ここは異世界か?
意識の再起動。
目覚めた場所は、硝煙の匂い漂う戦場ではなかった。
死を受け入れたはずの男が、次に目にしたのは「不条理」という名の現実。
第2話、開演です。
感覚が一つ、また一つと戻ってくる。
クリティカルなシステムエラーの後の、再起動のように。
最初は、空気だ。
重く。
湿り気を帯びた。
以前とは違う空気。
次に、音。
近くでパチパチと爆ぜる火の音……そして、鳥の声。だが、ジャングルの鳥ではない。その鳴き声はもっと柔らかく、どこか……奇妙だった。
それから、触覚。
肌に触れる、粗い布の質感。
そして最後に……。
重み。
自分自身の身体。
重く。鈍い。自分のものではない鎧を着せられているかのような感覚。
目の前で、二つの人影が形を成した。
女たちだ。
その顔には疲労の色が濃い。深い隈、張り詰めた眼差し……何日も眠っていないかのようだった。
簡素な服を着ている。戦術的でもなければ、近代的でもない。
私の知る何物でもなかった。
彼女たちは互いに話し合っている。
だが、一言も理解できない。
まるで川のせせらぎを聞いているようだった。
流動的な音……意味を持たない響き。
一人が、私の目が開いていることに気づいた。
彼女は口元に手をやる。
驚愕。
もう一人が即座に反応した。
身を乗り出し、私の額に手を置く。
冷たく。
柔らかい手。
「何が起きた……?」
話そうと試みた。
だが、何も出ない。
ただ乾いた音が。
ひび割れた。
無力な音が。
喉が、応じないのだ。
(落ち着け)自分に命じた。(呼吸しろ。分析しろ)
目を閉じ。
周囲を遮断する。
重要なことだけに集中した。
自分の状態だ。
もし先ほどのこと――深淵や、あの光たちが幻覚だったとするなら、これには医学的な説明がつくはずだ。
麻酔。
重度のトラウマ。
あるいはショック状態。
私の身体は鎮静剤で飽和しているに違いない。
それが、この重苦しさの説明になる。
鈍さ。
乖離感。
(どれほどの間、意識を失っていた……?)
もし数日間だったなら……。
筋萎縮。
反射の低下。
全身の衰弱。
予想の範囲内だ。
右手を動かそうとした。
反応した。
遅く。
ぎこちないが。
それでも、動いた。
次に、足を動かそうとする。
痙攣が脚を突き抜けた。
本物の痛みではない。
それは……残響だ。
衝撃の記憶。
銃弾。
私の身体は、あたかもまだそこにいるかのように、傷口が開いたままであるかのように反応した。
だが、そうではなかった。
それでも、それは重要なことを確信させた。
接続はまだ生きている。
私の精神は……。
まだ、機能している。
再び目を開けた。
今度はより詳細に、周囲を分析する。
モニターはない。
医療機器もない。
病院特有の、あの化学薬品の匂いもしなかった。
そこにあったのは……。
煙。
薬草。
そして、土の匂い。
辻褄が合わない。
何一つとして。
女たちは話を続けている。
時折、笑い声さえ混じる。
まるですべてが正常であるかのように。
(何を話している……?)
彼女たちを読み取ろうと試みた。
ボディーランゲージ。
意図。
脅威の有無。
何もない。
敵意は感じられなかった。
ただ……。
平穏があるだけだ。
その時、私は「見て」しまった。
本当の意味で。
彼女たちを凝視する。
そして、すべてが崩壊した。
年上の女は……。
二十歳そこそこにしか見えない。
その髪は白かった。
だが、老いによるものではない。
天然の。
純粋な白。
手つかずの雪のような色だ。
その瞳は……。
フューシャ。
鮮やかで。
深く。
あり得ない色。
人間の目ではなかった。
もう一人は……。
さらに若い。十五歳ほどだろうか。
髪は黄金色。
ありふれた金髪ではない。
文字通り、黄金。
光を反射しているかのようだ。
そして、その瞳は……。
淡いブルー。
あまりにも澄み渡り。
あまりにも完璧。
傷跡一つなく。
摩耗も。
不完全さもない。
それは……。
現実離れしていた。
胃のあたりに、虚無感が走る。
これは遺伝学の問題ではない。
地理学の問題でもない。
ここは、地球ではない。
(違う……まだ、鎮静剤が効いているんだ……)
その考えにしがみついた。
それが唯一の論理的な帰結だからだ。
私の精神が補完している。
イメージを作り出し。
現実を歪めているのだ。
