通り。
エララとジャレッドの期待に満ちた視線の前で。二人は私の「最初の言葉」という栄誉を巡って、静かなる戦いを繰り広げているようだった。
「ほら、『パパ』って言ってごらん……」
「いいえ、いいえ。『ママ』よ……」
包囲網は絶え間なかった。
だが結局、論理が勝った。
エララは食料供給を支配しており、そして何より、私の目の前でこの世界の法則を書き換えたあのエネルギーの保持者だった。
だから、私は決断した。
「マ……マ……」
沈黙。
一秒。
そして……。
エララは歓喜に沸いた。
ジャレッドは隠しきれない落胆と共に溜息をついた。
そして私は……説明しがたい「技術的な羞恥心」を感じていた。
だが、それだけの価値はあった。
その瞬間、私の潜伏工作は完璧なものとなった。
そこから、私は誰もが見たがっていた存在になったのだ。
ヴァンクロフト家の「小さな奇跡」に。
エララ、そして金髪の女性・シズカの指導の下、すべては予想以上の速さで進んだ。
彼女たちは、ただ子供の好奇心を満たしているだけだと思っていた。
だが、見当違いだ。
一つ一つの走り書き……。
一つ一つの記号……。
繰り返される一つ一つの言葉……。
私はすべてを吸収した。
分析し、比較し、暗記する。
そしてついに……すべてが繋がった。
世界はもう、ぼやけた塊ではなかった。
それは「盤面」へと変わった。
この世界の名は、テリュス (Tellus)。
パンゲアと呼ばれる巨大な唯一の超大陸があり、そこでは六つの王国が覇権を争っている。
母の話から再構築した情報によれば、私たちの位置は明確だった。
スルラント (Surlanth) 王国。
西の果て。
人間族の領土だ。
人間族の覇権は圧倒的……少なくとも表面上は。
大陸の約7割を支配し、三つの大国に分かれている。
スルラント。
北の王国、ホーマーズ (Homers)。
そして、アステリア (Asteria)。
だが、均衡はそう単純ではない。
その覇権を打ち破る、他の三つの名が存在する。
サハール (Sahar)。
ヒマル・ガル (Himal-gar)。
パラジー (Palagy)。
そして、そこからすべてが変わる。
なぜなら、その分割の理由は政治的なものではない。
歴史的なものだからだ。
「ずっと昔のことよ……」
エララが語る物語の一つが耳に入った。
「空で戦争があったの……」
すぐには反応しなかった。
だが、その名を聞いた時……。
すべてが止まった。
「ルシファー (Lucifer)」
……。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
ルシファー?
その名がここに存在するはずがない。
別の世界、別の物語のはずだ。
それなのに……。
確かに、そこにいた。
「……ルシファーは、雷のように天からテリュスに落ちてきたと言われているわ」
物語は続いたが、今の私にとって、その一言一言が最優先事項として処理されていた。
「その体は……砕け散り、翼は……消え去った。そして、その血が……」
母は一度、言葉を切った。
「……世界を汚染したの」
それは宗教の話には聞こえなかった。
生物学的な、あるいはエネルギー的な「事象」のように聞こえた。
「川も、空気も……すべてが変わってしまった。そして動物たちは変異し始めた……」
魔物だ。
「そして、その性質そのものが……彼らに現実を操作する力を与えたのよ」
私の頭の中で、すべてが繋がり始めた。
エネルギー。
変異。
改変能力。
「人間たちは……適応せざるを得なかった」
そして、彼らは適応したのだ。
だが、全員が同じように生き残ったわけではない。
一部の者は……変貌した。
その性質を体内に留めようとしたのだ。
そしてその過程で……。
進化を遂げた。
そうして他の種族が誕生した。
エルフ。
ドワーフ。
亜人。
変異……逸脱……適応。
だが、誰もがそれを受け入れたわけではなかった。
元の姿を保った人間たちは、自らを「純血」と称した。
そしていつものように……。
純潔主義は紛争を引き起こした。
戦争が勃発したのだ。
人類は、自分たちが「汚染」とみなすものの痕跡をすべて根絶しようとした。
そして……ある程度、それは成功した。
大陸の七割が彼らの支配下となった。
残りは……他の種族の間で断片化された。
だが、それでは十分ではなかった。
彼らはすべてを消し去りたかったのだ。
そして……。
憎しみが最高潮に達した時……。
一人の英雄が現れた。
戦う者ではない。
死を以て……成す者だ。
彼の犠牲が世界を浄化した。
その死から……。
新しい何かが生まれた。
「魔法」だ。
ルシファーの汚染された性質ではない。
別の、異なるエネルギー。
神聖で。
均衡が取れた。
すべての種族が利用可能な力。
魔物にも……そして悪魔にも対抗しうる力。
その物語は……すべてを変えた。
それまで、この世界は分析すべき未知の環境に過ぎなかった。敵対的な場所ではあるが、一定の法則の下で理解可能な領域。
だが、今は違う。
今は、別のものが存在する。
前世の世界には存在しなかった「変数」。
魔法。
それは抽象的な概念や迷信ではなく……実在し、機能し、そして何より「アクセス可能」な力として。
