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第九章 道標

 雨脚は着実に強まっていた。

 重量感のある雨粒が一粒、また一粒と翼に圧し掛かっては私の羽を微かにたわませる。


 私は、三つ目の選択肢のために人間界へと飛び降りた。

 さすがに何も言わずにいきなり消えるのは、最期を見届けるとかそうでないかとか、そういうこと以前に無責任だということくらいわかっているつもりだ。だから、直接会って正面から理由を話して、そうして二度とかかわらないことにする。これが、二人とも納得する落としどころだろう。

 そう、納得のできる手続きが必要だ。

 このままヒカルの前から黙って姿を消すことは造作もないことであり、別れの一言も残さずに傍観者へと戻ることも簡単なことだ。だけど、それでは互いの内側に呑み込み難いしこりが生まれることは避けられないだろうから、このような――入学式や結婚式、入社式、葬式などと本質を同じとする――儀式を介するべきなのだ。

 風のほとんどない上空では、私の身体に当たる水滴の音だけが静寂を乱した。


 市街地からそう遠くない場所にひらけた公園がある。木々に囲まれつつも開放的で立地の良いこの公園は、近所の子どもやその付き添いの大人が多かれ少なかれ常にいるような、そんな場所だ。

 その公園に今はただひとつの人影しか認められない。

 雨粒が木々を絶え間なく揺らし、放送を終えたテレビのような音が辺りに満ちていた。

「――……風邪、ひくよ」

 肩で息をする後ろ姿に声をかけた。

 振り返ったヒカルは深く早い呼吸を繰り返して息を整えている。

 大して飛んでいないのに私の髪は重みを増して額や首筋に張り付いている。ヒカルがどれだけ雨の中を走っていたのかは、ぐったりと濡れた彼の上着を見れば聞かずともわかる。


 ……怒っているだろうな。


 呼吸を落ち着かせているヒカルを待っている間、次の怒声のために心の準備をした。

「落とし物だぞ」

「……えっ」

「羽ペン。 ……大事だって言ってただろ」

 差し出してきたヒカルの手には大きな羽が一本握られていた。

 左の翼に手をあてがうと、いつもの場所に挿してあるはずの羽ペンがない。

「どこにあったの」

「病室。窓のサッシの溝に引っかかってた」

 その羽ペン――加工も何もしていないただの抜けた羽だが――は物心ついた時には既に私の翼に挟まっていた一本だ。翼の他の羽と比べると不釣り合いなほど大きいが、だからこそ特別な感じがして気に入っている……いつかの夜にそんな話をヒカルにした気がするが、それを覚えていたらしい。

