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第四章 日常

 日に揺れる影……

 時折吹き抜ける涼しい風……

 かいだことのないにおい……

 薄い毛布……


 同じようでそうではない、いつもと違う朝が訪れたらしい。

 ゆっくりと瞼を開き、起きたということを自覚する。上体を起こすと、眼球が頭の動きの慣性で引っ張られるような感覚がした。頭を左右に二度振って視線を正面に戻した後に、酔った人間が今と同じようなことをする様子をふと思い起こした。

 ということは私も酔っていたのだろうか。だとしたらなぜ……

 そこまで考えて、座っている場所が延々の大地の上ではないことに気が付いた。


 ……そうだった。昨日から人間界にいたんだ。


 私は部屋の一辺にはめ込まれた窓の前で横になっていたようだ。大きな窓にかけられたカーテンの左半分は閉められており、寝ていた私への日差しを和らげていたらしい。右側の窓はほんの少しだけ開いており、涼しい風が出入りしてはせっせと部屋の換気に励んでいる。その隙間から日の光が差し込んで畳の床ではね返り、消灯している室内に優しい温もりと色を与えていた。

 起き上がった拍子に膝までずり落ちた毛布を正面で抱きかかえる。薄くてごわごわしたさわり心地は延々の大地への恋しさを彷彿させたが、私の体温が移っているやわらかさに顔をうずめると何とも言いがたい安心感がじわりと染みわたってきた。

 机の上の置き時計に目をやると、時刻は正午を三十分ほど過ぎている。

 昨日はヒカルと直接対面して、この部屋で話をして、その後は……

 どうにも思い出せない。

 たしか、そう、鮮やかな色合いの飲み物を口にしたはず。

 だけど、どんな味だったのかも、その後どうなったのかも思い出せない。

 部屋を見渡すと、レンジとりゅーちゃんは見当たらなかった。

 そして、部屋の様子が昨日の記憶の中のそれとは別物になっていた。

 ゴミをまとめただけの居間からそれらは撤去され、床に散らかっていた本や雑貨品は本来あるべき適切な場所へと収まっている。間取りが変わっただとかそういう根本的な違いではないが、ひとしきり掃除と整理が施された室内は以前と比べて一回りは広く感じられ、同時に、驚くほど明るくなった印象を受けた。


「起きたのか」

 玄関に隣接した台所からヒカルの声が聞こえた。

「もうすぐ朝……いや、昼食ができるから」

 抱えていた毛布を背中に引っかけながら居間の引き戸まで近付くと、フライパンを振るって何かを焼いているヒカルの姿があった。延々の大地とはまた違う、かいだことのない良いにおいが漂い、引き寄せられるかのように台所の様子をうかがった。

 すると、料理の良いにおいとは別に、つんと鼻の奥にまで刺さる鋭いにおいも薄らと感じる。においの元凶らしい浴室に顔を差し込むと一層強い刺激臭が鼻と目をつつき、反射的に仰け反ってしまった。

「あぁ、風呂場も掃除しといたから。これで浴槽も使えるぞ」

 離れて目をこらすと、昨日までの水垢や黒カビはなりを潜め、本来の白い質感を取り戻している。

 とはいえ、こんな刺激臭に包まれてリラックスできる人間などいるのだろうか。

「さすがに換気が終わるまでは使えないけどな……よし、できたぞ」

 そういってヒカルは盛りつけが済んだらしい平たい皿を二枚持って居間へ入った。

「明日死ぬかも知れないのに、ずいぶん精力的なんだね」

「飛ぶ鳥跡を濁さずってやつだ。それに今のは失言だったな」

 失言の意味がわからず聞き返した。

「少なくとも今日は死なないってことだろ? で、もし俺が今すぐ自殺したら『行き場を失った寿命』とやらができて偉い天使たちはご立腹」

 そうだろと、皿の上の黄色いラグビーボールを切っていた小さなナイフをヒカルが逆手に持ち替えて、その切っ先を自身の喉仏へと向ける。

「そんなことする気はないけどさ。俺の寿命についての話は気をつけないと、上司たちに怒られるかもしれないんだろ」

 そこまで言われてようやくヒカルの意図が理解できた。

 そうか。寿命を具体的に教えなくても、今日は死なない明日も死なないといった、そのような内容でも「行き場を失った寿命」が生まれる可能性はあるのか。

 咄嗟に背中の内側に潜む翼へと手を伸ばした。

 上級天使から何か呼び出しがあればこの翼はそれに応えて発熱する。背中から熱感を得られなかったため、今のは問題行為とはみなされなかったのか、それとも単に見過ごされたのか。