私はゆっくりと母に視線を向けた。
エララ。
まるで傷など最初からなかったかのように、私の足の傷を造作もなく塞いでみせた女性。
その瞬間、理解した。
あれは「手品」などではなかった。
あれは……そのエネルギーの「実用的応用」だったのだ。
「……」
私は何も言わなかった。
だが脳内では、すべてが再構築され始めていた。
もしその「魔法」が、ルシファーの汚染とは異なるエネルギーの結果であるならば……そこには必ず「法則」があるはずだ。
法則があるならば……。
学ぶことができる。
学ぶことができるならば……。
支配することができるはずだ。
母さんは穏やかに本をめくり続けていたが、幸いなことに、私の視線がわずかに鋭くなったことには気づかなかった。
完璧だ。
新たな目標が定まった。
「魔法に関する知識の習得」
そして、そのためには……。
可能な場所はただ一つ。
図書室だ。
私の図書室への立ち入りは、単なる「気まぐれな訪問」ではなくなった。
それは今や、明確な目的を持った「作戦」だった。
入り、観察し、暗記し……そして去る。
だが今回は、それ以上のものが必要だった。
断片的な文字や物語ではない。
体系化された情報。
分類された知識だ。
何度かの失敗――本の大山を崩しそうになったアクシデントを含め――を経て、ついに探し求めていたものを見つけた。
他よりも重厚で、分厚い一冊。
使い込まれた表紙。
刻まれた紋章。
頻繁に使用されている形跡がある。
……重要だ。
人目に付かずにそれを開くのは、今の私には並大抵の努力ではなかった。手の筋力はまだ未発達だ。だが数秒の静かな格闘の末……成し遂げた。
不器用ながらも制御された手つきで、ページを繰る。
そして、鍵となる記述を見つけた。
一つの見出し。
「魔法」
よし。
ついにだ。
私の目は、瞬時にテキストを走査した。
『魔法とは創造主の真髄であり、「マナ」として知られる。それは、魔術に対抗するために用いられる主要な力である』
マナ。
それがこの力の名称か。
先を読み進める。
『発現方法は大きく分けて二つ。
一、詠唱:発動は遅いが、威力は高い。
二、魔法陣:発動は早いが、威力は低い』
思考が即座に回転を始める。
「実行時間」対「出力」。
クラシックな構成だ。
「……」
さらに読み進める。
『魔法は主に五つの系統に分類される。
攻撃。
防御。
支援。
召喚。
封印』
体系化されたシステム。
専門特化。
予想の範囲内ではあるが……定義は明確だ。
だが、次に続く一文……。
それこそが重要だった。
『テリュスに生きるすべての個体は、マナを操作する能力を有している』
……。
手が止まった。
その一行を読み直す。
もう一度。
さらにもう一度。
「全員」だと?
ならば、私にも含まれる。
胸にわずかな高鳴りを感じた。
恐怖ではない。
期待だ。
読み続ける。
『しかしながら、誰もがそれを外部に発現できるわけではない。世界の理を理解し得ぬ者は、マナを内部でのみ行使することが可能である』
内部……。
思考は自動的にジャレッドへと飛んだ。
彼の動き。
周囲の空気が反応する様。
「……」
なるほど。
すべて説明がつく。
彼が魔法を使っていなかったのではない。
使っていたのだ……「己の体内」で。
身体強化。
能力の底上げ。
それが彼を危険な存在にしていたのだ。
極めて、危険な。
私は再びテキストに目を落とした。
『個人の適性を判断するには、臍に位置する「マナの核」に意識を集中させる工程を要する』
……興味深い。
『この核は、体内の至る所に断片として散らばっている。使い手はそれらを集約し、中心点となるまで形成させねばならない』
エネルギーの断片化。
再統合。
内部の視覚化。
それは……一種の精神修練だ。
それなら理解できる。
『核が形成された暁には、使い手は外部へ魔法を発現させるために必要な「構造」を感知し得るようになる』
そして、もしそれが現れなければ……。
『その個体は、マナを内部でのみ行使可能であることを意味する』
私はゆっくりと本を閉じた。
思考は静寂に包まれていた。
処理。
整理。
評価。
これは……単なる利点ではない。
「好機」だ。
もし全員がマナを使えるのであれば……。
ならば、差が生まれるのは才能ではない。
「理解」の深さだ。
そして、そこにおいて……。
私には分がある。
ゆっくりと、拳を握りしめた。
小さく。
不器用な。
だが、機能する手だ。
これが「理解」に依存するものであるならば……私にも習得できる。
そして、習得できるのであれば……。
彼らを超えることすら可能だ。
私の視線は、無意識のうちに扉へと向いた。
それから廊下へ。
そして最後には……。
この家を越え、この世界をも越えた、どこか定かならぬ一点へと注がれた。
読んでいただきありがとうございました。
ようやく本作の魔法体系の一端が見えてきました。
「マナ」と「魔術」、そしてルシファーという名の存在。前世の知識を持つ彼にとって、この名前が何を意味するのか……今後の展開の鍵となります。
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次回、いよいよ「実践」編です。




