故郷のその先へ
第3部、開幕。
燃え上がる故郷を背に、少年アリスは未知なる荒野へと踏み出します。
壁に守られた平穏な日々は終わりを告げ、待っているのは過酷な現実と、魔法の理が支配する広大な世界。
魔力を持たぬ元軍人の魂が、この異世界で何を見つけ、どう抗っていくのか。
アリスの本当の旅が、ここから始まります。
一体、何時間歩き続けただろうか。
パンゲアの風景に慈悲などなかった。
地形は進むほどに険しく、牙を剥く……。子供の体は悲鳴を上げ始めていた。
だが、思考を止めるわけにはいかない。
いや、止められなかった。
状況は明白だ。
物資は最低限。目的地は不明。そして飢えが判断力を鈍らせ始めている。
それが何よりの「死」への近道だ。
だから、俺は子供として考えるのをやめた。
「兵士」として思考を開始する。
太陽が地平線へと沈み始め、空を濁った紫色に染めていく。
それは美しい夕映えなどではない。
「警告」だ。
この世界において、夜は休息を意味しない。
「狩り」の時間だ。
そして今の俺たちは……格好の獲物に過ぎない。
「ここで止まろう」
背負っていた小さな荷を下ろしながら言った。
意見は求めない。そんな時間はなかった。
誰かが答える前に、俺はすでに動いていた。
この手は——小さく、未熟だが——訓練されている。
頑丈な枝、広い葉、柔軟な蔓。それぞれの素材を瞬時に見極める。
偶然に頼るものは何一つない。
すべてに意味がある。
静香はいない。
父さんも。
ならば、結論は一つだ。
この一行の「安全」は……俺の肩にかかっている。
あずみと母様が後ろで立ち止まり、慌ただしく立ち回る俺を黙って見ていた。
杭を打ち込み、傾斜をつけた構造物を組み上げていく。
迅速に。
効率的に。
機能的に。
「……一体、何をしているの、アリス?」
ようやく、あずみが問いかけてきた。
その声には疲労……そして、好奇心が混じっていた。
視線は手元に固定したまま答える。
「日が暮れる」
結び目をきつく締め上げる。
「明日も目覚めたいなら、野ざらしで寝るという選択肢はない」
もう一本、枝を調整する。
「即席のシェルターを作っているんだ。風を避け、体温を保ち……そして俺たちを『隠す』」
最後の一つが、最も重要だった。
あずみが近づいてくる。
その瞳が、俺の手元を射抜く。
結び目を。構造を。
彼女の表情が変わった。
「……即席には見えないわね」
彼女の指が、俺が施した固定箇所に触れる。
「手際が……良すぎるわ」
しまっ(チッ)、と思った。
「どこでそんなことを覚えたの?」
あずみが俺を真っ直ぐに見据える。
その眼差し。いつだって分析し、暴こうとする。
一瞬、躊躇した。
失策だ。
「ああ……図書室だよ」
手を止めずに答える。
「役に立ちそうな本がいくつかあったんだ」
重苦しい沈黙。
「図書室に?」
母様が繰り返した。
わずかに顔を向ける。
エラ母様はエイラを抱き、明らかな疲労を見せていたが、その瞳だけは……完全に冴え渡っていた。
「アリス」
彼女が静かに、優しく続ける。
「私はあの家に何年もいたけれど……」
一拍置いて。
「そんなことを教える本なんて、一冊も記憶にないわ」
「…………」
枯れ葉を最後の層に重ね、シェルターのシルエットを周囲に馴染ませる。
完璧だ。
……あるいは、それに近い。
俺は微かに笑った。
無理やり作った、小さな笑みだ。
「……運が良かったんだと思います」
誰も答えなかった。
あずみがため息をつき、俺の「枝の山」を、敬意と懐疑心が混じったような目で見つめる。
夕闇の中で、彼女の輪郭がどこか神秘的に見えた。
「私が土魔法を使えれば、数分で小屋くらい建てられるのだけれど」
彼女は地面を指して、何気なく言った。
「こんなものより、ずっと頑丈なものをね」
俺は枝を握ったまま、動きを止めた。
その考えが、雷のように俺を打った。
「……そんなことができるのか?」
心底驚いて聞き返した。
あずみは、世界で一番当たり前のことを聞かれたかのように眉をひそめた。
「当然でしょう。熟練した土魔導師なら、石や土を自在に練り上げられる。壁でも、避難所でも……構造物すべてをね。魔法はこの世界のほとんどのことを、容易にしてくれる」
俺は沈黙した。
泥と小さな傷にまみれたこの両手が、彼女の語る力の前では無意味なものに思えた。
そんな力が……。
前の世界にそれがあれば、すべてが変わっていただろう。
飢えを失くせただろうか?
すべての人に住処を与えられただろうか?