 ほっとしたと同時に、寿命が常に見えていることへの警戒心が芽生えた。寿命が推測されるような発言も場合によっては禁忌に匹敵するかもしれないということが実例と共に提示されたのだから。

「ほら。食べよう」

「……天使は何も食べなくても生きていけるから」

「そうなのか? 昨日はいろいろ飲んでたと思うが」

「食べたり飲んだりはできるけど、そうしなくても生きていけるってこと」

「へぇ。燃費が良いんだな」

 人間から禁忌について注意された不甲斐なさと、天使の都合のために気を遣わせたことに対する申し訳なさからついそんなことを返してしまった。

 だけど、実際のところは目の前に置かれた料理というものへの興味でいっぱいだった。

 半面しかない黄色いラグビーボールのような料理はその中腹でさらに横一線に切り分けられ、断面からは橙色をした鮮やかな粒――米という人間の主食だろう――がその姿をのぞかせている。

 どうやら昨日の私は色々と飲んだらしいが結局記憶は戻ってくることなく、その際にせっかく感じたはずの味覚についても同様だ。


 ……延々の大地以外の食べ物はいったいどんな味がするのだろう。


「じゃあ俺のために食べてくれ。捨てるのは信条に反するからな」


 ……ひょっとするとまた気を遣わせたのだろうか。


 こっちの世界を訪れてからどうにも本調子になれない。

 人間との接し方が、頭の中で想像していたように上手くいかない。

「……それじゃあ、食べる」

「おぉ、ありがと」

 こっちが言うべき礼に先回りされ、これではまるで餌付けで機嫌を取られる人間の子どものようだ。とはいえこれ以上何かを返そうにも、私はまさにご機嫌を取られていますと認めるような気がして、それはそれで癪にさわるというか、気恥ずかしい。

 なので何も言わず、皿の横に置かれたスプーンを手に取った。


 ……使い方くらいは知っている。こう、削ぎ落とすようにすくえばいいのだろう。


 ラグビーボールの片割れの、緩やかな三角形状にくるっとまとまった側にスプーンを突き立ててぐっと手前に持ち上げると、料理と期待の重さが手のひらに加わる。

 黄色い膜に包まれたそれを口に運んだ。

「――…………!」

 まさしく、未知との遭遇だった。

 湯気を立てるそれが舌に乗ると、延々の大地とは全く様相の違う刺激が駆け抜けた。

 刺激といっても先ほど浴槽で感じた刺激臭のような、そういう類が味になったものではなく、これが人間がありがたがる旨味というものなのだろうと瞬時に理解できた。

 橙色の米がほどける度に舌を振るわせるような旨味が広がり、それを包んでいた黄色い膜からは延々の大地に似たほんのりとした甘さのようなものを感じた。

 その二つが混ざりあって喉を過ぎ去る頃には、次の出会いを待ちきれないような、そんな惜しさと期待が溢れて止められなかった。

「どうだろ。ちょっと濃かったかな」

「……!」

「久しぶりだし加減がなぁ。ケチャップも少し古かったし使い切ったんだよ」

「……!」

「……食べられるならなによりだけど」

「……!」

 濃いか薄いかの判断なんてつかないが、延々の大地よりは遙かに力強くて濃い味だ。だが、ヒカルが危惧しているのであろうネガティブな印象は、少なくとも私には全く感じられなかった。

 それを裏付けるように、私の背中では両翼が歓喜に打ち震えながら勝手に外へと飛び出していて、Tシャツを破けんばかりに内側から押し広げて白いドームを形成していた。主人の意向を無視した勝手な振舞いではあったものの、今はこれを鎮めるためにスプーンから手を放す暇すら惜しく、私は背中の上での横暴に見て見ぬふりを決め込んだ。

 気付けばあっという間に目の前から黄色いラグビーボールはいなくなった。こんなに寂しい気持ちになったのは、わりと冗談抜きでアカリとミクを見届けたとき以来のことかもしれない。

