母の重圧
静寂がこれほどまでに痛みを伴うものだとは、想像だにしなかった。
家は相変わらずそこにある。
廊下も変わっていない。
壁も元の場所にある。
それなのに……。
すべてが違って感じられる。
私は窓辺に座り、庭を眺めるともなく眺めていた。風がカーテンを優しく揺らし、部屋にわずかな光を投げかけている。
腕の中では……。
アリスが眠っている。
寝息は穏やかだ。安定している。
まるで、何も起きなかったかのように。
わずか数時間前、彼の体が崩壊の淵にあったことなど嘘であるかのように。
ゆっくりと視線を落とす。
彼の小さな手。
上下する胸。
そして――あの傷跡。
指先がその一つに触れたとき、微かに震えた。
消えていない。
どれほど否定したくても、そこに在る。
これは悪い夢ではないのだ。
「……ここに、いてくれるのね……」
掠れた声で呟く。
利己的な安堵。
彼が失ったものが……二度と戻らないと分かっているから。
目を閉じ、彼を胸に抱きしめる。
「ありがとう……」
誰に言うでもなく、そう漏らした。
「行かないでくれて、ありがとう……」
だが、安堵は長くは続かなかった。
すぐ後ろから恐怖が忍び寄る。
それは、いつだってやってくるのだ。
「どうやって、あなたを守ればいいの……?」
声が震えるのを感じながら囁いた。
私は、最初からこうだったわけではない。
最初から弱かったわけではない。
私の名が「母親」以上の意味を持っていた時代があった。
目を閉じる。
そして、思い出す。
この家に来る前。
ジャレッドに出会う前。
この穏やかな生活が始まる前。
世界は、いつも静かだったわけではない。
人類が他の種族を圧倒し、その地位を固めた後……私たちが勝利を確信したとき……。
「彼ら」が現れた。
悪魔。
知性のない獣ではない。
それよりも質の悪いもの。
思考し。
憎悪を抱くものたち。
本当の戦争が始まったのは、その時だった。
領土のための争いではない。
「存在」を賭けた戦い。
人間……エルフ……ドワーフ……亜人……。
初めて、彼らは互いに殺し合うのを止めた。
選択肢がなかったからだ。
共に戦うか……。
共に消え去るか。
私はそこにいた。
あの戦争の中に。
魔法が癒やしのためではなく……。
生き残るために使われていた場所に。
深く、息を吐く。
私の手……。
今、息子に触れるだけで震えているこの手は……。
かつて、決して迷わなかった。
私は見てきた。
私は成してきた。
母親が、決して思い出してはならないようなことを。
「……皮肉ね……」
私は呟く。
あんな地獄を生き延びた私が……。
自分の息子一人、守ることができないなんて。
目を開ける。
そして、再び彼を見た。
だが今度は……。
より注意深く。
最初の日から、アリスが他の子とは違うことは分かっていた。
彼を初めて抱き上げた時に、それを悟った。
彼は泣いた。
だが、すぐではなかった。
そして、他の赤ん坊のような泣き方でもなかった。
空腹でもない。
恐怖でもない。
それは……。
「悲しみ」だった。
まるで、何かを失ってしまったかのような。
何かがもう、そこにはないのだと理解しているかのような。
あの泣き声……。
今でも覚えている。
あの瞳……。
あまりにも鋭く、注視する目。
あまりにも……自覚的な。
「……あなたの中に、何があるの……?」
唇をわずかに動かし、囁く。
恐怖ではない。
少なくとも、それだけではない。
名付けようのない、奇妙な感覚。
指が、彼の傷跡の上で止まる。
「……あなたに、何が起きているの……?」
答えはない。
ただ、彼の寝息が聞こえるだけ。
けれど、胸の奥で……。
何かが噛み合わない。
初めて……。
危険が「外」から来るのか。
それとも……。
「ここ」に、既にあるのか。
それが、分からなくなったから。
「……自分を責めすぎるべきではありません」
その声が、私を思考の淵から引き戻した。
振り返らなくても、それが誰であるかは分かっている。
「……シズカ」私は呟いた。
彼女はいつものように、入口の近くに立っていた。背筋を伸ばし、静かに。語る言葉よりも多くのものを観察しながら。
「あなたは、その手にできる限りのことをしました」彼女は穏やかに付け加えた。「あなたの立場なら、誰もが……」
「いいえ」私は声を荒らげることなく、彼女の言葉を遮った。「誰もが、ではないわ」
私はアリスをさらに強く胸に抱きしめた。
「分かっていたのよ。私は」
私たちの間に沈黙が流れる。
彼女の視線を感じる。
先ほどよりも、鋭く、注視するような視線を。
「エララ様……」
「少しお休みになるべきです……」彼女は低い声で言った。「もう何時間も、動かずにいらっしゃいます」
私はゆっくりと首を振った。
「できないわ……」声が震える。「もし……あの子が目覚めた時に、私がそばにいなかったら?」
