第五章 空白
「気になってたことがあるんだけどさ、聞いていいか」
「うん。なに」
「寿命が公平に配られるならさ、人間はみんな同じ歳で死ぬんじゃあないのか」
「『工場』から供給される寿命の量はみんな同じだけど、身体に定着する割合には個人差があるんだよ」
「健康な人間ほど長生きするってことか」
「そう。状況にも依るから一概には言えないけど、怪我とか病気を抱えてる人間には特に寿命が定着しにくいの」
「でも公平に配ることが信条だから病んでる人間に特別多く供給はしない、と」
「そういうこと」
「『工場』らしい運営なんだな。それじゃあ行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
この家に住み始めて一週間が経った。
ヒカルは今でもアルバイトに勤しんでいる。寿命がそう遠くないと知りつつも、なおも勤労に励むというのは正直度し難いところではあったものの、残りの寿命がどれだけあるのかわからないから辞め時もわからないと返されてしまってはそれ以上の口出しもしにくかった。
ヒカルは平日の朝六時に起きて、十三時から六時間ほど働く。こうして直接対面した以上、働き詰めではないかというかねてよりの心配事由を確認したところ、「並の人間よりは相当サボっている」と返された。天界で一日当たり何時間もの勤務を長期間続けていようものならば、まず間違いなく怠惰の叱責などよりも過労を心配されるであろう。だが、人間界ではこの程度の勤労は当然であり、むしろ過小とのことである。
そして、ヒカルは週末にはときどきレンジとりゅーちゃんの三人で映画を観ながら酒を飲む。何時頃からの恒例となったのかは当人にも定かではないとのことだが、静かで暗い部屋で何もせず独り籠っているよりかは、たとえ一時的な宴だとしても心身ともに幾らか有益であろう。
とにかく、私が天界からながめていたときと変わらない生活のサイクルを、ヒカルはどうやら今後とも崩す気はないらしい。
そのヒカルだが、私に天界のことを聞き、人間界のことを話した。そして、彼と話をする中で私が興味を示した事柄――とりわけ料理の分野に関して――は、特別に催促をせずとも翌日のどこかにおいてさりげなく実現される。
一昨日の昼食にはハンバーグを食べた。
延々の大地をゆるくまとめたかのような俵を開くとどこに詰まっていたのかわからないくらいたくさんの肉汁が染み出して、ふわふわに擦りおろされた大根と醤油を使ったソースに絡んでさっぱりとした味を作っていた。
昨日の夕食はカレーだった。
あんなに吟味していた色鮮やかな野菜はほとんどがルゥに溶け込んでその姿を隠していたが、その代わりに舌触りなめらかで濃厚な深い甘みになっていた。
これがカレーライスというものかと思ったが、敷いてあったのはオムライスに使っていたようなものではなかった。今朝ヒカルに聞いたらオートミールという穀物だと言われた。米よりやわらかい不思議な触感だったが嫌いではない。
ついさっき食べた昼食は魚とキノコのグラタンだった。
鮭の切り身としめじが薄味のクリームソースに包まれて、ぱらぱらと撒かれたチーズのコクと混ざってあっさりとした飽きない味に仕上がっていた。
スプーンの扱いには慣れたが、乗せた食べ物の温度を察するほどの技量はまだない。口にしたら想像よりも熱くて火傷するかと思った。警戒してずっと息を吹きかけていたら、今度は冷たくなりすぎてせっかくの風味ごと薄れてしまい、使いこなせるようになったと自信を持って言える日はまだ先だということを身をもって自覚した。
ヒカルの料理についての知識と技量が豊富だということはすぐにわかった。彼の料理を口にする時間と、寝る前に小一時間ほど互いの世界について語り合う時間が、いつの間にか私の毎日に欠かせないものになっていた。
そう……時間だ、時間というものに価値があるということをこの一週間で学んだ。
天使にとって時間なんてものはただの入れ物でしかない。人間が力尽きる最期の瞬間を見届けるという仕事に締め切りを作るための、仕切りの付いた空箱としての意味しか持たない。それが、人間の寿命をただ傍観するだけの天使にとっては当たり前の共通認識だった。
しかし、因果はどうあれ人間界へと降りて日々を過ごし始めたことによって、時間には僅かな仕事と膨大な昼寝に費やす以外の使い道があるということがわかった。その有意義な活用にはそれぞれ個人差はあることだろう。ただ、私に関しては先述した通り、対象者との直接のかかわりや語らいが、一日という大枠の時間の中で大きな比重を占めていたことは確かであった。
