第八章 意義
「――……期待外れだ」
天界へとたどり着いた私を最初に出迎えたのはその一言だった。
身体の芯を揺らすような力強いしわがれ声で開口一番に文句を告げたのは、吹き抜けの渦を背にマザーと共に私を待っていたギデオンだった。
ギデオンもまた上級天使の一人だ。
干し柿のように萎んだ小さな身体を、その全長の数倍以上も長い両腕が支えてブランコのように宙に浮かせている。人間でも平行棒という競技の器具を借りれば似たような態勢をとれるだろうが、この文字通り丸太のような剛腕を持つ者を人間界で見かけることはないだろう。
「供給ラインを止めて人間界へ降りて、実績といえば対象者以外の人間に天使だと明かしただけだとはな」
彼の額に刻み込まれた皺は普段に増して一層深い。
夜露の大樹の最高責任を担うギデオンは、理由がどのようなものであれ工場への手出しには基本的に反対の姿勢をとる。寿命の供給ラインの停止といった重要なことなら尚更だ。彼が私の今日までの活動に一定以上の成果を求めることも、その期待に遠く及ばないであろう現状に対して不満を漏らすのも無理はなかった。
「まぁ、その辺にしてあげて。本人もきっとわかっているだろうから」
「そもそも円卓会議では全員が反対したというのに」
「えぇ。口添えに感謝しているわ」
「お前が珍しく発言するから儂も許可したというのに、この様ではな……」
ギデオンは剛腕に相応しく立派な太い指の一本でマザーを指さしながら、ため息交じりにそう言った。私が提出した稟議書を通して出張への口実を作ったのはどうやらマザーらしい。彼女は悪くないとそれだけでも弁解したかったが、ギデオンの指摘はどれも恐ろしいほど的確で、言い訳を書き記した紙切れ一枚を挟みこむ隙間すら見当たらなかった。
ギデオンはもう一度深いため息をついてから、二足歩行ならぬ二腕歩行で工場へと立ち去っていった。彼の手形が十、二十と伸びて、もとより小さなその背中が更に縮んで遠景に紛れ込んだ辺りで、マザーが話の続きを引き継いだ。
「あら、彼のことは気にしなくていいわよ。いつもあんな感じなんだから」
聞き慣れた澄んだ声に包まれるも、胸に立ち込めた靄は晴れようとしない。
ギデオンが常に厳めしい口調だということは承知している。工場を、ひいてはそれに携わる天使たちのことを考えての発言だということも理解できる。そのギデオンの期待にも、彼を含めた上級天使たちを動かしたマザーの期待にも、どうやら応えられそうにない自分の姿ばかりがちらつくことで、全身の臓器に金属でも流れ込んだかのような重苦しさを感じて、気分は下へ下へと沈み込むばかりであった。
「私はその、これ以上……」
「これ以上、続けたいですか」
「……わからないんです」
「天界からでも最期を見届ける義務は果たせます。出張はあなたが何かを学ぶための機会として用意したのであって義務ではありません」
「……少しだけ、考えさせてください」
マザーから了承をもらい、私はどこか気分を落ち着かせられるような、そんな場所を探して延々の大地を適当に歩き出した。
人間界から吹き上げる突風が振動として伝わり、延々の大地を定期的にほぐし続ける場所がある。そうして手作業では到底再現できないほどふわふわにほぐれて小高い丘を形成する一帯のことを、天界では噴煙の丘と呼んでいる。
落ち込んだ時、私はいつもここを訪れる。アカリやミクの寿命が尽きたときも、ヒカルが死にたいと呟いたときもそうだった。
噴煙の丘には既に何人かの天使がその身を任せて深く埋もれていた。私と同じような湿気た顔がひとつくらいあってもよさようなものだが、幸せそうな寝顔ばかりが転がっているあたり、皆が悩みとは無縁らしい。
そもそも天使には感情がないと、いつかの講義で学んだことがある。喜怒哀楽といったものはもちろんあるが、その起伏は人間のそれと比べて遥かに小さいという、そういう内容だった。だから深刻な悩みなんてものもないのが天使としては自然なのだろうが、現に私はこうして悩みを発散できていないのだから仕方がない。
先客が誰もいない適当な斜面を探して、目をつぶって背中から飛び込んだ。どこまでも沈み込んでいきそうな無抵抗が続き、動きを感じられなくなって薄目を開けた頃には、私の身体は噴煙の丘の中程まですっかり埋まりきっていた。
改めて目を閉じて、これからのことを考えた。
供給ラインが閉じている以上、天使が干渉してもヒカルの寿命が増えることはない。
それどころか、りゅーちゃんのときのように、供給ラインが開いている別の人間の寿命を間接的に短くしてしまう可能性すらある。
人間側からすれば、天使が降りてきたところで利するところなどないのだろう。
やっぱり講義の内容通りだ。天使が降りてきても拒むのが当然なんだ。たまたまヒカルが数少ない例外だったというだけで、私はその優しさを自分に都合のいいように解釈して無意識に甘えていただけだ。その甘えは虫歯のように周りを腐らせて、寿命に直接影響を及ぼさない形でヒカルの余生の土台を蝕んでいく。
