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第七章 意味

「――……いやぁ~、しかしまさかこんなことになるなんてさぁ」

「医者は何だって」

「びっくりするくらい丈夫な身体だねって。頭を打ったから念のためにもう四、五日ほどここにいたほうがいいらしいけど」

「……すまん。やっぱり途中まででも送っていくべきだったな」

「いやいや! 私が変な自信を持ってたのが悪いんだから謝らないでよ」


 りゅーちゃんはベッドの上で横になっていたが、私とヒカルの姿を見るや否や跳ねるように上体を起こして、いつもと変わらない調子でいろいろ喋り始めた。

 聞けば、信号待ちをしていた背中に前方不注意の自転車が突っ込んできて、その運転手が病院へ連絡して今に至るらしい。酔っている状況で、しかも背後からの追突となれば受け身をとることも難しいだろう。実際、りゅーちゃんも倒れた瞬間から暫くのことは覚えていないらしい。

 それでも翌日にはこうしてペラペラと話ができる以上、担当した医者が言ったようにやはり身体は一等頑丈に違いない。

「それじゃあ飲み物でもおごらせてくれ。何がいい?」

「うぅん、バナナオレが飲みたい気分かなぁ。えみエルは?」

 同じものでいいと適当な返事をすると、ヒカルは財布を手に廊下へと出て行き、後にはりゅーちゃんと二人きりの病室が残された。

 市立病院の館内には以前浴槽でかいだ刺激臭を薄めたかのような薬品臭が漂っていて、三階にあるこの病室もまた同様だった。必要なもの以外を徹底的に省いたかのようなごく小さな個室だが、壁の大部分を占める大きな窓があるおかげで窮屈にはあまり感じられなかった。

 惜しむらくは、今日がこの一週間で最も肌寒い曇りの空模様だということくらいか。

 もっとも、空が晴れていたところで、この気分まで晴れることはなかったことだろう。

 今の私は呼吸をすることにすら、その度に誰かに許可を得たい心境にあった。

「お見舞いにきてくれてありがとね、えみエル~」

「どこか、痛むところはある?」

「ないよ。いやウソ。暇すぎて心が痛いからお話ししよう! さぁさぁ!」

 言われるがままにベッドの隣に置かれていた背もたれのない椅子に座った。

 催促の拍子に袖口からのぞいたりゅーちゃんの手のひらには細いかさぶたの線が幾つか見えた。それだけじゃない。頭を打った時に一緒にできたであろう擦り傷は、よく見ればこめかみや頬といった他の場所にも、小さいとはいえ確かに残っていた。


 ……りゅーちゃんの寿命は尽きていない。こうして生きているのだから当然だ。


 すなわち、昨日の事故は寿命によって導かれた致死への必然ではない。

 全くの偶然による、本当にただの不幸だったということだ。

 それは言い換えれば、避けることもできたということだ。私でもヒカルでもいい。一緒についていけば何かしらの対処はできたはずだ。事故が避けきれなかったとしても、少なくともどれだけかは迅速な対応が成せたはずだ。

 いや、そもそも私があんなことを言って独りでの帰宅を後押ししなければ、何かと万全を期す性格のヒカルのことだから、なんやかんやで最終的にはりゅーちゃんを送り届けていたことだろう。

 つまり、この事故は結果論にしても何にしても、私が引き起こしたんだ。

 私の、余計な一言が……


「どうしたの、えみエル? そんなに見つめて」

「…………」

「何か言ってくれないと照れちゃうなぁ~」


 りゅーちゃんの右手の擦り傷に両手を重ねた。

 これが命に直結するような怪我ではないことは本人や医者の様子からして明らかだと、少なくとも人間の目にはそう映るだろう。

 しかし、身体を痛めるということは寿命の定着率が大なり小なり下がるということだ。この怪我がどの程度、どれほどの期間、定着率を下げるのかは私にはわからない。最終的にほんの数秒ほど総寿命が短くなるだけかもしれないし、その程度で済む可能性の方が圧倒的に大きいだろう。