 私は羽ペンを受け取って翼の定位置に戻した。

「あいつ、バナナオレを二杯飲んでさ。その後なんて言ったと思う」

「なんだろ。わかんない」

「糖分は当分いらない、だとさ。はっ……あの調子なら二、三日もかからずに退院だな」

「りゅーちゃんらしいね」

「あぁ、まったくだ」

「……怒ってないの」

「そう見えるか」

 それは、まさに自分は怒っているという意味合いなのだろうか。

 だけど、それなら私の心の準備はとっくに仕事を果たしていて然るべきだ。

 人間の感情はよくわからない。

「天界に帰るなら一言声かけてからにしてくれ」

「外に出ただけとか、そうは思わなかったの」

「それなら病室で翼を広げたりはしないだろ。あいつはしらばっくれてたけど」

「そう、だね。 ……ごめんなさい」

「……もう二度と会えないかと思った」

 ヒカルの口元は寒さとは違う何かで少し震えている。彼の瞳の下には雨とは別の筋が走っていた。こんな顔はこの一週間で……いや、この三年間で一度も見たことがない。

 さっきの答えがわかった。

 怒っているんじゃない。

 悲しんでいるんだ。

 でも……何故。

「もう一切会わないようにしようと思って。私がいても……迷惑なだけだから」

「俺が一度でも迷惑だと言ったことがあったか」

 ようやく乱れた呼吸が落ち着いたのか、張っていた肩をゆるめてヒカルがそう返した。

 人間の感情は本当によくわからない。

 誰がどう考えたって、私が来てから得をしたことなどないはずだ。それなのに、りゅーちゃんは私が来て楽しいと言って、ヒカルは私が去って悲しい顔を見せる。

「そんなこと……言わなくったって、なんとなくわかるよ」

「じゃあはっきり言うぞ。俺は迷惑だとは思っていない。お前はどうなんだ」

「私、は……?」

「言ってくれないと……わからないからな」

 ざんざんと響く雨の音にかき消されそうなほど小さな呟きが届いた。

 今まで私は、勝手に相手の感情を決めつけていたみたいだ。

 りゅーちゃんが言っていた、正面から聞くというのはこういうことか。


 ……あぁ、今わかった。


 人間界で学ぶべき何かというのは、天使と人間がわかりあうための架け橋だ。

 かけ離れた感情の差を埋めるための、互いについての理解だ。

 三つ目の道は大きく曲がりくねって、そうして二つ目の道へと繋がった。

 私の向かう先は決まった。

 それを正面から、伝えなきゃ。


「私は人間のことをもっと……ヒカルのことを知りたい」

「……俺でよければ」

「いっぱい知ってる自信はあるの」

「知らないこともある、ってことだけは自信を持って言えるかな」

 なにそれ、と笑うと、ヒカルも笑った。

 雨は土砂降りに片足を突っ込むほど強くなっていたが、構いはしなかった。

 いや、むしろ好都合だった。

「それじゃあ、まずは私が教えてあげるね!」

「えっ……ちょっ、とっ!」

 この天気なら誰も空を見上げない。ヒカルの手をつかんで思い切り空へと羽ばたいた。

 誰かを掴んで舞い上がるのは空を飛ぶという行為において最高の難易度だ。天界においてもできない天使の方が多いのに、それが人間界であれば一から数えた方が早いくらいの数の天使しか成し得ない行為だ。

 だけど、失敗という二文字の影は頭を全くよぎらなかった。

「頼むから離さないでくれよ!」

「大丈夫! 寿命は今じゃないから!」

「そうか! なら安心だな!」

 地面は瞬く間に遠ざかり、何度となく見た空からの景観が眼前に広がった。数えきれないほどの明かりが集まっていたり、散らばっていたり。その煌めきの粒の隙間を雨の筋のカーテンが埋めて、視界の全てが光で塗られたかのようだ。

 雨の日の景観は何度も見たことはある。記憶にあるそのどれもが、水気を含んで鬱々とした、晴れの日の景色のマイナーチェンジ版でしかなかった。

 だけど今は、目の前に広がる濡れた一枚の絵画にかけがえのなさを感じた。

 雨風に晒されて身体が冷える速さよりも、繋いだ手のひらが身体の奥底を温める速さの方が、ずっとずっと勝っていた。

「綺麗だな」

「うん。初めてそう思ったかも」

「なぁ、もっと高く飛べるか」

「どうして」

「雲に触ってみたいんだ、直に!」

「わかった。任せて!」

 イカロスという人間は高く飛びすぎて蝋の翼が溶けて寿命を迎えたらしい。

 だけど、今回はそんなことになりはしない。

 この胸の高鳴りに染まった翼は、太陽よりもずっと熱いのだから。


 その日はヒカルの布団に潜って眠った。

 普段はヒカルが替えの布団として使っていた毛布のひとつに、さながら冬を控えたミノムシのように全身を巻いて寝ている。

 だけど、今日はシャワーを浴びて服を替えた後もはしゃいだ熱が一向に治まらなかった。

 私はヒカルの右腕を身体の内側に抱き込んで目を閉じた。とくんと私の心臓が声をかけると、彼の心臓の返事が腕越しにやってくる。それがなんだか可笑しくて、もっと強く抱きしめて、耳を澄ませた。

 締めすぎだといって小さく笑う声が斜め上から聞こえて、つられて笑みが浮かんだ。

 窓を叩く騒々しいはずの雨音が、今日はどこか心地良く聞こえた。

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