だったら、干渉されない方が良いに決まっている。
なんだ、互いにとって最良の選択肢が最初から用意されていたじゃないか。
結論が出た途端に胸に溜まった液体が流れ出したような気がした。
同時に、久しぶりの延々の大地……それもとびきりふわふわな噴煙の丘のそれに包まれている心地よさから、途端に抗えない眠気が満ち溢れてきた。
少しだけ昼寝をして、マザーには起きてから返事にいこう。
意識はあっという間に暗い瞼の奥へと吸い込まれていった。
目を覚ますと日が傾き始めていた。三時間、いや四時間ほど寝ていたらしい。
胸のつかえが取れたからといっても寝過ぎたという自覚はあるが……もうそんなことを気にする必要はない。
私は天界からヒカルの最期を見届ける。彼の寿命がいつ尽きるのかはわかっているのだから、あとはその瞬間さえ見逃さなければそれでいい。ただ単に、出張より前の状況へと戻ってきただけだ。
噴煙の丘の奥底から這い出して背伸びをすると、それにつられて大きなあくびがひとつ出た。
まずはマザーに出張を終えたことを報告しよう。
それから……することは特にない。
あるとすれば、それこそヒカルの最期が来るときまで待つ必要がある。
そういえばヒカルの寿命は残りどれくらいだっただろうか。どの程度だったかは覚えてはいるが、正確な締め切りを把握しておくことに損はない。マザーへ報告する前に、今一度はっきりさせるべき事柄であった。
眠気の余波でもうひとつあくびが出た。一秒の減りにあくせくしていたのが遠い過去のことのようだ。
やわらかな噴煙の丘のふもとを掘り起こして病院を透視したが、りゅーちゃんの病室にヒカルはいなかった。とすれば、もう家に帰ったのだろうか。だが、自宅の中にもヒカルの姿は見当たらない。平日ではないのだからバイト先にいるとも思えない。他に行きそうなところを思い起こそうとするも、ヒカルが出不精だったことがまず思い出されてそこで躓いた。
こうなると人探しは難航するが、前に同期から探し方のコツを教わったことがある。下手に探さず、探し人が必ず帰ってくる場所を見張っていればいいと言っていた。すると、この場合はヒカルの家が適格だろう。
……なに、焦る必要はない。そのうち帰ってくるのだから。
穴の前でごろりと横になって、その淵を少しちぎって口に入れる。
久しぶりの延々の大地の味は変わらず優しい甘さで……ほんの少しだけ、かつてよりも物足りなく感じた。
そうして二時間以上が経ったが、未だにヒカルは家に戻ってこなかった。
日が落ちた人間界では小雨が降っており、道路のそこかしこに傘の花が咲いている。傘をさされても透視すればいいだけで、ひと手間増えるが人探しの問題にはならない。
それよりも、家の玄関に傘が二本置いたままだということの方が気にかかった。ヒカルは既に持っているものが壊れるまで大事に使い続ける性格だ。家に傘がある以上、おそらく今も手にしてはいないだろう。
天界から人間界をながめていた経験上、この雨はそのうち酷くなる。本降りになる前に帰ってくればいいが、そうでなければずぶ濡れになることは避けられない。供給ラインが閉ざされている以上、ヒカルの寿命は外的にも内的にも左右されず一定のペースで減り続けて行く。故に、彼が冷えて風邪をひいたところで死期が早まるようなこともないが、限られた余生を不健康で過ごしたくもないだろう。
……今更、何を心配する必要があるんだか。
そのうち、じっと一か所を眺め続ける気が湧かなくなり、適当に視線をさまよわせた。
商店街ではシャッターを閉じた店舗の方が目立ち始め、往来を揺れ動く傘もそれに合わせて次々と閉じていき、ついにはひとつも見当たらなくなった。
そのひっそりとした商店街の通りに誰かが走って入ってくる。
見間違えはしない。ヒカルだ。ようやく帰ってきたらしい。
懸念していた通り傘はさしていないが、自宅へと向かっているようだからそれでいい。
彼の寿命も今……確認できた。そこに思い違いはなく、想定していた通りの残量だ。
少し遅くなった返事をマザーにしてこようとしたが、自宅の前までたどり着いたヒカルが周囲を少し見渡してから、踵を返してどこかへと再び駆け出す姿が、私をそうさせなかった。
ヒカルは何かを探している。
その何かというのはきっと、いや確実に……私のことだろう。
今更ながら、ヒカルには天界へ帰る理由も、もう人間界には戻らないという今後の方針についても伝えていないことに気が付いた。おそらくりゅーちゃんからも、私が消えた理由については聞いていないだろう。彼女は誰にも言わないでという私の頼みを了解したのだから、おそらくヒカル相手にも話していないはずだ。
私には二つの選択があった。
ひとつは、これ以上の余計な干渉の一切を絶つために静観を守ること。
もうひとつは、当初の目的通り最期のときまでヒカルのそばにいること。
決意を固めたはずの目の前にまたも分岐点が現れたようだ。
私は……