「エリザベスは外にいる」自分に言い聞かせた。
「ディエゴはまだ生きている」
「ただ、報告書を求めろ」
呼吸する。
自らを安定させる。
制御が必要だ。
手を伸ばした。
白髪の女に向けて、真っ直ぐに。
彼女を、掴もうとした。
自分を繋ぎ止めるために。
答えを要求するために。
だが……。
私は、動きを止めた。
私の手……。
それは、私の手ではなかった。
小さく。
柔らかい。
傷跡一つなく。
歴史もない。
それは……。
赤ん坊の、手だった。
世界が凍りつく。
自分の顔に触れようと試みた。
ぎこちない動き。
連動しない筋肉。
まるで自分の身体の使い方を忘れてしまったかのようだ。
指が肌に触れる。
滑らかで。
弾力があり。
歳月を重ねていない。
「生」を刻んでいない肌。
「何が……」
叫びは出なかった。
ただ、泣き声だけが漏れる。
甲高く。
弱々しい。
絶望に満ちた産声。
女が、微笑んだ。
私を抱き上げ。
胸に抱き寄せる。
まるで……。
子供であるかのように。
もう一人が近づいてくる。
笑いながら。
私の手で遊びながら。
私は……。
何もできなかった。
私の精神は……。
まだ、無傷のままだ。
だが、この身体は……。
違う。
私のものではない。
軍人のものではない。
大人の男のものでもない。
それは「器」だ。
新しい。
空っぽの。
無力な器。
パニックが、襲いかかった。
恐怖ではない。
本物の、狂気にも似たパニックだ。
私の部隊。
私の妻。
私の任務。
すべてが……。
消え去った。
回収はない。
病院もない。
帰還もない。
あの光は……。
私を救ったのではない。
私を「初期化」したのだ。
首を巡らせる。
窓。
沈みゆく夕日。
そして、その反射の中に……。
私は、それを見た。
一人の赤ん坊。
瞳は暗い。
だが、空虚ではなかった。
冷徹で。
分析的。
それは、私の目だった。
その時……。
すべてが、腑に落ちた。
あの深淵。
あの実体。
あの審判。
あのトンネル。
夢ではなかった。幻覚でもない。
私は、死んだのだ。
あの場所で。ジャングルの奥地で。
任務を完遂し。
そして今……。
転生した。
異世界へと。
私は数分間、身じろぎ一つせずにいた。
衰弱していたからではない……ただ、精神が起きている事態を処理しきれなかったのだ。
新しく、小さく、脆い身体の重みを感じる。それはかつての私とは完全に無縁なものだった。呼吸の一つひとつが異なり、短く、浅い。鼓動の音さえも、まるで他人のもののように違って聞こえた。
目の前では、二人の女がまだ話し続けている。
その声は速く、柔らかく、音楽的でさえある……だが、理解不能だ。
単語一つ分からなかった。
それだけで、私の中のあらゆる警戒アラームを鳴らすには十分だった。
彼女たちの表情が変わった。
先ほどまでは喜びにあふれていたが……今は不安が混じっている。
私を見つめている。
あまりにも、熱心に。
だが、私の心は彼女たちと共に伝わらなかった。
別の場所に。
別の時間に。
別の人生の中にあった。
(エドゥアルド大尉は……もう存在しない)
その思考は、前触れもなく胸を撃ち抜く弾丸のようにやってきた。
肉体的な痛みはない……だが、その衝撃はどんな銃創よりも酷いものだった。
「エリザベス……」
彼女の名前が残響のように脳裏に浮かぶ。
そして、それに付随するすべてが。
任務の後に見せる、彼女の微笑み。
気に入らないことがある時の、あの重い眼差し。
私が迷っている時に、私を導く彼女の声。
私のチーム。
ディエゴ。
ビクトリア。
『S.O.M.B.R.A.S.(ソンブラス)』。
彼ら全員が……。
消え去った。
死んだのではない……敗北したのではない……。
ただ、私の手の届かない場所へ行ってしまったのだ。
永遠に。
私の中で、何かが壊れた。
そして、私は泣いた。
それはありふれた泣き声ではなかった。
赤ん坊の本能的な産声ではない。
すべてを失った男の、魂の吐露だった。
小さな身体は、制御不能な嗚咽と共に震えた。呼吸は不規則に、絶望的になり、もはや存在しない世界にしがみつこうとするかのようだった。
(何か……方法はあるのか?)
弱々しく、馬鹿げた考えがよぎる。
(戻れる可能性は?)
(エラーか?)
(不具合か?)
(帰還する道は?)