シズカはすぐには答えなかった。代わりに、ゆっくりと歩み寄り、私の隣に立った。跪くこともなく、距離を置くこともなく。
ただ……そこにいてくれた。
「アリス様は……見かけよりもお強い方です」彼女が囁く。
私は彼の小さな手を、より強く握りしめた。
「それは、良いことではないわ、シズカ……」
彼女は数秒間、沈黙した。一語一語を慎重に選ぶかのように。
「いいえ……良いことではありませんね」彼女はようやく認めた。「ですが、悪いことでもありません」
私は理解できず、眉をひそめた。
「最初の日から……」彼女は続けた。「彼の中に、何か違うものがあると感じていました」
一瞬、私の呼吸が止まる。
「力の話をしているのではありません……」彼女は素早く付け加えた。「『存在感』の話です」
目を閉じる。
ええ……私もそれを感じていた。
「あの子は……」シズカはアリスを見つめて言った。「必要以上に観察しています。見かけ以上に聞き耳を立て……どんな子供にも不可能なほど、物事を理解している」
私の唇に、微かな、悲しい微笑が浮かんだ。
「分かっているわ……」
短い沈黙があった。だが、それは気まずいものではなかった。
「それでも……」彼女は続けた。「あの子があなたにどれほど執着しているか、私は見てきました」
私はゆっくりと目を開けた。
「あなたを目で追い、抱き上げられると安堵し……誰も見ていないと思う時に、ふと微笑む姿を」
指先が震えた。
「あの子は……ただ思考しているだけではありません」彼女は優しく言った。「『感じて』もいるのです」
胸の奥が締め付けられる。
何よりも私を苦しめていたのは、そのことだった。
力ではない。
エネルギーではない。
危険でもない。
ただ、これほどまでのことがあっても……。
やはり、私の息子なのだという事実。
私は彼を見下ろした。
その顔は今は穏やかだ……あまりにも穏やかすぎる。
「シズカ……」私は囁いた。
「はい、奥様」
一瞬、躊躇した。
「私……何か間違ったことをしたかしら?」
後に続いた沈黙は、重かった。
だが、それは逃避ではなかった。
「いいえ」彼女はきっぱりと答えた。「そして、失礼を承知で申し上げれば……これがあなたのせいだとも思いません」
私は唇を噛んだ。
「なら……どうして……?」
最後まで言い切る前に、声が震えて途切れた。
シズカはすぐには答えなかった。
だが、口を開いた時……その声はかつてないほど優しかった。
「世の中には……ただ……最初から自分たちよりも大きな存在として生まれてくるものがあるからです」
私の瞳が潤んでいく。
そして、あの事件が起きてから初めて……。
心から「恐怖」を感じた。
世界に対してではない。
魔法に対してではない。
悪魔に対してでもない。
もっと質の悪い、何か。
自分の息子を……。
私の理解すら及ばない「何か」から、守ることができないのではないかという恐怖。
「……あの子が生まれた日のことを、今でも覚えているわ」
自分でも気づかないうちに、言葉が漏れていた。
隣に立っていたシズカが、わずかに顔を向けた。
「はい、奥様?」
私は微笑まずにはいられなかった。疲れ切ってはいたけれど、本物の微笑みを。
「初めて目を開けたとき……」私は続けた。「私たち全員を驚かせたわね」
シズカが鼻で小さく笑った。
「ジャレッド様と、そっくりな目でした」
私は頷いた。
「ええ、全く同じ……」アリスを見下ろしながら言う。「生まれる前に、彼と賭けをしたのを覚えているわ」
「覚えています」彼女は答えた。「旦那様は、あの子が自分の目を受け継ぐと確信していらっしゃいました」
「私は反対したの」私は小さく笑い声を上げた。「もっと穏やかな……私の目になるって言い張って」
私は首を振った。
「負けちゃったわね」
「そして、お料理をすることに」シズカが微かな笑みを浮かべて付け加えた。
「一週間丸々よ」私は訂正した。「しかも、ただの料理じゃない……彼の好物ばかりをね」
一瞬の間……。
すべてが軽くなった気がした。
もっと普通で。
まるで、その記憶が別の人生のものであるかのように。
「でも……」私は少し首を傾げて続けた。「あの日、一つだけ不思議なことがあったの」
シズカが注意深く私を見た。
「不思議なこと、ですか?」
私は頷いた。
「ええ……」その瞬間を追体験するように、少し目を細めて言った。「あの猫よ」
シズカは反応するのに一秒かかったが……それから小さな笑い声を漏らした。
「ああ……」
「どこからともなく現れたわ」私は続けた。「まるで、最初からそこにいたかのように」
「誰も、入ってくるところを見ていませんでした」彼女が付け加えた。
「そう。人が出入りして……あちこちで物音がして……それなのに……」
「いつの間にか、部屋の中にいたのですね」シズカが言葉を継いだ。