 軽くなった皿を名残惜しそうにながめていると、ヒカルがラグビーボールの半分を私の皿へと滑らせた。

 いただきますと、笑いながら手を合わせるヒカルに合わせて今更ながら私もその真似をして、そうして今度はゆっくりと、少しだけ扱いに慣れ始めたスプーンを使ってその味を噛みしめた。


「――……すっごく、美味しかった」

 台所で食器を洗う背中にそう声をかけると、かちゃかちゃと洗い物がぶつかり合う音を跨いでヒカルの礼が返ってきた。

「天界にオムライスはないのか」

「それどころか地面と『工場』しかないよ」

「じゃあ何を食べてるんだ」

「私はその地面を食べるよ」

「……砂っぽくないのか」

「全然。やわらかくって、ふわふわしてて、少しだけ甘いよ」

 私は延々の大地についてヒカルに説明した。こんなことを話す意味はないだろうが、初めて食べたオムライスとやらの衝撃と感動が頭から離れず、興奮を静めるためにも口を動かしていたい気分だった。

 思えば、これこそまさにご機嫌を取られた人間の子どもの反応なのかもしれないが、もはやそんなことはどうでもよかった。

「ふぅん。それじゃあ綿菓子と餅の中間みたいな感じか」

 ヒカルがお得意のたとえで延々の大地を独自に解釈する。

 私はどちらも知らなかった。いや、正確にはそれらがどのような見た目をしているのかは知っている。特に餅については人間界に疎い天使でも知っている一品だ……最後の晩餐がこれになる人間のなんと多いことか。

 しかしながら、においや味はさっぱり想像できないという、そういう意味だ。

「じゃあそれも探してくるか」

 そんなことを言いながら片付けを終えたヒカルが蛇口の栓をしめて居間へと戻ってきて、押し入れの中から適当な服を掴んでは机の上へ投げ込んでいく。

「着られそうなやつを選んでくれ」

「いいけど、どうして」

「服を買いに行くための服がいるからな。くたびれたやつばっかりで悪いが」

 そういえば昨日そんなことを話していたような気がするが、まさか本当に買いに行くつもりだったとは。

 裸でうろつかれると困るというのであれば適当に身を隠しながら後を追えば事足りると思っていたが、どうやら人間界の掟は天界の禁忌に劣らずなかなかに厳しいらしい。

 机の上に折り重なったヒカルの服に目をやった。茶色、黒色、紺色、灰色……天界から観察していた通り、服はどれも暗色系の古着ばかりだ。これならどれを着てもそう変わりはしないだろう。

 とりあえず一番上の長袖から手に取って、私に一番近いサイズはどれか探し始めた。


 最終的に、私は灰色の長袖と黒色の長ズボンに、ヒカルが昨日も羽織っていた茶色のロングコートを重ねた姿で家から出た。

 ヒカルの服はどれもサイズが合わなかったが、袖を二、三回折って安全ピンを通すという力任せの処置でどうにか丈を縮めることができた。そんなに気温の低くない晴れた昼過ぎだというにもかかわらずロングコートを羽織ったのは、このあまりにアンバランスな全体像を誤魔化すためだ。

 そして、足には時期を外れているであろうビーチサンダルを引っかけてきた。これもまたサイズは合わなかったものの、服とは異なって安全ピンではどうしようもなかったためそのまま履くことにしたのだが、足を持ち上げるたびにつま先で振り子を描く様からすると、履くというよりもぶら下げていると形容した方がまだ適切な表現ではあった。

 歩くたびにわさわさだの、かさかさだの、そういった感覚を引き連れることには天界生まれの身としてはどうにも慣れないが、郷に入ってはなんとやらというらしいので人間界の掟の方に合わせることにした。


 ヒカルと並びながら例の裏路地を通り抜けると、そこは商店街と呼ばれる一本道のわきに繋がっていた。

 店舗ではない一般住宅もその中に紛れて点在しているため、大きな商店街というよりかは商売っ気のある町並みと呼んだ方が的確かもしれない。その一本道の両側には様々な店舗が互いの顔を突き合わせて並んでいる。


 色とりどりの花が展示されている店……

 果物の芳香が漂う店……

 本の詰め込まれた棚が迷路のように屋内で立ち並ぶ店……


 もちろん、天界からのぞいていたのだからそれらがどのような商いであるのかについては承知している。昨日の夜だってこのすぐ上を横切ったのだ。

 しかし、真上からのぞいた印象と地面に立って眺める体感の間には、迫力とも臨場感とも呼べる違いがはっきりと隔たっていたようだ。途切れることのない周囲の賑わいによって前後左右が目まぐるしく変化し、賑やかな声がそこかしこから耳に入ることによってどこを向いても正面を向いていないような奇妙な感覚に包まれた。