だが、心の奥底では……すでに答えを知っていた。
そんなものは、ない。
白髪の女が即座に反応した。
私の内面とは対照的な、この上ない優しさで抱き上げる。彼女は私を胸に抱き、静かな調べを口ずさみながら、ゆっくりと身体を揺らした。
私をなだめようとしている。
私を守ろうとしている。
だが、彼女には分からなかった。
分かるはずもなかった。
彼女にとって、私はただ泣いている赤ん坊に過ぎない。
だが、私にとって……これは葬儀だった。
少しずつ、泣き声は消えていった。
痛みが消えたからではない……。
ただ単に……もう、力が残っていなかったからだ。
そして――。
突然、扉が勢いよく開いた。
意識よりも先に、身体が反応する。
即座に警戒態勢。
一人の男が、確かな足取りで入ってきた。
言葉を理解する必要はなかった。
彼の放つエネルギーがすべてを物語っていたからだ。
歓喜。安堵。そして、誇り。
彼の視線は、真っ直ぐにあの白髪の女へと向いた。
その見つめ方……。
疑う余地はない。二人は夫婦だ。
私の分析は一瞬だった。
(両親か)
男が近づいてくる。
背が高く、逞しい。広い肩幅。
黒い髪に、灰色の瞳。
だが、重要なのは外見ではない。
その身のこなしだ。
効率的。的確。
一切の無駄がない。
私の本能が、瞬時に彼を識別した。
(この男……戦士だ)
その手が、それを証明していた。
重なり、鍛え抜かれた力。経験。
彼は私の上に身を乗り出した。
私の頭に、彼の手が置かれるのを感じる。
重く。ぎこちない。
だが……真摯な手だ。
そして、彼は口を開いた。
たった一つの言葉。
低く、明瞭な響き。
「……アリス」
沈黙。
その言葉が、脳裏で繰り返される。
(アリス……)
もう一度。
「アリス……」
女たちも、その名を口にした。
何度も。
理解した。
(それが……私か)
拒絶はなかった。否定もしない。
ただ……受容。
冷徹で。直接的な。
任務で新しい偽装身分を受け取るかのように。
(エドゥアルド大尉……抹消)
(新指定:アリス)
新しい父親は、造作もなく私を持ち上げた。
その動きは荒っぽかった。
この身体には、あまりにも速すぎる。
視界が回る。
世界の平衡が崩れた。
(おい――!)
だが、話すことはできない。
感じるだけだ。
彼は笑いながら、私を窓の方へと高く掲げた。
誇らしげに。
まるで、自分の最大の功績を世界に示しているかのように。
そして、その時――。
「ミャーォ!」
すべてが一変した。
彼の反応は即座だった。
振り向く。
速い。速すぎる。
私の平衡感覚が、崩壊した。
世界が回った。
天井。
光。
影。
顔。
すべてが混ざり合う。
(もっと、ゆっくりしろ……!)
ようやく焦点が定まった時……。
私はそれを見た。
一匹の猫。
漆黒の毛並み。
金色の瞳。
輝き。
知性。
あまりにも、聡明な。
窓辺に座り。
私たちを観察していた。
だが、奇妙だったのは……。
猫ではない。
私の父親だ。
彼は動きを止めた。
それを見つめる。
凝視。
静寂。
交換。
言葉のない。
まるで、両者が……。
理解し合っているかのような。
そして、その瞬間――。
何かを感じた。
何かが、そぐわない。
沈黙はわずか数秒だった。
だが、私には……それで十分だった。
父は猫から目を逸らさなかった。
そして猫も……私から目を逸らさなかった。
単なるペットではない。
瞬時に確信した。
その佇まいに、何かがある。
完全に静止したままの、その姿。
金色の瞳に映るのは好奇心ではなく……評価だった。
分析し。
測り。
審判を下しているかのように。
ようやく、父が肩の力を抜いた。
完全ではない。
だが、十分に。
警戒を……部分的に解いたのだ。
白髪の女が、小さく笑い声を上げた。まるでこの状況が完全に正常であるかのように。
金髪の少女が猫に近づき、親しげに撫で始める。