私たちは一秒間、沈黙した。
「奇妙だとは思ったけれど……不安には感じなかったわ」私は言った。「ただ……場違いな感じがしただけで」
「かなり近くまで寄ってきました」シズカが呟いた。「普段なら、近づけさせないほどに」
私は静かに頷いた。
「それでも……追い払おうとは思わなかったの」
それが……ずっと不思議だった。
「あの子(猫)は見つめていたわ……」私は考え込むように付け加えた。「私じゃない。あなたでもない」
「アリス様を、ですね」シズカが言った。
「ええ……」
ベッドのアリスに視線を移す。
「まるで、興味を惹かれたかのように」
「あるいは、何かを確認(認識)していたかのように」シズカがさらりと言った。
それは奇妙には聞こえなかった。
不吉にも聞こえなかった。
ただの……一つの観察結果として。
「結局、自分から出て行ったわね」私は言った。「音も立てず、騒ぎも起こさず……」
「そして数日後、戻ってきました」彼女が付け加えた。
私は微かに微笑んだ。
「ええ……そして、居着いたわ」
「まるで、そうすることに決めたかのように」
ゆっくりと息を吐き出す。
「当時は、大したことじゃないと思っていたけれど……」
もう一度、アリスを見た。
「でも、今は……」
言葉を最後まで言わなかった。
その必要はなかったから。
シズカも何も言わなかった。
けれど今回の沈黙は、疑念ではなかった。
私の頭の中で形を成し始めた、同じ思考だった。
恐ろしいこととしてではなく。
脅威としてでもなく。
ただの……単純な「未知」として。
私の子を取り巻くあらゆる事象の中にある……もう一つの謎。
魔法とは、特権などではない。
それは「必要」そのものだ。
扱えぬということは……死を意味していた。
そうして私たちは生き延びてきた。
そうして……今ここにいる。
だからこそ……。
アリスを見つめると、胸が締め付けられる。
私は知っている。この世界がどのようなものか。
外に何が潜んでいるか。
自分を守る術を持たぬ者に、何が起きるのかを。
私は彼を見下ろした。
あまりに小さく。
あまりに脆い。
それなのに……私にさえ理解できない「何か」を生き延びた子供。
「皮肉ね……」私は低い声で呟いた。
シズカは答えなかった。
けれど、彼女が聞き入っているのは分かっていた。
「不可能な事態を生き延びたのに……」私は続けた。「その代償に、他のすべてに対して無防備になってしまうなんて」
指先が微かに震える。
「筋が通らないわ……」
「奥様……」シズカが慎重に口を開いた。「私たちは、まだすべてを知ったわけではありません」
私はゆっくりと首を振った。
「すべてを知る必要なんてないわ……十分すぎるほど理解しているもの」
私は顔を上げた。
「この世界は、弱さを許さない」
言葉は毅然としていた。
冷酷ではない。ただ、確固たる事実として。
それが真実だから。
いつだって、そうだったから。
「ならば……」シズカが言った。「私たちがお守りすればよいのです」
私は彼女を見た。
この長い時間の中で初めて……。
彼女の瞳に、義務以上のものを見た。
それは「決意」だった。
「アリス様が魔法を使えるかどうかなど、関係ありません」彼女は続けた。「周囲が何を言おうとも」
彼女の手が、微かに握りしめられる。
「アリス様は……決して一人にはなりません」
私の中で、何かが……静かに、壊れる音がした。
痛みではない。
恐怖でもない。
もっと温かい、何か。
「ええ……」私は囁いた。
もう一度、息子を見た。
今度は、脆さではなく。
「理由」が見えた。
「一人にはさせないわ」
私はわずかに身を屈め、自分の額を彼の額にそっと合わせた。
「私が息を吸っている限り……」
声は震えなかった。
今度は、決して。
「この世界の何物にも、あの子には触れさせない」
再び、静寂が部屋を満たした。
けれど、それはもう重苦しいものではなかった。
息が詰まるようなものでもなかった。
それは……揺るぎない。
誓いのような、静寂だった。
読んでいただき、本当にありがとうございました。
これにて、第1巻「ジェネシス・フロー:時空を超えた転生」が完結となります。
エリート軍人としての記憶を持つアリス。しかし、彼を待ち受けていたのは「魔法不能」という残酷な宣告でした。母エララの誓い、そしてシズカの決意。守られる側となったアリスが、次に目覚める時、その瞳には何が映るのでしょうか。
軍事の天才による、逆転の物語はここから加速していきます。
もし「この先が楽しみ!」「応援したい!」と思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけますと、第2巻への大きな活力になります!
第2巻「不屈の再始動」にて、またお会いしましょう。