大げさな笑い声が聞こえた。
朝からつけっぱなしのテレビでは情報提供系のカジュアルな番組が始まっていた。若干丸顔で愛嬌のあるグルメリポーターが、色とりどりのお菓子が山積みにされた大皿を前に小躍り気味にはしゃぎ、右上の小さい枠に映し出されているスタジオの中の一人がその様子につられて商業向けの笑顔を見せている。マカロンという商品名らしい。そういえばヒカルがお菓子を作っている姿は見たことがない。料理の腕は確かなのだから、話せばこれも、もしかしたら作れるのかもしれない。
私はヒカルのアルバイト先までついていかないようにしている。勤務先まで同行したところでできることなんて限られている。天使として彼を観察しているということを周囲に隠しながらとなれば尚更だ。
それに、様子を見るだけならこの部屋から動く必要はない。
部屋の北側の壁を見つめ、目の焦点をぐっと奥へと押し出す。
コンクリートの壁、電柱、またコンクリートの壁、誰かの家の外壁、その室内のふすま、反対側の外壁、またコンクリートの壁、その上に黒猫が一匹。
猫には不思議と関心が向いてしまう。アカリの家にいた白猫のニャンは毎日のほとんどの時間を寝て過ごしていた。もしかしたらあの黒猫も誰かの家に住んでいるのだろうか、無防備にお腹を空へと向けて深い眠りについている。長いひげ、ぴこぴこ震える耳、別の生き物のようにゆらゆら動く尻尾。一度はあの毛並みに直で触れてみたいが、近付くとやはり逃げられてしまうものなのだろうか。
……しまった、どこまで透視したんだったか。気を取り直してもう一度……
天界から観察していた三年間と、人間界に降りた当日の飛翔練習の過程で、ヒカルの自宅から勤務地までの一直線上にある障害物の位置関係はおおむね把握できている。あとは天界からのぞいていた時の応用だ。とどのつまり、上から透かすか、横から透かすかの違いでしかない。もちろん、多くてもせいぜい四、五枚程度の透視で済む上からよりも、横から透視する方がその枚数は格段に増えるけれども。
天使のような寝姿を晒す黒猫や、突然視界に割り込んでくる車両の影に気を取られつつも、四度目の挑戦でなんとか目的地の外壁まで視線を届かせることができた。
レンタルビデオ店の中には商品を陳列する棚が数多く設置されていたが、幸いにもこの部屋から見える外壁の裏にはカウンターの従業員が立つ側が隣接していて、細々とした透視を余計に繰り返さずともすんなりとヒカルの後ろ姿が窺えた。問題としては、この位置関係では基本的に背中しか見えないので彼が何を話しているのかまでは唇を読んで判断できないということだろうか。
青い制服を着込んだヒカルの後頭部を見つめ、その上に浮かぶ寿命の残りを確認する。
ヒカルが家を出て2742秒。
たしかに、それだけ減っていた。机の上の時計は十三時を三十分ほど過ぎたところだ。
ヒカルが帰ってくるまで五時間と半分近くある。何をしていればいいものか……
不意に、アナログ時計の秒針が歩を刻む音が、テレビの音よりも大きく聞こえた。
ヒカルが帰ってきたら夕飯を食べて、お風呂に入って、温かいお茶を飲みながら、今日もまた人間界についてのいろいろを聞いて、天界についてのあれこれを話してあげることができる。
そのときが早く来るのを、私は望んでいるのだろうか。
だけどそのときには、ヒカルの寿命の残りは19800秒減っている。
もちろん、今も減っている。
この瞬間も、減っている。
胸の奥に毛布が詰まったかのような感覚がした。
最近は時々こんな気持ちになる。静かな部屋でぼぅっと座っていると、特に。
秒針の音が煩わしさを増した。規則的なはずのこつこつと鳴る歩みは、意識するにつれてその間隔を徐々に伸ばしているような気がした。まるで、次の一秒の到来を拒むかのように。かと思えば、次の二秒が立て続けに刻まれるような気がした。まるで、同居人の帰宅を急かすかのように。
そのうち遠方を走り抜ける車の音も、裏手の植林の枝葉が揺らめく音も、冷蔵庫が低く唸る音も聞こえなくなって、気付けば時計の音だけが気にかかり、翻弄されるばかりになった。
私はテレビを消して、ドアにかけられた合鍵を手にして部屋を後にした。
勤務先はそんなに大きくはないが、二階建ての屋内にDVDだけを目いっぱい詰め込んでいるため商品数は多いとヒカルが話していた。その見立てが正しいということは、他の店舗の内情を知らない私にも、自動ドアが開いて数秒も経たないうちに理解できた。