……それとも、ただ「より効率的に破壊し合う方法」を見つけ出しただけだろうか。
あずみを見る。
そして、エイラをあやしている母様を見る。
前の世界では、人間の「血の滲むような努力」だけが、進歩を支える唯一の糧だった。
だが、この世界では……。
一つの所作が、数年分の労働を代替してしまう。
俺は視線を落とした。
「……そいつは、便利だな」
独り言のように、呟いた。
夜が唐突に訪れた。
移ろいなどない。
誰かが空を重い外套で覆い隠したかのようだった。
俺はペースを上げ、シェルターを完成させる。入り口を風下へと向け、最後の一層として葉を重ねて補強した。
機能的。
隠密。
これで十分だ。
ついでに、周囲に数箇所の括り罠を仕掛けておいた。基礎的なものだが、効果はある……はずだ。
だが、その時——
あずみが前に出た。
彼女が手を軽く動かす。
空気が張り詰めた。
そして、ものの数秒で……。
俺たちの手元には食料が揃っていた。
迅速。
鮮やか。
無造作。
俺は黙ってそれを見つめた。
俺の罠が……
まるで子供の玩具のように見えた。
鼻から息を吐き出す。
「……最高だな」
一方、エリガクはと言えば、何一つしていなかった。
ずっと高い枝の上で眠り、動かず……まるでこの騒動など自分には関係ないとでも言いたげだった。
食料の匂いが漂い始めた時だけ、ひょいと降りてくる。
当然だ。
いつだって、タイミングだけは完璧だ。
俺は視線を投げた。
エリガクは耳をピクリと動かす。
もう片方も。
そして、苛立たしいほど悠然と、短く鼻を鳴らしてから足を舐め始めた。
「少しは自分で獲ってこい!」
一瞬、堪忍袋の緒が切れて叫んでしまった。
「よしなさい、アリス」
エイラをあやしながら、母様が疲れの見え隠れする、けれど穏やかな笑みで割って入った。
「放っておいてあげて」
「ただの猫でしょう」
あずみも、大して興味なさそうに指を差した。
「普通の猫ならな」
俺は毒づいた。
「こいつは違う」
黒猫が俺を見た。
じっと。
こちらの言葉をすべて理解しているかのように。
「……前なんて、俺のことを自分の玩具みたいに扱い分けたんだ」
ぼそりと付け加える。
エラ母様が、小さく笑った。
柔らかく。
確かな、笑み。
その瞬間……周囲の空気が、わずかに軽くなった気がした。
「シェルターは完成したの?」
カムフラージュされた構造物を見ながら、母様が尋ねた。
俺は立ち上がり、手の汚れを払う。
「ああ、母様」
一拍置いて、周囲の様子を窺う。
暗い。
静かだ。
「今夜はこれでしのげるはずだ」
……そう、願いたい。
「母様、中に入って……少しでも休んで」
シェルターの入り口へと、母様を優しく促す。
「俺とあずみで交代で番をするから。心配はいらないよ」
エラ母様は一瞬俺を見つめ、それから頷いた。
「わかったわ、アリス……でも、気をつけてね。お願いよ」
その声には、単なる疲労以上のものが混じっていた。
誇り……そして、恐怖。
「エイラの様子は?」
母様の腕の中にある小さな塊に視線を落とす。
「大丈夫よ」
彼女は微かな笑みを浮かべて答えた。
「あなたのおかげよ」
俺は頷いた。
だが、勝手に手に力がこもる。
その「おかげ」という言葉は、本来あるべき重さよりもずっと、俺の心に重くのしかかった。
心の底では、わかっていたからだ。
「十分」ではなかった。
もし、もっと強い体があれば。
もし、マナがあれば。
逃げ出す必要なんてなかったはずだ。
苦い味が、喉の奥からせり上がってくる。
(いつか……)
拳を握りしめる。
(いつか、必ず見つけ出してやる。
家族をバラバラにした報いを受けさせてやる……キメラ)
エラ母様は、それに気づいた。
彼女は、いつだってそうだ。
母様は歩み寄り、俺の手を自分の手の中に包み込んだ。
温かく……力強い手だった。
「自分を責めないで、アリス」
母様が静かに言った。
「あなたの父様もしずかも、とても強いわ……最高の使い手よ」
彼女の指先に、少しだけ力がこもる。
「あの二人なら大丈夫。必ず私たちを見つけ出してくれる」
俺は黙って頷いた。
だが、俺の脳は「希望」では動かない。
「確率」で動く。
距離。
時間。
リスク。
母様はシェルターに入り、エイラを胸に抱いて慎重に横たわった。
数秒待ち、俺はその場を離れる。
周囲を一周して異常がないかを確認し、あずみが熾した焚き火のそばへと戻った。
火の温もりは心地よい。
だが、それだけでリラックスできるほど甘くはなかった。
俺の視線は絶えず動き続ける。
木立の境界線。
影。
風のリズム。
そのすべてを。
しばらくして、あずみが隣に座った。
オレンジ色の火影が彼女の顔に揺らめく影を落とし、その表情の多くを覆い隠している。
数分間、沈黙が流れた。
ただ、薪が爆ぜる音だけが響く。
「……身内を守るにしても、変わったやり方ね、アリス」