 肉食獣を警戒する動物の気分を身をもって感じた私の左隣をヒカルが歩き、少し古めかしさを感じる看板が掲げられた店へと案内した。


 その服屋の内装は、建物の外見とは裏腹にやわらかいものだった。

 白色と橙色の中間のような光を放つ照明が店内を染めて、色も種類も異なる様々な商品全てにふんわりとした統一感のようなものを与えている。

 明るい色合いの服をまとったほっそりとしたマネキンが何体か並んでいるあたり、人間の若い女性向けの服を中心に扱っているらしい。

 出入口のすぐ脇に置かれた簡素なカウンターを挟んだ反対側には、初老とするにはまだ幾分か若い女性の従業員が立っており、入店した私たちに向けていらっしゃいませと挨拶したかと思うと、すぐにまた手元の帳簿らしきものへと視線を落として難しい顔で思案へと戻っていった。

「好きなのを着てみればいい」

「どれがいい感じのやつなの」

「そうだなぁ」

 ヒカルは店の中ほどまで進み、ハンガーに引っかけて展示してあった一着を手にとって私の前にかざし、うぅんとうなってからまた元の場所に戻した。

「俺にもわからん」


 ……人間がわからないのなら天使にはもっとわからないだろう。


 実際、私には色合い以外は大して差がないようにも見えた。それなら、サイズさえ合っていれば正直どれでもいい気がする。そう思いながらその場を動かずにぐるりと店内を見回すと、ワンピースという白色の一着が目に入った。

「着てみるか」

「ちょっと入らないと思うけど」

「いや、俺じゃなくて。エミエルが」

「あっ、そうか。私が着る服か」

 うっかりずれた返事をしてしまった私にその一着を手渡したヒカルが、店の端に並んだ四角い箱の一つの前まで歩み寄り、先客がいないことを確認した後にカーテンを開いた。

 試着室というらしい。屋内に屋内を作るとは、人間の底知れぬこだわりというか執念というか、そういった熱意の一種を感じずにはいられない。

 その試着室の一辺の壁には大きな鏡が貼り付けてあり、一瞬腰かける程度には十分な椅子や、手にした衣服を引っ掛けるためのハンガーなどが一通り用意されていて、その気になればこの中で暮らすこともできるのではないかといった機能性を有していることも、私の呆れに似た尊敬に拍車をかけた。


 結論として、私はこの服を気に入った。

 ヒカルの持っていた服はどれも上下に分かれていたが、このワンピースというものは頭からすぽっとかぶるだけで服装として成立するらしい。背中の一部分が開いて肩甲骨が外部に露出しているため、翼を広げても破けないという実用性もある。もっとも、人前でわざわざ翼を展開する機会などないとは思うが、この二枚が何かの勢いで――たとえば飛び切り美味しいものを口にしたときなんかに――うっかり飛び出す可能性は十分にあったため、やはりこれも利点といえるだろう。

 それに、試着室から出た私の姿を見て、似合ってるよとヒカルが言ったのも大きい。どういう意味かは推測の域を出ないが、おそらく人間らしい見た目であるということを伝えようとしていたのであろう。ファッションについてはよくわからないとヒカルは自称しているが、少なくとも天使よりはその善し悪しについてわかるはずだ。ならば、彼の評価を信じよう。

 これがいいと、私はヒカルに言った。

 大変お似合いですと、似たような褒め言葉を振りまく従業員に、ここで着て帰ることはできますかという旨をヒカルが訪ねた。

 先ほどとは打って変わって愛想のよい表情を準備した従業員は、にこにこしながらそれを了承し、服についたタグだけを切り離してレジへと持っていく。

 いつの間にかシャツや靴下の何枚かを見繕っていたヒカルがそれもレジへ持っていって会計を済ませた。提示された金額が高いのか、それとも安いのかは判断しにくかったが、最低賃金の数十円引き上げを目標としてあげている選挙か何かのポスターが町の掲示板に張ってあったところを考えると、きっとこれは前者の部類に入るのであろう。