そのレンタルビデオ店には華奢な金属製の棚が客二人がギリギリすれ違えるくらいの間をあけて等間隔にきっちり並べられており、そのそれぞれには映画のジャンルと五十音順のどこらへんかを示すラベルが丁寧に貼られていた。
こういった店では人気の商品を一目で確認できるようにジャケットを適宜客側へと向けて展示するのが一般的らしいが、はたしてそのような商売魂だとかマーケティング意識がこの店舗にはないらしく、全ての商品が頑なに背表紙だけを棚から見せつけている。ありったけの商品を詰め込めるだけ詰め込みました、という店側の気概の表れだろうか。
商品が陳列されている一帯の窮屈さとは対照的に、カウンターの周辺は広々としていた。そのカウンターの内側にはヒカルと同じ制服を着込んだりゅーちゃんが一人立っており、見るからに暇そうな顔つきで虚空の一点とお見合いをしている。
遮蔽物が多すぎてすぐにはわからないがとりあえず見える範囲にヒカルはいないようだ。
そもそもりゅーちゃん以外の動くものが見当たらない。彼女の顔つきにも納得した。
「いらっしゃいま……おあっ! えみエルだ!!」
私の姿を見たりゅーちゃんが、いいものを見つけたといわんばかりに突然カウンターに身を乗り出した。
色素の薄い栗色がかったショートカットが勢いでぽんと膨らむと、若干反り返り気味の胸ポケットにさげた名札もそれに合わせてぷらりと揺れた。
……少なくとも天使にはそんなに大きな二つのものは必要なさそうだ。
「どうしたのどうしたの? あっ待ってそっち行くね」
「仕事中じゃないの」
「ぜんっぜん平気! だぁれも来ないし暇で暇で」
確かにそのようだが従業員の立場でそうした抜き身の発言はいかがなものか。
「いつもこんな感じ?」
「夕方とか休日は結構来るんだけどねぇ。今は暇のフィーバータイム真っ只中だから」
「やることがないのは、まぁ退屈だよね」
「そうそう。あっ、それで何か探し物?」
検索速度は世界レベルだから任せてと、カウンターに併設された検索機に向かってりゅーちゃんが人差し指で素振りをする。おそらくその機械では私の探し物は見つからないだろう。
隠しコマンドがあるんだと言いながら何やらタッチパネルを操作している様子を背に、店内の端から端までを見渡す。
広さはそうでもないが、やはり所狭しと立てられている棚の存在が大きい。こうなると商品と同じように人物を探すための検索機が欲しくなってくる。
ぼやいても仕方がないので地道に視線を滑らせていくと、薄いのれんで仕切られた奥の空間にヒカルの姿が見えた。どうやら返却されたDVDをまた元の位置に戻している最中らしい。パッケージの文字列とジャケットの文字列を照らし合わせて無表情で一枚ずつ収めていく様子は、何もすることがなくて退屈だと嘆くりゅーちゃんの状況と、それはそれで大差がないように見えた。
それにしても、何故この空間だけ仕切られているのだろうか。空間を切り分けているのれんまで視線を引っ込めると、未成年立ち入り禁止という一文が目立つように記されていることに今更ながら気付き、思わずさっと顔を伏せてしまった。
いや、天使には成年も未成年もないのだから気にする必要なんてどこにもないのはわかってはいるけれども……
「ごめんね、修正されててダメだったよ。 ……どしたの?」
「いや、なんでも」
「あっ、もしかしてヒカルンに用事だった? ちょっと待ってて呼んでくるから!」
なんでわかったのだろう。検索機に興味を示さなかったからだろうか。引き留めるよりも早く、りゅーちゃんはのれんの奥へと消えてしまった。
天使のご来店だぁ!と妙なハイテンションでりゅーちゃんが出てきて、その後ろから怪訝そうな顔でヒカルがついてきた。
「エミ……か。どうかしたのか」
「ん……いや、何かあったわけじゃないけど……」
「……?」
「えっと、一回くらいは間近で見たかったというかその……制服を」
「家のハンガーにいつも掛かっているだろう。それとも、なんだ、着てみたりしたかったのか?」
「いや、大丈夫。もう十分見たから」
そう。特に何か用事があるわけでも、やることがあるわけでもない。
そんなことは家を出る前から重々承知していたはずなのだが。
あれ。どうしてここにきたんだったっけ。
家を出たくなった理由が思いつかなくて、喉まで出かかっているのに答えられないあのもやもやに似た何かが急に噴き出してきた。
いや、それよりもまずは上手い言い訳を考えなくては。
……なんの言い訳なんだか。
