第六章 距離
「『スマン! 今日はちょっと手が離せそうにない! また今度な!』 ……だって」
「そうか。来週は忙しそうだって言ってたからな」
机の上で震えた携帯電話に浮かぶメッセージを読み上げると、納得気味にヒカルがそう返した。
「まぁ四つ同じやつを作るのもあれだし、楽といえば楽だけどな」
「それで、何を作ることにしたの」
「オムライスだよ。先週で勘は取り戻したし」
随分気に入ってくれたみたいだしなと、茶化すような口ぶりでヒカルが付け加えた。
素直に認めるのもなんだがその通りだ。初めて口にした衝撃もあるだろうが、それを考慮しても今日まで食べた全ての料理の中で、依然として私の中の一番は二日目の昼食に出されたオムライスだった。調理者本人は当時の出来栄えに燻る思いを若干残しているようだが、あれ以上を求めるというのは私に言わせればもはや練習ではなく追究の域だ。もちろん、よりおいしくなるというのなら異議を唱えるつもりは毛頭ないけれども。
時計は二十時になるかならないかというところを指していた。
いつも通り帰宅したヒカルは、勤務帯が一時間ずれているりゅーちゃんが来るまでの間に、四人分――たった今、三人分になったが――の夕飯を作ると言って、こうして台所の前に張り付いている。
聞けば、最近はご無沙汰のようだがりゅーちゃんとレンジが家に来るときはたまにこうして夕飯も一緒に食べているらしい。これも、私にとっては初めて知ることだった。
そうこう話していると玄関の呼び鈴が鳴った。未だにこの音には慣れない……また翼がはみ出すところだった。
フライパンを振るうヒカルの後ろを通り抜けて代わりにドアを開けると、前にも見た袋を手にしたりゅーちゃんが立っていた。
「久しぶりのヒカル’sキッチンと聞いて飛んできました!」
「そんな大層なもんじゃないぞ」
「あっ、えみエル~ いい映画を見繕ってきたんだよ~」
たたーん!とりゅーちゃんが差し出してきた円盤の表面には、ドアの向こうからこちらをのぞき込む怪物二匹が描かれていた。人間界には到底いそうにない。これが昼に言っていた3DCGアニメというものだろうか。
「とにかくあがって」
「そだね! あっ、すごい良いにおいがする!」
「もうすぐできるから座って待っててくれ」
私はりゅーちゃんの荷物を受け取って居間へと運び込んだ。そうして五分もしないうちに作業を終えたのだろう。例のラグビーボールが乗った皿を三枚用意したヒカルがそれらを机に並べた。食べる前にはいつものように手を合わせて食材に感謝する。人間界のしきたりのようだが、さすがにもう慣れた。
「やっぱうまいねぇ、ヒカルンの料理は」
「大体こんなもんだろ」
「いいなぁ~えみエル。こんなに美味しいものを毎日食べられるなんて」
毎日、か。期限付きではあるがたしかにそうだ。
人間界では何かを得るためにはそれなりの対価が都度要求されることがわかった。テレビで紹介されていた一流レストランも、素朴な屋台も、その自慢の一品がもてはやされる画面のどこかでは例外なく値段が主張されていたのだから間違いない。
貰うばかりで何も支払わない天界からの居候の身として、私は随分と恵まれた環境の中にいるらしい。そう思うと特別に扱われているように感じて悪い気はせず、満足感のような優越感のような今まで考えたこともなかった何かが胸の中にぽっと現れた。
スプーンを口に運んだ。
勘は取り戻したと言っていた、その成果だろうか。前よりも美味しい気がする。
「そういえば、ちょっと味付け変えた?」
不意に、りゅーちゃんがそんなことをヒカルに尋ねた。
「どうしてそう思った?」
「いやぁ、なんていうか……薄味? さっぱりしたような気がして」
「調味料を全体的に抑えて糖質の量も少なくしたんだが、よくわかったな」
「記憶力には少し自信がありましてねぇ」
名推理を披露した探偵かなにかのように、りゅーちゃんは口元をにやりとさせた。
もう一杯、スプーンを口に運んだ。
そう言われてみれば、たしかに前に食べたときよりもふんわりとした優しい風味になっているような……なっていないような。
