エピローグ
2025年6月3日 火曜日
海の存在を感じることができるゆるやかな丘の上にその丸太小屋は建てられていた。
鼻の利く人間であれば潮の香りを微かに捉えられるような、それくらいの位置にある。
『ANGEL LOG』
そう彫られた木製の看板が同じく木製の杭に紐で結び付けられて、定休日というプレートがぶら下げられた玄関扉に横並ぶ人工芝へ深く打ち付けられている。
丸太小屋の外装は簡素で飾り気がなく、内装もそれを裏切らずシンプルなものだった。木組みの机が二つと椅子が四つ。客席側と区切るように設置されたシステムキッチンと、その厨房へと向き合うように組まれたカウンター席が数名分。この丸太小屋がレストランだと一見して判断できる材料はそれくらいしかない。代わりに、余分なものが一切見当たらないその簡素な設計によって、屋内は屋外から想像するそれと比べると相当広く感じられる。
そのレストランの中では一人の男がフロアの掃除をしている。三十代前半といった容姿の男は、この小さなレストランのオーナーだ。彼は五年ほどを勉強に費やし、捨て値で売りに出されていたこの丸太小屋を二年前に買い取ってレストランを開業した。
捨て値だったとはいえこの木組みの城の状態はそう悪くない。裏手に回れば海を望むこともできる。ただ、周囲に目立った商業施設や大型施設のない閑静な田舎に隣しているという一点が、備わっていた数少ない利点を打ち消して、総合的な評価をマイナスにまで引き下げる要因となっていた。しかしながら、当時懐事情ががお世辞にもよろしくはなかったオーナーはこの物件をこれ幸いとばかりに引き取って、かねてから考えていた自らの夢を叶えるに至ったのである。
このレストランのメニューでは、一般的な飲食店のそれと比較して少し観点の異なる部分が強調されている。全てのメニューが二通り用意されているという点が最たるものだ。
アレルギー表示対象の食材が色付きのマス目式で全てのメニューの下に記載されており、そのアレルゲン食材を極力避けて作るAと、Aが使用しているアレルゲン食材を避けて作るBの二通りが用意されている。そして、そのメニューのどれもが添加物や油といった旨味のために過大に投入されがちなものを控えて調理され、提供される。体調や体質に阻まれることなく、どのような客も好きな料理を選ぶことができるようにというオーナーの配慮だ。
そして、寒天で作ったブドウ味のゼリーか、この店の創作であるイチゴ味のトルコ風アイスもどきの内のどちらか選んだものが食後にサービスで提供される。どちらも食せない客が訪れたときには代わりに適当な飲み物を一杯奢るほどの徹底ぶりである。
それだけに、同種のレストランと並べてみるとその金額は全体的に割高であり、実際に開業からしばらくの間は客足がさっぱりといった有様を見せていた。しかし、ありとあらゆる面から食への垣根を下げる努力と、オーナーの独特な雰囲気と人柄を気に入った近場の、特に健康を気遣う高齢者の常連を得ることができ、開業当初と比べればそれなりに客足も増えて今に至っている。
もっとも、採算を度外視気味の経営のためにバイトを雇う余裕はなく、雑事を含めた全てをオーナーが一人でやりくりしている。定休日である今日もフロアの掃除を一人で黙々とこなしているのはそれが理由だった。彼は長い柄のついたモップで木目のフロアをなぞっては、時々背中をそり返らせてくぐもった声をもらしている。標準より少しばかり高い背丈のせいで、机や椅子の下に手を焼いているようだ。気分を紛らわせるためにとかけられたジャズの音色が、店内の端に置かれた中古のスピーカーから漂っては壁の丸太の曲面へと染み込んでいた。
不意に玄関の扉が開いた。
扉の上端にくくられていた安物のベルが揺れ、背を向けていたオーナーは手にしていたモップを適当な壁に立てかけて振り返った。
「どうも、いらっしゃいませ」
定休日だから申し訳ないといった謝罪を途中まで口にして、オーナーは黙った。
オーナーの目はかつてないほど大きく見開かれていた。その真っ黒な瞳には、腰までまっすぐに伸びた銀髪を携えた、オーナーより35cmほど低いところに頭の天辺が並ぶ、ペラペラな紙のような素材でできたワンピースを着た少女が映っていた。
今日はどうせ誰にも会わぬからと、ひげ剃りをさぼったオーナーの無精ひげがちらつく口元は、次の言葉をどこからか集めようとしているかのように少し開いては、また閉じた。
その様子が続き、少女は何か合点がいったかのように話し始めた。