「はい! 私に提案があります!」
「いきなりどうしたんだお前も……」
「今日も飲みに集まるというのはいかがでしょうか!」
「三週連続になるぞ。電子レンジはどうなんだ」
「今からちょいちょいと聞くから! それでヒカルンはどう?」
「俺は、まぁいいけど」
「えみエルもいいかな?」
突然りゅーちゃんが何を切り出したかと思えば、また飲み会のことだった。こんなに頻繁に飲みに集まっていたのかという点はさておいて、話題を逸らすにはちょうどよいタイミングだということには違いない。私は彼女の提案にとりあえず賛成した。
「よし決まり! じゃあレンジにも連絡入れよう、ヒカルンが」
「なんだよ。そっちでちょいちょいと聞くんじゃなかったのか」
「いやそれがさ、見てよこの哀れなバッテリー。あと2%しかなかったのよね」
「また充電忘れたのか…… わかったよ、後で聞いておく」
これを片付けたらなと言い残して、ヒカルはDVDが何本か残っている返却箱を片手にのれんの奥へと引き返していった。
「……ヒカルとは長い付き合いなの?」
「このバイトで知り合って三年、いや四年かなぁ。これは長い内に入るのかな」
「何かきっかけみたいなものはあったの?」
「私もヒカルンも映画が好きなんだよ。ジャンルも結構かぶってたからちょくちょく話してその後は流れ、って感じ」
レンジとはヒカル繋がりで知り合い、それ以前から飲んでいた二人に混ざるようになって今に至るらしい。
私はヒカルについて三年以上前のことは何ひとつ知らない。
それどころか、観察していたこの三年間のことですら十分に知っているとは言い難い。天使だって人間界を四六時中眺め続けているわけではない。対象者の寿命が尽きかけている状況であればともかく、逼迫した状況にないのであれば一日で一時間も人間界をのぞいていれば仕事熱心だと上級天使に褒められるだろう。
そういうこともあって、ヒカルが映画好きだということも、こんなに高頻度で週末の飲み会を開いているということも、現に私は知らなかった。
そう考えると、三年か四年の期間を人間界で付き合ってきたりゅーちゃんの方が、同じくらいの期間を天界から付き添っていたつもりの私よりも、比較にならないほど多くのことを知っているように思えた。
対象者のことを十分に知った上での判断で稟議書を提出した。そういう自負をそれなりに持っていたつもりだったが、少し揺らいだ。
「連絡は入れておいたぞ。ここと違って向こうは忙しいだろうから返事はもっと後だろうがな」
いつの間にか作業を終わらせていたらしいヒカルが、空になった返却箱を手にしながらカウンターへと戻ってきた。
「それじゃあ、閑古鳥が退散する前に恒例の映画チェックとしゃれこもうか!」
「先週は何を流してたんだ? あんまり画面を見てなくてほとんど記憶にない」
「あれだよ。植物をめぐってロボットがなんやかんやするやつ」
「俺は熱帯魚が息子を探して旅に出る話の方が好きかな」
「続編もなかなか良かったもんね。えみエルは3DCGアニメだと何が好き?」
なんの話をしているのか、さっぱりわからなかった。辛うじてわかったのは、熱帯魚が出てくる映画には続編があるということだけだ。
「別のジャンルでもいいよ! それか主演とか監督とか、そういう分け方もあるね」
「配給会社もあるぞ」
「ヒカルンはあの会社一択じゃん。B級好きにもほどがあるよ!」
「いや、俺はZ級が好きだからセーフ」
「まさにこれが上客ってやつだね」
「インディーズにも貢献してるんだから邪険にしないでくれよ」
今度は何ひとつわからなかった。ただ、二人が盛り上がれる話題だということはわかった。そして、映画についてほとんど知らない私では、どうやらその話題についていけそうにないということもよくわかった。
「……それじゃあ、先に帰ってるね」
「あれっ、えみエルもう帰っちゃうの? 映画は選んでいかないの?」
「じゃあ、りゅーちゃんのオススメのやつにして」
「オッケー! B級は断固阻止するから安心してね!」
帰り道はわかるかとヒカルが聞いてきたが、それくらいどうにでもなる。
どの映画が良いかあれこれ話し合う二人の話し声を背に、自動ドアの外へと出た。
……ほら、やっぱりやることなんてなかっただろう。
強い風がひとつ吹いて、私が思っていたことを無遠慮に代弁したような気がした。
……あの黒猫はまだ同じところにいるだろうか。
……もしいるのならちょっとだけ触らせてくれないだろうか。
私はさっき歩いた道を逆方向になぞり始めた。