ただ、先週は古いケチャップを使い切りたかったとも言っていた。それを減らしただけの僅かな違いであれば、いくら記憶力に自信があると自称するりゅーちゃんだとしても、久しぶりの料理の味付けが変化したことにはおそらく気付かないだろう。
つまり、私が来るより前のヒカルの料理は、今とはがらりと違うスタイルだったということだ。
そして私はその味を知らないし、今後知る機会も訪れないだろう。
また知らないことがひとつ。
胸の中に灯っていた何かはいつの間にかいなくなっていた。
テレビの中では、緑色のボールと青い巨大な猫が人間の女の子を連れて外出していた。3DCGの世界にも工場というものがあり、そこに出勤しているらしい。その女の子は怪物だらけの世界で人間だとばれないように匿われているようで、その境遇にどことなく自らの現状が重なって見えた。
りゅーちゃんは私を膝の上にのせて腰に腕をまわし、頭の上にあごを置いて画面を眺めている。そうして、画面の中の登場人物に何か起きるたびにそのシートベルトがきゅっと締まったり緩んだりした。なるほど、全く意味のないパーツだと今日まで思っていたが後頭部を支えるには適役だ。座り心地は案外悪くない。
私はリンゴ味のジュースの紙パックから伸びるストローに口をつけた。
りゅーちゃんは持ってきたいろいろな種類の酒を薦めてきたが、また記憶が吹っ飛んではたまったものじゃない。念を入れることに越したことはないと考えた私は、酒を割るために買ってきたのに、肝心の割られる側の酒を買い忘れたと反省するりゅーちゃんからそのリンゴジュースを受け取ったのだ。
ちびちびと飲んでいるからか、今日のりゅーちゃんはいつもより静かだった。静かだといっても泥酔時よりはというだけで、饒舌なところはいつも通りではあった。
「このシリーズは一作目も続編も面白くていいよね」
「大学の様子は知らないけど、どこもあんな感じなのか」
「あれは海外の大学がモチーフだからなぁ。あっ、でも講堂は似てたかも」
「ドラゴンみたいな教授はいたか」
「ドラゴンみたいに怖い教授はいたけどね」
二人はこの映画も、その続編も観たことがあるのだろうか。いずれにしても、やはり私が入り込めそうな隙間は見当たらなかった。
視界の端に見えた時計は二十一時半を超えている。
今日の昼頃の見立てでは、今頃はいつものように天界と人間界の情報交換のはずだったが、この場ではどうにもヒカルに話しかけにくい。
もちろん天界や天使のことについては触れるわけにはいかない。だったらそれ以外のことを聞けばいいだけなのだが、こうも二人の話が滑らかに続いていると、人間界についてとんと無知な自分がやすりのように間に挟まることにはどうにも抵抗があった。
りゅーちゃんが提案した飲み会にはヒカルも私も賛成した。
つまり満場一致なわけで誰も損はしていない。わかっているが……
二人の笑い声がやけに遠く聞こえた。
私はりゅーちゃんの右手にあった桃のチューハイを手に取って飲んだ。甘みを伴った清涼感にぐゎんと視界が歪んだかと思うと、その次の瞬間にはもう治まった。どうやら天使はアルコールを摂るたびに耐性がつくらしい。新発見だ。
「おっ。こっちがいいの、えみエル?」
「……うん」
「よぉし! じゃあもう一本いっちゃうか!!」
「あんまり飲みすぎるなよ」
わかってるわかってると言って、りゅーちゃんはハイボールと書かれた缶を袋から取り出して私にも薦めた。これを飲んだら私の気分も少しくらいはハイになるのだろうか。いや、それならチューハイでもハイにならなければおかしいか。
一口ふくむとさっきよりもさらに強い衝撃を感じたが、これもまたすぐに治まった。
映画はいつからか吹雪が激しい雪山へと場面が切り替わっている。
ハッピーエンドは期待していいのだろうか。
「それじゃあ、そろそろおいとましよっかな」
映画が大団円で終わり、ああだこうだとしばらく感想を交わしてしばらくしてから、りゅーちゃんが私を膝から降ろして腰を上げた。