「そんなに使っていいの」

「墓まで持って行けるんならもうちょっと考えるんだけどなぁ」

 ヒカルはそういって、三途の川の渡賃はいくらなんだと私に聞いた。

 そんなものが仮にあったとしても人間の貨幣では偽札扱いだろう……そのように返すと、全く持って正論だと、ヒカルは妙な納得を見せた。

 従業員の挨拶を背に店を出ると、次は靴だなとヒカルが言った。

 まだ身を守るものを買いに行くつもりらしい。ただ、この一回り大きいサンダルが私の歩みに合っていないのも事実ではあった。

 なので私は、今度は服屋から目と鼻の先にある靴屋にぺたぺたと情けない足音を鳴らしながら入ることになった。


 かつんとも、こつんとも聞こえる足音はさっきよりかは幾分格好がつくものだった。

 つま先がほんの少し見えるこの靴はサボサンダルというものらしい。ビーチサンダルの輪っかの代わりに足の甲全体を覆うようなアーチがかかっていて、靴底には2cmか3cmほどの厚さの木があてがわれている。

 服よりも靴の方がまだわかるのか、立ち寄った靴屋でヒカルはいろいろな種類のものを持ってきた。しかし、かかとの部分が針のように尖った靴は歩きにくそうなことこの上なく、紐で横幅をしめる靴はそもそも私の手先では結べるかどうかが怪しかった。

 そうしていろいろ見て回った結果、足先に引っかけるだけで済むこのビーチサンダルの親戚のような靴に決めて服と同じようにその場で履き替えた後、私とヒカルは最寄りのデパートへと向かったのである。


 商店街の入り口のバス停から三駅の距離にある大型デパート内の店構えは、意図的かはともかくとして商店街のそれとはある程度重ならないように選ばれていた。

 そのデパートの百円均一と掲げられたフロアでヒカルは日用品を買い足した。

 わざわざ値段を強調する辺り、人間の一般的な金銭感覚において百円というのは安い部類に入るのだろう。それを思うと今身にしている服や靴はやはり安くはなかった。

 たかが身を守るだけのものにそこまでの金子を費やす理屈は分かりかねるが、わざわざ用意してくれたものを粗雑に扱うほど天使として落ちぶれているつもりもない。

 大事にしよう。そう思った。


「――……どっちの方が良い状態だと思う?」

「右……かな」

「俺も同じ意見だ。赤くて張りのあるやつの方が良いからな」

 直感で選んだだけだがどうやら正解らしい。

 ヒカル曰く、コンディションが良い方のトマトが手にしたポリ袋の中に入れられた。

 それじゃあこれとこれはと、ヒカルが別のトマトを手に取ってまた二択を提示する。


 ……えぇと、赤くて張りのある方だろう。


 今度も当たった。天使としての直感が冴えているらしい。

 商店街では私のものを買うために時間を費やしたが、デパートの食料品売り場ではヒカルが特に活発だった。

 野菜を手に取ってはどちらが鮮やかか目に残像が映り込みそうなほど比較したり、鮮魚コーナーではパック詰めされた魚介の切り身を知り合いと対面でもしたのかと思わせるほど凝視したりして、納得したものを買い物かごに入れては思い出したかのようにまた別の食材を探しに向かった。

 それらはどう考えても服より違いの区別が難しそうだったが、当の本人がわかっているのなら特別に言うことはない。

 売り場全体をぐるりと回ったヒカルは、これで当面の材料が揃ったと言って満足気に会計を済ませた。

 今日何度目だったかわからないヒカルの笑顔だった。

 もちろん、天界からながめている間にもヒカルが笑ったことは幾度かある。

 だけど、それは昨夜のレンジやりゅーちゃんが見せたような含みのないまっさらな顔つきと比べると、プラスのネジにマイナスドライバーを用意して作業を進めるような、おかしくはないけれどすとんと納得できない、そんなぼやけた印象をどこか与えるものだった。