あまりにも、無防備に。
合点がいかない。
もしあの動物が、彼のような男に本能的な警戒心を抱かせるものだとしたら……。
決して、無害なはずがない。
父が再び動いた。
今度はより遅く。
より制御された動きで。
彼は私を慎重に下ろし、あの女の腕へと戻した。
私の、母親に。
猫が窓から飛び降りた。
音もなく着地する。
優雅に。
的確に。
こちらへ歩いてくる。
一歩、また一歩と。
急ぐ様子もなく。
意識よりも先に、身体が反応した。
あらゆる筋肉に、自動的な緊張が走る。
戦闘本能。
滑稽だ……この身体では。
だが、本物だった。
猫は私の真ん前で足を止めた。
私の手から、わずか数センチの距離。
そして――。
私を、見た。
真っ直ぐに。
赤ん坊の目ではない。
この身体でもない。
「私」を。
はっきりと、感じた。
あの動物は……知っていた。
空気が重くなる。
濃密に。
一瞬、あの深淵で経験した感覚に近いものを覚えた。
物理的な領域を超えて……観察されているという、あの感覚。
猫はわずかに首をかしげた。
何かを確信したかのように。
そして――。
喉を鳴らした(ゴロゴロと)。
だが、それは普通の音ではなかった。
振動。
胸の奥に。
骨の髄にまで響く。
ある種の周波数のようだった。
言葉のないメッセージ。
『見えているぞ』
背筋に、冷たいものが走った。
そして……猫は離れていった。
何事もなかったかのように。
ベッドに飛び乗り、丸くなって、完全にリラックスして目を閉じる。
だが、もう遅かった。
私の精神は、完全に最高度の警戒態勢に入っていた。
(この世界は……正常ではない)
白髪の女が、再び私を見た。
今度はより穏やかに。
より……決意を秘めて。
彼女のフューシャ色の瞳が、柔らかく細められる。
そして、それが起こる前に理解してしまった。
本能。
生物学。
生存。
彼女の手が、服へと伸びた。
そして、ボタンを外し始める。
静寂。
私の思考が……凍りついた。
(……よせ)
一秒。
(よせ、よせ、よせ)
二秒。
(待て)
三秒。
(話し合おうじゃないか)
だが、無駄だった。
交渉の余地など、どこにもない。
大人の論理が、生物学的な現実の前に粉砕される。
彼女は私を胸に近づけた。
すべてが、あまりにも速く進んでいく。
(止まれ!)
心の中で絶叫した。
(私は軍の将校だぞ!)
(伏兵や爆撃、自殺的な任務さえ生き延びてきたんだ!)
(これは……作戦上の尊厳に著しく反する!)
だが、私の身体は……。
同意しなかった。
本能が「栄養」を検知した瞬間――。
反応した。
自動的に。
抗いようもなく。
私の口が開く。
そして、私は敗北した。
完全に。
人生で最も屈辱的な敗北だった。
私は強く目を閉じた。
精神的に現実逃避しようと試みる。
(これはシミュレーションだ)
(そうだ……間違いない)
(極限環境での訓練だ)
(心理的コントロールの一種だ)
嘘だ。
すべて、嘘だ。
遠くで、父の笑い声が聞こえた。
低く。誇らしげな。
(結構だ)
(私の「後継ぎ」は食欲旺盛だな)
(素晴らしい)
ベッドの上の猫が……。
再び喉を鳴らした。
誓ってもいい。
あれは、馬鹿にしたような響きだった。
(いつか……)
敗北感にまみれながら、私は思った。
(いつか、スプーンの使い方を覚えてやる……)
(その時が来たら……)
(二度と、こんな真似はさせん)
猛烈な疲労が襲ってきた。
抗いがたい。
思考が鈍り、重くなっていく。
だが、意識を手放す寸前――。
一つの像が浮かんだ。
エリザベスだ。
私の傍らに立ち。
私を見つめている。
あの表情で。
厄介事が起きる時の、あの顔だ。
(……本気なの?)
脳裏に響く、彼女の声。
冷ややかで。鋭い。
(これがあの偉大なるエドゥアルド大尉?)
静寂。
(夕食を楽しんでるのかしら?)