今日のりゅーちゃんは調子が良かったのか、桃のチューハイを二本――その内の一本は私が飲んだけれども――とハイボールを一本空けても潰れてはいなかった。もっとも、体調万全というには少し無理がありそうだが。
「笑美、留守番を頼む。電子レンジはいないし代わりに送ってくる」
「今日はそんなに酔ってないからだぁいじょうぶ!」
「……そうは見えないが」
「私もいい大人だから一人で帰れるってところをたまにはみせなきゃね」
そう言いながら、りゅーちゃんは靴を履くために玄関でしゃがみこんだ。
「本当に大丈夫か」
「へーきへーき。なんならマクベスを一人全役で演じながら帰れるよ」
「それはまた別の意味で危ないと思うぞ……」
ヒカルの手はコートを羽織るか戻すか悩んで宙に浮いていた。送るといってもいろいろある。駅までか、タクシーを捕まえるまでか、自宅までか。なんにせよ、それなりの時間がかかりそうだ。
二人の談笑の様子がさっと目の前を駆け抜けた。
今は関係ないはずなのに。
「……大丈夫なんじゃない? りゅーちゃんがそう言ってるし」
いつもより酔ってはいないのは間違いないだろうし、玄関までの足取りもしっかりしているように見えた。それに、自分の身のことは本人が一番詳しく知るところだろう。
私の意見を聞いたりゅーちゃんが、その通りとサムズアップで健康具合をアピールする。それを見たヒカルは手にしたコートを押し入れへと戻し、十分気を付けるんだぞと念押しして居間の片付けのために背を向けた。
理屈は通っている。
間違ったことは言ってない、はずだ。
ふと視線を上げると、さっきまでドアノブにかけていた手を離したりゅーちゃんが、おいでおいでと手招きをしている。
なぜ声に出さないのだろう。私だけを呼んでいるのだろうか。
布巾で机を拭いているヒカルを一瞥してから玄関前で屈んだ私に、ひそひそ声でりゅーちゃんが話しかけてきた。
「ありがとね、えみエル」
「……どういうこと?」
「もしかしたらレンジから聞いてるかもしれないけどさ。ヒカルンはなんていうかこう、すっごく暗かったんだよね」
レンジとは先週の土曜日、ヒカルがカメラを購入していた電化製品売り場で挨拶してそれきりだ。それ以外の話はしていない。だが、ヒカルがとても暗かったという部分についてはよく知っているつもりだ。私がここに来た理由のひとつでもあるのだから。
「だからレンジと話し合って……いや、それはまぁいいや。でもね、えみエルが来てからヒカルンは変わったよ、うん」
「どんな感じに?」
「なんていうかこう、パッ!って電球を交換したみたいにさ、明るくなったよ。こうして飲んでるときも、バイト先でもね」
「……そう、なんだ」
立ったり座ったりして酔いが進んだのか、りゅーちゃんの呂律は少し怪しい。
だけど、彼女が言いたいことはなんとなく理解できた。
「だから、これからもヒカルンのこと、よろしくね」
あと私とレンジにもよろしくと、そう付け加えてりゅーちゃんはくすくす笑った。
無性に……謝りたい気持ちになった。
だけど、この気持ちをどう切り出して伝えればいいのかわからなかった。
そうして適当な相槌を打って、結局その何かを伝えることも、やっぱり送っていった方がいいんじゃないかということも言えない内に、りゅーちゃんは私に手を振りながら家の先の曲がり角へと姿を消してしまった。
静かになった玄関を後にして居間へと戻ると、片付けを終えたヒカルがぐぅっと背伸びをして一息ついた様子を見せている。
胸の奥に立ち込める白く濁った煙を換気するために、私は積極的にヒカルに話しかけた。
「ねぇ。B級ってどういう意味?」
「ん? まぁ、面白くない作品のことかな」
「それじゃあ、Z級は?」
「その中でも突き抜けて面白くないやつのこと」
「……なんでそういうのが好きなの?」
「面白くない中に隠れている見所を探し出すのが好きなんだよ」
「そっか。マクベスっていうのも映画なの?」
「それは戯曲。なんであいつは全部覚えてるんだか」
畳の上に座って今日一日で気になったことをいろいろと聞く内に、もやもやとした何かが晴れていくような気がした。
りゅーちゃんが事故に遭ったと知ったのは翌日の正午前だった。