ようやく、あずみが口を開いた。こちらを見ようとはしない。
「子供の盲目的な愛情じゃないわ、それは」
彼女は言葉を続ける。
「……責任感。そう、責任感よ」
一拍置いて。
「まるで、自分よりも遥かに大きな何かを背負っているみたい」
俺は炎を見つめたまま動かなかった。
「物事が最悪な方向に転がった時、誰かが目を光らせていなきゃならないんだ」
俺は答える。
「魔法で壁を作ることはできても……」
少しだけ言葉を止める。
「……どこから殴り飛ばされるかまで、魔法が教えてくれるわけじゃない」
「そうね……」
彼女は溜息混じりに呟いた。
わずかに顔をこちらに向ける。
「けれど、あなたの年齢にしては、それにしたって『現実味がない』わ。……そんな考え方に、慣れすぎている」
重苦しい沈黙。
「ねえ、アリス」
彼女の声が、わずかに低くなった。
「その頭の中では、本当は何が起きているの?」
俺は数秒間、火を見つめ続けた。
炎は穏やかに揺らめいているが、
俺の頭の中は……雑音で溢れかえっていた。
「……あずみ」
ようやく、俺は呟いた。
「……しずかと父さんに、また会えると思うか?」
彼女の問いを避け、こちらからは見ずに尋ねた。
あずみは数秒間、沈黙した。
思案するように。
「アリス……」
ようやく、彼女が口を開く。
「あの時現れたエネルギーは……尋常なものじゃなかった」
彼女は森の暗闇へと視線を転じた。
「私たちだけをここに連れてきたとは、思えないわ」
一拍置いて。
「あの二人も、きっとどこかにいる。そう確信しているわ」
彼女の瞳が俺に戻る。
真っ直ぐな、強い眼差し。
「二人とも、私たちを見つけ出すまで決して諦めない。あんなに簡単に、終わるはずがないもの」
焚き火が俺たちの間で爆ぜた。
「それが何を意味するか、わかる?」
彼女が問いかける。
俺は横目で彼女を見た。
「……何だ?」
「私たちも、諦めるわけにはいかないっていうことよ」
俺は視線を落とした。
自分の手を見る。
小さく。
何も掴んでいない、空の手だ。
「……でも」
俺は淀んだ。
言葉が、予想以上に重く喉に支える。
「でも、何?」
彼女が追い討ちをかける。
俺は指先に、力を込めた。
「……魔法もない俺のようなガキに、一体何ができるっていうんだ?」
静寂が、一瞬だけ流れた。
そして——
あずみが、小さく笑い声を漏らした。
嘲笑ではない。
柔らかな、笑いだ。
「アリス……確かにあなたは魔法を使えないかもしれないわ」
彼女が、わずかに俺の方へと身を乗り出す。
「けれど、あなたの中身が子供だなんて、私はこれっぽっちも思っていないわよ」
俺は顔を上げた。
「このテリスのどこを探したって、あなたのように戦い……あなたのように立ち続けられる子供なんて、一人もいやしないわ」
彼女の言葉に誇張はなかった。
それは確信だった。
「あなたの役目は家族を守ること。……それを魔法で成し遂げる必要なんてないわ」
一拍置いて。
「あなたは、あなたのやり方でそれをやっている」
木々の間を風が吹き抜けた。
葉がざわめく。
「そのまま進んでいけば……」
彼女の声が、さらに低くなる。
「いつか必ず、多くの魔導師を凌駕する存在になるはずよ」
彼女が、わずかに目を細めた。
「魔導師になる必要なんて、どこにもないの」
俺は答えなかった。
すぐには、出せなかった。
再び自分の手を見つめる。
それから、炎を。
そして……。
空を。
そこには、すでに星々が輝いていた。
静寂の中で、瞬いている。
夜が、完全に降りてきたのだ。
そしてそれと共に……。
俺たちの旅が、本当の意味で始まった。
「…………」
ゆっくりと、息を吐き出す。
「……選択肢なんて、最初からないんだな」
「ええ、一度だってなかったわよ」
あずみが、微かな笑みを浮かべて返した。
俺の視線は、空に留まったまま。
木々の先へ。
暗闇の先へ。
俺が知るすべての、その先へ。
初めて……。
俺はこの世界を、ありのままに見ようとしていた。
壁もなく。
保護もなく。
近道もない。
ただ、「俺」と、
そして外で待ち受けている「ナニカ」だけ。
(いつか……また二人に会えるだろうか)
父さん……。
しずか……。
(そして、何より……)
(……エリザベス。お前に)
その問いは、思考の最深部へと沈んでいった。
皆様、お待たせいたしました!第3部の連載スタートです。
数日間、更新が滞ってしまい申し訳ありませんでした。少しお時間をいただきましたが、今日からまたアリスたちの物語を全力で紡いでいきます。
これから物語はより広く、より深く展開していきます。
もし今回の話を読んで「続きが気になる!」「応援したい!」と思っていただけましたら、ブックマークや評価【☆☆☆☆☆】をいただけますと幸いです。
皆様の応援が、私の執筆活動の何よりの原動力になります。
これからも、本作をどうぞよろしくお願いいたします!