 だけど、その数秒の猶予を心から欲するような最期を、りゅーちゃんがいつか迎えることになったとしたら……

 私は天使失格だ。


「……えみエル、何か出てるよ……」

 りゅーちゃんの目は私のもっと後ろを見つめていた。

 胸の奥を引っ掻く痛みに堪えきれず、二枚が共にもがき、はみ出してきたらしい。

 だけど、もう隠し通す気はない。

 広がった両翼はうっすらと熱を抱えているような気がした。


「……ねぇ、私は天使なの。天使っぽいとかそういうんじゃあなくて、本当の……」

「ホンモノ、の、天使……? えみエルが?」

「うん。やることがあって天界から降りてきたの」

「それじゃあ、この翼も……本物なんだ」

「……隠しててごめんね」

「……ううん、いいよ。そっかぁ天使かぁ。天使感バリバリだったのは気のせいじゃなかったんだね!」

 ヒカルといいりゅーちゃんといい、ずいぶんあっさりと天使を認めるものだ。

 疑われたところで何かが変わるわけでもないためこの方が良いに決まってはいるが。

「ごめんね……ごめんね、りゅーちゃん」

 どうしてこうなったんだろう。

 口に出した後悔は別の後悔を呼び、身体中の空洞をあっという間に満たして溢れた。

「んも~、ヒカルンもえみエルも気にしすぎだよ。自転車の前方不注意と私の後方不注意のドリームコラボのせいなんだからさ」

「そうじゃないの……あの時、りゅーちゃんに早く帰ってもらいたかったの」

「用事でもあったの」

「ううん。そういうんじゃ、なくて」

「あっ、もしかして毎週立ち寄ってその……迷惑だったかな?」

 自分でも驚くほど大きな声で否定した。

 りゅーちゃんは肩を一瞬すくませた後、私の両手の上に左手をそっと重ねた。

「一緒に飲んだりするのはすごく楽しいよ。天界ではこんなことできないし」

「私の中では毎日のようにラッパを吹いてパーティ開いてるイメージだったけどなぁ」

「でも、ヒカルとりゅーちゃんが一緒にいて楽しそうにしていると……」

「……していると?」

 していると、何が悪いんだろう。

 今まで感じたことのなかった何かを上手く表現できない。

 独占、羨望、悲哀、貪婪、焦燥……

 良いイメージのない語で修飾しなければ説明できない、そのような感情が自分の奥に渦巻いていることを認識し、俯いて恥じた。

 そうかぁと、りゅーちゃんは何やら合点がいったかのように呟いた。

 そうしてひとしきり頷いてから、私の顔を改めて見つめた。

「人間はね、仲の良い人を取られた!って思うとみんなそういう気持ちになるもんだよ。だけどそれもさ、人間らしくて良いじゃない」

「……私、天使だけど」

「そうだね! 天使が降りてきてくれたおかげで飲み会はもっと楽しくなったし!」

 天使と人間の良いとこ取りだよと、笑いながらりゅーちゃんは私の頭を撫でた。

 目の前の底抜けの明るさに救われた気がした。

 だからこそ、天使としての在り方に自信が持てなくなった。

 私がここにいる意味は……何だろう。


「ヒカルンは前も今もまっすぐなところは変わってないからさ、正面から聞けば必ず……熱っ!」

 何を聞くのか私が尋ねるより先に、りゅーちゃんが私の翼を掠めた腕を引っ込めた。

 肩越しに見えた翼は、いつしか周囲の景色を滲ませるほどの高熱を発していた。

 天界からの呼び出しだ。それもこれほどの熱となれば緊急度は高い。

 カミサマか、マザーか、それとも他の上級天使か。

「帰らなきゃ! その……天界にっ」

 そう伝えると、りゅーちゃんは私の次の言葉よりも早く返事をした。

「わかってる! 誰にも言わないからね!」

 私はりゅーちゃんのことを勘違いしていたらしい。

 いつも軽い調子で洞察力とは無縁のマイペースな人間だと、天界からそう思っていた。

 そうじゃない。彼女は、本当は誰よりもよく周りを見ている。

 周りを見ていなかったのは……私の方だった。


 立ち上がって窓を開ける。分厚い灰色の雲が日光を遮り、外は正午を過ぎて数時間とは思えないほど薄暗い。

 見下ろすと病院本館と裏手の駐車場を繋ぐ来客用の歩道が伸びていたが、その上には雨避けのためにかけられた濃い暗色のアーチが歩行者のために親切にも用意されている。これなら仮に誰かが歩いていたとして、ふいに真上を気にしたとしても問題ない。

 私は三階の窓から身を乗り出し、重力に任せて少し落ちながら翼をはばたかせ、姿勢を安定させてから雲の上を目指した。

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