「あっ、これ? 延々の大地を伸ばして作ったんだよ。最近の天界は衣装づくりが流行ってるんだ」
「…………」
「工場の葉っぱを染料にして緑を差し色にしてる子もいるよ。ギデオンは良い顔してないけどね」
オーナーは何も喋らなかった。口も、喉も、動いてはいるものの声が出ていなかった。定休日に押しかけてきたかと思いきや聞いてもいないことを嬉々として話す目の前の少女に物怖じしているとも言えそうだが、実際のところ、そうではない別の理由で彼は声を詰まらせていたのだ。
暫く少女の話を聞いてから、オーナーの声帯がようやく本来の機能を果たし始めた。
「……消えたんじゃ、なかったのか」
「うん、消えたよ。だけどマザーが核をくれたんだよ。同じ複合天使だったマザーが、自分の『行き場を失くした寿命』を私に移したの。丁度、あの時、私がそうしたようにね」
「…………」
「寿命をかけた私を、寿命をかけて助けてマザーは消えたよ。だから、代わりに私はこうして生きてるの」
オーナーは少女の話の内容を半分も理解できていない顔つきだった。
わからない語を理解する前にまた新たな語が現れて、処理がまったく追いついていない。
「上級天使は天使の寿命が見えるって後でギデオンから聞いたときにわかったんだ。マザーは私の寿命がもう残り僅かだってことを知っていて、そのときからこういう形で終わることを、私が稟議書を提出する前から考えてたんだよ」
「マザーと、ギデオン……?」
「マザーが自分の寿命を使って私を助けようとしていたことを、ギデオンは最初から知ってたんだよ。だから、私が人間界に降りる口実を作ることにも、手を貸してくれたんだと思う」
「……その、二人の上級天使とやらが……助けてくれたってことでいいのか」
「うん。自分は人間とは違う!……ってギデオンは言ってたけど、マザーと同じくらい人間らしいよ」
そう言って少女は口元を少しゆるませた。
「その後でクビになったの」
急に出てきた世俗的な言葉にオーナーは尋ね返さざるを得なかった。
「天使を、クビにされたのか」
「ううん。でも、人間の寿命を監視するには不適当だって上級天使の会合で決まったの」
「そんな身で、どうやってここに」
「私が毎日ご飯を食べていた様子を見ていたカミサマが代わりの仕事をくれたの。『人間の食事に興味が湧いたから天界向けにまとめて持ってきてね』……って」
少女が言い切るのを待つか待たないかといったところで背中から白い翼が飛び出した。どこか諦めにも見えるような笑みを少女がたたえながら、左の翼から大きな羽ペンを、右の翼から服と同じようにペラペラな素材の束を取り出して、その紙束の一番上をオーナーへと向けた。
『人間界調査団第一期生 グルメレポート 第一版』
人の世では使われないような文字でそう刻まれている。
だが、古い学びを思い起こしたオーナーはその文字が読めるようだ。
「だから、私の新しい職は言うなら……そう、グルメレポーターなんだ。それで、改めて人間界を覗いたら、夢を見つけて頑張る背中が目に留まってね」
「……あぁ」
「同じ時間私も勉強し直して、同じ時間研鑽に励んで。今後の展望が楽しみなお店ができたそのときに会いに降りようって、ずっとそう考えてた」
「……そうか」
「それで……取材いいですか?」
「……よろこんで」
「また泣いてるの?」
「……あぁ、そうだよ」
「本当の本当に泣き虫なんだからなぁ」
「勘違いするなよ。つらくて泣いてるんじゃない」
「知ってるよ。嬉しいんだよね」
少女はどこか満足気な顔つきでふふんと胸を張って、ペンとノートをそばの机に置いて、オーナーの頬に手を伸ばして涙の筋を拭った。
オーナーはわからなかったことを少女に聞き返さなかった。
これからはいつでも聞けるのだからそれでいいと、上がった口角が語っていた。
ずっと忘れなかった少女がここにいる事実で充分だと、細くなった目が伝えていた。
――……それで何が食べたい?
――……オムライスがいいなぁ。
――……今は二種類作ってるんだ。
――……どっちも食べたいな。
――……そういえばレンジは店長になったぞ。
――……ほんと? りゅーちゃんは?
――……聞いたら驚くぞ。あいつは……
斜面の下の遠くから潮風が吹き向けた。
丸太小屋のそばに立つ新緑の何本かを揺らして、丘の上で波の音を奏でる。
その漣に驚きと笑い声が重なってどこか見知らぬ彼方へと運ばれていく。
輝く日差しと涼しい風が、新たな道を得て交わった二人に温かな明かりが降り注ぐ未来を予期させた。
完