 そういうこともあって、こんなにも真っ直ぐなヒカルの表情を見るのは私にとっては今日が初めてのことだった。


 ……うん、辛気臭い顔よりもこっちの方がずっと良い。


 ヒカルは底が濃い白色になるほど伸びきったビニール袋を手にカウンターを抜けた。

 昼に食べたオムライスの姿が浮かんで、あの味がありありと思い出される。

 これを使ってまた何か作るのだろうか。

 袋にはオムライスには入っていなかった食材もたくさん入っている。

 次は迷わずにご相伴に与ることにしよう。


 結局、私たちが家に戻ったのは夕暮れが顔をのぞかせるような時刻だった。

 ヒカルは随分といろいろなものを買い込んだ。私が今身につけている靴と服の一式、タオルやハンガーといった日用品、吟味していた食料品の数々。

 荷物たちがどさりと横たわると、元からそう広くはない玄関は圧迫感を増した。

「夕飯は餅のピザにするか。ピザ生地じゃなくて食パンだけどな」

「ピザは見たことあるよ。この服くらいする高いやつでしょ」

「宅配のやつはたしかに高いけどさ。っていうかそういうのは知ってるんだな」

「上から眺めていると小さいバイクが行き交ってるのが結構見えるからね」

 思ったより繁盛してるんだな、とヒカルが意外そうな口ぶりで返した。

 ヒカルは食料品の袋からひとつずつ中身を取り出して冷蔵庫や棚の中に振り分けた。真っ赤なトマトは冷蔵庫の下段に。土をはらったジャガイモは新聞紙に包まれて棚の奥に。私には判断がつかないが、どうやらそれぞれに収まるべき場所があるらしい。

「そうだ。忘れないうちに」

「どうしたの」

「ほら。こっちきて」

 屈んだヒカルの肩越しに手元の箱をのぞくと、一般的なサイズより二回りほど大きいであろうカメラがその中に入っているのが見えた。

 食料品を買うより少し前、デパートの二階の電化製品売り場でヒカルが何かを探していたが、きっとこれのことだろう。

 ついでに、そこでレンジと話しておすすめの商品がどれかを聞くヒカルの様子を見て、私は電子レンジというあだ名の由来を知った。電化製品売り場で働いてるから電子レンジ。そうに違いない。

 あれよあれよという間に箱からそのカメラを取り出したヒカルは、私の顔の横まで身をそらせてシャッターを切った。暫く待つと、カメラの本体の横からつるつると一枚の紙がひり出された。

 写真というものは専門の場所までわざわざ持って行って現像しなければ手元に来ないものだとばかり思っていたが、どうやらこのカメラは撮ったその場で直ちに絵を形にする機能を持つらしい。

「カメラなんて買ったの」

「そう。最高の遺影のためにな」

 そう言いつつヒカルは笑いながら手元を振るい、写真をあおいで乾燥させている。


 ……遺影というのは一人で映るものだろう。


 少なくともアカリとミクのものはそうだった。

 遺影にレギュレーションがあるのかはともかく、この写真を使うのはどうかと思う。何せいきなりのことだったので私の片目が半開きだ。こんな中途半端な姿のものが映り込んだ遺影を正面に掲げられる葬式だなんて……

 ふと、ヒカルの顔を視界の中心に収めて、彼の寿命の残量を改めて確認した。

 昨日の夜から72000と752秒。

 きっちり一秒の誤差もなく減っている。

 別に何も間違ってはいない。今日一日を過ごした末の、当たり前の結果だ。

 ただ、こんなに早く減るものだったかなと……そう感じた。

「久々に外をうろついた気がするな。外出も悪くないもんだ」

 ふくらはぎを揉みながらヒカルがそのように口にした。

 私も、正直なところ、楽しくなかったと言えば嘘になる。

 人間界を等身大で歩いて、触れて、感じて、学ぶことがたくさんあったから。

 無意識の独り言だったのかもしれないが、そうだねと相槌を打った。

「よし。明日は遊園地に行こう」

「えっ」

「ムサい男一人じゃなかなか勇気がいるからな。一緒に行こう」

「……まぁ、いいよ」

 決まりだなと言って、ヒカルはさっき話していた餅のピザとやらの制作に取りかかりはじめた。

 本当に精力的な男だ。

 やりたいことがあるのなら、どうして日頃からそれに費やさなかったのだろうか。

 それとも、死期が近いと目の前に突きつけられでもしなければ人間はそういうやる気を出せないものなのだろうか。

 遊園地という場所も上から眺めたことがある。ちかちかと色りどりに輝いて、夜でもまぶしいところだ。たくさんの人が集まって、手を取り、はしゃぎ、興奮を分かち合うことのできる大きな施設の集まりだったはずだ。

 玄関に置かれた荷物を居間へと運び入れながら、私は天界で暮らす中では考えたこともなかった「明日の予定」というものを意識した。

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