私の中で、何かが弾ける音がした。
だが今度は……。
痛みではなかった。
それは……。
笑いだ。
弱々しく。ぎこちない。
バラバラな笑い。
赤ん坊の身体は、その表現方法を知らなかった。
それは、啜り泣きと高笑いの中間のような、奇妙な音になった。
母が身を固くする。
困惑。
奥の方で、父が何かを言った。
誇らしげな響き。
だが、私はもうそこにはいなかった。
その笑いは……。
私の中に残っていた、最後の一片だった。
大尉としての。
エドゥアルドとしての。
眠りが私を引きずり込む。
抵抗はしなかった。
意識が完全に消え去る直前……。
ただ、一つのことだけを考えた。
(どこにいようと……)
(今、私が何者であろうと……)
(生き延びてやる)
暗闇。
静寂。
そして――。
無。
意識。
唐突な目覚めではなかった。
驚きも。パニックもない。
それは……緩やかだった。
深い湖の底から、精神がゆっくりと浮上してくるかのような感覚。
最初に感じたのは、温もりだった。
柔らかな。絶え間ない熱。
次に、音。
パチパチ……パチパチ……。
薪のはぜる音。
目を開けた。
世界は、まだそこにあった。
夢ではなかったのだ。
木造の天井。
黒ずんだ梁。
壁に反射する、炎のオレンジ色の光。
すべてが……変わらずにそこにある。
ゆっくりと息を吐いた。
少なくとも、そう試みた。
(確認。これは現実だ)
今回の目覚めには、否定はなかった。
抵抗も。
ただ、受容だけがあった。
わずかに首を巡らせる。
動きはぎこちないが……前回よりはマシだ。
(進歩だな)
室内は静まり返っていた。
白髪の女――私の母親は、壁にもたれかかり、毛布を半分被った状態で眠っていた。その呼吸は長く、重い。顔のいたるところに疲労が刻まれていた。
金髪の少女の姿はない。
父親も……いない。
だが、彼はいた。
猫だ。
同じ場所に、まだいた。
私を観察している。
その金色の瞳は、以前と同じ輝きを放っていた。
眠っていない。
休んでもいない。
監視しているのだ。
(お前は、何者だ……?)
フィルターを通さず、その問いが脳裏をよぎった。
猫が瞬きをした。
ゆっくりと。
まるで見透かしたかのように。
彼は視線を逸らした。
だが、去りはしなかった。
意識を切り替える。
優先事項の確認だ。
現在の状況:
・肉体:新生児
・機動力:制限あり
・通信手段:皆無
・環境:未知
・テクノロジー:不在(目視の範囲内)
・言語:理解不能
結論:
(完全な脆弱性)
人生でこれほど不利な状況に立たされたことはない。
待ち伏せに遭った時も。
敵地に取り残された時も。
包囲された時でさえもだ。
これは……それらより酷い。
私に「制御」がないからだ。
そして、制御がなければ……。
戦略は立てられない。
一度、目を閉じる。
(ならば、構築するまでだ)
新しい目的:
生存すること。
学ぶこと。
適応すること。
ゼロから。
数分が経過した。
あるいは、もっと長かったかもしれない。
時間の感覚を掴むのは……困難だった。
だが、何かが変わった。
感覚だ。
研ぎ澄まされ始めた。
音をより鮮明に聞き分けることができる。
火の音。
窓から入り込む、風の音。
外で何かが動いている。
動物たちだ。
だが、ジャングルのものとは違う。
異質。
より……洗練されている。
再び目を開けた。
そして今度は……。
真実を、観察した。
壁は急造されたものではない。
木材には手が加えられている。
精密に切り出されたものだ。
布地は……。
厚手で。
職人の手仕事が感じられる。
プラスチックはない。
近代的な金属もない。
電気もない。
だが、原始的でもなかった。
それは……秩序立っていた。
(テクノロジーレベル……低)
(だが、安定している)
視線を窓へと移す。
外には――。
空。
記憶にあるものとは違っていた。
星々が……。
あまりにも多すぎる。
そしていくつかは……。
あるべき場所に、なかった。
静寂。
(確認。ここは地球ではない)
恐怖は感じなかった。
ただ……明晰さだけがあった。
かすかな動きが、分析を中断させた。
母親だ。
彼女が目を覚ました。
その視線が、即座に私に注がれる。
彼女の表情に変化があった。
安堵。
彼女は微笑んだ。
ゆっくりと近づいてくる。
その動きは柔らかく。
慎重だ。
まるで、私を壊してしまうのを恐れているかのように。
彼女は私の隣に座った。
そして、話しかけてきた。
再び。
あの言語で。
だが、今度は……。
それほど異質なものには聞こえなかった。
単語の意味は分からない。
だが……。
声の調子。
意図。
感情。
それは、理解できた。
それは……慈しみ。
守護。
家族。
彼女は身を乗り出し。
自分の額を、私の額にそっと合わせた。
温かく。
確かな、現実。
私の身体が反応した。
兵士としてではない。
一人の人間として。
目覚めてから初めて……。
戦争のことは考えなかった。
死のことも。
エリザベスのことも。
ただ……。
呼吸をした。
隅の方で、猫が……。
目を開けた。
そして、観察していた。
静寂の中で。
まるで、知っているかのように……。
何かが、今始まったのだということを。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
伝説の軍人としての矜持が、赤ん坊としての本能に敗北する……そんな皮肉な再スタートを描いてみました。
あの黒猫の存在も、これからの物語に大きく関わってきます。
アリス(エドゥアルド)のこれからの成長を見守りたいと思っていただけたら、
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次回の更新もお楽しみに!




